聖☆おねえさん
地底。その言葉の響きは格別なものである。
釈迦が目覚めたときから、世界が丸いのだと知れても、そして科学に人が失望を感じた後すらも、それは変わらなかった。
さて、ここ幻想郷にも地底に格別を求めた者達がいた。
彼女らの目的は、休暇であった。
かつて地底の地獄街は、灼熱地獄の上に地霊殿を建て、そこから東西、南へと路を伸ばし、造られた。
その際に基準とされたのが、地霊殿から東南の位置にする地底湖である。これを長安にあった曲江池に見立て、計画は本格的に動き始めた。
建築は地底官公庁都市計画の立案者・姫後生の指示により進められた。
彼は生前、母親と仲違いした際に「生きてる間は二度と顔を見たくない!」と勢いで言ったは良いものの、会いたくてたまらず、「地底なら死んだも同然だから」と地底に母親を移してそこで再会したという、大馬鹿者である。そういう大馬鹿者でないと、大プロジェクトには向かないらしい。
時は流れ、地獄の都市機能が三途の川の向こうに移った後は、この街は旧地獄街となり、忌み嫌われた妖怪の住処となり、地霊殿にはその代表的存在として古明地さとりが置かれた。
元々が官公庁用に開発された都市だったため、転任してくる役人目当ての借家は山ほどあった。それが地底に妖怪を移す際のインフラとして役立ったと、八雲紫は天狗の取材に答えている。
この物語の主人公二人が借りたアパートも、そんな中の一つであった。下級の極卒用に造られたものとはいえ、鬼が建築に携わっているだけあって、素朴かつ頑強だ。
現在では地底の封鎖は解かれ、地底を嫌っていたはずの妖怪達でさえ、避暑や避寒などの目的のために滞在するようになっていた。
ただし、この二人の場合、事情はちょっと違うのだった。
〜仏ほっとけ、神かまうな〜
霊烏路空が作る太陽の光を、部屋の畳に寝転がって存分に浴びていたのは、聖白蓮だった。
貴人の特徴であるグラデのかかった長髪は光り輝いていたが、格好はTシャツにジーンズと、本来の神秘性からはかけ離れていた。この部屋自体、台所有り風呂無し六畳二間という質素さである。
そして、
「あー……今なら死んでも良い」
弟子の一輪が聞いたなら、口から屁をこきそうなことを言った。
そうこうしていると、開いた窓から烏が数羽入ってきた。
地獄烏のお空が神に等しい力を得た今、この街では烏はインドにおける牛のような扱いになっており、数が増え続けている。知能は結構高いのでゴミを荒らしたり糞を撒き散らしたりはしないのだが、白蓮の輝く髪の毛は彼らの本能を刺激した。
「あっ、ちょっ、これ取れませんから! いた、あいたっ!」
頭をズゴズゴと突かれて、白蓮が部屋の中を転げ回る。
「これそういうのじゃないから!」
ついに怒った白蓮が烏を窓から追い出すと、反対側にある出入り口の扉が開いた。
白蓮と同じ恰好をした東風谷早苗が、買い物を終えて帰ってきたのだった。
「僧なだけに?」
「そ……そうじゃないですから!」
否定するのも否定するので白蓮は恥をかいた。
「まあ、それはともかく。ビール買って来ましたよ」
「すみませんねえ」
早苗が買い物袋の中身を卓袱台の上に出す。
『空生』とラベルに書かれた瓶ビールには水滴が付いていて、よく冷えているようだった。
「これ、美味しいんですか?」
グラスと栓抜きを渡してやりながら、早苗が訊ねる。彼女は下戸なので、酒の味はよくわからない。
「ええ。なんでも、お空さんが地上の妖怪から麦の育て方を教わって、これでもかと太陽光で育てた麦を使っているそうですよ」
そのビールをグラスに注ぎ、白蓮はごきゅごきゅと呷る。
両手を添える飲み方こそ美しいが、ほぼ一瞬で一杯目が空いた。
「この一杯のために超人してる気がしますよ」
「またまた、そんなこと言って」
一緒に買ってきたイカ煎餅をかじりながら、早苗は台所でお湯を沸かし始めた。
このコンロも、冷蔵庫も、つい数年前までは無かったというのだから、地底のエネルギー革命と技術革新は凄まじい。
湯気のなかなか出てこない薬缶の口を眺めていて、早苗は何度目かになることを口にした。
「まさか、白蓮さんが乗ってくれるとは思いませんでしたよ」
「ああ、この休暇のことですか? 何度も言いましたけど、ちょうど良かったんですよ」
――地底に行きましょう。
言い出したのは早苗の方だった。
守矢の二柱は地下センターの完成以来、大人しくしており、山の妖怪ともすっかり馴染んだ。
そう思って早苗が自分のことを振り返ってみれば、幻想郷に来てからはやることが激増し、それはそれで楽しかったのだが、どうも腰を据えたとは言い難い気がした。
神社が移ったばかりのときの騒動は除外するとしても、お空に八咫烏の力を与えたときからして、自分は言われた通りにしただけで、大したことはしていない。
もちろん自分が巫女であり、大したことをする必要は無いと自覚はしているので、それはそれで良い。
ただ、そろそろゆっくりと過ごせる時間を持ちたくなり、人里の祭の相談で白蓮の所に訪れたとき、地底の話を持ち出したのだった。
知っている中でその手の話を真面目に聞いてくれそうなのは、彼女だけなのだった。神奈子などに相談すると無駄に話が大きくなりそうだし、霊夢は一笑に伏しそうである。
そう、別に話すだけでも良かったのである。
白蓮が提案に乗ったのは、予想外だった。
「太子様が蘇って、ちょっと身を隠しておきたかったんですね。やり辛いお方ですから」
「ああ、はいはい。あの方って変わってますからねえ」
早苗に言われては太子も不満だろう。白蓮は目を瞑っておくことにした。
「あの方は私が昔いたお寺、朝護孫子寺を建てたとされている方で、それが本当かどうかはわかりませんが、個人的にも悪いイメージは無いお方なんですよね。しかし聞いた限りでは三宝を滅したいとのことで、お考えがはっきりとわかるまでは、出来るだけそっとしておきたいのですよ」
白蓮は早苗ともあまり良い出会い方をしていない。逆に言えば、太子ともこうして普通に話せる日が来る可能性はあるだろう。
「そういえば白蓮さんの昔いたお寺って、白蓮さんはどう思ってるんですか?」
「難しい質問ですねえ。私にとっても弟にとっても大切な場所であることには変わりがありませんが……」
ついでで聞いたことだったが、白蓮の声が濁る。空になったグラスの向こうに、何が見えているのか。
早苗が息を呑むと、白蓮は続けた。
「あそこ、山奥過ぎて便が悪いんですよ」
「そういう問題なんですか!?」
「大事なことです。引き籠って修行する分にはあれで良いんですけど、私がまだお婆ちゃんの体だったときにあそこまで行ったものですから、余計にイメージが悪いっていうか。登る途中、驢馬の上で涅槃に至ろうかと思いましたよ」
「すぐそこで弟さんに会えるのに!」
――どうしてそこで諦めるんだよ! もっと若くなれよ!
