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黒と白、たまに赤

 目玉の春がやってきた。
 冥界は、そこにいる亡霊同様、薄ぼんやりしていることが多い。それでも、住んでいる者なら、微かな移ろいを楽しめそうなものだった。
 しかし、目玉は顕著だった。
 魂魄妖夢が、主の酔狂に付き合わされて、縁側で筆を取っていたときだった。
 目当ての漢字を思い出せないでいると、主の幽々子から、出来た、という声が上がったのだった。
 流石に風流については百日の長がある。どんな句が出来たものかと振り返って、妖夢は絶句した。
「我ながら、見事な目玉だわ」
 主の言葉に、妖夢は、なるほど、確かに見事だ、と思った。ふよふよと、筆を走らせ辛い球体の真正面に、二重丸を描き入れている。
 しかし、妖夢の半霊に筆を走らせている時点で、ばってんだった。
「何を、なさっているんです?」
 努めて、声音を低くする。ややもすると、そのまま高音域まで持っていきそうだった。
「春はお百姓さんの働き始めよ。鳥に邪魔されないよう、今の内から準備しておいたの」
「ははあ、それはご立派なことですね」
 会話しながら、どれどれ、と二重丸で描かれた目玉の出来を確かめる風に、幽々子の手から半霊を取り戻す。
 傍らに置いてあった布巾でもって、表面をごっしごっし。
 ごっしごっし。
 ごし、ごしごし。
「やだわ、妖夢ったら。そんなので落ちるわけないじゃない」
「――じゃあ、何で描いちゃったんですか!」
 流石に堪え切れず、妖夢が吠えた。一瞬だけ堪えられそうだったのだが、口に噛んだ布巾を噛み千切ってしまったのだった。
 歯茎は痛いし、二重丸は消えないし……妖夢が涙目になる。
「妖夢……辛いことがあったら、もっと早く、私に言いなさい」
「たった今起こったことですよ!」
 いっそ斬ってしまった方が、すっきりしそうだった。ああ、もちろん半霊を。
 幽々子が、にわかに腰を浮かしたとき、居間の暗がりから、八雲紫が顔を出した。相変わらず、どこにいても泰然としている。
「成仏すれば、消えるんじゃない?」
「何がです?」
「目玉よ」
「目玉が成仏するなんて聞いたことがありませんよ」
「まあまあ。幽々子を怒っても消えない以上、試してみれば良いじゃないの」
「他人事だと思って……大体、試すと言ったって、どこで、どのように?」
「私に聞かないでよ」
 今度は、紫の分の、堪忍袋の緒まで、切れそうだった。
 しかし、端緒となったのは、紫のスキマだった。
 一瞬の暗転。はっきりとした、無。
 冥界に住んでいる妖夢にも、一向に慣れない感覚。
 吐きそうになって、口元を押さえたとき、彼女は既に、スキマから出ていた。
 手をゆっくりと口から離す。息を整えると、土の匂いが沁みた。
 辺りを見回せば、どこかの斜面の、段々畑だった。向かい側の山の斜面にも段々畑が見え、下の方には谷川が流れている。畑は似たような畦道の整え方をしてあったが、谷に橋はかかっていない。
「……妖怪の畑か」
 無意識に腰へと手をやってみれば、太刀と小太刀が、ちゃんと括り付けてあった。
 カシャコッ。
 どこかで聞いたような音を、よく確かめもせず、叩き斬る。
 斬れたのは音だけ。それだけの速度で逃げられる相手は、すぐにわかった。
「ブン屋さんか……」
「はい、正解」
 振り返った先、畑の片隅にある岩の上に、射命丸文が腰掛けていた。
 妖夢は太刀をしまったものか量りかねていたが、あることに気付き、文に切っ先を向け直した。
「そのカメラ、斬らせてもらいます」
「良いんですか? そんなことしたら、あることないこと、その目玉について報道しますよ?」
 文はそう言いながら、ペン先を妖夢の頭の上に向ける。そこでは、未だに目玉の消えてない半霊が、自分の尻尾で頭を隠そうと努力していた。
 尻尾の方が小さくなっているのに、土台無理である。
「頭でかくして、尻で隠せず……んっんー、これは名言!」
「他に使い道が無いですよ!」
「洒落なんてその場だけ通じれば良いんです」
「じゃあ、あなたの新聞なんて洒落そのものですね」
「わかってるじゃないですか」
 文は、言い切った。その場のものだと、言い切った。
 妖夢は今までに無い敗北感に襲われ、太刀を納めた。
「大体、人間だって、その場その場のことだからこそ、必死になってるじゃないですか。あなただって、半分は人なら、その辺はおわかりでしょう?」
「もう、その話は良いですよ。それに、ここでやり合っても、畑を駄目にしてしまう……」
「耕し直していた所ですから、駄目にするぐらいやっちゃって構いませんよ?」
 しばし、間があった。
 冥界と違って、雲が空を走っている。妖夢は、青色を追いかけるだけ追いかけて、視線を文に戻した。
「私は今ほど、大自然の理に感謝したことはありません。天狗も、人間らしい生活を営むのですね。安心しました」
「……妖夢さん、嫌味が閻魔様に似てきましたね」
 文は岩から腰を上げて、すぐ傍の掘っ建て小屋に歩いて行った。納屋として使っているようで、壁には鍬が立てかけてあった。
 一応は戸もあって、文が中に入ると、かちゃかちゃという音が聞こえてきた。
 怒らせてしまったろうか。妖夢は、文の座っていた岩に、入れ替わりに腰掛ける。
