鉄分
洒落た人だった。妖夢が祖父に抱ている印象は、そういうものだった。
厳しい人とかいい加減な人、冷たい人とか、まあ他にも色々あるのだが、本人の個性に踏み込んだものといえば、最初に挙げたものになるのだった。
先ず、料理がよく出来た。最近になるまであまり深く考えたことはなかったが、何百年も前から幽々子に飯を食わせてきたのだから、尋常ではない。よくある話で「皿洗いはしてくれない」とかいう落ち度も無かった。
品の種類も多く、時代時代毎に調理法を覚えてもいたらしい。熱心だったというよか、好きだったのだろう。大体、あまり読書が好きな人でもなかったから、楽しみといえば寝るか食事ぐらいなもので、なるほど好きにもなろうというものだ。自分はといえば、どれが好きとか嫌いとか、選り分けられる余裕はまだ無い。あえて挙げるなら、友人らとのお喋りだったりするのだけれども。
それにしても、いったい、どうやって長年、幽々子の食事を世話してきたのか。いやあ、品数とかの話じゃない。もっと根本的な問題である。
食材の調達だ。
今でさえ妖夢はありとあらゆる伝手を頼って食材を仕入れているのに、幽々子は足るを知らない。亡霊なのだから仕方ないかもしれないが、些かきつい状況が続いている。もっと正しく言うなら、量自体は大食いではなくても限度が無いので、常に不安がある。
それだけ祖父がしっかりしていて、これだけと言ったらそれ以上は出さないようにしていたのだろうか。
実際、幽々子は何かに付けて、祖父のことをしっかりしていたと誉めている。
しかし、それなら少しぐらい嫌味が含まれていても良さそうなものだ。けちんぼだったとか、むっつりしてただとか、言おうと思えばいくらでも言えそうなものだ。それが無いということは、何か別の方法で賄っていたのではないか。そういう考えが、いつも首をもたげるのである。
まあ、これも修行の内だと思って頑張れば良いのかもしれないのだが、釈然としないのも本当だった。
つい先ほども、これから自室で横になるという段になって、何か無いかとせがまれた。
無いとは言わないが、あると言えば出さなければならない。聞こえなかった振りをして、そのまま布団に入った。こういう対処方法を身につけてきた辺り、我ながら成長したと思う。そんな感慨がついつい思索に耽らせるのかもしれない。
ガギ、ガジジ、ガギギ。
ぱっ、と目が覚めた。目だけが覚めた。体は全く動かず、ただ目だけが明いたのだった。
聞きなれない音が視界の端からしていた。首は動かさず、眼球だけをそちらに向ける。
幽々子らしき背中が、丸まっていた。その体の両脇からはみ出すようにして、愛用の太刀である楼観剣の柄と鞘が確認できる。
どうもあの長さだと、若干、刀身が鞘から抜かれているようである。
なんということだ。自らを、そして主をも守らなければならない刀を、むざむざと取られてしまった。きっとこれは幽々子なりのたしなめ方なのだろう。そう思うと、自然とため息が漏れた。体の緊張が取れ、動けるようになる。
それにしても、あの音は何だろう。胡乱な頭で思いながら、布団から体を起こす。
そこで、幽々子が振り返った。
楼観剣を、齧りながら。
頭の中が引っくり返ったような感覚をがして、妖夢は何も言えなかった。
先ず、目の前の光景が飲み込めない。しかし幽々子の方はこちらを気にした様子も無く、相変わらずガジジとやっていた。
ああ、食事中の人間の視線というのは、どうしてああも攻撃的なのだろう。睨むでもなく、笑うでもなく。
やがて幽々子は刀を口から放し、鞘から完全に抜き去った。夜のかすかな明かりの中に、幽々子の唾液が煌めいたようだった。銀糸のようなそれは、刀よりも凶暴に見えた。
そして、やにわに刀を縦にし、口をあんぐりと開けた。
「あっ」
これは、飲み込む気だ。
場違いなくらい冷静に思って、しかしそうはならなかった。
スパーーーーン、と襖が大きく開け放たれた。
