太陽の如く

夜空が寂しい? なるほど、そういう感じ方もあるかもしれない。八雲紫は珍しく感慨に耽りながら、注いでもらった杯を傾けた。どことも知れない見晴らしの良い場所で、彼女と伊吹萃香は二人だけの宴を楽しんでいる。紫が見上げた先にある月は、小さく感ぜられた。

「けれど幽々子辺りに云わせれば、それも風情。違うのかしらね」
「それも良いんだけどさぁ、たまにはねぇ、こう――」

萃香は両手を勢いを付けて大きく広げ、彼女が持っていた杯から酒が零れる。見た目に反して彼女には考えの深い所があったから、紫は笑いもせず、こくりと一つ、頷いて見せると、萃香に代わりを注いでやった。

「それで、どうしたいの?」

紫の言葉を待っていたのか、萃香はぐいと酒を飲み干して景気をつけると、満面の笑みを浮かべたのだった。


******


魂魄妖夢は慣れない得物を手にしながら、呆けるようにしていた。何故に自分はこんな棍棒のようなものを持つことになったのか。思い出すだけで一苦労するぐらいに、昨日から夜明けにかけてはあっという間に過ぎ去った。

早くに寝過ぎて深夜に起き出した幽々子に夜食と酒を用意して、自分は幽々子のいる居間の縁側で座布団を枕に仮眠していたときだ。突然に殺気を感じて枕元に置いてあった楼観剣を抜き、迫る気配を振り払った。途端、目の前で何かが破裂した。迂闊さに対しての後悔も後回しに、顔面を両手で覆う。しかし、衝撃はいつまで経っても来ず、恐る恐る両手を下げると、そこには何も無かった。

妖夢がほっと尻餅をつくと、後ろから拍手が聞こえてきた。それは紫の手から鳴るもので、彼女は幽々子の相伴に与った風にして、居間でくつろいでいた。幽々子も何がおかしいのか、ぱちぱちと酔いに任せて拍手をしている。

「この子はどうかしら?」

紫が明後日の方向を見遣って云う。すると、そこに萃香が姿を現した。自分に抱き着こうとする幽々子を押しのけようとしながらも、目だけは妖夢へと向いていた。

「反射神経は合格。ただ、球をちょっとだけ怖がってる」
「それはどうすれば直るの」
「訓練次第じゃないかなぁ」
「ならそうしましょうよ」

あれよあれよと勝手に話らしいものが進んでいく。いかん、ここで止めなければまた厄介なことが始まる。妖夢は慌てて居間に押し入ると、紫に食ってかかる。無駄とはわかっていてもこの危機感は抑えられる類のものではなかった。

「いったい、何のお話ですか。今は枝の伸びが良いから大変なんです」
「あなたの都合なんて聞いていないわよ。できるか、できないか。それだけが問題だったんだから」
「そんな殺生な」

紫が相手では分が悪い。妖夢は目を幽々子へと向けたが、彼女は萃香の角に執心で、その先端に扇子を按配良く乗せて遊んでいた。妖夢はどたどたと幽々子に駆け寄り、萃香の角から扇子を取る。

「遊んでる場合じゃありません! このままじゃ枝が伸び切って、この角みたいになっちゃいますよ!」
「そーれはぁ、たぁのしそうーねぇ」

上機嫌の幽々子に反して、角を馬鹿にされた萃香は面白くない。恐らく、萃香が妖夢を目標と本気で決めたのはこのときだった。彼女が紫に目を配らせると、そこは気の置けない間の二人であるから、紫は妖夢の真下にスキマを開き、そこに妖夢を落とし込もうとする。そうはさせまいともがいた妖夢であったが、それが災いして腕がスキマに支え、風呂に浸かったような格好になってしまったのだった。

