天狗太平記

 その女が里に店を構えたのは、つい最近のことだという。
 店は、卓に置かれた灯が、杯の縁を撫でるだけに過ぎず、客の熱気は、暗闇を白く、焦がしているようだった。
 女は女将とは呼ばれず、ただ、店主と呼ばれた。女将と呼ぶには明るくなく、艶も格別ではなかった。どころか、生来の性質は、店の暗闇を今にも壊してしまいそうで、それがかえって、客が居着く所以とも思われた。
 女も女で、そういう客の下心を見透かしている。彼女はにこりともせず、言葉を柔らかくするのみで、客に品を出す。行灯の光が、頬にかかる、そのままの姿勢で。つまりは彼女の正体が知れることが、この暗闇が壊されるときなのだった。
 しかしそれを、自分達の手で明らかにしようとは、客達は思わない。
 彼らはただ、その瞬間を目撃したい。私刑を見守るかのように自分らは身を慎み、酒と魚を嗜んでいる。

 秋の夜長、――というには、些か晩い時間のこと。既に暖簾は下ろされ、さて最後の灯を吹き消そう、と、女が身を屈めた。
 彼女の相貌が顕になるのは、そのときだけ。狙ったかのように、訪れる者があった。
 客ではない。そう呼ばれるほど、聖白蓮は気安くなかった。彼女が封印を解かれてから、最初の冬が、訪れようとしている。頭には尼僧が被る頭巾をしていて、光が七色に混ざるほどの、薄いブロンドは、隠されていた。
「こんばんは。今日も、繁盛だったかしら?」
 言いながら、唯一灯りの残っていた卓に着く。
 出された杯を、ぐいっと空けた。彼女にとって、この世の全ては清浄で、峻別する意味を見出すことも、無かった。
「懐かしい味だわ」
「いつも、そう言います」
「そうね」
 このやり取りも、と言いかけて、白蓮は杯を置くだけに留めた。
 春菊と胡麻の和え物が出てきた辺りで、一つ、心地がついたようだった。椅子の脚を鳴らして、隅で椅子に座っているだけの女に、顔を向ける。
「山の方は、どうかしら」
「大分、落ち着いたようです」
「口が塞がれば、そうなるものよ。そろそろ、戻りたいかしら?」
「まだ、早いでしょう」
「それはそれで、私は、良いけれど。あなたのようなのを助けるのは、愉快だものね」
 しばらく、食事の音が響いて、店の灯が落ちた。
 裏口から白蓮が出ると、暗闇に薄紅色の霧が混じっていた。
「ご機嫌はどうですか、姐さん」
「ここの所は楽しいわあ」
 ――いつまで続けられるかしらね。
 ぼやくように言った白蓮に、雲居一輪は、彼女の外套を羽織らせてやった。
 妖怪の山に、大火があって間も無い、夜のことである。


 さて、火の用心でもしようか、と、周囲が思い始めた頃だった。
 黄昏時の前に出火したためか、哨戒天狗らも、気付くのに遅れた。風があったことで、火は一挙に燃え広がった。
 幸いだったのは風の向きで、夕方にかけてのだったから、山の斜面を吹き下りていた。さもなければ、火が頂上まで駆け上がっていたろう。そういうときに、ならば、と、団扇で風を起こして、押し返そうにも、巻いてしまって、かえって悪くするだけだった。
 ところが、この風は里に向かっていたから、他の方面に回った火を後回しにしてでも、消化にかかる必要があった。例え、何かの偶然で、木こりか猟師が巻き添えになったとしても、偶然では済まなかった。
 消火のために、一人や二人の天狗が片付いても、それぐらいでなけりゃ、と、上の者は啖呵を切っていた。下っ端どもの気性も似たり寄ったり、景気付けだとばかりに酒を呷って、浴びるぐらいにして、火の粉を被った。
 山の神社には、祈祷だけを頼み、引っ込んでもらった。不手際があってはならなかったし、邪魔にさえなりかねなかった。それほど切迫してもいなかった。