そこまでは流石に早苗も言わなかった。現に今は若返っているのだし。
「だから私、自分でお寺を持つようなことがあれば平地に建てたいな、ってずっと思ってたんです」
「それであんなに念入りに諏訪子様に地均ししてもらってたんですか……」
星輦船が寺の形となって落ち着いたときは早苗も見学していたが、諏訪子が震脚を踏む度に土地が変形していく様は圧巻であった。あれなら地震が起きても揺れを力尽くで抑え込むことも出来るだろう。
「あっ、でも白蓮さん。今は朝護孫子寺ってケーブルカーとかバスとか通っていて、そこそこ行き易いらしいですよ」
「私が寺に居た頃と変わり過ぎじゃないですか!?」
白蓮の握っていたグラスは、粉々に砕け散った。
〜うきうきショッピング〜
姫後生が手がけた地霊殿と旧地獄街を旧市街とするなら、霊烏路空の力を利用して新たに拓かれた所は新市街である。
しかし『旧地獄街の新市街』とか言うのは大変にややこしいので、住民は旧市街を単純に旧地獄街と呼び、新市街のみを指して『新宿』と呼んでいる。以降、この表記に倣いたい。
この名前は公募されたものではなく、地上との行き来が可能になり、新たに宿が増えたことで口にされるようになったものだ。
『宿』とは言っても、我々が想像する旅館やホテルのようなかっちりしたものではなく、泊まることも可能な宴会場だと思ったほうが良い。公衆浴場も兼ねている場合がほとんどだから、地底に元からいる連中も毎日通っている。
旧地獄街と新宿の境界線にあるのが、地上から地底までまっすぐに貫いている巨大な円筒である。これこそが地上の妖怪の山の麓にある間欠泉地下センターの正体だ。
地底からすると地下センターではなく塔そのものなので、この中で働いているお空も「太陽の塔で良いんじゃない?」と人に言っている。一部の人には今にも爆発しそうなので止めろと注意されたらしいが、本人はその日の内に忘れた。
そのアホらしい高さと比べて円周は短めで、周囲は水路で囲まれている。この水路は地底湖にも繋がっており、新宿全体にも水路は伸びている。
これは景観や水運のためもあるが、太陽の塔自体が一種の天候操作をしているというのが一番の理由だ。水路から水を汲み上げたり、任意の高さから放水することで、擬似的に雲を発生させているわけだ。風を出すことも出来る。なお太陽光は地底の天板付近から照射されている。
塔は完全な円筒ではなく八角形であり、お空の右腕の制御棒がそのまま巨大になっていると思って良い。また、水を用いて陰気と陽気のバランスを調整していることからもわかる通り、八卦と陰陽のシステムによって全体が統御されている。
まあ、肝心のお空ですら「明るい気分と暗い気分」という大雑把な捉え方で天気から核融合までを扱っているため、周囲もそれぐらいの認識である。
「――ということなんですが、わかりました?」
「はあ、まあ」
新宿にある路上喫茶店で甘味を食べながらの早苗の説明に、白蓮は顎を斜めにして首を頷かせた。
わかったような、わからないような。
「私も神奈子様からしつこいぐらい聞かされたので覚えてはいますけど、八卦とか陰陽とかって霊夢さんとかの本領ですからねえ。もっとわかりやすく説明するとなると、なかなか……」
「いえいえ、十分にわかりやすくはあったんですけど、大掛かり過ぎてぴんと来ないというか」
ここからも太陽の塔はよく見える。天と地を貫いたかのようにも見えるその様は、異様という言葉がそのまま当てはまる。壮観さもあるので、見ていて不快さはない。
「星輦船だって、飛倉とかいうので動いてたんですよね? お互い様ですよ」
「あれはほら、動いちゃえばこっちのもんですからねえ」
――弟さんの法力の結晶をそんな言い方して良いものなのだろうか。
早苗には判断が難し過ぎたので、聞かなかったことにした。
「それはそうと、グラスはどこで扱ってるんでしょう?」
昨日割ってしまったグラスの替えを二人は買いに来ている。
二人がこの生活を始めて既に一ヶ月近くが過ぎているが、未だにどこに何があるのか、手探りなのだった。
頼りは早苗が地上にいた頃から目を通している地底情報雑誌『しゃんばら』だ。
新宿は一挙に発達した所為で裏路地も多く、これが無いと地底に住んでいる者でも迷うときがある。新宿に対抗して旧地獄街の方でも新しく商売を始めたりして、記事のネタは増え続けている。もし射命丸文が地底を恐れてさえいなければ、いくらでも取材に来ているだろう。
この雑誌を手がけているのは星熊勇儀が自治会長を務めている鬼の集団で、「私より強い奴に、会いに行く」とかいう標語で警備もやっている。『今週のパルスイーツ』で取り上げられる話題のお店はいつも人気、担当者の穿った評価も売りだったりする。
今こうして二人が話している店も、先々週号で取り上げられていた。
おすすめは杏仁豆腐で、地底の冷たい水を利用した一品である。
「グラスについてはもう、お店の目星は付けてあるんです」
「あら、それは楽しみですね」
「それよりこの杏仁豆腐、地上からお取り寄せできないかなあ」
などと早苗が口にしていると、豆腐が一欠片、ぽろりと落ちてしまった。『常識』の二文字がプリントされた白シャツに点々とした汚れが付く。
「あっ、しまった」
「はい、これハンカチ」
素早く手渡された白蓮のハンカチで、ぽんぽぽんと汚れを拭く。ほとんど水気なので問題は無さそうだった。
「すみません、白蓮さんがくれたものなのに」
「うちはいつ新しい子が来るかわからないから、簡単な着替え用に沢山あるんですよ」
「でもこれ結構気合入ってますよ。何度か洗ったらすぐにプリント駄目になるかと思ったら、全然ですもん」
それもそのはずで、白蓮が筆で描いた後に法力で保護している。一世紀ぐらいは保証期間を設定して良い。
つまり『常識』の二文字も、白蓮のシャツの『南無三』の三文字も、『聖道門』『現人神』『波羅羯諦』『スイーツ』……あれもこれも全てが白蓮の直筆なのだが、早苗はそのことを知らない。
無理に隠す必要は無いのだが、もし知っていた状態で今のような場面に遭遇した場合、早苗は余計に気にしてしまうだろう。
白蓮も封印される前は集団生活をこれでもかとしていたので、その手の気遣いは心得ていた。
「服といえば白蓮さん、ジーンズの履き心地ってどうですか?」
「楽チンですねえ。自分では着たことが無かったので、これほど穿き易いとは思っていませんでした」
Tシャツとは反対に、ジーンズは早苗があげたものだ。白蓮が十周以上も歳が上なのは早苗も知っているので、せめて格好だけでも統一して気楽さを演出しようと思ったのだった。
地底は寒くなってもたかが知れているので、この格好でも十分に過ごせる。
「これが昔もあったら、旅も楽だったでしょう。弟子にも着せたりしたら面白かったかも?」
「その集団は公園でギター弾き始めそうです」
「それはいけませんね……私、ドラムなので」
「そこ重要ですよね」
魔界で暇していたときに色々やっていたそうなので、早苗からすると大変に頼りになる人生の先輩だ。彼女ならスティックが折れても両手の拳で何とかするだろう。
「私も外にいるとき、楽器やっておけば良かったですよ」
「踊りとかは?」
