パッド
メイド。――それは女中の尊称である。あらゆる分野に広く進出したが、メイドによる汚職も急増。メイドを多く雇い入れている紅魔館は特殊メイド係を新設して、これに対抗した。
パトロールメイド……通称、『パッド』の誕生である。
細い物の折れる音がした。休憩中に飲んだ紅茶の後片付けをしていたメイド、オッソーが振り向くと、専用のデスクで厳しい顔をしている咲夜の手元に、真ん中で二つに割れた鉛筆が見えた。
やはり『パッド』というのがマズかったのだろうか。思って、すぐに否定した。何かと噂される咲夜の胸パッド疑惑だったが、それを証明するような物は一つも無かった。一方、そういった噂を全く気にしない咲夜の態度は、彼女の無実を証明している。
では、何がメイド長である咲夜を煩わせているのだろうか。考えながら茶器を洗っていると、答えが出た。
休憩時間が終わって、かれこれ十五分以上も経っている。それだというのに、咲夜のデスクに書類らしい書類は、紅魔館内用の広報に載せる、トクメイ係の広告案のみ。
溜まっている案件は何一つ無く、部屋にいる者は手持ち無沙汰のままに過ごしている。
現在、部屋にいるのは咲夜とオッソーを含めても七名だけで、これでトクメイ係の全員である。
オッソー以外の、チョロン、カーラ、イチ、トッド、それにジュシの妖怪メイド五名はそれなりに暇を楽しんでいるようだったが、彼女らを引率、もとい管理・指導すべき立場の咲夜は立つ瀬が無い。
咲夜は元々メイド長職にあり、順風満帆のメイド人生を約束されていただけに、こんな誰かの思い付きで作られたような係に回された焦りもあろう。彼女が現在の状況に身を置くようになった経緯は、オッソーや他の者達とも関係があった。
ヴワル魔法図書館の規模縮小。図書館管理者であるパチュリーから紅魔館主レミリア伝いに発表されたそれは、一部のメイドの生活基盤を揺さぶる事態にまで発展した。
その破廉恥なまでに広大な図書館は新人メイド養成の虎の穴としても機能していたのだが、ベテラン司書だけを残し、全ての人員が転属を命じられた。
ところが、それまで新人研修の体勢をろくに構築せずにいた他の部署は、難民のごとく溢れ出した新人を、進んで受け容れようとしなかった。
それでも大多数の者は、館内で働く友人知人親戚一同の伝手で転属先を見つけられた。しかし、何事にも少数派というのはいて、そういった者達は往々にして弱者でもある。この少数派こそがオッソーを始めとした六名であった。
彼女らは全員が契約者や主を亡くしたりして流浪の身にあったところを紅魔館に辿り着き、落ち着いた生活のために頑張っていた者達である。
悪魔ほど出自やそれぞれの結び付きを大事にする妖怪は他に無く、それが強みだ。紅魔館で働く大多数の者は、こういった縁を頼りに館に辿り着いている。オッソー達には、それが無かった。
もっとも、出自などに頼らなくても立派に働いている者はいる。だが、そういった者達は悪魔として長年に渡り培った力が強かったり、抜け目の無い性格に助けられているのが実際である。オッソー達にはそれすらも無かった。
要するに駄目駄目である。俗世間に見切りを付けたわけでもなく、新しい契約者を見つけるでもなく……ただ状況に流されるままだった彼らには、何一つ助けとなるものが無かった。
いや、一つだけあった。
紅魔館メイド長、十六夜咲夜。その人である。
そのはずなのだが。――オッソーがちらちらと咲夜を見遣りながら茶器を洗い終えると、彼女に咲夜が声をかけた。咲夜の表情はすっかり普段のものに戻っていて、切れ上がった眉や意志が固そうな目付きは、部屋の柔和な雰囲気の中では違和感があった。
何か、秘密裡の案件があるのだろうか。オッソーが唾を飲み込むと、咲夜が言葉を続けた。
