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錆と土と血

 雪から融け出した水が土と混ざり、生温い空気に頭を持ち上げ、うろついている。その匂いは、錆びを嗅いだような按配だった。
 しかし、私が屋敷の中に篭っているのは雪解けの匂いが嫌いだから、という理由だけによるのではない。春が訪れたとはいえ、空は未だに重く、快晴は人を騙す。一時の天気が信用ならないのは、彼の世でも同じだった。
 庭木にかけた囲いを外すにしても、数が数だけに、慎重にならなければならない。気を逸らせるわけにはいかなかった。
 朝。空気が重い内に、屋敷の一角にある座敷から庭へと、埃を追い出した。冬の間、この座敷に手を入れたことは一度も無い。必要が無かったから、というのもあるのだが、暇なときのためにそうしてあるといって良い。師がいた頃は、まるで楽しみをとっておく子供のようだとからかわれたりもした。事実、子供だったし、自分ではまだ子供だと思っている。
 座敷は十六畳ほどもあり、縁側も近く、天気の良い日に寝転がるには調度良い造りだったが、私がそうしたことは一度も無い。
 大きな箪笥が、座敷の壁の一面を隠している。これがために、座敷には常に圧迫感があった。
 箪笥には大小様々な抽斗《ひきだし》があり、それぞれに金属製の取っ手と鍵が付いている。問題は鍵にあった。
 箪笥、抽斗、どちらにも鍵穴は無い。では南京錠のようなものがあるかといえば、そうでもない。そもそも、鍵自体が独立していない。
 鍵は箪笥と一体であり、すなわちカラクリ箪笥なのだった。
 仕掛け自体は簡単なもので、箪笥の横側から出ている紐を引っ張ると、幾つかの抽斗の鍵が開く。このときに開く抽斗の数と種類はいつも同じで、残りの抽斗は、最初に鍵が開いた抽斗を取り出し、その組み合わせによって開くのである。後はこれを繰り返せば良いのだが、これが簡単ではない。
 なんせ座敷の壁を埋め尽くすような大きさの箪笥である。奥行きも相当なもので、抽斗を引っ張り出すだけでも一苦労だ。
 加えて、鍵の開け閉めに必要な組み合わせの数が尋常ではない。右の隅が開いたかと思えば、今度は天井近くが開いたりする。私の小さな体では、ウサギのように飛び回るハメになってしまうのだった。
 小刻みな運動によって汗だくになっていると、今度はどの組み合わせまでを試したかがわからなくなってくる。幸い、横の紐をもう一度でも引っ張ると全ての鍵が閉まるようになっているのだが、これがまたいやらしい。引っ張りたくても、これまでの苦労を考えるとなかなか引っ張れないのである。
 師からこの箪笥の管理を任されたときは以上のような苦労のし通しだったのだが、一つ一つの抽斗に、それまでの組み合わせのメモを入れておくことで、大分楽になった。
 半分ほどの抽斗を自由に開け閉めできるようになった頃だ。一人きりの戦いに、思わぬ加勢が加わった。それは、生まれて一度も顔を見たことの無い、父のメモの数々だった。
 それらは丁寧に折り畳まれ、伝来の晴れ着や陶器と一緒に収まっていた。
 父の筆遣いはとても綺麗で、こういった仕事に慣れていたことを私に伝えた。
 もっとも、これらのメモが父のものだという確たる証拠は無い。もしかしたら師が書いたものかもしれないし、幽々子様が遊び心から書いたものかもしれないのだ。私はただ、自分を助けてくれる存在に父という名を与えただけに過ぎない。それで充分だと思ったからこそ、私は師や幽々子様にこれらのメモについて問い質したことが無いのだった。
 さて、『父のメモ』によって一通りの抽斗を開けられるようになったわけだが、そこで思わぬ障害に行き当たった。開けてしまうのは勿体なく思えるようになったのだ。
