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姫を鏡に映してみたら

 何人であろうと、何妖怪であろうと、現在の彼あるいは彼女に至るまでには、素養というのが重要だ。
 嘘吐きは泥棒の始まり、と言うが、これは端的ではあるにせよ真理に触れていると私は思っている。
 例えば、
「サボってる? いやいや、いつVIPが来られても対応できるように待機しておるのです。現に来られたじゃないですか。ほら、目の前に」
 こういうことを言う部下は、こうなる素養が以前からあったということになる。だからこそ私は、以前からの彼女も含めて罰するために、厳しくならざるをえない。
 私は彼女を強引に渡し舟に乗せると、櫂を取り上げてから舟を蹴って、離岸させた。彼女だけなら飛んで帰ってくるが、それでは仕事道具である舟が三途の河を漂流することとなる。
 櫂を私の所に取りに戻ってから再び舟まで行っても、そのときにはどことも知れぬ場所に舟は流されていることだろう。そのときは、彼女はその分まで罰せられることになる。
 そう、罰せられるのが遅いか早いか、それだけが人生、引いては寿命と言って良い。もちろん、どのように罰せられるかは本人が選ぶ。
 私、四季映姫の仕事は、それを判定することだった。
 もちろん、私も私自身の人生を選んだ一人に過ぎない。厳密には人とは言い切れない存在だが、生きている以上、同じ生き物を罰することに矛盾は生じる。
 渡しの仕事振りを巡察し終えた私を執務室で待っていた待朗は、お薬の時間です、と見慣れた錠剤と水を差し出した。
 この錠剤は強烈なもので、薬というよりは毒薬に近い。昔は閻魔という存在の矛盾を整合するために罰として鉄や鉛を飲ませたと言うが、今は概ね、この錠剤がその役割を果たしている。
 人間にわかり易く説明するとしたら、バリウムの強力版、と言ったところか。飲んで数秒もしない内に、呼吸も難しくなるぐらい、胃や腸が内側から圧迫される。
 性質が悪いのは慣れようが無いことで、まるで水の中に顔を押し込められたような状況を、毎日一度は味わうこととなる。
 これを初めて服用する者は、必ず拘束することになっている。それだけ苦しく、暴れるからだ。
 私も今でこそ服用した後、瞑想でもするかのごとく執務椅子によりかかって目を閉じてじっとしていられるが、初めの頃は机に突っ伏して爪を立てていたものだった。今でも、その跡が机に残っている。
 今でも変わらないことと言えば、目を閉じているとき、必ず瞼の裏を誰かの影が横切る。私はその人が誰か、知ってもいる。
 センセーショナルな言い方をすれば、それは私の、実の姉だった。


 私の家は代々、十王庁やそれに類する省庁の官吏を輩出している家柄だった。
 十王庁の歴史は古く、それを一々説明するつもりは無いが、元々の始まりは中国で言う唐の時代に当たる。色々と効率化や行政改革が進みはしたが、慣例上、官位や役職名は基本的にその頃からのものを用いている。
 私の家は、当たり前のように二品や三品に当たる官位と、それに値する役職を授っていた。特に閻魔については四代の内三代は我が家の者が務めていた。
 こういう家の場合、概して子どもの数は多くなる。優秀な者が出易くなるし、全員が全員それなりになれば、コネも広がるからだ。
 ところが私の親は二人しか子どもを作れなかった。姉と私、二人だけ。親が熱心に私らを、特に姉を、教育したのも仕方ないことだった。
 救いだったのは、姉が優秀だったことだ。優秀どころではなく、異常ですらあった。天才とは姉のような者のことを言うのだろう。
 教えた端から、いや教える前から、姉は物事を理解しているような節すらあった。もし私が上手く飲み込めないことがあっても、姉がすらすらと答えれば、父は機嫌を良くした。