「うちの神社は踊りじゃなくて相撲だったもんで……」
「ああ、奉納相撲ですか。たまにやってる所ありますね」
「でも私が出ると相手が無防備なまま投げ飛ばされてしまうので、やるにやれなくって」
「……」
多分それは股間の大社が盛大な御柱祭を催してしまったからなのだろう。
神々の秘密について、白蓮は口を閉ざした。迂闊なコメントで宗派間対立を引き起こしたくはない。
「じゃあ、そろそろグラスを買いに行きましょうか。やってると良いんですけど」
目当ての店は太陽の塔から伸びる大通りから横に折れた所にある、いつも市場が開かれている場所にあった。
ここは以前、霊夢達が殴り込んできた空洞から近いため、地上の妖怪も売りに来ている。その所為で商店主同士の喧嘩が絶えないのだが、あまり派手にやらかしていると鬼が嬉々として参加してきてしまうから、大概は挨拶代わりの殴り合いで終わっている。
鬼を必要以上に怖がる、という点でなら、地上の妖怪の方が怖がり易い。地上では見かけることが無いからだろう。
逆に地底の妖怪が余計に怖がる存在も、いるにはいる。
さて、その店は他の店と同じく町家の軒先に敷物を敷いて商いをしていた。
事前に知らされずとも、通りかかっただけで並べられたガラス製品の美しさに足を止めていただろう。単に透明だというのではなく、手に取ってまじまじと眺めたくなるような光の湛え方をしている。
「うちのは昔の灼熱地獄で作ってるんだよ」
店主はパーカーのフードを深めに被っているので顔がよくわからないが、猫っぽい妖怪らしく、二又の尻尾がスカートからはみ出ている。
「って、ええ!? こんなに安いんですか!?」
桜でもそんな驚き方は出来ないぐらいのわかりやすさで、白蓮が値札を指差した。
しかし白蓮が大げさなわけではない。他で買うよりも半値は安い。
「ま、半ば趣味でやってるからねえ。これより下げると同業者に怒られるけど、お姉さん方だったらおまけするよ?」
――とても趣味とは思えない口の上手さだ。
白蓮は驚きこそしたものの、店主の言葉を額面通りに受け取りはしない。慎重に質問を選んでいた彼女と違い、早苗は気楽に口を利いた。
「材料って地底の土から採ってるんですか?」
「ああ。でもそれだけじゃ綺麗になり過ぎちゃって、つまらないんだよ。だから混ぜ物をする」
「というと?」
「人間の魂とか?」
「ははっ、またまたー」
「ひっひっ」
早苗と店主が笑い合っていると、早苗のジーンズの裾を白蓮が引っ張った。
「決まったんですか?」
「いえ……今、ガラスに人の顔が……あ、また……」
「……」
無言で品物を置いて立ち去ろうとする二人を、店主は慌てて呼び止めた。
「ちょっ、今のは本当に冗談だって! 魂燃やしてる場所でやってるからたまたまそういう模様が出るだけで、魂自体が籠ってるわけじゃないから!」
「出るだけでも十分に怖いんですが……」
「その代わりよく冷えるよ?」
その発言に、白蓮が僅かに興味を示した。
美味しいビールとそれ以外の問題とでは、ビールの方が勝つらしい。
脈ありと判断した店主は、思い切った提案をした。
「たまにそういう模様が出ないのも出来るんだけど、地上で高く売るときのために取ってあるんだ。でもお姉さん方なら、この場で売ってあげるよ」
「じゃあ、値段は?」
「やっぱり三倍ぐらいになっちゃうね」
それでも元々の品が良いので、お得感はある。
が、提案で迷い始めたのは白蓮ではなく早苗だった。腕組みをして、唸り始めた。
「早苗さんも買うつもりで?」
「神奈子様と諏訪子様にあげようかと思ってたんですけど、この値段の三倍を二つとなると、休暇のために節約したいから、ちょっと……」
「じゃあ、私が少し出して――」
「それは悪いですよ――」
「でも私もお世話になって――」
わちゃわちゃと言い合っている一方、店主が妙に静かになった。
二人が気付いて眺めていると、二又の尻尾が荒ぶっていた。先程までとは打って変わって、たどたどしい言葉が喉から出てきた。
「ももももも、もしかしてお二人は、あの神様らと知り合いで?」
「はあ、まあ」
あまり正体を明かすと面倒なので、こういうときはぼかすようにしている。
「こ、ここにある商品、全部献上しますから! どうか改造手術だけは! どうか! どうか!! ドゥエーイ! ジョッカーめ!」
「か、改造って」
土下座した上にイスラム教徒の如く何度も拝礼し始めた店主に早苗が戸惑う。他の店の連中も、何事かとこちらを窺っていた。
〜裸の付き合い〜
聞けば、店主の名は火焔猫燐と言った。その名前は早苗も霊夢から耳にしたことがあり、フードの下の猫耳と両のお下げは霊夢の話と違わなかった。
今はフードどころか、何も着ないで、三人一緒に近くにあった宿の風呂に浸かっていた。
「本当に三つずつで良いのかい?」
「沢山あっても、持って帰れませんから」
それまで同じ事を何度も聞いてきたお燐だったが、流石に諦めたようだ。安心とも疲れとも取れる溜息を吐いた。
「そんなにあの神様達が怖いんですか?」
「実は私の友達、お空っていうんだけど、八咫烏の力を埋め込まれてね……それ以来、乱暴になるわ、言ったことは忘れるわ、ああ、昔はあんなじゃなかったのに。神様って恐ろしいもんだねえ」
どうやら都合の良い記憶改竄が行われているようだ。お空が力を授けられたときは早苗も見ていたが、手術台に括られて、なんて光景は全く無かった。
ともあれ、畏れられないよりは畏れられた方が良い気もするので、早苗としては複雑だった。たとえ、単に怖がっているだけでも。
そんなわけで、適当に話を合わせることにした。
白蓮は湯に浮かべたお盆で日本酒をやっており、早苗に任せるつもりのようだった。
「まあ、確かにあの方々は結構、言い付けが厳しいですからねえ。私も色々と苦労させられました」
「ってーと? どんなんだい?」
「やっぱり、一番は引越しかなあ?」
「何だ、引越しか。それなら私だって運ぶぐらいできるよ」
馬鹿にした風のお燐に、早苗は更に続けた。
「博麗神社や天狗に挨拶回りをするの、大変だったんですよ?」
「……え?」
「霊夢さんとか、敵意剥き出しで、私も忙しくてテンパってたもんだから、大騒ぎになっちゃって。天狗の方々にまで迷惑かけちゃって。あはは、でも話してみると、何だか懐かしい」
楽しげな早苗と違い、お燐は湯に沈みかけていた。
「そ、そんなに重要なお役目をお持ちの方とは露知らず……」
「今は妖怪退治ぐらいしかしてませんけどねえ」
早苗が気付かない形の脅しに、お燐が完全に沈んだ。じきに顔を出したときには、白蓮から酒をもらって、逃避を始めてしまった。
「妖怪といえば、早苗さん。うちに来てる響子さん……山彦の子が、早苗さんのこと話してましたよ」
「あ、すみません。この間、弾幕ごっこでいじめちゃいました」
「まあ、それで済んでいれば私からは言うことはありません。幻想郷では挨拶のようなものですから。響子さんの話はそういう恨みがましいものではありませんでした」
「ふむ?」
「もっと一緒にお勤めについて話したいと言ってました」
「あの、それ確実に恨んでますからね?」
二人が惚けたことを話している間に、お燐はすっかり酔っ払ってしまった。酒にはあまり強くないようだ。