 かといって、中に収まっているだろう、まだ見ぬ貴重な品々の手入れを怠るわけにはいかない。
 だから私は、庭仕事をすることができないとき、一つだけ新しい抽斗を開けるという制約を自身に設けた。庭仕事ができないときというのは、大体が季節が変わる前後であったから、計算してみると私が二十になるかならない頃には全ての抽斗を開け終えられることがわかった。
 一つ一つの物品は梱包されていたし、この箪笥もただいやらしいだけではなく、しっかりとした造りで、今まで一度も中の品が傷んでいた例しは無かったから、この制約があっても差し障りは無かった。
 制約を設けた上で箪笥と向き合うようになると、日々の愚痴や迷いを忘れることができることに気が付いた。まるで抽斗の中に私の想いの数々をしまい込んでいるような錯覚に囚われることもあった。
 この度においても同様であった。私は午前中を丸々使って、今までに発見した物品の手入れをしては抽斗に戻すという作業を繰り返し、ときには後々の予定のために脇に置いたり、代わりの品を入れるなどした。
 肝心の新しく開けた抽斗には、茶器一式が納められていた。幽々子様は時折、『たしかこれこれこういったものがあったはずだ』と物欲しそうな目をして私に言うことがあったが、この茶器もその一つであることを私は思い出した。
 一緒に入れてあったメモには、幽々子様がこの茶器で客をもてなしてばかりで困るから、滅多に取り出してはならないとの旨が書かれていた。
 父よ、おかげで幽々子様はお酒を頼るようになってしまいました。
 ……メモを相手に恨み言を呟いても仕方が無い。私は早めにその茶器をしまったのだが、途端、カチリという音が響いた。別の抽斗が開いたのだ。その抽斗も、一度も開けたことが無いものだ。私は制約を破ってしまうことを恐れたが、そのとき廊下から声がかかった。
「もうお昼よ」
 心底お腹が空いて死んでしまう、と実に白々しい亡霊の顔をしている幽々子様に昼餉の支度が遅れてしまったことを詫びていると、その間に幽々子様はすうっと、たった今に鍵が開いた抽斗の前に移動した。どうやら、鍵が開く音を聞いていたらしい。それだけでこれだけある抽斗の中から正確な位置を割り出すのだから、大した地獄耳だ。
「幽々子様、この箪笥は私が任されているものです。幽々子様のような方が触るようなものではございません」
「ああ、こんなところにあったのね」
 人の話を聞いてください。他にも言いたいことはあったのだが、何か幽々子様に縁のあるものが出てきたらしく、私はつい後ろから覗き見てしまった。拙いことに、その様子を幽々子様に見られてしまったから始末が悪い。
 幽々子様は口の端を緩めると、体を横にずらした。抽斗の中には、包んであった紙の取られた、節句用らしい小さめの兜があった。角飾りも雄々しいというよりは可愛らしいものだ。
「また随分と脈絡の無いものが出てきましたね」
「まぁ、妖忌のすることですもの。深く考えもせず、こんなものをもらってきちゃって。妖夢が女の子だって知った途端、恥ずかしくてここに隠しちゃったのよ」
 そう言って、こんな顔だったと表情を作って私に見せる。どう見ても、不機嫌そうな顔なのだが……それだけに真実味があった。
「ということは、これは私のために師が用意したものなのですか」
「そのようなものよ」
 幽々子様は顔を元に戻し、また昼餉の催促を始めた。私はすぐに用意するから居間で菓子でも摘むよう頼み、その場を済ませた。
 また一人きりになる。私は兜を手に持ってみたが、私の頭でも、被れそうになかった。
 ふと、廊下の向こうに広がる空を見上げる。
 雲は少なく、動きも遅い。雪解けが済み、すっかり安定した、春の空模様だ。
 暇を潰す時間は、あまり残されていないようだった。