 結局、三更までに、木々を薙ぎ倒し、水をぶちまけ、土を引っ繰り返して、延焼の芽は摘み終えた。だが、鎮火するには、日の出を待つことになった。
 東側の斜面の中ほどまでが、焼失していて、朝露に焦げ臭さが染みた。火と仲間の熱気と、酒に中てられて、誰もが顔を赤くしていたが、内心では、古くからある木々ばかりが焼けてしまって、あの辺の木に背を刻んだものだ、人を吊るした、と、残念がっていたのだった。
「下駄が、下駄が出た」
 狼狽した声が聞こえてきて、薄目がちの天狗らが、眉を顰めた。
 天狗が、火事のごときで、下駄を捨てて逃げるはずはなく、また、一つしか持たないものだから、即ち、誰かが亡くなったのだった。
 無論、火事のごとき、天狗が死ぬことは、ほとんど無い。火事に紛れて、誰かにやられたものと思われた。こういうことが身内でさえあるから、人に助けを、呼ばないのだった。天狗は、恨まれる性質なのだった。
 声の主は、焼け残った、太い枝に躓いて、転んだ。痛みからか、呻いて、唸った。
「下駄が、出た。焼け、出ていた」
 ――射命丸文の下駄が、彼女の寝床だった場所の焼け跡から出てきた。
 その意味を、疲労の渦から汲み上げて、誰かしらが、わあっ、と叫んだ。

 失火の原因は、不明だった。山火事の類を完全に防ぐのは難しかったし、江戸の華とまではいかないが、異変のようなキナ臭いものより焦げ臭さの方が、後腐れが無かった。そう言える内に収められるのが、また自信でもあったから、火事の後、天狗らには、徒労感だけが残った。
 特に、射命丸文が命を落としたらしいのは、切実な不安を、募らせた。
 火事場での仇討ちは、半ばは暗黙の了解で、つまりは、仇を討つ側は名分を保って、果てることができたし、仇もまた、咎めを受けずに、火の粉を払うことができるのだった。
 ただし今回ばかりは、相手が相手で、加えて、果たしてこれが、文だけを狙ったものか天狗全体に対するものか、判断が付かなかった。文を討てるような者が、他の天狗を狙いはせぬか、と、深刻な不安が首をもたげた。
 一つの焦点は、火事が仇を討つために起こされたかどうか、だった。その上で、大胆不敵な行動が、無謀なものでなかったなら、どんな輩が蠢動しているやもしれない。
 一方、既に大きな損失を出した一派がいて、これは、守矢神社を積極的に受け入れようとしていた者達だった。これは現在の山の中堅を担う、しかし数自体はそう多くない、大天狗らに当たった。その最精鋭が射命丸文だったと言って良く、人的損失に加えて、威勢を削がれた感は、払拭し難かった。
 こうした事態を避けるために、ここの所の異変には、直接関わろうとはしなかったというのに。
 一番の危機は、地下の封印が解けた際だったが、本来の持ち主である鬼らに山に帰る意思は無かったし、後は山の神社が信仰を集めるのを、待つだけで、良かった。それもまた文の行動力によった部分は大きかったが、その穴を埋めようと、ある者は、ここ七年に渡って鎮護祈祷を続けている胞輩を切り捨てて、威厳を示さんとするものまで、いた。
 そこまでしゃちほこばったのも多くはなかったから、未然に防ぐことはできたが、肝の冷える話であった。
「長いこと平和ですと、上と下とに、幅を利かせたくて、忠義者ぶるのが、出てくるものです。武士じゃ、あるまいし」
「あなたたちの内輪のことなんて、知らないけど、――ここね?」
 案内の烏天狗が首肯して、霊夢は首裏を掻いた。
 射命丸邸の焼け跡は、そこら中がひっくり返されていた。この一週間の混乱を象徴していたが、霊夢には、全く、知ったことではなかった。
 博麗神社に使いが来たのは、今朝のことだった。まだ陽も出ぬ内のことだったから、霊夢は枕の下に入れた針に手を伸ばしたぐらいにして、客を出迎えるはめになった。
