∴パチュリー・ノーレッジ著
この文書はいわゆる花見において聞き及ぶ限りにおいて、その脅威を顕現する試みによって書かれるものである。これを読む者に求められるのは、他人の図書を返す程度の誠意であり、注意されたし。
花見とは一般的に、春に開花する桜を見るために人々(以下、この語には妖怪等も含む)が出かけることを指す。これについては人間と妖怪の差異は見受けられず、花見に出かけない者に対する中傷もそうである。
花見においては主に酒や肴が供され、参加した者は消費し尽くす。これによる土地の一時的占有は通行人に多大な迷惑を与えるが、ほとんどが看過される。
それは花見、引いては桜そのものに好意的な解釈が為されているためであり、極端な例としては、冥界は西行寺邸にて発生した大規模な桜の開花すら、人々の口に優雅であると言わしめたことが挙げられる。我が親愛にして最悪の友人であるレミリア・スカーレットの従者及びその他が多大な労力を費やして事態の収拾を図ったというのに、その者達ですら花見に参加する始末だった。おかげで私は、友人の気を引くためにミニチュアまで作らざるをえなかった。
参考として過日に催された花見について記す。参加者は把握しようとするだけ詮無いことだが、必要があればその姓名を記そうと思う。素性が判然としない場合は便宜をはかる。
催されたと先に書いたが、これは正確ではない。私が旧知の霧雨魔理沙に半ば強引に連れ出された時点で博麗神社には十名を超す者が集まっていたし、博麗霊夢が愚痴ったところによれば、花見は一週間近く連日泊り込みで続けられていたからだ。
内訳は圧倒的に妖怪が多く、着替えや酒の調達といった雑事で一時的に抜けても、しばらくしてまた戻るを繰り返しているらしかった。
私の体で他の者にまともに付き合っていてはもたないため、神社の庭に面した部屋を借り切り、使いの者や友人の従者の手によってとりあえず必要な本を運び込ませた。時折、簡易の更衣室や休憩所として使われるのは、我慢しなければならなかった。
霊夢は花見に参加している連中を見ていると殺意が湧くらしく、最初こそ私と時間を共にしていたものの、陰気がうつるといって出ていってからは、たまに様子を見にくる程度だった。
こうして二日間はそれなりにやり過ごすことができたが、魔理沙が暗い所で本を読んだら目が悪くなるだのと難癖をつけ始めてからはそうもしていられなくなった。また、私の使いの者が本の管理が行き届かないことを進言してからは、私も腹を括らざるを得なくなった。事実、何冊かの本が紛失していたからだ。
私は最低限これだけはといえる本を除き、全て図書館に引き上げさせると、友人が陣取っている花見会場の一角に与った。木々の間に布を掛けて日除けにしてあり、抜け目の無いことに、紅魔館から屋外用のテーブルなどを持ってきていた。おかげで私はそれなりに快適に時間を潰すことができたが、いかんせん、花見の終わりが見えてこない。
八雲紫と西行寺幽々子が中心となっている場所では、やかましいやら鬱陶しいやらの音楽を奏で続ける連中がいて、そこだけで三十名強もの有名無名の妖怪が集まっており、ここが最大の勢力であるようだった。
他の場所では、寝ているのだか起きているのだか、たまに何事か口走っては酒を呷る者が集まっていた。そこら辺りの者達に見覚えは無かったが、霊夢などが傍を通ると絡まれることから、近頃に知り合った仲であるらしかった。
時間の感覚を維持できている者は少なく、私も四日目を過ぎてからは怪しくなっていた。そもそも、何のために集まっているのだかわからなくなっている者までいた。
そうした異常な空間の中にあって、霊夢と魔理沙、それに友人の従者である十六夜咲夜、ついで藤原の某だけは、思い出したように桜を見上げることがあった。幽々子は桜を見るというより、それを見る者を見定めている風であった。
結局、私が覚えているのはそれぐらいで、いつの間にやらお開きとなった会場から、体調を崩しつつ帰宅した。
以上の体験を踏まえて、私はこの文書をまとめている。
文献によれば、桜はバラの仲間であるとされる。その花弁の量と華やかな開き方によって見目麗しいことから、なるほどバラと共通する点も多い。
花としての桜はともかくとして、人々が持つ桜に対する思想・憧憬について掘り下げたい。この場合、妖怪をその基とすることは彼らの文化的背景の曖昧さ故に難しく、調べたところで説得力に欠くため、人間を俎上に乗せなければならない。