少し休んでから帰ると言うお燐を残して、早苗と白蓮はグラスを包んだ風呂敷を持って、再び街に出たのだった。
早苗は髪を乾かすのに時間がかかってしまい、白蓮を外で待たせてしまった。
「白蓮さんって髪痛んだりしないんですか?」
「ありませんね。この体だからでしょうか」
「良いなあ。私も髪だけ不老不死に出来ないかなあ?」
「それはちょっと……」
不老不死と髪のコンディショニングが等価であると告白されては、白蓮も困ってしまう。
「そもそも昔は、私は頭を剃っていましたよ」
「あっ、そりゃそうですよね」
「ですから、魔界で髪型のことで周りが盛り上がったときとか、ぼっち気分を味わうはめに……知識ゼロなんですもん」
「それも仏の導きなんですね、きっと……」
二人で遠い目をしていると、太陽の光が弱くなってきた。
前後して街路の行灯に火が籠められていき、二人を家路に誘ったのだった。
〜弟子は来たりて〜
奇跡の現人神・東風谷早苗。超人・聖白蓮。
二人が地底での休暇を初めて、今日で一ヶ月が過ぎようとしていた。
が、そんな日だろうと、白蓮は掃除に勤しんでいた。物は無いに等しいので、さっさとはたきをかけ、固く絞った雑巾でこびり付いた埃と汚れを拭っていく。
「地底は湿気っぽいからか、汚れが落ちづらいんですよねえ」
「と仰られますけどね」
「けど?」
「ぼろだったはずの柱とか、いつの間にか艶が出てきてるじゃないですか」
白蓮が毎日欠かさず、これでもかと掃除をするために、木造製品の表面はツルツルになっていた。
柱の他に目立つものだと卓袱台だが、敷居どころか鴨居でさえ艶がかっている。
「いったいどんな拭き方したら、こんなことに……」
「不思議がってないで、早苗さんもたまにはやってみたらどうです?」
「あ、良いんですか?」
早苗も別にさぼっているわけではない。気付くと白蓮がやってしまっているので、やりようがないのだった。その代わりに料理は大概、早苗が作っている。
「はい、これ雑巾」
「ありがとうござ――」
受け取った雑巾を広げてみると、布を重ねて厚めに縫ってあるはずなのに、繊維が千切れて、ズタボロになっていた。学校のロッカーの奥でもこれほどの状態のものは出土しないだろう。
早苗が固まっている一方、白蓮はまだ掃除したりずに、まだ新しい雑巾を使うことにした。
おもむろに水桶の中に突っ込み、絞る。
すると「ブチッ、ブヂブヂブチィ!」という、水気以外のものが切れる音がした。
「この音聞くと、掃除って気がしますねえ」
「そ、そうですね……」
崖から落ちそうになっても、白蓮の手は握らない方が良さそうだった。
早苗は台所の方を掃除することにして、それもじきに終わるという頃になって、玄関扉がコンコンとノックされた。
「はーい? 開いてますよー?」
「お邪魔します」
顔を見せたのは、命蓮寺の雲居一輪だった。いつも一緒にいる雲入道の雲山は、今は小さくなっていて、一輪の頭巾の隙間からちょろっと顔を見せる程度の大きさになっている。
――あれってお肌の潤い保てそうだなあ。
一輪に会う度に早苗は思うのだが、未だ確認は取れずじまいだった。
「おや、一輪ではないですか。寺で何かありましたか?」
「今、お茶入れますね」
お構いなく、と形だけの言葉を口にして、一輪が卓袱台の席に座る。
早々に一輪は本題に入った。
「星が頑張ってるおかげで、寺とか信仰とか、そういうのは問題無いんですが……」
「他に問題になるようなこと、ありましたっけ?」
「妖怪達のほとんどは、姐さんを慕ってあそこに集まってるんです。つまり――」
「つまり、私がいないと皆が去ってしまいそうなのですね?」
「違います! 歯止めが利かなくて、毎晩どんちゃん騒ぎなんです!」
一輪の訴えに、白蓮は苦笑いをしただけだった。ある程度の予想はついていたわけだ。
「私が懸念していたような事態ではないのですから、あなたも一緒に楽しくやったらどうです?」
「どれだけ酷い状態か知らないからそんなことが言えるんです。あの佐渡の田舎狸なんて、賭場まで開いてるんですよ?」
「ふふ、一輪もまだまだですね……。神は賽子を振りませんが、仏は振るのです」
「そんな説法聞いたことありませんよ!」
昔からこんな感じだったとしたら、一輪の苦労は大変なものだろう。彼女も相当ぼけてはいるので、お似合いではある。
話が深刻でないことに安心しつつ、早苗はお茶を出してやった。
「そうだ、守矢の巫女さん。あなただって賭場は良くないと思うでしょ?」
――私に振られてもなあ。
早苗の正直な感想とはそういうものだったが、邪険にするのも可哀想だ。
「具体的に、どういうことしてるんですか?」
「それがなかなか面妖なもので……私も最初は賭け事だと気付かなかったぐらいよ」
「ふむふむ」
一輪の話から聞けた限り賭けの内容をまとめると、
1.スペルカードみたく絵の描かれた札を使う
2.何面あるんだかわからない、ごっつい賽子を振る
3.トークンとかいうので点数計算をしている
4.高値で札を取引している
以上のような内容であった。
『どう聞いてもトレーディングカードゲームです。本当にありがとうございました』
普通に賭けをやっては近頃の妖怪はのめり込まないと見て、マミゾウはTCGを利用したようである。
――なかなかやりますね。
そう感心する一方で、早苗はこの賭けがやがて尻すぼみになるのを見破った。
「尻すぼみ? そりゃまたどうして」
一輪だけでなく、白蓮も腕組みをして興味深そうにしている。谷間も深い。
「その賭けのスタイルは、常に新しい種類のカードが出回ることで活性化するんです。大方、外から持ち込んだ分しかマミゾウさんは用意していないでしょうから、じきに飽きられますよ」
「なるほど……言われてみれば、似たような札が多かった気がする」
一輪が納得したのを見て、白蓮は自分の掌を叩いた。
「はいっ、じゃあ解決ですね。早苗さん、一輪も一緒に、お昼にしましょう」
「はーい」
「ちょっ、賭けと騒ぎは別の話であって――」
「いいからいいから」
一度こうなってしまっては、一輪は丸め込まれるしかない。
彼女には「一ヶ月だし、姐さんも帰ろうと思ってるかも?」という淡い期待があった。それが叶いそうに無いとわかると、今度は「姐さんとご飯ぐらい楽しく食べたいし」と思えてきたのだった。
結局、昼食を食べた後には口笛混じりで帰っていった。
五日後、今度はぬえがやって来た。
ぬえは、マミゾウからTCGの延命措置として正体不明の種を使うことを頼まれて、深く考えずに承諾したのだった。正体不明の種を使うことで、新しいカードだと思い込ませるという寸法である。
しかし、プレイヤー同士のイメージするものに食い違いがあれば勝負になりっこない。
マミゾウはそれに気付いていたはずなのだが、ぬえには何も教えなかった。
「あいつ、最初からブームの終わりにかこつけて私をからかうつもりだったんだ!」
「相変わらず仲の良いこと」
「そんな呑気な! おかげで私が金吸い上げてたと思われて、大変なんだよ!」
「あらあら。でもぬえさんだって、他の妖怪達を騙せると思ったから引き受けたんでしょう?」
「そ、それは〜、だから〜、うーん」