 嫉妬の念は不思議と無かった。歳が少しばかり離れていたからだろう。髪も、野暮ったい私と違って、綺麗な色をしていた。私は姉を尊敬していた。崇拝さえしていたかもしれない。
 二人とも白黒をはっきり付ける素養があったから、姉が白で私が黒だ、などと冗談を言った覚えもある。姉はそういうとき、何故か苦笑いをしていた。
 その苦笑いの意味がわかったのは、姉が突然、家を出ていってからのことだった。
 後から知ったことだが、それは半ば破門に近い様相を呈していたらしい。父が姉の意見に呆れ、家を出したというのが、推移としては正しい。
 発端はいつもの父自身の手による教育のときだった。
「ある女が、良夫を殺した。女には他に好いた男がいたからだ。しかしその男にも妻子がおった。男に妻子との縁を切るつもりは無かった。また男は、女の良夫とも知り合いだったから、むしろ女との関係から身を引きがちになっていた。にも関わらず、女は良夫を殺した。そして日を置いてから、自身の子すら殺した。本来なら、相手の妻子、あるいは愛したのに自分を裏切った男を、殺すものだ。何故、女は自身の良夫と子を殺したと思う?」
 父の問いは説明こそ多いが、言いたいことは単純なものだと私は考えた。私は今日こそ姉より先に答えを出せたと思い、すぐに口にした。
「男を想う余りに、良夫と子が疎ましく思えたのでしょう」
「何故、そう思った」
「殺された良夫と子が憎いからこそ、女は手を汚した。そう考えれば、害を与えた側と害を被った側との関係が等しく一致します故、順当に罰することができます」
 父は私の答えに、口髭の端を指でいじった。喜んでいる証拠だった。
 もしかしたら、姉はもっと自分を喜ばせてくれるのではないかという期待も、父は抱いたのかもしれない。
 私よりもずっと長い髪をした姉は、そのとき髪でも重たいのか、億劫そうに首を傾げていた。
「次はお前だぞ」
「はい」
 姉の返事は毅然としたものだったから、何か考え事でもしていたのかと思っていた私は、肩を透かされた。
 何だ、今度も姉の方が良い答えを言うんだ。そんな風にさえ思ったが、今度は二度と来なかった。
「女は、男に会いたかったのでしょう。良夫、それに子を殺せば、男が葬式に二度も来てくれますもの。相手の妻子を殺したのでは、とても男に顔向けできません」
 厳格な父が唖然としたのを見たのは、それが最初で最後だった。父はすぐに我に返ると、姉を怒鳴り付けた。
「誰が冗談を言えと言った!」
「冗談ではありませんわ。ときには度し難い者を処さなくてはならないこともありましょう」
「しかし、それでは殺された側も、浮かばれまい」
「誰もが浮かばれるのなら、地獄など無くなりましょう」
 翌日、姉は父の前に現れなかった。父は私に、姉が家を出たことを告げた。


 姉は頭が良過ぎた。白黒をはっきり付けるには、あえて現実に折れ、事務的に処理する妥協も必要となる。誰もが納得できる、最小公倍数を見出すわけだ。
 姉は妥協をせず、真理を求められるだけの頭があった所為で、自身の将来の役職となるだろう、閻魔を否定したのだった。
 いやさ、何も閻魔に限らない。役職というのは全て、自己の立場と心中することになる。どんどんと前に進むことのできる姉には、無意味極まりないことだった。
 超えてはいけない一線など、あるはずもなかった。
 私が姉を許せなくなったのは、そのことが原因だ。姉は私の尊敬の対象であり、それは同じ道を志しているからこそだった。
 だが姉は、自身の志に生きたばかりか、そのために父や私の生き方を否定した。父は私が閻魔職に就く頃にはすっかり気骨が削がれてしまっていて、祝宴の際も、どこか胡乱な目をしていた。親は親なだけに、姉のことを理解しようとし続けた結果だろう。