「お茶ちょうだい」
洗い終えたばかりの茶器を見るオッソーの目は、戸惑っていた。
******
伏魔殿という呼称は、紅魔館には相応しくない。なんせ、悪魔が堂々と廊下を行き来しているからである。そんな中にも不逞の輩はいる……伏す悪魔は。
現在、紅魔館内部には確認されているだけで九十八もの秘密結社が存在している。結社自体の規模は小さく、その大半は労働環境の改善を錦の旗としている。
日々、過激の一途を辿る弾幕ごっこ。侵入者の止まぬ頻出。怪しげな研究による事故、バイオハザード、そしてお約束の大爆発。食らいボムによる誘爆。――挙げればいくらでも口実はあった。
一方、メイド達が安心して働ける環境とは、即ち大過が無いということだ。
レミリアら館内の実力者にとって、それ程につまらないことはない。
中間管理職の者達はいつレミリアやパチュリーの耳に入るとも知れずに不安な日々を過ごし、ストレスでイカれかけた彼女らは理不尽なパワハラによって一労働者の権利を踏みにじるのである。
人間の歴史を鑑みると、この段階で抗議行動中の焼身自殺者や投石による犠牲者が出てもおかしくないのだが、人間よりも長い寿命や傑出した身体的特徴によって常に他者との相違を自覚しているためか、はたまた呑気なだけのか、事態は悪化しなかった。
人間染みた労働組合の結成と運営に不慣れな結社各員は結果として子供染みた暗闘を繰り広げ、ばれた場合は上司によって咎められ、唇を窄めながら日々の労働に勤しむことになる。
その程度の結社だったのだが、近頃の異常事態の頻発によって戒めるべき立場の者が館の中に気を配ることは少なくなり、子供染みた活動は、悪ガキどもの悪戯へと変遷していく。
それでもまだ紅魔館は紅魔館として機能していた。大規模な抗議活動へと発展する事態が発生しなかったからである。また、大多数の者達にはメイドとしての誇りが常にあり、そこから生じる羞恥心によって、自分達の膿を外に出すことは妨げていた。
だが、しかし……前述したように、少数派は常に存在する。
多数派の不満を隠れ蓑に彼らは独立の算段を立て、ときにはありもしない噂を流し、館内の信頼関係を揺さぶった。
メイドとしての尊厳よりも、自己の存在意義を優先する者達。上級職層にとって、これは粛清するに十分な口実であった。
夜闇已明
紅女当立
これは、トクメイ係の結成後に急速に規模を大きくし、同時に抗議行動も過激化した紅巾族の言葉である。なお、この言葉は漢字で書かれていたため、欧州文化を背景とする多数のメイドにはさっぱり意味が通じなかった。
しかし、トクメイ係は見逃さなかった。今日の出動も、折からの計画と気分によって決定した。
場所は門番隊詰所。取締対象は門番長・紅美鈴。
出動から一時間を経た現在、集会を解散する意思が相手に無いことを察した咲夜によるメガホン越しの説得が行われていた。その傍ではオッソーらが一般メイド達の突発的な激発を抑えるために、警備活動を続けている。
「繰り返します。貴方達は包囲されている。素直に頭に被ったそのアホらしい紅頭巾を取りなさい!」
「アホらしいのはどっちですか。大体、咲夜さんもメイド長の仕事を放ったらかしているじゃないですか!」
「ですか、とか、じゃないですか、とか言うんじゃないわよ。そんなんだから仕事に身が入らないんじゃないの」
「不満は吐き出すべきです!」
「あんたが吐いて良いのは血反吐だけよ!」
互いのメガホンから、ガーだのピーだのいうノイズを撒き散らしながらの応酬が続く。バリケードを組んでいる者達が五月蝿さに耳を塞ごうと、一向に口を緩めようとはしない。