人間と桜に関する記述は千年以上も前の文献からも知ることができる。それらにおいて、ときに吉兆ときに凶兆として、都合良く使い分けられている。それというのも、人間と桜との関係が長きに渡ったことによって一種のパラダイムが形成されてしまい、人間はこれを崩そうとはしないからである。それだけならまだしも、桜に関わる自分達の行為を正当化しようとさえする。
特に東洋においては、桜は軍事・政治の両面の象徴とされ、現在も幻想郷の外ではそうした行いを助長する形で桜が利用されている。
こうした信仰にも近い思考が形成されることにより、桜の存在そのものが人間の行為全般を後押ししかねない魔性を持つに至る。桜に力を与えたのは人間であるとすら言える。
桜の魔性については、先に書いた西行寺邸が良い見本である。この西行寺邸に住む西行寺幽々子については詳細の不明な点が多く、その因縁等々については機会を改めざるをえない。しかし、この幽々子とその従者である魂魄妖夢の生活態度全般から桜が如何に危険なものであるか、納得してもらえるだろう。
話によれば、西行寺邸の広大な敷地にある木々の大半が桜とのことだが、これを妖夢は一人で手入れしているらしい。その生活たるや惨憺たるものであり、性格も相当ねじれてしまっている。人を見るや斬りかかる一方、主人の前では貞淑を装う二重性は精神的な境界面の分裂を促す要素が桜にあると見るに十分である。
幽々子ともなると破壊的というよりも破滅的ですらあり、自らの肉体を失った現在にあっても、目に付いたものを片っ端から食い漁っている。先日、本館の食料庫も被害を受けたが、門番の食事を半年に渡って抜きにすることで何とか整理がついた模様。光合成でもすれば何とか生き延びられるだろう。
このように様々な者に対して脅威となる存在を生み出す桜の魔性が人間によって形成されたと思うと、なかなかに興味深い。誰かを桜の下に埋めてみても良いかもしれない。
これは他の文書よりも後に記している。
たまには何もせずに過ごしてみたいと言っていた門番の気持ちを酌んだ私は、咲夜の手を借りて門番の首から下を近場の桜の木の下に埋めることにした。以降、三日毎に状況を確認した。
咲夜の回復を待って彼女に詰問。いつものように門番を適度に刺激していたら、アドレナリンの臭いがすると叫び、穴から抜け出たという。取り押さえようとしたが攻撃が当たらず、あろうことか不意に反撃されて昏倒してしまったとのことだった。門番は実験における記憶が無かった。
桜は興味本位で手を出せない代物らしいことを後々の教訓とする。
ここからは推論であるが、妖怪についても触れておこうと思う。
大多数の妖怪はただ単に騒ぎたいからという理由だけで花見に参加するが(皮肉なことにそれは人間の考えと等しい)、そうした無意識の行動から妖怪の人間に対する指向性を考察することも可能である。
必然性については妖怪ごとに事情はあれど、人間を食すという行為自体は共通している。――はずである。それというのも、私はそうした状況を目にしたことが無いからだ。これでは幻想郷に住んでいる甲斐が無いというものだが、そんなことで外出するのも億劫である。
友人は吸血鬼だというのに、全く人間を食している様子が無い。それどころか、血ですらほとんど飲まない。あれでは吸血鬼というよりもダニや蚊の類だ。
もっとも、人間が食すようなものから栄養を摂取できるのも確かであり、命を犠牲にすることによって自身の糧としている点では共通しているのだから、特筆すべきことでもないのかもしれない。しかし、それでも妖怪が人を食さないというのは真に不思議である。
実態として食している様子が無いのだから、それを不思議と思うのは本末転倒であるが、私は個人的に抱いたこの疑問をこの際にやっつけてしまいたい。
ここで花見に話を戻すが、妖怪が花見に参加する理由(そうする衝動というべきか)には、弾幕ごっこにも見られるような、人間との文化的接触を欲する目的があるのではないか。
食べる食べないというのも、知的生物にあっては文化的側面を持つ。これに抵触することは妖怪が人間臭くなってしまう危険性を孕んでいるが、それを自覚した上で妖怪としての本懐を忘れず、かつ能動的に人間と接触するに、花見や弾幕ごっこ等、一種の現象にまで昇華された催しを利用しているのではないだろうか。
本来の桜が人間によって変容した。
返す返すも残念なのは、人間や妖怪がそれを深く意識していないことだろう。
せめて、この文書によって花見の意義を考え直す機会としてほしい。