――白蓮さんって、結構弄ぶタイプなんだなあ。
早苗はお茶を飲みながら、同居人の知られざる一面を垣間見ていた。
〜鬼にさとり〜
節目なんてものは、終わってみると呆気無い。大体、忙しい現代人にとって節句の類は「あ、そういえば今日は冬至だっけ」てなもんで、「あ、今日の夕飯カレーなんだっけ」みたいなうきうき感が生起されるのと大して変わらない。
では暇ならどうかといえば、これも事情に大差は無いようで……。
「早苗さん、早苗さん」
「ふぁ?」
不意に白蓮に呼ばれて、早苗は変な声が出た。
手元から目を上げてみれば、白蓮は今さっきまで読んでいた本の表紙を早苗に見せた。
「これ、面白かったですよ。読みます?」
「私、その手の小説はちょっと……」
戦国時代を題材にした中でも、固い部類のやつだ。剣豪小説ならまだいける口なのだが、信長の上総守と上総介という呼称についてのエピソードとか挙げられても、読む気が失せてしまうのだった。
Q『好きな戦国時代の人物は?』
A『太原崇孚雪斎』
こういう答えが出てくるのが白蓮だから、何をか況や。
平安時代がメインの白蓮にしてみると、応仁の乱以降の日本全国フィーバー状態はかなり刺激的らしい。三国志や水滸伝、ガリア戦記なんかも手当たり次第に読んでいることから、相当なジャンキーと化している。
が、大人は大人なので、無理に薦めたりはしない。
残念そうに溜息を吐いて、切り替えた。
「早苗さんは何を見てるんです?」
白蓮が気にしたのは、早苗が持っている板切れだった。エア巻物と同じく何やら表示されているのだが、これまで聞いたことは無かった。
「藍PADのOSのversionが上がったので動作チェックをしていたんです。下手な改善だとバッテリーを食うだけなので、設定を直す必要があって――」
「すみません全然わかりません」
藍PADは、暇に飽かして八雲藍が作ったもので、幻想郷初のタブレットと銘打たれている。読み方が違うのにアレなPADに対抗した名前を付けさせたのは、もちろん紫である。
画面は式神に用いる術を使って出力と入力を両立させており、藍が手作りでやっているため少数生産であることを除けば、部品調達は用意で、コストもただ同然。
早苗は試験用の藍PADを使える権利を持っているため、地底でも試験を続けているのだった。
「試験を手伝うと、紫さんからインスタントやレトルトの食品を箱でもらえるっていうメリットもあります」
「ああ、それで買った覚えのないものが食卓に出てくることがあったんですか」
「カレーとかですね」
流石にカップ麺を夕飯時に白蓮に出す根性は無いので、サラダとかと一緒に食べられるようにするなど、一手間加えている。
「食事といえば、神奈子様もこれと同じ物を持っているのですが、これで神奈子様に夕飯のレシピ送ったりしてますよ」
「それは巫女の在り方として随分と前衛的ですね」
まあ、休暇を取っている時点で十分前衛的だろう。
「白蓮さんはそう言いますけど、神奈子様に料理教えるの、結構リスク高いんですよ」
「そりゃあ、神様にそんなことさせるのは――」
「いえ、そうじゃなくて」
「ふむ?」
白蓮にどう説明したら、わかりやすいだろうか。早苗はしばし考えてから、逆に訊ねた。
「白蓮さん、美味しい物を食べたら、どうします?」
「何を使っているか気になりますね」
「じゃあ、それが手に入るものだとわかったら?」
「もちろん、自分で……」
途中で白蓮にも理解がいった。
神様には手に入らないものなんてほとんど無いのである。
その神様に料理の知識と経験を与えるということは、大変にリスクが高い。巫女的な意味ではなく、生態系的な意味で。
「私、今の生活始めてから思うんですよ。巫女ってそういうカタストロフを防ぐために代々頑張ってるんじゃないか、って……」
「歴史の真実って案外そんなものかもしれませんね……」
二人で窓の向こうを仰いでいると、玄関がノックされた。
また弟子か、と二人は一瞬思ったが、続けて聞こえてきたのはそれらとは違う声だった。
「こんちはー、町内会のもんですがー」
「はーい」
早苗が素早く応対に出てみると、立っていたのは火焔猫燐だった。
「おや、いつぞやの」
「やはは、どうもー、火車のお燐です」
お燐が持ってきたのは、地霊殿主催で定期的に開かれているという、豚汁会のお知らせだった。
「地霊殿に住んでいるのは前にも聞きましたけど、あそこはそんなのもやってるんですか?」
「うちのご主人、さとり様は、結構面倒くさい人でねえ。他人が嫌いなのは嫌いなんだけど、『呼んで来るなら相手してやらないこともない』とかで」
「負けフラグの立ってる道場主みたいなことを……。それで、今までの参加者は?」
「それが意外と参加があるんだよ。町内会の経費としても落ちるぐらいで。ただ……」
「ただ?」
「さとり様が出ないんだよね」
「駄目臭いなあ……」
「なんだろねえ、いざ集まっちゃうと、気後れしちゃうのかねえ。普段ならともかく、どうせみんな酒でわけわからなくなるんだから、心読まれちゃうぐらい気にしないのに」
お燐と早苗が立ち話をしている傍ら、白蓮は聞き耳を立てていた。
彼女はすうっと玄関まで来ると、お燐の肩を優しく叩いた。
「そ、その恵まれない妖怪の話を、くくくくっ、詳しく、もっと詳しくぅ!」
「どうしちゃったのこの人!?」
――入っちゃったよ、救済スイッチ。
早苗は視線を逸らしながら、これから先に暗雲が漂うのを予感していた。
豚汁会。その伝統は地霊殿設立にまで遡ることが出来る。
新たに着任した閻魔が部下と打ち解けるためのもので、かの四季映姫も参加していた。
豚を使う理由としては、地底でも育ちやすい品種がいたため、「この豚め!」と言いながら調理できる、極悪人が豚に転生したから、などなどの説があるものの、未だはっきりとしない。
地霊殿が庁舎としての役目を終えたのと前後して、古明地さとりは地霊殿に入った。四季映姫と八雲紫との間での折衝の結果だ。
四季映姫はさとりに心を読まれることなど全く気にしなかった。白黒は付けても裏表は無かった。
そうした心を読むのは心地良いぐらいで、透明な海をどこまでも沈んでいくような錯覚に囚われる。
――もっと早くに出会えていれば、一緒に三途の川を越えられたのに。
さとりは、未だに後悔している。
豚汁会の伝統を引き継いでいるのも、四季映姫の余香を嗅いでいたいからだ。そんなことはペット達には言えないが、彼女達は会を滞らせることなく、現在に至っている。
彼女達もまた、さとりを慕っているからだ。
様々な感情を整理できないままでいる自分の顔を、さとりは紅茶に浮かべる。
豚汁会のために多くのペットは出払っており、地霊殿の中は静かだ。人間の姿になれなかったり、さとりの傍を離れたがらない一部のペットだけが残っている。
現在ロビーにいるペットは、さとりのソファベッドと化している四メートルも体躯のある大きな犬、朱鷺のつがい、直立不動の皇帝ペンギンと、普段よりも尖ったのが目立つ。
時折、身じろぎや溜息のような鳴き声がする以外は、カップをソーサーに置く音だけがしている。
今頃は、お燐が豚汁会のために人を集めているだろうか。
――そういえば先日、変わった面影があの子の中にあったけど?
