臭乳源
紅魔館全ての部署に戒厳令が行き届くまでの時間、僅か五分。あらゆる指揮系統は十六夜咲夜一人にその頂点を集約させ、唯一の出入り口である門は閉ざされる。
「んなアホな! 今日は満月じゃないのに!」
「愚痴たれる暇があったら視神経を切り替えろ、目を焼かれるぞ! 後は各自の判断に任せる! ――来るぞぉ!」
数秒後、その部隊からの連絡は途絶えた。伝令のために走った一名は無事であったが、そのメイドも膝が立たないまでに消耗し、役目を終えると地に伏した。彼女に視線を垂らすのはメイド長である咲夜だが、その口元は愉悦によって綻んでいた。
真の力を解き放ったレミリア。それが現在、紅魔館を大混乱に陥れている元凶である。とはいえ、それは定期的に起こっていて、その都度に咲夜や各部署長は人材の補填に苦労すれば済んでいた。しかし、今回は違う。本来、満月の晩にのみ発生していた騒動が、今日に限っては半月を明日に控えたという段階で始まってしまったのである。
戒厳令から各部隊への具体的な作戦命令が行き渡る前に、形勢は決していた。近衛部隊も役には立たない。なぜなら、彼女らはレミリアの本性の恐ろしさを誰よりもよく知っているからだ。触らぬ神になんとやら、彼女らはレミリアの変質の兆候を見て取ると、真っ先に門まで撤退し、外部から邪魔が入らないようにするのが精一杯である。
「まったくもう、毎度毎度……どれだけの部下を食い潰す気かしらね、あの御方は。全員、近衛部隊と合流。万が一の場合は館ごと爆破して、ってパチュリー様にお願いしてあるから」
司令部にて各所から飛んでくる伝令の相手をしていた部下達が、咲夜の命令を受けて引き上げていく。これで分散している部隊の撤退さえ完了すれば、館内には三名だけが残ることになる。三名? 咲夜が首を捻った。
「えっと、私でしょ、お嬢様でしょ……しまった、妹様がまだ!」
******
フランドールは退屈そうにベッドの上で足をばたつかせていた。近頃は魔理沙が新しい研究を始めたために週に一度遊んでくれるかどうかであるし、霊夢などはレミリアが出向くからか、はたまた単に出無精なだけなのか、館に寄りつきすらしない。パチュリーは誰かが(まぁ一人しか考えられないのだが)花粉を外から図書館に持ち込んだ所為で花粉症が再発、死にかけている。
「ちくしょう、ここもだ!」
「もうこの棚は駄目だ!」
そんなわけで現在、図書館は焚書ぎりぎりの花粉退治で大忙しである。いっそ王蟲に突撃でもされたほうがマシな状態かもしれない。
あれやこれやと思い出して気を紛らわせてみようとするものの、退屈には敵わない。一時期、退屈を破壊できないものかと実践してみたが、そもそも退屈という概念自体が曖昧であるため、諦めるに至った。退屈、恐るべし。
退屈と云えば、日付が変わっても未だに咲夜が飲み物を運んで来ない。暖かい朱の注したミルクティでも飲んで布団に入れば、吸血鬼であればいくらでも眠りにつける。退屈に打ち勝てる唯一の方法、寝るという行為すらこのままでは不可能であった。
翼を指先で弄り始めたあたりで、ようやくドアが開いた。フランドールはベッドから飛び起きる。
「おそーい!」
「ひゃっ!」
「『ひゃっ』?」
聞いた事の無い抑揚であったから、驚いた。咲夜ではない。あの咲夜が『ひゃっ』だなんて声を出すことを想像しただけでおぞましい。詐欺も良いところだ。フランドールにとって、咲夜はお目付け役以外の何者でもなかった。フランドールは恐々としながらもドアに近寄った。
「なんだ、お姉様か。変な声を出さないでよね」
今、フランドールの目の前にいるのは紛れも無く彼女の姉であるレミリアであった。しかし、生意気なことを云えば何か小言を返して来そうなところを、今回はそれが無かったことに彼女は不思議がる。
「お姉様、だよね?」
「わ、わかんない」
「そうなの?」
「うん……」
フランドールが『こうなった』レミリアと顔を合わせるのは初めてのことだ。彼女は霊夢などが紅魔館に押し入ったときの前も後も自分の匂いが染み付いた地下室を出ることはなかったし、レミリアが『こうなった』場合、咲夜などが早い段階で事態を収拾していたためだ。今回は対応が遅れたことによって、奇妙な姉妹の再会が実現した。
さて、『こうなった』レミリアがどうなっているのかというと、単刀直入に説明するならば、精神の幼児退行状態にある。医学的見地に立てば、これは幼少期に外的要因によるストレスを負うことによって、何らかのきっかけで幼児期まで精神年齢が遡ることを云うわけだが、医者が云う心因性というやつはぶっちゃけると「わけわかんねぇから全部心の所為にしちまえ」ということなので、丹波哲郎よろしく「なっちまうんだからしかたねぇ」とでも思っていれば良い。
フランドールは普段からは随分と印象が違ってしまっている姉を一歩引いて眺めてみる。きりっとした眉は弛み、目はパッチリ、尖らせた唇、後ろに回された両手……それら全てが、フランドールの瞳には新鮮に写った。試しにおでこを指で押してみると、やめてやめてと手をばたつかせる癖に、相手の腕は振り払わない。
「へぇ、お姉様ってこうなるんだ……へぇ、へぇ、へぇ」
へぇと云う度におでこを押す。その度、レミリアはうーうーと唸るわけだが、これがまたフランドールには面白い。彼女は楽しみにしていたミルクティのこともすっかり忘れて、姉弄りにしばし没頭する。
へぇ
うー
へぇ
うー
へぇうー
へぇうーへぇうーへぇうーへぇうーへぇうー