 姉を理解することなぞ、誰にも出来はしない。私もそうだ。あの手の輩は理解しようとするだけ無駄だ。
 できることといえば、姉が私の前にひれ伏したとき、それは即ち審判のときだが、徹底的に私なりの罰を言い付けてやるぐらいなものだ。
 会おうと思えば、姉には会える。居場所はわかっているのだ。何をしているかも知っている。閻魔にはそれだけの権限と能力を有することが許されていた。
 だが、会ってどうする? 説教をくれたところで、姉にはかわされてしまうだろう。
 許し難い。
 度し難い。
 私はただ、姉を。

 ガリ。

 薬で昏睡していた私は、気付けば机に、爪を立てていた。
「誰か、誰かいますか」
 うわずった声を出してしまう。その誰かである待朗が、扉を開けて入って来た。
「どうかなされたのですか」
「……どうもしません。薬は終わりました。新しい書類を持って来てください」
「やはり、どうかなされたようですね」
 待朗は手首ごと、自分の腕時計を私の前に出した。
「もう定時を過ぎています」
「嘘っ」
「貴方様の前で嘘なんて」
 失礼にならない程度に、待朗が笑みを浮かべる。確かに時計は、既に定時を一時間近くも過ぎていた。
 薬の時間は午後の仕事が一段落付いたときというのが慣例だから、今日は数時間も昏睡していたことになる。
「何かしておられるのだと思って、声をかけずにいたのです」
 その間、帰らずに待っていてくれたのだろう。私は薬を飲んだときに机に置いておいた自分の帽子を一瞬だけ睨み、すぐに待朗に視線を戻した。
「御苦労様でした。どうもしませんから、貴方も気にせず、帰ってください」
「……僭越ながら、四季様のご体格では、あの薬は強過ぎるのではありませんか? 何でしたら、係の者に」
「どうもしないと言っているでしょう? 体に合わないから罰を緩めるだなんて、貴方はそんなに私を笑い者にしたいのですか」
「も、申し訳ありません。では、お先に失礼いたします」
 待朗が背中を小さくしながら部屋を出てから、私は握った拳を帽子に振り下ろした。
 十王庁の幻想郷管区は良い所だが、その分、他と勝手が違う。それでも彼女はよくやってくれていた。その彼女を私は、感情に任せて打ちのめしたのだ。
 案外、本当にどうかしたのかもしれない。精神的にではなく、体調面で、だ。近頃は小町の教育のために何かに付けて三途の河に顔を出していたから、その所為で体が冷えがちだった。
 幸い明日は丸一日、休みだ。実家にでも帰って、のんびり休もう。
 母の手料理のことを考えていると、帰り道は気楽になれた。
 だが実家に着いてみて、私は肩を落とした。屋敷には待中の者達が数人残っているだけで、両親は旅行に行ったと聞かされたからだ。
「また地獄谷の温泉にでも?」
「仰る通りです。『硫黄の匂いが俺を呼んでいる!』とか仰ってました」
「あの方はますます奇行に磨きがかかっていますね」
「そうですか? 私どもは今の旦那様が好きですが。奥様もそういったことをよく……」
「ああ、はいはい。わかりました。とりあえず二日間だけ厄介になりますから、お願いします」
 正直、今から社宅に戻る気はしない。あちらの待中には休暇を出してしまったという事情もある。今の会話で、疲れがぶり返してもいた。
 私はふらふらとしながらも、屋敷の廊下を歩いて、かつての自室へ向かった。待中達も主人が夫婦揃って出かけたということで屋敷のほとんどの明かりを灯さなかったらしく、廊下は薄暗かった。
 一々、火を灯していくのも面倒臭い。私は曖昧な意識で記憶に従って歩き、行き着いた先の部屋に入るや、すぐに寝転んでしまった。


「ひぎゃあああああああああああ!」
「わきゃあああああっ!」
 目覚めは騒々しかった。前者の叫び声は待中の、後者は私のものだ。
「何事ですか!」