お燐はあの通り落ち着きが無いので、さとりでも心を正確に読み取れるとは限らない。
その代わりといってはなんだが、わかりやすいときはとことんわかりやすいので、可愛げがある。それは大体のペットに共通している。
さとりがペットの顔を一つ一つ思い起こしていたとき、ロビーにある大きな玄関扉が、ゴオンという物々しい音を伴って開いた。
危機に対して、さとりは慌てたりはしない。
この玄関ロビーでくつろいでいるのも、奥の方にいては、また以前のような騒動があったときにペットに危害が及ぶ可能性を考えてのことだ。
彼女は先程までと変わらない風にしてソーサーにカップを置くと、皇帝ペンギンの頭の上に乗せた。
「やれやれ、今度はどんな連中が殴り込みにきたのです?」
さとりが立ち上がるのに合わせて、背もたれの務めを果たしていた犬は、のっそのっそとロビーの隅にまで行って、寝直した。ペンギンだけが相変わらずの直立不動。
扉を通って現れたのは、白いドレスの上に薄手の黒の外套を羽織った女だった。
その連れらしい方は、Tシャツにジーンズという格好で、どういう関係なのか想像が付かない。
――まあ、心を覗けば済む話。
ほくそ笑んださとりだったが、やがて表情が強張った。
黒の外套の女の中は、渺茫として、掴み所がない。ふと何かが浮かんだと思えば散り、砕けるを繰り返して、虚しさとも悲しみとも取れない感覚に襲われるのだった。
ジーンズの方は三人ぐらいの人影が荒ぶる鷹のポーズで踊り続けており、頭が痛くなってきた。
真面目に心なんて読んでられないではないか。
「このような質問は全く不本意なのですが……何者ですか?」
「妖怪を救うために降臨した美少女戦士、聖白蓮です」
「……」
黒の外套の女の言葉が心の中とかけ離れていたので、さとりは目眩がした。
――白蓮さん、勝負服なんだもんなあ。
着替える暇も無かった早苗は、そのままの格好で来るしかなかった。
『では白蓮にも着替える時間が無かったのでは?』というのはもっともな疑問だが、白蓮は「蒸着!」と叫べば0.05秒で勝負服に着替えることが出来るため、例外中の例外である。
なお、射命丸文はこの蒸着プロセスを全て撮影できる恐ろしいスキルを持っている。
白蓮は自己紹介も何だかノリノリだったので、早苗はうっかり名乗るのを忘れてしまった。
まあ、下手に口を出してもややこしそうなので、ここまで来てしまったら任せるしかない。
お燐は白蓮に掴まれた方の肩が動かなくなってしまったため、温泉療養に向かった。
「あなたは変わりつつある地底の中で、一人でいる……そこに解脱への道があるならともかく、感情の海に漂うだけ……」
「何かと思えば説教をしに来たの? ふっ、へそで茶が沸くわ。覚り妖怪は覚り妖怪らしく、静かに暮らして何が悪いの?」
「くくくく……愚か……無知蒙昧……食欲不振……胃痛胸焼」
ぶつぶつ繰り言を口にしながら、白蓮がさとりに詰め寄る。
迫力だけは尋常ではないので、さとりも迂闊に弾を出したりできない。
一歩の距離まで近寄った白蓮は、はっきりと言った。
「覚り妖怪なら覚り妖怪らしく、これでもかと心を読んで相手を徹底的に追い詰めるべきです!」
「なっ……」
「あなたは嫌われるのを恐れる余り、本来の在り方をねじ曲げている。それが感情を腐らせる温床となっているのですよ」
「馬鹿なことを。私は地底が騒動の渦中にあったとき、ちゃんと侵入者と闘いました。あなたに言われるまでもありません」
「では何故、未だにここにいるのです? 覚るのを恐れない自信があるのなら、地上に繰り出し、全人類を恐怖のどん底に突き落とすぐらいが良いのではないですか?」
――お空さんのことを言っているのか。
話を傍で聞いていた早苗は、地上で暴れるだけ暴れていたお空のことを思い出していた。
確かに力のある妖怪はああいう態度に出るのが普通だろうし、だからこそ退治も出来て、そこには循環があるわけだ。
鬼や天狗クラスになると仲間内での立場や経緯もあって難しいだろうが、基本的には他の妖怪と変わらない。
――そこに気付くとは……やはり、超人……。
改めて白蓮に感心していると、さとりが今一度、言い返した。
「私は今の生活が気に入っているのです。それを破壊したくない。そう思うことの何がいけないのです?」
他人からは最も崩し難い、根本的な権利の話だ。それはしかし、最後の牙城である。
白蓮は会心の笑みを浮かべ、呟いた。
「可愛いですねえ……」
「へ?」
「口や態度でいくら取り繕っても、現に私をこうして招き寄せてしまった運命の前では、全てが無意味……。それに抗おうとするあなたは、実に可愛い!」
「ちょっ、この人何なの? ねえ、何なの?」
明らかな助けてコールを早苗に出してきたが、早苗は無視した。
――だって白蓮さん、自分のこと運命と同じ意味で扱ってるじゃないですか。
そんなの、どう助けろというのだ。
早苗が諦観していたとき、服の裾を後ろから引っ張られた。
そこには、古明地こいしが立っていた。
「やっぱり、山の神社の人だ」
「あら、たまに見かける人」
「お姉ちゃんの所に何の用事?」
早苗はこいしの名前も素性も知らなかったが、境内で見かけることはあった。
しかし、言われてみれば格好がさとりと似ている。
両手首をがっしと掴まれて脱出できない状態に追い込まれたさとりを見て、早苗はこいしに教えた。
「おめでとうございます。お姉さんの運命の相手が見付かりました」
「おおー! お姉ちゃん、おめでとー!」
「とぼけてないで助けてェーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!」
妹にも見捨てられたさとりは白蓮にマウントまで持って行かれ、それ以降の記憶は永遠に残ったのだった。
「いやあ、まさかあのいけすかない地霊殿の主と一緒に豚汁食える日が来るとはねえ!」
あけっぴろげな星熊勇儀は、地霊殿から出てすぐの広場で開かれていた豚汁会に参加していたが、それもじきに終わるかという頃になって現れたさとりに、絡んでいた。口は悪いが、仲間が増えたことには純粋に喜んでいる。
そのさとりの方はというと、虚ろな目で、注がれるままに酒を口に運んでいた。
「ハハ、ワタシもヨウカイですから、コウシテみなさんとオサケをノムのはタノシイです。キテヨカッタ」
「そうかそうか! 話せるじゃないか! なあ、みんな!」
おお、と声を合わせたのは他の鬼達である。
さとりが参加することは無いだろうと諦めかけていたペットにとって、今日の豚汁はやけにしょっぱかった。
「さとりさん、身体がガタガタなんじゃ……」
やや離れた位置で相伴に与っていた早苗は、隣で舌鼓を打つ白蓮に訊ねた。
「私が全力でぶつかったことで、一時的に力が移ったのです。反動で明日から一週間は筋肉痛で死にかけるかもしれませんが、あの方が目覚めたことに比べれば小さなことです」