廊下の明かりは、目を刺すようだった。幽々子は途端に力を失い、刀を落とした。ゴトリと、重々しい音が畳からたつ。
じきに目が慣れてくる。
颯爽と現れた八雲紫は、じとりと二人を見下ろしていた。
「あら妖夢、髪を下ろした姿も素敵よ」
「はあ、どうも」
今、何時だ? どうでもいい挨拶に、どうでもいいことが想起された。
「あーもう、ほらほら、涎ちゃんと拭きなさい」
「むうむう」
紫は取り出したハンカチーフで、幽々子の口を拭ってやる。これが昼食やおやつ時の出来事だったら微笑ましいのだけれど、ここはプライベートな空間で、あまつさえ就寝時間だ。段々、腹が立ってきていた。
「見透かしたような登場でしたが……説明していただけますか」
「いえいえ、妖夢。あなたが一人で寂しい夜を過ごしてはいないかと、覗いていただけですわ」
はっきりと覗いていたと言い切る辺り、誉めるべきなのかどうなのか。今度から悪い夢を見たら、全部この人の所為にしようと思う次第である。
「答える気が無いのでしたら、私はこのまま寝直して、全てを忘れようかとも思っているのです。ええ、主の汚点は見て見ぬ振りするのも、礼儀だと思うのですよ」
「そんな儒者が腐ったような考え方はお止めなさい。藍辺りなら、それで不幸になった人間を尻尾で払うほど知ってるわよ」
「知ってるだけじゃなく、実際にやってそうですね、それ」
「うふふ」
嫌な笑いだ。埒も開かないので、とりあえず布団から出ると、それを待っていたかのように紫が幽々子を布団に入れた。
「はいはい、しばらく大人しくしててね」
「ふぁーい」
と、すんなり寝てしまう。紫もここで住んでくれたら大層楽だろうなあ、とは思うが、彼女の閻魔嫌いは堂に入っている。地獄の庭先のようなここでは、落ち着かないことだろう。
「さしあたり、お茶でも出してくれるかしら?」
居間で落ち着いた矢先に催促されて妖夢がお茶を入れて戻ってくると、客が増えていた。
祖父の、妖忌。彼が楼観剣の刀身をしげしげと眺めていた。これが昼間の明るい内だったら、刀の手入れでもしてくれているように見えるのだが。
「こんなことだろうと思ったので、じじ様のも入れて来ましたよ」
「ん」
返事だか何だかよくわからないことを言っただけで、視線は刀に向いたままだ。
ふと居間の明かりを灯そうかと思ったが、三人共目は慣れたようだったので、ぼうっとした夜の明かりに任せることにした。紫はもちろん、祖父も孫も、ただの人間より夜目は利いた。
「で、どうなの?」
紫が茶を一口飲んで、妖忌に切り出した。
こちらこそ聞きたいのだが、正直な所、妖夢は祖父が苦手である。しばらく様子を見てから問い詰めても、良さそうだった。
「どうもこうも、大分、ヤレてますな」
「……ですってよ」
と、長期戦のつもりで茶を飲んでいたら、予想外に早く、話を振られてしまった。
ヤレたというのは、つまりは傷んだということだとは思うのだが……幽々子が噛んだからだろうか。言われてみると、何やら妖気が衰えているように感じられる。
だとしたら、管理責任でも問われるのだろうか。既に幽居した身の祖父がこんな時間に出張って来ているのだから、それぐらいのことはしそうである。だからこそ、紫が呼び付けた可能性も十分あるのだ。
いやいや、しかし、いくらなんでも、「主人が刀を齧ることぐらい想定しろ」とか言われるだろうか?
とはいえ、「万一を考えず、備えもせずでは戦にも勝てまい」と経にもあることだし、たとえ想像がつかない出来事だろうと、要は刀を大事にしていれば済む話なのだ。
ましてやこれが自分の体だったらと思うと、お嫁に行くどころか地獄行きである。
まあ謝るのはさすがに抵抗があったので、黙ったままで事なきを得よう。
やや伏せ目がちにじっとしていた、そのときだった。
「どうしてもっと齧らせないんだ!」
素っ頓狂なことを言われた。
「あの……それは、どういう……」
「お前こそどういうつもりだ! ちゃんとあれほど教えたではないか!」
「なっ、え?」
教えた? 何を?