 文のことは聞いていたが、どうせ狂言だろうと考えていたし、本当に死んでいたって、霊夢の与る所ではない。今の時期はいつ駆け込みの案件があるか知れず、こんな妖怪のことで、神社を空けたくはなかったのだが、それでも足を運んだ辺り、一抹の寂寥が無かったとも言い切れなかった。
 焼け残った柱を蹴倒したり、土を爪先でほじったりしてから、霊夢は腰に両手を当てた。
「うーん、特に何も無いわね」
 別に、火付けの痕跡を探していたわけではない。大体、ここが火元かどうかも怪しいと聞いているし、巫女の仕事でもない。
 呪いや調伏の臭いが無いかを確かめたが、形代も無ければ、印が刻まれているようなことも無かった。念のために周囲にも気を巡らしたが、その際に見つけたのには、辟易した。
「ねえ……」
「承知しております」
 頭巾を被った連中が、取り囲んでいた。たまたま霊夢を見つけて、挨拶にでも来たような、風情ではなかった。手に手に、得物を握りしめてのことだった。
 案内の者が宙を手で撫でると、手品みたく、左の袖から剣が出てきた。
 えい、と剣を天にかざすと、自らの胸がはだけるのも構わず、左の袂を割って、剣を構えた。
「申すことは、あるか!」
 大声で問うと、囲みの一角が崩れて、裾の長い外套を羽織った者が一人、前に出てきた。
「申す。博麗の巫女に、お引取り願いたく――」
「たわけっ!」
「されど」
「たわけが! うぬら、卑しき白狼天狗、頭を隠そうとも、尻尾が出ておるわ」
 暗に、問答無用との、ことだった。
 霊夢には、相手の溜息が、聞こえた気がしたが、そうしたいのはこちらの方だった。
 刃物供養は得手ではない。ましてや、一対一ならともかく、この状況、うっかり刀をもらっても、おかしくなかった。
 結界を張ってその場を誤魔化すこともできたが、また襲われては、堪ったものではない。
 ここは案内に頑張ってもらって、手頃な所でけじめを付ける、算段を立てた。
 危なくなったら、すぐにでも、そう決めて、懐中の札を握った。
 唐突に轟音がして、粉塵が巻き上がった。伊吹萃香の見慣れた角が、粉塵を裂くのが、霊夢からは見えた。
「鬼だ、鬼だ!」
 囲みの一人が叫んだのが、合図だった。
 案内は一足で相手に斬り込むと、曲刀で防がれるのにも構わず、押し込んだ。焼け跡から森の中へ、一瞬のことで、何人かが慌てて、後を追った。
 こちらのことは、こちらでやれ、と。霊夢は首を掻くような素振りで、後ろから斬りかかった輩が、札の結界に弾き飛ばされた。
 今度は、三人。一斉に、正面から飛び掛ってきた。
 針を飛ばして、二人が落ちる。一人は横腹を引き裂かれ、構わずそのまま、かかってきた。
 そこを横から、殴り飛ばされた。手加減はしたようだったが、相手はそのまま地面に叩き付けられて、失神したようだった。腸が少し飛び出ていて、他の者は、怖気がついた。
「この場は預ける!」
 と、物は言い様、刀を飛ばして牽制すると、仲間を助けて、潮を引いた。
「あんなことしちゃ、駄目じゃない」
 霊夢の第一声は、萃香を驚かせたが、酒を呷って、息を吐いた。
「加減が足りなかった?」
「……済んだことは良いわよ。で、首尾は?」
「やっぱり、生きてたよ」
「それを言うなら、やっぱり、狂言だった、よ」
 騒ぎが大きくなる前に、萃香に頼んで、正解だったようだ。そう言う霊夢に、萃香は首を振った。
「何よ?」
「できればもう少し、布団の中で粘ってもらいたかったね」
 いつもはそうするのに、とは続けず、萃香が顎をしゃくって、霊夢の後方を示した。
 烏の大群が、空を焦がさんばかりに、飛び立っていた。