「い、いや、てっきり、お嬢がぶっ倒れたもんだとばかり」
「自分の部屋で寝転ぶぐらい、よくあることでしょう?」
 まあ、背丈はともかく一応は良い歳をした娘が部屋の出入り口で寝ているのもどうかとは思うが。
 しかし待中が問題にしたのは、そこではなかった。
 ここだ。ここのことだ。
「ここ、姉上様のお部屋ですよ」
「はい?」
 上体だけを起こした格好で、部屋の中を見回す。ご丁寧に待中が手に持った明かりで、照らしてくれた。
 長らく使われた様子の無い座卓。よく整頓された本棚。これらは私の部屋にもあるが、微妙に形状や位置が違う。何より決定的だったのは、姉が父から授かった、山水画の掛け軸だった。
 これはただ年代物というだけでなく、風景の中に数学的象徴を用いた暗号を埋め込んであるとかで、姉の俊才を喜んだ父が苦労して手に入れた物だと私は聞いている。姉は受け取ったその日に掛け軸の秘密を解いたらしいが、私には未だにさっぱりだった。
 それはさておき、つまり私は、私がいるはずのない部屋で寝転んでいたことになる。いたとしても、長居するわけがない。それが寝転んでいるのだから、ぶっ倒れたと勘違いしても仕方なかった。
「もしかしたら姉が泥棒に入るかもしれないと思い、用心してのことです」
 嘘ではない。私は無意識でも、例えプライベートでも職務に忠実だ。そのつもりだ。だからふらふらした私が無意識に用心に用心を重ねてここに眠ったのだ。そのはずだ。
 というわけだから私は全く嘘は言っていない。
 私の態度に待中はあうあうと口を動かした。
「あ、姉上様が泥棒ですか。まあ縁は切られておりますから建前ではここに来たら泥棒ですが、それはどうかと……」
「それが油断というものです。それに貴方は、いつまでのあの人を姉上様などと呼ぶつもりですか」
「いやしかしですね」
「そんなだから私がこうして」
「参りました。参りましたから、夜食でもお取りになられたらいかがです?」
 時間はまだ夜の十時頃。それでも熟睡はできたようで、おまけにあの叫び声だ。目はすっかり冴えており、頭もすっきりしていた。
 もちろん、腹も空いていた。だがそれをはっきり言うわけにもいかない。
「ここに持って来なさい」
「はあ?」
「ここです。ここ。ここで食べるんですよ、私は。折角用心していても、少しでも目を離した隙に泥棒に入られたら、同じことです」
「入られる前提なのですか」
「そうです」
「なら、私が」
「それはいけません。例え縁を切ったとはいえ、これは一族の問題です。貴方に面倒をかけるわけにはいきません。それにどの道、あれが泥棒に入った場合、私がいなくては話になりません。貴方にあれの相手ができるのですか。できないでしょう? わかったなら早く、ここに夜食を持ってきなさい。ああ、明かりも置いていくように。それが貴方に出来る唯一のことです」
「ふうんむう……」
 納得したというより、困った感じで唸る。父は待中達にも厳格だったから、彼らもそこらの一般人より知恵があった。もっとも、私としては待中はただのイエスマンでいてほしい。
 当人も自分の立場を優先させたらしく、最終的には明かりを置いて、出て行った。しばらくして夜食を持って来てくれたので、私はありがとうと言って、労いの笑みを投げてやった。
 しかしどうしたことか、待中はきょとんとして、立ったままでいた。
「どうかしたのですか」
「いえ、何でもありません」
「正直に言ってごらんなさい。怒りませんから」
「嘘だ!」
「私を怒らせないでください!」
「もう怒ってます! もう怒ってます!」
 私は待中のすねを五回も蹴っていた。待中は蹴られた片足を抱え、ぴょんぴょんともう片方の足で跳ね回ってから、大人しくなった。
「で、どうしたのですか」
「脛を蹴られました」