「やーめーてーよー」
「いーやーだーよー」
奇妙な夜のやり取りが、淀んだ空気にこだまする。
傍から見れば微笑ましいのだが、これは相手がフランドールだからの話である。これが一般のメイドとなると、あまりのレミリアの可愛さぶりに、直視などしようものなら昏倒、良くても立っていられないまでになる。あの伝令はよく逃げ出せたものだ。
ちなみに咲夜がこれを目撃した場合はどうなるかというと、可愛さ余ってヒートアップ、心の弱さを強さに変えて、行くぞ我らのメイド長、とまぁ、そんな具合になるため、事実上、こうなったレミリアには咲夜以外ではまともに相手ができない。変態と鋏も使い方次第という証左である。
「あーあ、お姉さまがいつもこうだったら楽しいのになぁ」
「それは困ります!」
ようやく到着した咲夜が鼻を手で押さえながら歌舞伎役者のように手を前方にかざす。どうやら向かってくる途中にあれやこれと妄想していたらしく、片手は真っ赤に染まっていた。
『お姉様、なんて可愛らしい』
『あん、やめて、やめてよ……』
『ふふ、こんなになっちゃって』
『あふ……ん!』
以上、咲夜の妄想より抜粋。創想話倫理委員会の審査が入ったため、ここまで。無念。
「さくやー」
「ああ、お嬢様、お傍を離れてしまって申し訳ありません」
咲夜はひしりとレミリアを抱き絞める。何が原因かは不明だが、咲夜がレミリアの飲み終わった紅茶を片づけるために席を外したときにレミリアの変質が起こったのだった。迷子になった一人っ子のお母さんの気分を存分に味わった彼女であるが、まんざらでもないのだから度し難い。
「ちょっと咲夜、お姉様は私と遊ぶんだからどいてよ。それに、ミルクティは?」
「今は無理です。お嬢様がこのような状態では、私が目を離すわけにはいきません」
「だーかーら、私がお姉様と遊んでるから良いってば」
「それでしたら余計にこの場を離れられません!」
変態に正論が通じると思ったら大間違いである。こういった手合いは非常識を常識だと勘違いしている人種だ、食べない方が良い。で、味は? 知るか!
余人には理解し難い内容の押し問答を繰り返す二人の間で、レミリアだけが咲夜を下から見上げていた。それに咲夜が気づくと、レミリアはだっこして云い、咲夜がそれに応える。そうしてから、レミリアは咲夜にこう云った。
「おっぱいちょうだい」
「かしこまりました」
げっ! フランドールが顔を引き攣らせる。姉のとんでもない申し出はあの状態からして、まぁ仕方ないとしても、それにかしこまりましたというこの変態はなんだ。なんだとはなんだ、ただの変態だ。
「ちょっちょっちょちょちょーちょーーーーーっと待った!」
「どうなされました、妹様?」
「あんた、私のミルクティは……ってそうじゃなくて、あんた、何を考えてんのよ!?」
「いえ、ですから、お嬢様におっぱいを」
こう、当たり前のように、咲夜はレミリアを片手に抱いた状態でもう片方の手で器用に胸元のボタンを取っていく。させまいとフランドールが必死に腕にしがみ付いた。
「いやまずいでしょ、まずいったらまずいでしょ、それはまずいでしょ!」
「失礼な! お嬢様は私のおっぱいを美味しいといつも仰ってます!」
「そのまずいじゃないわよ、って、毎度そんなことやってんの!? っていうか出るの!?」
「プラシーボ効果です」
それは元々、パチュリーから聞いた胡散臭い豊胸方法であった。乳牛が乳を肥大化させるのは、その存在自体に乳を出すことを宿命付けられるに至るまで乳を搾り出され続け、世代を重ねた結果であり、つまりは実践と経験による思い込みの補強によって乳はでかくなりうるという、神秘学やら形而上学を上回る胡散臭さであった。
実例として想像妊娠によって乳が出るという症例が我々の世界では多数報告されているが、そうなった患者の多くは精神的疾患の末期にある場合が多い。こういった患者の特徴として、日常生活では健常者と変わるところが無く、ある瞬間、ある場合において、常軌を逸した行動や思考を採るとされている。それはすなわち、咲夜のことであった。
「さくやー、おっぱいまだー?」
「止めて、止めて、本当に止めて、私のお姉様像を壊さないで!」
フランドールは半ば泣いていた。これで目の前で姉が咲夜のおっぱいを吸おうものなら、フランドールの精神が崩壊する。深夜に目覚めてトイレに行こうかとしたところで両親のチャイルドプレイを目撃した思春期の子供より色々当てられない状態になる。
願いも空しく、レミリアがかぷりと咲夜の露出した胸に噛み付いたとき、フランドールの意識が手放された。これが精一杯の自己防御であった。
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「えー、それじゃあれって隊長が原因だったんですかぁ?」
「そうそう、先代が生きていた頃に撮影したお嬢様のアルバムが物置から見つかったから、それをお嬢様に見せてたのよ」
「ああ、それで小さい頃が懐かしくなったんですねぇ。今でも小さいけど」
「まぁ、皆無事で何よりよねぇ」
愉快そうに笑う門番隊であったが、すぐに笑い声は止んだ。門番隊長・紅美鈴はそのときのことを、背中の向こうに地獄があるようだった、と後に語った。
「お前かぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
「うばちゃっ!」
フランドールのレーヴァテインはその日、最長ホームラン記録を更新した。