 山以外の、点在する廃寺に下っ端天狗らが割拠した、という報せは、里を飛び交っていた。
 荼毘と手を合わせる以外の風習はほとんど廃れていたから、坊主の心配をする者は無かったが、すぐに命蓮寺のことが、頭を過ぎった。
「あそこの人らぁ、居着いたばかりで、災難だ」
「いざとなったら、空に逃げられらぁな。俺は見たことねえが、腕っ節の良い尼さんと入道がいるってんだろ? なら、大丈夫だろう」
 じゃあ、後で見舞いにでも、と暇つぶしの種を見つけた気でいると、
「馬鹿かお前ら、今に森に入ろうもんなら、手足が何本あっても足りねぇだろ」
 棟梁に一括されて、普請仕事に戻った。冬の前に、里中の建物に手を入れなければならず、妖怪の遊びに付き合っている暇は、無いのだった。
 どうせなら夜を待って、近頃評判の店にでも、連中引き連れ、繰り出せば。棟梁は指矩で肩を叩いて、景気を付けた。

 その店に、霊夢は昼間っから、駆け付けていた。異変でもなんでもない、騒動を担わされた鬱憤もあったが、それより、店主に用事があった。
 着物を着付けた文の姿は、霊夢にしてみると、馬鹿にされているようにしか、見えなかった。昼間はやってない、と、最初は追い返されそうになったのも、響いていた。
 それはそれとして、とりあえず頼めるだけの料理を頼んで、掻き込んだ。萃香が呆れるほどに食ってから、霊夢は爪楊枝を口にやった。
「ああ、食った食った」
「霊夢、行儀悪いよ……」
「誰も見てないじゃないの」
 そういう問題らしいので、萃香は追及するのを止めた。
 文は隅の席に腰掛けて、泰然としていたのだが、霊夢は爪楊枝をいじるだけで、時を潰した。
 終いには天界での暮らしぶりを萃香から聞き始める始末で、とうとう、日が暮れ始めた。
 文が暖簾にちらりと視線をやったのを、霊夢は見逃さなかった。
「すっかり、女将気分が、染み付いた?」
「自分が興味の対象になるのは、新鮮でしたよ。遊びの、つもりでしたけどね」
「火がついた?」
「女遊びじゃありませんよ」
「どうだか」
 霊夢には、大方の見当が付いていた。付けば付くほど、やる気が失せていった。
 二十人も入れば満杯になるとはいえ、店を一軒、用立てるのは、容易いことではない。文のような行状の者に、慧音や阿求が手を貸すとも思えず、今回の騒動の時期からいって、船の、命蓮寺の、奴らが関わっているのは、疑いようが無かった。
 山の神社にも言えたことだが、霊夢は、あの手の輩に関わるのは、ほとほと嫌なのだった。来るもの拒まずでいれば良いものを、どうして自分から、広める必要があるのか。生活を立てるためなら、自分も神を、迎えようとしたのだが、そういう打算的なもの以外に当人達に作用しているものが、霊夢はキナ臭くって、仕方ない。
「で、住処を焼いてまで、身を隠した、理由は?」
「余計なことを考えるのが、増えましてね。冬篭りの前に、片付けておきたくって。でも、勘違いしないでほしいのですが」
 ――火をつけたのは、私じゃありませんから。
 萃香は驚いた様子だったが、霊夢は唸っただけだった。先の潰れた楊枝を、皿に捨てた。
「あんた、あれはただの火事よ。山火事。何を期待してたの?」
「や、だって、――え? 本当に?」
「鬼の言葉とも思えないわね。あのね、火付けだったら、家に付けるわよ。文がやったにしても、他の奴がやったにしても。火付けってのは、火付けだってわかるから、意味があるの。さもなきゃ、ただの放火狂いだわ。そういうのも、いるのでしょうけど、一週間も経って、一人もそれらしい奴の話が出てこないってことは、無いでしょう」
「ああ、なるほどね。都だと、火事が多かったけど、あれもそうかな」
「そうそう、まあ都なんて知らないけど、恨み辛みが多ければ、それだけ火付けはあるでしょうよ」