   ******

 手早く座敷を片づけた私は、ため息を吐く時間も惜しんで勝手場へと走った。急ぎすぎたために、座敷の障子を閉めるときにうっかり自分の半身を挟んでしまい、軽い立ち眩みが私を襲った。
 調理と食事を終えた頃には私の頭から兜のことはすっかり忘れられていて、午後の時間は刀の手入れに費やすことにした。そうして、刀の鍔や柄を外し始めたときに兜のことを思い出したのだが、今更に兜のことに立ち戻る気は起きなかった。

 刀といっても、師から受け継いだ楼観剣と白楼剣は鞘に収めて横に置いたままで、手入れが必要なのは一般的な日本刀だった。
 これは銘も無いような野太刀で、師が保管していた何振りかの中から気に入ったものを選べと言われ、そうしたときのものだった。
 この刀を、修行や手入れ以外で抜いたことは無い。元々、そのために用意されたものだが、私には思い入れがあるものだ。
 そも、楼観剣と白楼剣は、もはや刀とは呼べないような代物なのだ。気を入れて振れば思うように弾や帯が走り、刃を沿わせただけであらゆるものが真っ二つ。何よりも特異なのは、綻びも錆びも生じないという、刀それ自体が化け物なのではと思わせる点だった。
 刀ではないならば、ただの刃物でしかない。以前に何度かあったような、取り急ぎ解決しなければならない事態が起こり、役儀を果たす必要が生じたときの他、木々の剪定にまで使っているのは、刃物以上に扱う気が私には無いからなのだった。ときには大根を漬物用に切り分けるときにまで使っていると聞けば、それほどまでにと余人は納得していただけることだろう。
 たっぷり一刻半を刀の手入れに費やした。組み立てた柄を握り、案配が狂っていないかを確認すると、一度鞘に収め直し、それから軽く抜き振るった。
 米が擦れ合うときにするような音がしたかと思ったときには、既に振り終えている。再び鞘に収めると、閉め切った自室に鉄の匂いが漂った。
 いつか、この刀も雪解けの頃の匂いがするようになるのだろうか。そう思うと、何やら妙に疲れてしまい、私は幽々子様のいる居間へと向かった。

 私が居間に入ったとき、幽々子様は卓袱台に肘を付け、足を投げ出した格好で庭を眺めていた。自らの美しさを崩さぬようにしているとも見ることができるし、眠たいのだろうかとも思うことができる。
 余程に気を遣っていたのか、幽々様は視界に入るまで私には気が付かずにいた。私が座ると、あなたも食べるかしら、と草餅を勧められた。
 たまに思うことがある。幽々子様は大食らいなどではなく、そうすることで私を安心させているのではないか、と。
 そう思うようになったのは、幽々子様の数少ない御友人であらせられる、あの紫様のご様子に気付くことがあったからだ。
 あの紫様が、幽々子様が食べ散らかしている様を見るときにだけ、困ったような顔をされるのである。
 人を困らせるのを生き甲斐としている、あの紫様が、あの八雲紫様がだ。
 錆びぬ刀は刀ではない。では、生きていない人はどうなる。
 それを思うと、私の喉は詰まり、草餅も口の中で転がされるだけ。ああ、困ったことに気が付いてしまったものだ。
「あのあの言う義理があなたにはあるのかしらね」
 突如、スキマを割って現れた紫様の一言に、私は餅を喉に詰まらせた。一方、幽々子様は紫様の来訪が嬉しいらしく、あなたも食べるかしら、とお決まりの台詞を吐いている。そして、困ったような顔をする紫様。
 お願いだから誰か、困っている真っ最中の私の背中を叩いて!
「失礼」
 紫様はそう叫ぶと、のたうち回っている私を思いきり蹴飛ばした。
「びざんちん!」
 みょんな声を漏らし、障子の角に頭をぶつけながら、縁側にまで私は転がった。頭は痛むが、幸いにも餅は喉から下に落ちたのだった。
「妖夢はいつも楽しいことは自分だけで済ませちゃうのよね」
「あら、駄目よ。そういうときは今みたいに躾をしないと」
「私は紫みたいにできそうにないわ」
「たしかに、あなただったらあのまま死ぬのを眺めていそうよね」
「もう、意地悪」
「私があなたに意地悪なんて言うはずがないじゃないの。本音よ、本音」
「ああ、言われてみればそうねぇ」
 素直に微笑ましいとは評せない会話を聞きながら、私は緑茶を喉に流し込む。
 地獄は生きている間にこそある。私はそう思った。
「ところで紫、急にどうしたの?」
 言って、紫様に勧めたはずの草餅を頬張る。紫様は答えず、私に睨むだけ。まさかとは思っていたが、本当に心の隙間までわかってしまうらしい。それとも、そう思わせるつもりだろうか。どちらにせよ、食えない御方であることだけは確かだ。
「いいわ。来てくれただけで嬉しいから」
「そう言ってもらえると、私も来た甲斐があるわ」
「なんだ、私を蹴りに来ただけじゃないんですか」
 私が口を滑らせた瞬間、再び鋭い目つきで睨まれた。もう嫌だ。
「あの、私は片付け物がありますので」
 私が立ち上がると、幽々様も立ち上がった。皿の草餅はもう跡形もない。
「どうかされましたか」
「どうせ兜を見るんでしょう?」
 すると、紫様も立ち上がった。
「紫様まで」
「言わなくて良いわ。私にはわかっているから」
「さすが紫ね」
 ただ単に面白そうなことに食いついてきただけだと思うのだが、それは言わないことにした。廊下を歩きながら、幾分か丸まった背中を後ろの二人が見てどう思うかが気になった。そうすると、背中は余計に丸まってしまうのだった。