「ああ、びっくりした。一瞬、胸が支えたのかと思ったわ」
「そんなわけないじゃない、こんななのに」

冗談めかす紫であるが、萃香は見下したように妖夢を見る。お前にだけは云われたくない。妖夢が萃香を睨み付けると、側頭部を思い切り蹴られ、体は落ちずに意識が落ちた。

妖夢が目を覚ますと、そこは紅魔館を囲む湖の傍にある見晴らしの良い平らな荒地の上で、頭上ではお天道様が能天気に輝いていた。仰向けでこんなところにいたものだから、先ほどまでのことが昼寝の最中の悪夢のようにさえ思えたのだった。残念ながら、悪夢は現実として続いている。

妖夢は炎天下の中で眩暈を覚えながら、棍棒を構えた。彼女の目線の先では、萃香が白球を握り、今にもそれを振りかぶろうとしていたのだった。

野球。人はそのスポーツをそう呼ぶ。妖夢の持つ棍棒、もとい金属バットが、眩しく光っていた。

「おーし、ばっちこーい!」

紫に捕手役を頼まれた魔理沙が叫ぶ。捕手といったらやっぱりデブだろうという偏見によってレティがその任に就けられる所を、夏では仕方が無いとのことで、魔理沙に白羽の矢が立ったのだった。彼女は渋々どころかノリノリで、普段ならどこに何があるかもわからないような自宅からキャッチャーミットと十ダースもの白球を持ち出してきた。

捕手側観客席では幽々子が音頭を取って領地を提供してくれた紅魔館の御歴々と一般メイド、それに関係の無いはずの霊夢やら何やらまでが酒と弁当を手に盛り上がっていて、妖夢の構えが悪いだの神のお告げだのと好き勝手に語り合っていた。

なお、これまで一度も妖夢に対して説明らしい説明は為されていない。その責任がありそうな紫はというと、いつものふわふわとした格好に分厚いサングラスを加え、妖夢の体をべたべたと触りながら構えを矯正していた。

「あの、紫様」
「……コーチ」
「はあ?」
「コーチと呼びなさい」

ああ、この人はもう耳を貸すようなことは無いに違いない。妖夢は諦めると、とりあえずは紫の興味が向いているらしい所で話題を見つけることにした。

「何故、伊吹嬢は白球を持っているのですか」
「馬鹿ね。特訓で霊力を消費したら、本番に差し障るじゃないの」

そもそも本があることすら知らなかった妖夢に馬鹿と云い切る。妖夢は複雑な心境ではあったが、とにかく質問を続けることにした。

「何故、刀を使っては駄目なのでしょうか」
「あなたは実に馬鹿ね。いまどき、刀と弾丸がガチンコするようなご時勢なのよ。たかが白球を切ってどうしようというの?」

どうしようもこうしようも、どうしたいのかわからないのに。しかも馬鹿扱いである。こうなったら思い切り馬鹿になって紫の云う通りにするしかなかろう。妖夢が溜息を吐くと、彼女の体から力が抜けた。紫はそれに満足したのか、妖夢の肩を励ますつもりで叩くと、五歩ほど後ろへ下がった。

紫が腕を上げて合図とすると、ピッチャーマウンドの萃香が頷いた。それを見ていた妖夢だけでなく、観客席までが視線を萃香に向けたのだった。ちなみに、野球のルールを正確に知っている人物はたった一人しかいない。ただ、白球をバットで打ち返す程度のスポーツであることは全員がそれなりにわかっているようだった。

静かになったグラウンドに、陽炎が立ち上る。萃香が構え、ゆっくりと体を回し、腕を振り――終えたときにはもうキャッチャーミットに白球が収まっていた。間を置かず、音速を超えた証拠であるソニックブームが辺りを薙ぎ払う。観客席に対しては霊夢が結界を張ってあったから何とかなったが、もし生身の人間が何の対策も無くグラウンド上にいたとすれば、体は粉々に吹き飛んでいたことだろう。