 萃香に聞かせるというより、文にそうしているようだった。
 文は着物の袖を擦って、外の方に目をやった。
「私は、尊敬されるのに慣れません。ここで店をやって、よくわかりました」
「ああ、そう。ま、醜聞記者にしちゃ、よく気付いた方じゃないの? 自慢して良いわ。ところで、もう少し、客層を開拓する気はある?」
「はあ?」
「尼なんかに任せていたら、店が潰れるってのよ」
 萃香はぽつりと、ヤクザみたいなことを、と、呟いた。

 そのヤクザみたいにして、ぶらりと、萃香は山に、やって来た。
 萃香にしてみると、妖怪の山には、感慨深いものはあった。
 四天王だのと呼ばれてはいたものの、山を維持するだけの気概は無かった。なにせ、鬼はそうするとき、必ず、人を襲わなければならなかった。
 そこいくと天狗は、人を攫う。攫って、返すことができた。
 彼女らを羨んだことは無いが、いざ山を明け渡したときには、旧友らとの間に、笑みは無かった。
 それから地下に落ち延びたものの、結局は勇儀らと別れたのも、どこかに齟齬が、できたからかもしれなかった。
 結果として、紫と美味い酒を飲んで、霊夢や天子らと、戯れることができた。今の生活を悔やんだことは、一度として、無かった。
 彼女らとの生活、その基盤が、自分や仲間が山を明け渡した潔さに由来しているのなら。そう思いさえ、していたのだった。
 そうしたものを、人を疲れさせるようなやり方で、台無しにする。
「感心できないな」
 萃香が自らを縛る鎖を鳴らすと、取り囲んでいた烏天狗らが、夜の帳の裾で、目を光らせた。
「百鬼が来るのなら、吾らは戦鬼になるまでよ!」
「かかれーい!」
 団扇が唸りを上げて、突風を吹かせた。風に乗ると、自らを弾丸と化して、萃香を掠める。
 萃香には、その動きは、手に取るようだった。
 現に、取った。
「がっ!」
「ごめんよ、牽制とかに付き合うつもりは無いんだ」
 ボールでもキャッチする風にして、顔面を掴むと、振り回すだけ振り回して、他の奴に、ぶち当てた。さらに跳ねた奴に巻き込まれて、三名が木々と共に、倒れた。
「ひっ、――岩場、岩場まで退けい!」
「あんた、待ちなよ!」
 霊夢と一緒にいた、天狗である。霊夢を引き入れた辺り、あいつが首謀者だろう。文によれば、火付改方とかいうらしいが、山を明け渡したときには、覚えの無い、顔だった。
 聞かずに、改方が取り巻きと共に逃げる。当然、伏兵はありえたが、萃香は突き進んだ。
 案の定、木の枝と思わせる次元まで周囲に溶け込んだ連中が、次から次へと、殺到してきた。腕を折ったぐらいでは、また退いては出てくるを繰り返したから、気絶させる必要があった。
 だが、それよりも、手っ取り早い方法がある。
 萃香が切り立った崖の下に来たとき、がら、と、石が落ちてきた。
 続けて、大きな岩が、一つ。萃香程度の大きさなら、百人ぐらいは潰せそうだった。
「百じゃ、万は足りないね」
 萃香は岩に両手をかざすと、その笑みを影に沈めた。
 その影が、爆音と共に、散った。片手の拳だけで、岩を砕いたのだった。
 木々の枝に乗って首尾を見届けようとしていた連中は、突如として岩の破片が降り注いできたものだから、肝を潰して、碌な退避行動も取れずに、落ちた。
 ――これで全員か。
 萃香が拳を緩めようとして、止めた。花粉にしては濃い、紅色が、森の中から染み出してきた。
 それらが四方に回ったかと思うと、先ほどの岩ほどの大きさの拳が幾つもできて、萃香に襲いかかった。、
「ちょっ」
 正体がわからない以上、かわすより他に無い。地面を、罅が走る程の力で蹴って、上空へ。
 どこぞにしぶとく潜んでいた改方が、渾身の力で、斬り付ける。