驚くべきは美鈴のしつこさである。いつもなら咲夜を見るや、休憩時間中であろうと門へと飛び、真面目で素直な労働者であることを誇示しているのだから、この差は一体何だろうか。
これについては咲夜も同様の疑問を抱いているらしかったが、それもじきに解けることになる。
口の端に泡を立てながら、美鈴の目に涙が浮かび始めていた。
「こっちは、いっつもいーっつも、必死なんですよぉ。どうじてわがってぐれないんでしゅかぁ!」
これではもう、抗議の意思よりも悲痛さばかりが目立つ。さしもの咲夜も、メガホンを握る手が震えた。
怒りに、である。
この数秒後、『これだから中国は嫌なのよ!』という咲夜の誤解を招く発言によって、大乱闘へと移行。
逃げ回るオッソーらを囮に咲夜がダース単位で門番隊を吹き飛ばし、蹴散らし、湖に放り投げ、メガホンの角を叩き付けた。こんな奴らにナイフなんていう上等なものは必要無いとでも言いたげである。
数で勝てる相手ではないと集会に参加した者達が再認識する頃になって、ようやくオッソー達にも活躍の機会が回ってきた。そのときにはもう戦いは地上戦から空中戦へと移っており、文字通り足を引っ張るだけで十分な威力があった。
オッソーが事前の打ち合わせから咲夜の行動を予測して他の者に伝え、咲夜から一撃をもらって地上に落ちた者にチョロンがとどめを刺す。カーラは計算しているのか天然なのか、彼女が逃げ回るだけで追跡者同士が正面衝突。イチがトッドに投げられて人間魚雷と化し、ボウリングのピンよろしく対象を次々と撃破。ついでにイチの意識もぶっ飛んでいるが、トッドの知ったことではない。最年少のジュシはすっかり怖がってしまって、手の空き始めたオッソーにお姉ちゃんお姉ちゃんと泣きついている。その姿を見て罪悪感に囚われ、動きまで止めてしまった者には、咲夜の空中三回転延髄二段蹴りが炸裂した。その威力は筆舌に難く、オッソーは思わず『見ちゃ駄目よ』とジュシの目を隠した程である。
まったく酷い話であるが、とにかく残るは紅美鈴ただ一人という状況になった。周囲には二百から三百近い人数が転がっており、騒ぎを聞き付けて後から参加した者もかなりの数になると思われる。
それにしても――
戦って
後ろを向けば
死屍累々
――字余り
「よっ、オッソー姉さん!」
「やめてよぉ、照れちゃうわよぉ」
「お姉ちゃん、お腹空いたぁ」
慣れというのは怖いもので、これだけ酷い状況も何度か続くと擬似的な家族を形成するまでに信頼関係が構築されている。
普段は暇を持て余していても、いざとなると咲夜のマンパワーが凄まじいこともあって、トクメイ係は着実に成果を残している。
これまでの成果としては、紅魔館解放戦線・通称『KKK』の扇動者十二名をスマキにして川に流した他、雑巾の絞り汁を緑茶に混入させる手口で次々とターゲットを仕留めてきた『緑の会』主催を捕獲。際どい水着で熱湯コマーシャルに出演させ、お茶の間の話題を独り占め等々。
そんなトクメイ係の活躍を目の前にして、美鈴は後悔していた。
「ほら、あなただけでも今から門に戻りなさい」
咲夜の言葉が、かろうじて残っていた美鈴の自尊心を刺激する。
「これだけの数を巻き込んでおいて、今更……こうなれば自決させていただきます」
武器は無くとも、妖怪の腕力をもってすれば自分の腹を掻っ捌くぐらいはできる。そうしようとしたとき、咲夜の声が場を制した。
「あなたが死んだら、私が困るわ!」
「さ、咲夜さん」
この人は本当に気遣ってくれているのではないか。構えた腕を下ろそうとしたとき、眉間に衝撃が走った。ナイフが刺さったことを自覚する前に、美鈴は昏倒した。
「折角、一本だけ用意してあったんだから。使わないと勿体無いじゃない」