 この畑は、結構高い場所にあって、山頂はすぐそこに見えていた。妖怪の山の周囲にはこれぐらいの高さの山が連なっていた覚えがある。そうした山の斜面を利用して、天狗らは生計を立てているのだろう。
 妖夢も、畑はやっている。冥界も野菜の栽培には向いているのである。害鳥の類もいない。一方、麹用の穀物には向かないのだが、おかげで「自家製の酒を醸せ」だなんて無茶も言われない。
 そこら辺、昔から酒については紫に世話になりっぱなしで、妖夢は常々感謝している。
 文も文で、それなりに人の役に立つこともあるのかもしれない。まだ何も蒔かれていない土に妖夢が目を落としていると、納屋の戸がガッタンコと開いた。
 文の手には盆があって、彼女が近寄ってくると、茶と菓子が載っているのがわかった。
「冬用の羊羹が、余ってましてね」
「……ありがとう」
 場所が無いので、妖夢が岩の片側に寄り、もう一方に文が腰掛け、お互いの片膝の上に盆を載せることになった。妖夢は刀が邪魔にならないかと心配だったが、腰裏にずらしただけで済んだ。
「冬の間はねえ、暇なんですよ。山にも神社が出来たおかげで、行事があれば良いんですが、そう毎日あるもんでもないですからね。仲間と花札したり、酒飲んだり……今年もそんなんばっかりでした」
 ぼそぼそになりつつある羊羹を食べながら、文がぼやく。妖夢は濃い目の緑茶を啜ってから、答えた。
「まだ、ましでしょう。私の方は、冬の間というと、掃除と書を読むことぐらいしか出来ません」
「その冬が、以前はあなた方の所為で、長引いたそうですけど」
 冥界は春爛漫だっただけに、妖夢は言い返せない。妖夢なりに、あれは幽々子のためだったと片付けてはいるが、他の者の前でそんな風に言い切れるものでもなかった。
「まあ、そんな以前のことは良いんですよ。目下、あれが気になるわけでして」
 爪楊枝を空に向ける。そこではやはり、半霊が浮いていたのだが、何もかも諦めたのか、尻尾を下に垂らして、ぼけーっとしていた。
「すっかり幽霊みたいになってますね」
「幽霊というのは、もっとがつがつしてるものでしょう?」
「肉食系か草食系かで分けるなら、前者でしょうね。さもなきゃ成仏してますから」
 亡霊は、と言いかけて、妖夢は止めておいた。自虐にしかならないのがわかったからだ。
「……あの目玉、拭いても消えないんですよ。何か良い方法を知りませんか?」
「知らなければ答えないし、知っていても面白そうだから黙ってます」
「つまり知らないんですね」
「面白そうだとは思ってますよ」
 際どい会話だったが、羊羹と茶をやりながらでは、サマにならなかった。
 やがて羊羹が、そして茶が、尽きた。
「ごちそうさまでした」
「お茶なら、まだ出せますが?」
「……山の上ですよね、ここ」
「地下の鴉のおかげで、すぐにお湯が沸かせるんですよ。ボンベイだかボンベエだかいうのに、力を封じてありましてね」
「ゴンベエ?」
「それはよく働きそうな名前ですねえ」
 妖夢も、そんな気がした。
 雲は、空の窮みでも見えているかのように、足早に通り過ぎて行く。あるいは、滝に向かう葉のよう。
「妖夢さんは、空が好きなのですか?」
 微妙に顔の傾きを変えつつ空を眺めていたのを、文が不思議に思って、訊ねてきた。妖夢は顔を、空に向けたままでいた。
「……冥界の空は真っ平らだから、確かにこういう空は、飽きないかもしれない」
「それで、空をよく見ようと、半霊に目玉を……」
「ちゃっかり捏造しないでください」
 半霊は正面を上に向けているから、本当に空を見ているようだった。
 素っ気なくされて、文はお盆を片付けに行った。
 このままここにいても、邪魔になるだろう。諦めて、冥界に帰ろうか。
 納屋から出てきた文に声をかけようとして、妖夢はぎょっとした。
 文の手には、墨汁を滴らせた大きな筆が握られていた。どれぐらいの大きさかというと、髪の生えた子供を逆さにして、墨汁を頭から被せたような具合だった。
「な、何ですかそれ!」
「まあまあ」
 そう言って、下駄をトントコ鳴らして、楽しげに歩み寄ってくる。墨汁が点々と跡を作って、それは妖夢の不安を煽った。
 トントコトントコ。
 トッコントコトコ。
 トッコン、――
「ほいやあーっ!」
「おわあ!」
 薪割りの斧よろしく振り下ろされた筆を、妖夢が、横に飛んでかわす。
 べちゃあ、っという音が聞こえて、目を閉じる。
 ややあって、薄らと瞼を開くと、さっきまで座っていた岩に、二重丸が描かれていた。
「どうです、これで、また来れるでしょう?」
「とうとう取材対象から来させる気ですか」
 口ではそう言ってから、妖夢は口元を押さえた。愉快といえば、そんな気がしそうだった。
 その手を口から離したとき、文が盛大に吹き出した。
「わははははははっ! 墨! 墨!!」
 嫌な感触は確かにあった。あまり考えたくないが、手か顔に、墨が飛んでいたに違いない。
 自分の顔がどうなっているか、何となく想像がついた。
 もう一度だけ空を見上げて、妖夢は言葉を紡いだ。
「……書では手跡を改めるとき、朱墨を使いますよね」
「へ? ああ、使いますね。丹砂のやつでしょう? 私も下っ端に文字を教えるときに……」
 沈黙が訪れた。文はその沈黙が、ずっと続いて欲しいと思ったろうか?
 生憎と、そうはならなかった。
「幽々子様、紫様。――どうやら、鴉を脅かせそうです」
「ぎぃやあああぁああああああああああああああああああ!」
 その声は、春空を走り、人里まで届いたという。