「鬼め、鬼め、鬼め!」
 手加減ができるタイミングでは、なかった。
 萃香は拳を刃に対して垂直に叩き付けて、砕いた。その切っ先は改方の肩口を切り裂いて、宙に血花を咲かせた。
「がっ、ああああ!」
「やっちまった!」
 霊夢の手前、あまり手荒くはしたくなかったのに。死ぬことはないだろうが、当分は使い物にならないだろう。
 自業自得などと言って、済ませるような、萃香ではなかった。
「あの霧め!」
 これ以上長引くと、本気も本気で、山中の天狗を相手にする破目になるだろう。
 それではいけない。適当に戦って、霊夢と合流しなければ。
 萃香の煮え切らない様子を見ていた一輪は、雲山入道の拳を合体させると、叩き付けさせる。
 当たれば、ただでは済むまい。
「姐さんの邪魔をするからだ」
 呟いたかどうか、というとき、ぱっ、と、拳が散った。
 夜闇の中に溶け込んでいた一輪は、思わず前のめりになって、目を丸くした。
 それを見逃す、萃香ではなかった。
「あんた、相手が悪かったよ。勇儀だったら、酒の一滴でも、零させられたかもね」
 一輪に、その意味が理解できたかどうか。雲山にとって、疎密を操れる萃香は、問題外の相手だった。
 その萃香が、渾身の一撃を、崖の真ん中に叩き込んだ。


 犬走椛は、出かけては傷を増やして帰って来る胞輩らに、胸を痛めていた。
 自身、霊夢を下がらせるために、無茶をしてしまった。火盗改方の烏天狗の一撃で、左手首と左脇腹に、罅が入っていた。
 文を擁して、中堅から中核にまで派閥を広げようとしていた連中は、昔からいたが、近頃は目に余った。文自身が、困っている様子は、よく目にしていた。
 椛が文と知己の仲になったのも、今回の決起に影響したかもしれない。
 いや、したのだろう、と、椛は戒めた。ただの失火を、契機にしたのだから。
 包帯をきつく締め直させて、今一度の、攻勢をかける。これが失敗に終われば、行く所は無い。
 元より、敵方を滅そうなどとは、思ってはいない。そんなことが数の力だけで成せるのなら、苦労は無いのだ。
 中堅より中核、中核より核心、そこに嘆願が届けば、良かった。
「綱! 雪! ついてこい」
 はっ、と声が上がって、いつも後ろを任せている二人が、出てきた。まだ戦闘に出せる歳ではなかったから、大事に育ててきたのだが、ここで死に損ねては、かえって恨みを残すだけになるだろう。
 失敗したなら、全員が果てれば良い。もっとも、事が成ったら成ったで、椛は二人に、自分の首を刎ねさせるつもりだった。
 別に、武士を気取るわけではない。ただ、これからも、天狗は内外の混乱を治めていかなければならない。天狗が崩れれば、どうしようもなくなる所まで、来ているのである。異変が続きさえしなければ、こんなことにはならなかったのだ。
 そのための教訓になれるなら、下っ端に生まれたことに、悔いは無かった。
 愛用の盾を左腕に縛り付けさせると、椛は寺の階段を、下りた。
「我々にスペルカードはない! 牙を突き立てよ! 敵に胸を曝せ! 行くぞ!」
「はっ!」
 ――夢想封印。
 スペルカードのきらめきが、寺を包んだ。
 綱と雪が柱に叩き付けられて、倒れ、重なった。椛は盾が飛んだだけで済んだが、その際に、左手首が、完全に折れた。
「そこまで! 刀を捨てなさい」
「くっ……」
 辺りを見れば、仲間らが膝を地につけていた。この様子だと、他の陣営も、同様だろう。
 捨てるのは、刀ではない。
 椛はやにわに刀を振り上げると、逆手に持ち替えた。
 その手に針が突き立てられて、椛は手を夜空に掲げたまま、倒れた。
 昼間、案内役といたとき以上の音が、山から聞こえた。未だに意識を保っていた椛が、仲間らが、山を見遣った。