「……もう一度それを言う勇気はありますか」
「ありません。すみません。もう言いません」
 律儀に三回言って、三回頭を下げる。私は夜食を摘みつつ、弁解を聞いた。
 が、聞かなければ良かったかもしれない。
 私は待中が出て行ってからも、ぼそぼそと不味そうに夜食を食べるはめになった。
 笑い方は姉上様とそっくりになられました。
 そんなことを、耳に入れてしまった。
 あの待中は姉の世話をよくしていた者だったことを、私は失念していた。私が寝ているのを発見したのも、未だにここの見回りを欠かしていない彼だからこそだったのだろう。
 姉は頭は良かったが、生活は少しずぼらな所があって、よく遅くまで起きていた。頭が良いからこそ、思索を始めると止まらなかったのだろう。それであの待中は、姉によく夜食を持って来ていたということだった。
「笑い方ねえ……」
 顔に手を添えて、自分がどんな笑い方をしたのか確認する。しかし、姉の笑った顔とやら自体がよくわからなかったことが、よくわかっただけだった。
 姉はいつもどことなく微笑んだような顔だったから、表情の変化が記憶に残り辛かった。
 反面、私はいつも怒ったような顔だ。子どもながらに、姉と差を付けようという心理でも働いたのかもしれない。
 もっとも、最大の差は姉自身が付けてくれたわけだが。
「まったく、あの人のことを考えると飯も不味くなりますね」
 ぷいっと顔を背けた先には、あの掛け軸があった。
 大体、あんな掛け軸を見ながらでも微笑んでいられるのが理解できない。山の頂は変な方向に湾曲しているし、シミなんだか意匠なんだか判別し難い点描もある。川は下っているようでいて上っているようでもあるし、飛ぶ鳥は落ちているようでもある。
 なるほど。私は行儀悪く、箸の先を打ち鳴らした。
 この山水画は姉そのものなのだ。
 しかし待てよ。私は残った漬け物を齧りながら、首を傾げた。
 これは父が姉に授けたものだ。姉はそれを見て育った。そして父に逆らい、家を出た。どうも矛盾している。
 矛盾を整合させるには、罰が必要だ。姉はいったい、どんな罰を自分に課したのか。とてもではないが、そんな節は現在も無さそうだった。
 とはいえこの山水画は数学的意味合いがどうこうとかいう代物だ。全く姉の素養に影響をもたらしていない可能性もある。
 それでも私は、慣れ親しんだ罰の概念に気を取られ続けた。魅了された。さながら、姉の残滓に。かつての自分がそうだったように。
 かつて? 今もではないのか。
 核心に触れたとき、すっかり噛む物が失せた奥歯が、強かに噛み合った。
 私は頬を擦ってから、待中が置いていってくれた茶を啜った。今夜は寝られそうになかった。
「夜更かしはお肌に悪いわよ」
「ぶっ!」
 私は盛大に茶を噴き、咽た。背中をとんとんと叩くのは、どこからともなく現れた姉、その人だった。
「何をしに来たんですか!」
「しーっ。大きな声出さないの」
「……何をしに来たかと聞いているんです」
 それでも声を潜めてしまう自分が、情けなかった。
「別に何だって良いじゃない。何でもかんでも白黒はっきり付けてたら、余計お肌に悪いわよ」
「ああ、なるほど。それで貴方はお肌が未だに曖昧なんですね」
「貴方のそういう所、私は苦手だったりするわ」
「その言葉、そっくり返させてもらいます」
 別に苦手で結構だった。その方が都合が良い。
 ……何の都合だろう。私は口元をハンカチで拭ってくれる姉の手を振り払うことで、余計な思索を片付けた。
「ちゃんとした形で会うのは、何年ぶりかしらね。いつも、ちらっと顔を見る程度だったじゃないの」
「さあ? 得意の数学的思考とやらで計算してみてください」
「そういうのは下の者に任せちゃったのよね」
「それでは今の貴方は、ただの残りカスですね」