   ******

 手には刀。目の前には兜。おまけに頭には鉢巻き。
 正に業物試しの格好である。問題は、どうしてこんなことになったのかという、私の納得のいかなさ、それに尽きた。
 第一、この刀は先ほどに手入れを終えたばかりのものだ。洗ったばかりの便器に小便を引っかけるのにも似た億劫さが私にはあった。
「さあ、やってしまうのよ!」
 紫様はとても乗り気である。びゅうびゅう、と気楽そうに扇子を振り回している。その隣で、幽々子様は呑気そうにこちらを眺めつつ、縁側の陽当たりを楽しんでいた。
「本当にやるんですか」
 今一度、お二方に問う。紫様はつまらなさそうに腕組みをすると、賭け事の相談でもするように幽々子様に肩を寄せた。
「ああ言っているけど?」
 幾ばくかの間があってから、幽々子様は呟いた。
 やりなさい。
 そして私は、覚悟を決めた。

 剣が閃く瞬間というのは存在する。そうしたとき、剣客の前からあらゆる存在が消え失せる。陰や音、思考、そして匂い。
 気付いたときには、錆の匂いと、割れた兜だけがあった。
 刀は無事で、綻びすら無い。上手くいったときというのは、こんなものである。
 幽々子様から埃を取る紙をいただいて刀身を吹き上げると、私は刀を鞘に収めた。

「やあ、終わった終わった。それじゃ、私は帰るから」
「ええ?」
 紫様の気の変わりように驚いたのは私だけ。幽々子様は引き留めることせず、別れの言葉も無く、ただ頷くだけだった。紫様はそれだけを見ると、開いたスキマの中に消え入った。
「紫は気楽よね。でも、悪く思わないでやってよ。こういうとき、いつも来てくれるんだから」
「別に、大したことはしておりません」
 心にも無いことを言う。業物試しは、三回に一回は刀を駄目にしてしまうような難易度だ。我ながら、ただの刀でよくやったものだと思う。もしかしたら、銘は無いものの、大した一品かもしれない。
「妖夢、ちゃんと供養しておきなさいね」
「はあ?」
 意味がよくわからなかったが、紫様よろしく幽々子様もふらりと縁側を立ち去ってしまった。
 とりあえず、片付けよう。そう思って膝を地面に付けると、先ほどに使った紙を踏みつけた。そこには、文字が綴られていた。

  まだ見ぬ我が息子へ送る。今一時の余命を与えぬ天を恨み、また尊ぶ也。

 しばらくどうしてみようもなかったが、風が私を助けた。
 風は私の手から紙を奪い取り、私は咄嗟に刀を抜き払った。

「気の逸い御人だ」
 私の周りには錆びた匂いだけではなく、春の確かな気配が漂っていた。