「……今のは効いたぜ」

本来の位置から後方十メートル、観客席寸前という所まで魔理沙は球に押されていた。幾重にも防護したミットと体ではあったが、手元からは黒い煙がちろちろと立ち上っている。一球しか投げていないボールは、巻かれた合成生地が縫い目からばらばらになってしまっていた。

「馬鹿もーんっ!」

紫の畳まれた傘が、スカートを押さえていることしかできなかった妖夢の頭に振り下ろされた。そうしてやっと、妖夢は我を取り戻したようでさえあった。待機していたメイド達が荒れてしまったグラウンドを直している間に、紫は妖夢に向き合う。表情はサングラスに隠れてよくわからなかったが、怒っていることは妖夢にもなんとなくわかった。

「振りもせずストライクを取られるなんて信じられないわ!」
「いやいやいや、無理、まじで無理、やばいくらい無理ですよ。あれは処理落ちしても無理ですって。第一、ストライクって何ですか。誰が審判なんですか。紫様はルールをご存知なんですか」
「コーチと呼びなさい!」

二人は終始こんな調子で、ピッチャーマウンドの萃香はやり過ぎたと反省するわけでもなく、暇潰しに酒をやっていた。彼女はメイドの某から新しい球を受け取ると、再び合図を待った。

「いいこと? 萃香のコントロールは完璧。問題はあなたが合わせられるかどうかなの。とにかく意地でもバットを当てなさいな」
「あれじゃ振っている間に球が通り過ぎてますよ!」
「球を見る必要は無いの。存在を感じ取れば良いわ」

随分と観念的なことを云うものである。しかしながら妖夢のような手合いには観念的なことこそ重要であるから、紫は食ってかかられても、自説を曲げようとはしなかった。

「思い出すわぁ、妖忌と妖夢の修行のこと」

観客席で幽々子に酒を注いでいた藍は、あんなだったのかと顔を顰めた。彼女はこれからはもっと妖夢に優しくしてあげようと心に誓うと、幽々子の杯を酒で満たした。藍の中に、間違った妖忌像が形成された瞬間であった。

メイド達が引き上げたのを確認すると、第二球目が投げられる。結果は先ほどと同じだった。


******


白球が二ダースも使い切られた頃、一人の女が見兼ねて観客席から飛び出した。その名は十六夜咲夜という。

「ちょっと、それ貸しなさいよ」

疲れと闖入者に苛立ちを高めた妖夢がごねたものの、紫の命令でバットが咲夜に渡された。紫はよく見ておくようにと妖夢に云うと、それ以降、口を閉ざした。

「おい、良いのか?」

魔理沙がそう云っても、誰も答えない。彼女は口を窄めて腰を落とすと、萃香に合図を送った。魔理沙は萃香の投球に耐えようと意識を彼女に向けてしまったが、妖夢だけは咲夜の背中を睨み続けていた。

どうせ時間を停止するなどのズルをして打つに違いない。妖夢はそう考えていたが、咲夜の構えは堂に入っていて、肩からは適度に力が抜け、腰は足に任せるようにして自然な角度で落とされていた。

「よろしいので?」

咲夜に代わった美鈴がレミリアに訊ねる。メイド達が吊るしている日除けのテントの下でレミリアは嬉しそうに頬を緩めると、ブランデーが注がれているグラスを傾けた。

そして、萃香が球を投げた。超高速で投げられたために手元は視認できない。また、その速度による軌道のずれを抑えるために辺りの砂が巻き上がるほどの回転が球にはかけられている。この状況を正確に把握できている者は、この場には十人といないことだろう。

「チャー……」

誰に聞こえるわけでもない声が咲夜の口から漏れる。

「シュー……」

時間は停められない。例え停めたとしても、球はあの速度で正確なベクトルを有している。下手に時間をいじれば逆に打ち難くなってしまうことは咲夜にはわかっていた。しかし、彼女が持ったバットは一晩で七人の血を吸うと地元では云われたプライドがある。根拠の無い自信程、堅固なものは無いのであった。

「メェーエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエンッ!」

バットが元からそこにあるべくしてあったかのように、球と相対した。球の芯に食い込んだバットが、がちがちと牙を合わせる。軸足は地面に食い込み、徐々に軌道が上へと持ち上がっていく。反発力が球の芯に最大限に伝わったとき、球は萃香の顔面へ向けて弾き出された。

光が鳴る。ギンという音がバットから放たれ、萃香が慌ててライナーボールを片手で受け止めた。バッターボックスから萃香の所までは地面が抉れ、咲夜の周辺では砂が渦を巻いたような形になって落ちていた。

わあという観客席の歓声の中、咲夜がバットを落とす。魔理沙が大丈夫かと肩を貸すと、彼女はこう呟いた。

「お嬢様に下着を見られちゃった……」

今日は赤! 観客席のレミリアのガッツポーズは、とても輝いていた。


******


咲夜が一世一代の大一番を成し遂げて以降、妖夢は見違えたようにバットを振るった。五ダース目が使われる頃には、萃香の投球体勢の流れを把握することで球を掠れるようにまでなっていた。しかし、まだ打ち上げるどころか打ち返すまでにはなっていない。

「何故、十六夜殿に任せないのですか」

妖夢の問いは焦りから出たものだったが、当然のものでもあった。紫は萃香に目を遣ってから、妖夢に答えた。

「あれは負けん気ばかりが強いのよ。あれじゃ球は輝かない」
「球が、輝く?」
「そう、輝くのよ……あの太陽のようにね」

普段の妖夢であれば紫の胡散臭い言葉に顔を背ける所であるが、自然、自分も紫と同じように太陽を見上げていた。昼を過ぎて久しいというのに、相変わらず太陽はぎらぎらと燃えている。二人が愛し合うために他に何もいらないだろうっといった具合である。

「私も輝けるでしょうか」
「輝くのよ」
「はい、コーチ」
「声が小さい!」
「はい、コーチ!」

あの二人、出来上がってんじゃねぇか。魔理沙の冷めた視線が突き刺さっていることなど知らず、分厚いサングラス越しに紫と妖夢が見つめ合う。妖夢が下手に掠らせる所為で、魔理沙の体には何度も球が当たっていた。

「あー、早く帰って温泉入りてぇなぁ……うー、ビールも飲みたいなぁ」

観客席からは霊夢達が酒で浮かれる声が聞こえてくる。こちとらただでさえ暑い中で防具を着ているというのに。いっそ観客席に魔砲を撃ち込めたらどんなにすかっとすることだろう。ぐへへへへへへへ。――出来上がっているのは魔理沙も同じであった。


******


結局、妖夢がまともに打ち返せたのは十ダース目のラストであった。それも、ピッチャーゴロである。いよいよ本番の時刻が迫っていたが、妖夢の焦りはピークに達していた。

観客席では相変わらず酒盛りが行われ、夜になってから更に盛り上がったようだった。霊夢も、片付けはメイド達がやることになっているためか、いつもと違って次々と杯を空けている。そんな観客席から離れた場所で、妖夢は一人、昇った月を見上げていた。

本番は萃香の霊力の塊が白球に代わる。あの豪速球が更に霊的な力を込められて投げられるのである。もし打ち損じれば、辺り一帯は火の海と化すことだろう。それでもやるのかという妖夢の問いに、萃香は何も答えてはくれなかった。

一人で考えに耽っていた所為で、紫が傍に来たことにも気付くことができなかった。彼女は暗くなったというのに相変わらずサングラスをかけていた。紫は妖夢から昨日に奪い取った楼観剣と白楼剣を携えていて、その内の楼観剣を妖夢に手渡した。久方ぶりに自分の手に愛刀が戻ったというのに、妖夢の表情は暗かった。