事後処理を始めていたオッソーは今に聞いた言葉を忘れることにしたが、彼女の手が止まっていることに咲夜は気付いた。
「何か言いたいことでもあるの」
「そんな……とんでもありません」
「――十六夜咲夜はやり過ぎだ。あれはきっと日頃の鬱憤を晴らしているのだろう。結局、彼女も生活を楽しむ余裕のある、上の人間でしかない」
こんなところかしらね、と咲夜がおどける。
「鬱憤を晴らしているのは事実だけど、私にとっても今の状況は望ましくない。お嬢様のお世話をする時間が限られているもの。望ましくないのは、あなたも、あなたたちも一緒のはずよ」
「しかし、いくらなんでもやり過ぎではないですか」
「どうせ明後日には知らん顔して門の前に立っているわよ」
それは確かだ。実際、いなくなった者はいても、葬式の用があったことは一度も無い。中には、再び紅魔館に戻ってきた者もいる。
そうするぐらいなら、こんなことをしなければ良いのに。独り言のようにオッソーが呟くと、咲夜が答えた。
「皆、ここが好きだし、お嬢様を信頼しているなのよ。でなきゃ、こんな馬鹿はやれないわ」
「……メイド長もですか」
「というより、十六夜咲夜が、かしらね」
その十六夜咲夜が、オッソーのような者達の拠り所としてトクメイ係の設立に一役買って出たことは、公言はしないまでも、誰もが知っていることである。
彼女にとって、メイド長としてどうあるべきかよりも、十六夜咲夜としてどうあるべきかが重要なのだろう。そう思うと、オッソーは何やら申し訳無い気持ちになった。それは、顔にも出てしまっていた。
「そんな顔しないの。私だって、そんなに長い間はあなた達の面倒を見れないわ。これまでのような活動を続けていれば、他の部署だって転属を認めるようになるでしょう。このままトクメイ係を続けても良いかもしれないわね」
「このまま、ですか」
意外な提案だった。オッソーはもちろん、他の者もトクメイ係はあくまでも腰掛け、一時凌ぎ程度にしか考えていなかった。だからこそ楽しめていたし、どこか空しさがあった。
「お嬢様を信じなさい。それさえできれば、後は自分を信じるだけよ」
「そんなものでしょうか」
「メイドってのは、そんなものよ」
門前には、夕陽が射し始めていた。このときの咲夜の影を、オッソーはトクメイ係主任として生涯を全うするまで、忘れなかったという。
******
その日、咲夜は久しぶりにのんびりと味わう上等な葉の香りを楽しみながら、自室の暗がりにある椅子に身を預けていた。
気付けばあれだけ熱が篭っていた抗議活動はすっかり身を潜め、トクメイ係は雑用係として忙しい日々を送っているらしい。
問題というのは必要以上に問題視すると、問題が顕在化してしまうものなのだ。――咲夜は気付いたときに書き記している手帳を閉じると、再び思索に耽り始めた。
トクメイ係といえば、オッソーが主任になってから奇妙な噂がある。
たった一人の人間である咲夜に対して未だに打ち解けられずにいる保守派のメイドはまだまだいるが、それらの者達の何名かが、朝になると門の前で布団に包まれて放り出されているというのである。
オッソー達のことだから、咲夜に対しての悪口を憚らない連中への意趣返しを以前の恩義から行っているのかもしれない。
そのときこそ咲夜は問題視しなかったのだが、後日になって大慌てすることになった。
オッソーの行動の原因が、あの日に夕陽の中で浮かんだ、咲夜の胸の影にあったからだ。
『もしメイド長のパッド疑惑が本当だとしたら、その秘密は絶対に守らなければなりません。パッドのためのパッドとして、我々は行動するのです』
まぁ、こうして馬鹿ができるのも、お嬢様がいてこそだろう。咲夜は問題が起こる度、どこか自分が恵まれているような気持ちになるのだった。