「失礼ね。芸術的思考と乙女の心は健在よ。それだけあれば十分でしょう?」
 何が芸術的思考だ。乙女の心というやつも、単に自分の能力で取り繕っているだけに過ぎない。その能力は、一線を超えることで身に付けたものだ。
 姉は、白黒をはっきり付ける以上のことができるようになった。
 白と黒を曖昧にすることすら。
 それでも私は、はっきりさせたかった。
「貴方は、どんな罰を受け容れたのですか」
 唐突で、しかも端的な言い方だったが、姉にはそれで通じた。彼女はしれっとした態度で、答えてみせた。
「貴方に罰を与えてもらう、という罰よ。私は貴方に、それを与えたくはなかったから」
「なっ……」
 絶句した私を、姉は扇子で口元を隠し、笑った。胡散臭い笑い方だった。
「冗談よ、冗談。貴方の真似よ」
「貴方は少し、冗談が過ぎる」
 私に罰を与える側になりたくなかったから家を出ただなんて、冗談が過ぎるというものだった。
 でも一方で、そう思いたいと願う自分がいるのも、否定できなかった。
「真実という名の冗談もあるのよ。それが私の罰の側面かもしれないわね」
「いったいどっちなんです!」
「自分で考えなさい。その答えが私を罰するときを、私は待っているわ。埋め難いスキマに、潜みながら」
 それだけ言って、姉は私の飲んでいた湯飲みで茶を飲み干し、帰って行った。
 もしや、ただ茶を飲みに来ただけなのか。
 すっかり気を抜かれた私は、そのまま姉の部屋で寝入ってしまった。


 翌日、旅行から帰って来た両親と入れ替わる形で、昼過ぎに私は社宅に戻った。あそこにいると、また姉が顔を出すような気がしたからだ。
 姉の能力があればどこの空間にも顔を出せるが、そんなことはどうでも良かった。
 ただ収穫はあった。
 実家を出るときに父の顔を見た私は、ある考えに至った。
 姉が家を出た真の理由を、父は知っていたのではないか。あるいは、ある時点で悟ったか。
 それならば職を辞した後の豹変振りも納得がいった。
 また納得がいく考え方をしている自分を笑ったとき、父はあの待中のようにきょとんとして、何か言いかけた。
 私はその言葉を聞かないようにして、そのまま実家を出たのだった。
 社宅に戻った私は、門前で足を止めた。どうしたことか、小町が膝を抱えて座り込んでいた。
 片腕がやたらと白いのが、印象的だった。
「まさか、舟を手で漕いだのですか」
「ええ、まあ。どっちにしろ怒られるとは思ったんですけど、仕事道具を放っていくのも忍びなかったもんで。私の能力なら、ある程度は距離も縮められますし」
「それはそれは」
 私がふっと表情から力を抜くと、小町もまた、きょとんとした。すかさず私は、待ったの手を小町の眼前に掲げた。
「待ちなさい。何も言っては駄目です」
「へっ?」
「私の表情について何か口にしたら、私は貴方にとってのこの世を、地獄に変えるでしょう」
「いやいやいや、そんなことじゃなくてですね」
「知りません。私は知りません!」
「ちょっ! 映姫様ってば! ねえ、聞いてくださいよ!」
 私が社宅に引き篭っても、小町はまだ何か叫んでいた。しかし流石にしばらくするとそれも聞こえなくなり、私は自分で沸かした風呂に浸かった。
 浴室の鏡に自分を映しながら、私は笑ってみた。
 鏡というのも、ある意味で境界を曖昧にするものだ。どこまでが自分で、どこまでが鏡か。鏡に映った自分は、本当に自分か。物理的にはいくらでも説明は付くが、心理の機微を納得させるには、足りなかった。
 胡散臭い感じながら、確かに笑っている。鏡に映った自分は、そんな感じの柔らかい笑みだった。
「ああ、こんな笑い方だったんだ」
 その日の私は、良い夢を見られた気がした。


「映姫様、櫂、返して……」
 翌朝に憔悴した小町に門前で懇願され、私は苦笑いするしかなかった。