「本番はそれを使いなさい」
「でも……」

これを使ったからといって、どれだけのことが出来るというのか。刀に頼らない特訓は、酷く彼女の自尊心を傷つけていた。

「昨晩に私に食ってかかった素直さはどこにいったのよ」
「素直なのは馬鹿ってことですよ。私の場合は大馬鹿です」
「うん、あなたは馬鹿よ。大馬鹿よ」

相手がわかっていることをあえて繰り返す。妖夢は自虐的に笑ってみせたが、紫は態度を変えようとはしなかった

「あれを見なさい」
「え?」

紫が指を差した先、湖の辺では、蛍が舞っていた。何匹かの尾では光が輝き、糸を絡ませるようにお互いの体を交差させている。

「彼らは輝こうと思って輝いているわけじゃないの。輝けるから輝いているの。あなたも輝いてごらんなさい」
「……コーチ」
「声が小さい!」
「コーチ!」
「よし!」

がしっ! 二人が抱き合うと、蛍が一層、輝きを増したようであった。

「ああ、思い出すわぁ」
「またですか」

そうやり取りするのは、林の影に隠れ、蚊に刺されながらも二人を見守っていた幽々子と藍である。藍の中で、妖忌が弟子でもある孫に手を出す変態ジジイとして脚色された瞬間であった。自分はそうはなるまい。ここに変態の誓いが行われた。


******


「えー、実況は毎度お馴染み、月の狂気こと鈴仙と」
「解説は月の頭脳こと永琳の師弟コンビ。提供は、『吸血鬼は怖くない!』がキャッチフレーズ、紅魔館。そして、アリスと愉快な仲間達でお送りします」

酒盛りにばかり夢中の連中に代わって、急遽呼ばれた永遠亭の面々が仮設テントに収まっている。輝夜とてゐだけは酒盛りに参加しているが、残りの因幡達は永琳が用意した機材を運んだり、スピーカやライトの位置を調整したりと大忙しであった。酒盛りの対応や電力供給のための自転車漕ぎで忙しくなってしまったメイド達の代わりに、グラウンドではアリスの無数の人形達がライトを浴びながら整地を行っていた。

「師匠、内野手がいるわけでもないのにあの整地は意味があるんでしょうか」
「無いわね、全く。まぁ、何事も見映えが大事ってことよ」

ちくしょー! アリスの悲痛な叫びは夜闇へと吸い込まれ、自慢の金髪だけが美しくライトに映えていた。

「師匠は妖夢嬢が見事に打ち上げられると思いますか」
「難しいわ。でも、できると信じる価値はあるわね」
「流石は師匠。お茶の濁し方もご立派ですね」

こいつ、後で修正してやる。師匠の笑みに隠れた残酷な決意に気付かない弟子は楽しそうにグラウンドを見遣っている。ピッチャーマウンドには既に萃香が準備を終えていて、その目は閉じられ、霊力を手に集中させていた。

そしてついに、妖夢がバッターボックスに姿を現した。その後方、ライトが届かない場所から、サングラスを外した紫が妖夢の勇姿を見つめていた。

萃香が目を開ける。鈴仙と永琳だけでなく、酒盛りで騒がしかった観客席からも声が途絶えた。辺りでは虫がライトに焼ける音と、自転車をひいひいと漕ぐメイド達の音だけが聞こえていた。

「魔理沙、大丈夫?」
「それはこっちの台詞だぜ」

妖夢は満身創痍の魔理沙を気遣う。彼女は特訓が終わったと同時に倒れ込み、つい先ほどまでアリスの看病という名のセクハラに耐えていたのだった。

「気遣うぐらいなら、見事に打ってみせな」

それは本心からである。そうすれば自分は球を受けなくて済むのだから。正直、今一度の捕球は不可能だという自覚があった。足は体を支えるだけがやっとで、腕も構えているだけで痛みが肩まで昇ってくる。呼吸は乱れ、視界も揺れる。それでも自分は本番でも捕手となることを決めていた。一度決めたら最後まで。例えそれが最期となろうとも。魔理沙の決意は固かった。