「そ、そうですね」
早苗は途中からこいしや他のペットと一緒に地霊殿の外に出ていたが、あそこで一体、何が起こったのか。
一応、「きっとバビル二世がOPでヨミと組み合って超能力使ってるみたいな感じだったのだろう」ということにしてあるが、具体的に知るのは怖い。
――自分は心を覗けなくて良かった。
しみじみと、そう思った。
〜地底よ、永久に〜
早苗と白蓮、今日二人は、思い出作りに来ていた。
この思い出を胸に、二人は休暇を終えるつもりでいた。
「やっぱり、ここしか思い付きませんでした」
早苗がペロリと舌を出すのを、白蓮は笑った。
「仕方ありませんよ」
二人は今、太陽の塔の中を見学に来ていた。
この塔の中はエレベーターが通っており、お空のいる心臓部は最下層、地底の街がある高さよりも更に下にある。
おかげで地上と地底の間をエレベーターで行き来することができ、お空も好きなときに地上や地底に出られるし、友達にも会える。
見学コースで一番の人気は太陽光が出ている所にすぐ下にある、特別展望台だ。旧地獄を一望できるし、太陽光の加減次第で景色は変わるから、何度来ても楽しめる。
ここはレストランもあるのだが、そこで早苗たちは食事をとっていた。
そこに、お空も昼休憩に来ていた。
お空は早苗のことは覚えているので、巫女服と違う印象の早苗の席に移ってきた。
「私もそういうの着てみたいなあ」
「でしたら今度、Tシャツを持って来ますよ」
「やった!」
白蓮の申し出に、お空が素直に喜ぶ。
Tシャツが白蓮お手製とは知らない早苗は、気前の良さに感心していた。
「じゃあ、私もジーンズをあげましょう」
「うんっ」
地上と地底を結ぶレストランのメニューは、それぞれの材料と伝統料理を組み合わせているため、地上からの客も訪れる。
もっとも、地上には地底に偏見を未だに持っている者も多いため、大物が訪れることはあんまり無い。
「あっ、神様だ」
「えっ!」
驚いた早苗が席を勢い良く立ち上がると、相手もこちらを見た。
現れたのは八坂神奈子だけで、洩矢諏訪子の姿は無い。彼女は早苗の所までやって来ると、白蓮に一度視線を向けてから、早苗に向き直った。
「やあ、久しぶりだな。いつもレシピ送ってくれて悪いね」
「いえ、そんな。長いこと留守にしてすみません」
「それなんだが……まあ、いいか。私のことは気にしないでくれ。たまの贅沢に来ただけだからな」
歯切れの悪いことを言って、神奈子はVIP席に移った。お空も普段はそちらの方に座っている。VIP席とはいえ、そう広いレストランではないから、敷居は無い。テーブルの調度品や椅子に差がある程度だ。
「神奈子様も、帰ってくるように言いたかったようです」
「え? 帰っちゃうの?」
「お空さんとはいつでも会えますから」
「そういえばそうか」
再び食事に集中し始めた早苗達は、細かいことを気にしないようにした。
それが出来たのも、料理が美味しかったからだ。味のしっかりとした肉料理が出たかと思うと、ゴマを使った和え物など、柔らかいものも出してくる。
「これほどの料理の腕がある方を、よくこんな新しく出来た場所に呼べたものです」
「言われてみればそうですね。お空さん、何か知ってます?」
「さとり様の知り合いの知り合いだった……かな? よく覚えてないな」
そこまで覚えていれば上等な方だ。
『しゃんばら』にも載っていないので、取材お断りなのだろう。
厨房にでも行けば確かめられるだろうが、今日の目的はそんなものではないはずだ。
早苗が自分に言い聞かせて、うんうんと頷く。
すると白蓮が声をかけてきた。
「早苗さん、私の間違いだと思うんですが、あの席の方って……」
「はいはい? あの席?」
「あれです、あれ」
VIP席の方を見てみると、神奈子がこちらに背中を向けて座っている席の、更に奥の方に、両側が角のように立っている金髪が見えた。
その人物はこちらのヒソヒソ話も聞こえた様子で、びくり、と体を震わせた。
相席の緑色の服を着た女性が、その仕草にフォークとナイフを置き、早苗達の方をちらりと見た。
「……あれ太子さんと奥さんですね。布都さんはいないみたいですけど」
「やっぱり……私、着替えてこようかしら」
「白蓮さんがそんなこと気にする必要ないでしょ? 向こうだってああやって食事してるんですから、そっとしておきましょう」
「そうですかねえ……でも挨拶ぐらいはした方が良いと思うんですよねえ……」
二人のやり取りを、お空は面白そうに見ていた。
そのお空が、太子が席を立ってこちらに来るのを、二人に教えた。
「こっちに来たよ」
「仕方ありません……蒸着!」
「おお!」
席を経った直後に着替えが完了した白蓮へ、お空や他の客がが惜しみない拍手を送る。
そうこうしている間に太子がこちらのテーブルまでやって来た。
「ご存知だと思いますが、私が豊聡耳神子です。顔を合わせるのは初めてですね、聖尼公」
「ご丁寧な挨拶、ありがとうございます。聖白蓮です」
ペコペコとした大人な挨拶が、無事に終わった。
と思いきや、太子こと神子が白蓮の腕を掴んで、引っ張った。
「ちょっと来てもらえますか?」
神子が白蓮を連れてきたのは、厨房だった。
そこには布都と、それに妖夢までいて、心配で付いてきた早苗は目をぱちくりさせた。
「おや、我が弟子ではないか」
「布都さん、いつ早苗さんを弟子にしたんですか?」
「いやあ、最初はからかい半分で術を教えてたんだが、筋が良くてなー」
「早苗さんはノリ良いですからねー」
ははは、と、和気藹々さを醸しだす布都と妖夢。二人は共にエプロンを付けて、手には包丁を持っていた。
「もしかして、お二人がここの料理を?」
「その通り。太子様が復活したとはいえ、我は幻想郷のことをよく知らんでな。勉強を兼ねて、妖夢殿に仕事を世話してもらったのだ」
「私も元は閻魔様に世話してもらったんですけどね。余った料理は幽々子様に持って帰れるんで」
「なるほどー」
早苗が納得していると、逆に布都が聞き返した。
「それで、太子様は何をしておられるんだ? 今日は屠自古から食事に誘われたはずなのだが」
厨房の隅の方で白蓮と話をしている神子は、布都の目から見ても不審に映るようだ。
話といっても、口を利いているのは専ら神子で、白蓮は困った顔をしながら相槌を打っている。
早苗と布都、それに妖夢の三人は厨房のテーブルの陰から近付いて、聞き耳を立てた。
「……ですから、どうしてあなたはそんな気楽そうにしているんですか。私が馬鹿みたいじゃないですか。こっちは復活してこれからだーってときなのに。あなたの星輦船と布都の岩船が波動砲撃ち合うぐらいの展開が普通なんじゃないんですか? だのにこんな所で……」
グチグチグチグチ……愚痴以外の何物でもなかった。
「意外な一面ってやつですね」
「いやあ、太子様は昔からご苦労が多いからなあ。特に蘇我のことで」