妖夢は祖父から具体的に何かを教わったという覚えが無い。これこれこうしろ、とかは言われたことはあっても、どうすればそうなる、とかいう教えは全く無かった。
そう思っていたのだが。
「申し訳ありません、今一度、教えを請いとうございます」
「ん」
ごほん、と咳払いを一つして、机に置いていた楼観剣を改めて手に取る。
「妖怪の鍛えたこの楼観剣に、斬れぬものなどほとんど無い!」
「はい!」
「良し!」
「……え?」
ちょっと今、祖父が何を言ったか理解できなかった。
良し? 何が? 今の前振りじゃないの?
「まったく、まだ寝惚けているのか。もう一度いくから、ちゃんと続けて言うように」
「は、はいっ!」
「妖怪の鍛えたこの楼観剣に!」
「妖怪の鍛えたこの楼観剣にぃ!!」
「斬れぬものなどほとんど無い!!」
「斬れぬものなどほとんど無いぃ!!!」
「良し!!」
「ええっ!?」
OKサイン出ちゃいましたよ。妖夢はきょろきょろと辺りを見回してしまう。
いったい今のどこが教えなのだ。ただの名乗りではないか。
いやまあ確かに、祖父が考えたにしては茶目っ気もあって素敵だなあ、なんて思ってたまに使ったりしているけれど、あまり重要な語句が含まれているとはとてもとても。
ああ、そういえば昔、妖怪の鍛えた、って、その妖怪はどこのどいつだよ、と子どもっぽい屁理屈を覚えたことは……。
「……あの、じじ様。この刀を鍛えたのは、もしかして」
「幽々子様に決まっておろうが!」
「歯でぇえええええ!?」
なんということだ……亡霊がガジガジして鍛えた刀だなんて、そんな恐ろしい物がこの世にあって良いのだろうか。いや、あの世だから良いのか。
しかしそれならそれでやたらと強力な妖気が宿っているのも納得がいくのだが……うわあ、ばっちい。
「なんだってまた、刀なんて齧らせちゃったんですか……」
「ある日、犬が骨を齧るのを見」
「ああああああああ! ストーーーーップ! それ以上は不敬罪ですよ! 言わなくて良いです! 聞きたくないです!!」
「ふふ、随分と大人な口を利くようになったな」
「朗らかに言わないでー!」
あー、胸がドキドキする。
妖夢はごくごくとお茶を飲み干し、温い息を吐いた。振り乱してしまった髪を手で撫でながら、なんとか平静さを取り戻してみる。
「で、では、えっと、たまに齧らせた方が……」
「うむ。一週間に一度ぐらいが目安だな。八雲様にも頼んでおいたのだが、お前が自分で気付くまでは、と待っていてくれたのだ。感謝するのだぞ」
「それは、ちょっと……」
「うん、私もそれは恩着せがましいと思った」
祖父と孫、二人で紫を睨むと、茶目っ気の滲んだ笑顔で返された。
「やれやれ。私は寝させてもらうかな」
「えっ? お帰りになるんじゃないんですか」
「いやいや、そんなに急ぐ用事は無い。存分に布団を用意してくれ」
「お客用の布団なんて無いですよ」
祖父の布団は、自分で幽居先に持っていってしまった。布団の綿を新しく打つ余裕は、今も昔もあまり無いのである。
「えー、それは参ったなあ。八雲様はもうお帰りになってしまったし」
「いつの間に……」
見ると、本当にいなくなっていた。ちょっと目を離した隙に、なんと素早い。
「もっとも、別に寝る必要も無いからな。どれどれ、一緒に庭でも見て回るか」
「は、はあ」
確かに、二日間ぐらいならろくに寝なくても大丈夫な体ではある。案外、一回りしてくれば適度に疲れて、雑魚寝も気にならないかもしれない。夜が明ければ、祖父も大人しく帰ってくれることだろう。
「何だかもう、じじ様のことを見直しましたよ……色々と」
概ね、主人との付き合い方について。
腰を上げつつ、ため息混じりに愚痴ると、妖忌が応じた。
「見損なったじゃないのか?」
「それは前からですので」
こうして言い合えるようになっただけでも、実は進歩していたりするのだが。
祖父が自分を見直してくれるまで、黙っていることにした。
「ところで、刀を丸呑みされてしまった場合はどう対処したら……」
「ああ、それはだな……」
ぞっとするような、夜の話だった。