「ピッチャー、構えた!」

鈴仙の叫びを待たずに妖夢も楼観剣を構える。そこでようやくわかったことがあった。そうしている間にも、萃香は体を捻っていく。

なんてことだ。こんな基本的なことに気付かなかったなんて。それは刀を持ったからこそできたことだ。萃香が腕を振るった。

「逆手じゃないですか、コーチ!」

ぽんと紫が手を叩いた。何か変だ変だと思っていた、具体的にどう変なのかがわからなかった。妖夢も妖夢で、バットというのはこう持つのかと思い込んでしまっていたのだった。

「おおっと、ここに来て衝撃の真実!」
「馬鹿だわ、ほんと」

馬鹿で良いじゃないか。妖夢は笑いながら、刀を浮かせて手の上下を入れ替えた。そうした瞬間、萃香の球が放たれていた。

霊力の塊。そう表現するしか無い威圧感と存在感であった。しかし、妖夢にとってはそれが幸いした。味気の無い白球などより、強く、はっきりと核の存在を感じ取れる。妖夢の腕は、意識せずとも動いていた。

キンッ。音が生まれた。聞こえたのではない、正にそこに誕生したのだ。

球と刀はお互いの牙を剥き合うのではなく、擦り合わせるでもなく、身を寄せ合った。竜巻の中心部のようなことになると想像されていたバッターボックスでは、ただ暖かい光が輝いているだけだった。それのなんと力強いことか。

コーチ!

妖夢の心にその呼び名が浮かぶ。

「輝きなさい、あなた自身が!」

紫の声によって、妖夢の腕に力が増した。腰は限界まで捻られ、軸足に履かれた靴は底が破れた。妖夢の目はただ一点、球の核だけを見つめている。

妖夢の目が、夜空へと向いた。球はそれを追うように、身を躍らせ、刀から飛び立つ。辺りから音が消えた。メイド達も自転車を漕ぐのを忘れ、球の軌跡を目で追った。ライトはもう必要無い。

上空、夜空の中の一際暗い場所で、球が破裂した。それは巨大な花火となり、幻想郷中からそれは見えたのだった。萃香の願いとは、誰もが自分の内に求めてばかりで、風情という言葉で満足して終わってしまう、寂しい夜空を輝かせることだった。

誰もが花火に目を奪われる中で、紫だけが妖夢から目を離せずにいた。

妖夢の体は光に包まれ、彼女の半身すらもそうであった。それだというのに妖夢は気にもせず、慌てもせず、真っ直ぐに花火を見つめていた。

太陽は自分の輝く姿を見ることは無いのか。

紫にはそれが哀しくもあり、嬉しくもあった。


******


一夜が過ぎて。

霊夢は荒れたグラウンドもとい荒地で掃除をしていた。

メイド達は筋肉痛と二日酔いで全員がダウン、咲夜も無理が災いしてベッドから抜け出すことさえできない。流石に下着は着替えたらしい。アリスは泣いて帰ってしまったし、兎達は興奮と花火の音で気絶してしまった。魔理沙は温泉に浸かったまま寝てしまい、危うく死にかけた。

この場にいるのは、霊夢の他には萃香だけである。

「ちょっと、あなたも手伝いなさいよ」
「輝いてないわねぇ」
「はん、わかってないわね。私みたいなのは云わば水晶よ。いるだけで光を纏うのよ」
「大福みたいな顔してよく云うわ」

折角に進んだ掃除も、霊夢と萃香の弾幕合戦の所為で再び荒れてしまった。

妖夢は疲れ切ってまだ寝ている。目が覚めれば、伸びてしまった枝を斬るのに忙しくなることだろうが、彼女の夢は決して悪夢ではない。

彼女の寝顔は、太陽のような笑顔であった。