「奥さん?」
「というか、蘇我氏全体だな。太子様も蘇我の血が流れているわけだが、何から何まで、自由が利かなかったからのう。その分、仕事に目を向けられてあれだけの業績を残したわけだから、これも天理というものだろうか」
ともあれ、復活した先にまで屠自古がいたのは太子も結構ショックだったようである。
長年連れ添った相手なので愛情はあるのだが、苦手意識は克服できていない。
「馬子なんぞ、太子様が女子だと知った上で娘と結婚させたからなあ。系譜までいじって息子をでっち上げたし、屠自古もそれに協力したしで、辟易してしまったんじゃろう」
「そうペラペラと歴史的に重大なことを話さないでください」
「ああ、そうか? 最近の女子はウブだのう」
そういう問題ではないのだが、黙ってくれたので良しとする。
改めて問題の二人の方に注意してみると、神子が鼻水を啜り始めていた。
「……初めて戦場に出たときも本当は嫌だったのに……ぐず、馬子が……ぐず、怖かったから……私、一所懸命、仏像彫って、気持ちを紛らわして……ぐずぐず」
「大変だったんですねえ」
すっかりカウンセラーと化している白蓮である。聖徳太子まで素直になるとくれば、もうそういうオーラが出てるとしか思えない。
早苗は感慨深いものを覚えていたが、背中に気配を感じて、振り返った。
「あっ」
立っていた、というよか、浮いていたのは、待ちに待たされていた屠自古だった。
表情は普段と変わらないが、身体中からビリビリとした電気が発せられており、触っただけで爆発しそうだった。
「おお、屠自古! 我の料理はどうだっぎゃああああああああああああ!」
言った傍から、布都が吹っ飛んだ。
流石に今のはフォローしようがないので、早苗は妖夢に布都の片付けを任せて、自分が屠自古の前に立った。
「邪魔をしないでもらおう。我は夫に用事があるのだ」
「その旦那さんのプライベートな相談ごとです。たとえ奥さんでも、邪魔はしちゃいけません」
「何……?」
片眉を釣り上げて、いかにも不快そうだ。
「どんなに大事な相手からでも、逃げたくなるときが誰にだってあるんです」
具体的に名前は出さなかったが、早苗なりに本気で言っていた。
その本気が伝わったのか、はたまた馬鹿らしくなったのか、屠自古は肩を竦めた。
「久々に、子が欲しくなってしまった」
そんなことを言って、屠自古は厨房から出て行った。
ウェルダン状態の布都を雑巾で拭いてやっていた妖夢は、自分が頭を掻いた。
「あの方も、結構ひん曲がってそうですねえ」
その妖夢を押しのけて、神子が早苗の手を、がっしと握った。
「あなたこそ、この国を統べるに相応しい方だ! 私を摂政に! いや、関白に! 実務経験ならある!」
「あなたの場合、まず亭主関白を目指した方が……」
早苗の言葉は、神子のキラキラとした目の輝きの前では、あまり効果が無さそうだった。
太陽光が失せ、暗闇の中にライトアップされた地霊殿をアパートの部屋から眺めながら、二人は最後の夜を過ごしていた。
早苗は下戸だったが、今日だけは飲もうと決意して、地底で醸造した白ワインを買ってきてあった。
苦手なものほど、気分次第で感想が変わる。ワイン自体の出来も良かったこともあり、早苗は後悔した。
「地上に戻ったら、白蓮さんとこうして飲むなんてことも無くなるんでしょうかね。だとしたら勿体無いことしたなあ」
「あら、私は誘っていただければいつでもご一緒しますよ。寺にいる方々も交じってしまうかもしれませんけど」
他愛の無い会話でも、二人は自然に笑い合えるようになっていた。
しかし、お互いに役目があるのは確かなのだ。
早苗が白蓮と共に目で頷き合う。
その間に何人も立ち入ることはできない……はずだったのだが、バヨヨーンとスキマが開いて、八雲紫が顔を出した。
「おこんばんはー……って、そんなに白い目を向けなくても良くない?」
「いいから用件があるならさっさと言ってください」
「そうですよ」
「あら冷たい。いい知らせだと思うんだけどなー?」
焦らそうとする紫に対して二人が口端をピクピクさせ始める。
そんな二人の前に、A4サイズの書面が二人分出された。
「お知らせ?」
「幻想郷管理部からの?」
書面の頭に書いてあるものを、そのまま読み上げる。紫は自分がスキマから出したグラスで、ちゃっかり白ワインをやっていた。
「あ、それ私が閻魔とかから委託されてるやつね。本当は私が発起人なんだけど、ほら、お役人って下についてやりさえすれば安心するじゃない? だから――」
語り始めた紫を無視して、二人は書面に目を通す。
『現在、聖徳太子一味が復活したばかりということもあり、次回異変時の自機及びボス候補について意見が割れております。これについてある程度の結論が出るまで、これまで実力を遺憾なく発揮されてきた皆さんに、地底振興の目的もあり有給休暇扱いでのバカンスを提供します。なお既に自ら休暇を取得された方々にはボーナスを支給し――』
そんなようなことが、長々と書かれていた。
要するに、
『お前ら最近目立ってるからちょっと大人しくしとけ』
というお知らせである。
地底に妖怪を押し込めた張本人がこのような文面を書いているのだから、恐れ入る。
「あの、もしかしてこれ、神奈子様に……」
「ああ、うん。昨日の内に見せに行ったわよ。『そういうのは早苗に見せたほうが早いから』って追い返されちゃったけど」
――なるほど、それで落ち着かなくなって、あそこまで来たわけか。
神奈子の茶目っ気に、早苗は愉快さを抑えられない。
白蓮は白蓮で、紫に訊ねた。
「このボーナスって、具体的に何なんです?」
「押し売り避けの結界札」
「地味に欲しいですね、それ」
地底は結構、がっつりしたのが多いのだ。
紫は自分のアイディアが喜ばれたと思って、その場で白蓮に札を渡した。
「それじゃあ、良い夜を。おやすみなさい……」
ワインの香りを漂わせながら、紫が消え失せる。
再び二人きりとなって、部屋は静かになった。
「何だか、帰ろうって気が挫かれちゃいましたね。太子さんだって、昼間の調子なら大丈夫そうだし」
「そうでもありませんよ。今はまだ復活して日が浅いですから、それで不安定なだけです。あの方ならきっと――」
白蓮は言いかけて、それでは分が悪いことに気付いた。
ただ、レストランに残っていたお空の話では、神子との食事を楽しみにしていたと屠自古がお空に漏らしていたそうで、人情に後ろ髪を引かれる思いがしたのだった。
そんな白蓮のことが、早苗は気に入っていた。
「白蓮さん、本当に誰でも助けちゃうんですね」
「そういう早苗さんだって、あのときは格好良かったじゃないですか」
「あのときは?」
「おや、私としたことが」
二人は笑うだけ笑った。その日、ワイン以外もしこたま飲んだ。
この奇跡のようなバカンスは、まだまだ続きそうだった。