 山の一角が、崩れて、凄まじい量の土煙が立っていた。
「あっちは鬼が懲らしめたってことで、収まるのかしらね?」
「です。確かに、見届けさせていただきました。椛さんらの最後の攻勢があることを見越して、一度、山に引き上げるはずでしたからね。図に当たったようです」
 しれっと現れた着物姿の文を認めて、椛は目を丸くしていた。
 そう簡単に死ぬとは思っていなかったが、こうも自然にされると、戸惑うより他になかった。
 火事なんてものは、逃げるだけで良い。文の処世が、今回の騒動のほとんどを、嘲笑していた。ただ、それだけでもなかった。
「あの子達、好き嫌いはある?」
「はあ?」
 いきなりの、文の問いかけに、椛は痛みも忘れていた。
「あそこの可愛い二人ですよ。紹介してくれるでしょう?」
「は、あ……」
 途端に、椛には了解された。事態は、収拾されたのだ。
 霊夢が何やら指を折って、計算をしているのが、代わりに気になりだしていた。


「わあ」
 歓喜の声を上げて、白蓮は、店先で頭巾を脱いだ。自分が用立てた店に、光が満ちていた。
 妖怪の山での騒動がぱったりと止んで、文を訊ねに、来た所だった。日はとっぷり暮れていたのに、店先に天狗や人が溢れるぐらいで、誰が誰やら、芋を洗うようだった。
「結局、ここの店主はどこの誰だってんだ?」
「どうでもいいじゃねえか、そんなことは。俺はこっちの方が性に合ってら。さあ、飲めや呑めや」
 大工姿の連中が、奥の客が手渡ししてくれたつまみをやって、酒を傾けていた。
 そこをちょこちょこ掻け分けて、白蓮は店の中に、ひょこっと顔を出した。
「あ、こっちこっち! こっち来なさい!」
 腋の出た格好で、巫女が手招きした。どうしたものかと戸惑うと、
「お、尼さんだ、命蓮寺の尼さんが通るぞ」
「おお、服の裾でも、嗅いじゃろか」
「お前はかかあの屁でも嗅いでろや」
 冗談を言いつつ、道を開けてくれた。
 店の奥では、顔ぶれが変わった。どうも裏口までがそうらしく、天狗らが傷だらけの顔で、大天狗も小天狗も、やいのやいのと肩を寄せていた。ちらと見れば、文が割烹着姿で、小さな白狼天狗の二人に手伝わせて、料理を次々と出していた。
「あんた、今日の儲けは私によこしなさいよ! 経費は払ったんだから!」
「ちょっ、霊夢、野菜とかは皆、天狗とか農家の人から、かき集めてたじゃないの」
「っさいわね! 労働の対価を要求してんだから当然でしょが!」
「私は霊夢が一番信じられないよ……」
 鬼らしき者は初めて見たが、白蓮は霊夢を挟んで反対側の席に座って、適当な杯を傾けた。
 当初とは少し予定が違ったが、まあ、皆が楽しくしているし、と片付けかけたときだった。
「あんた、こんな手の込んだことしなくっても、宴会がしたいなら、したいって、言いなさいよ。集めてあげなくも、ないんだから」
 廃寺の在り処を一々調べて、準備を調えるだなんていうのは、いかにも新参者がやりそうなことだった。白蓮はそれを自覚していたが、なるほど自分は、ここのやり方がわかっていなかったようだった、と、目を伏せた。
 天狗の目が、今よりも、もっと山に向けば、それだけ山の神社も勝手が利かなくなる。その隙を狙って、救いを成し遂げる。そうした考えは、やはり、冬の前だからこそ出るものだったろう。
「……そうですね。考えて、おきます」
「ようし、今日は一緒に飲むわよ! わははあはは!」
 今頃は、山の巫女が、出番の無さに地団駄を踏んでいる頃だろうか。案外、この賑わいのどこかに、埋もれているのかもしれないが。
 自分もそうありたいと思うと、酒がすとんと、喉を下りた。ぼろぼろの一輪が迎えに来ると、二人で笑ったものだった。