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耳怨

“こういう日は震えながら幕をあけるものだ……”



永遠亭の竹の茂る外庭。その一角に井戸はある。そこで鈴仙は水桶に汲み終えると、水面をまじまじと見つめたのだった。

水面には疲れた顔の自分の顔が映っている。普段は溌剌としている赤い目には瞼が重そうに垂れ下がり、我ながら大丈夫かと問いたくなるようであった。では、水面に映る自分がそう問うてきたら何と答えるだろう。大丈夫ではない。そう答える。

近頃の夢見の悪さは今までに経験したことの無い程だった。月から逃げ出してきた頃は毎日のように後悔に苦しむ日々であったが、それも起きているときの話。考えるのを止めようと思えば止められたし、寝てしまえば気にならなかった。それだというのに今では夢からも追われる日々である。心身はもちそうになかった。

何故こうなったかということは自分なりに考えてみた。しかし、都合の良さそうな、辻褄の合いそうな、そういった具合の考えを持ち出してきても、寝てしまえば夢を見てしまう。見てしまうのだから仕方ないと割り切ろうにも、どこか自分自身によそよそしくなってしまう。

悪い夢を見ても、普通なら気に病んだりはしない。目覚めた後に飯を食う頃には忘れてしまえるものだ。だが、それは夢と無縁の生活を送っているからだ。夢と生活が乖離しているからこそ、ときに夢を馬鹿にし、ときに夢を語れるのだろう。そう考えると、なるほど夢というのは、寝ていても起きていても生活からは切り離せないものなのかもしれない。

そう一人で考えに酔ってみても、現状の問題の解決にはならないのだった。

この朝、鈴仙はいよいよ荒療治にかかることにした。師匠である永琳に口を出される前になんとかしなくてはならない。教わる事が沢山あるというのに自分のこともままならないようでは、立つ瀬が無いというものである。

しかしながら、頼るべきはその師匠から教わったことである。なんでも、神経というものが身体にはあり、それが身体を支配しているのだそうな。ならば、それを刺激すれば頭の按配が変わるのではないか。

鈴仙は辺りを見渡し、人が来ないことを確認すると、もう一度、水桶を眺めた。いや、睨んだ。そして目を閉じ切り、恐る恐る耳を水面に垂らしていった。

自分に限らず、兎の耳は繊細そのものだ。寝ている最中に誤って身体の下にでもしようものなら、飛び起きてしまう。もし人に踏まれたら。そんなことを考えただけで血の気が薄れる。これで真水に半刻でも漬けたままにでもしようなら、頭がどうにかなってしまうのではないか知ら。

そうしたことを思い返し恐怖と闘いながら、いよいよ耳の先が水面に着こうとしたとき、バンという音が耳のすぐ傍から聞こえたのだった。あまりの音に鈴仙は腰を抜かしてしまって、尻餅をついた。眼前では木製の水桶に矢が刺さり、水を散らしながら転がっていた。

どこから。鈴仙がそう思った直後、自分の顔に人影が被った。彼女が見上げようと顔を仰け反らすと、そこには敬愛すべき師匠がいた。

「あーあ、これじゃ顔が洗えないじゃないの」

両手を腰に当てながら永琳が他人事のように呟く。鈴仙は何か云ってみようとはしたが、誰がやったかは別にして、誰が原因かと問い詰められるに決まっていることに気付いた。立場でも口でも、そして心でも負けている以上、口が動くことなどありはしない。

「あら、考えられる頭は残っていたみたいね」

怒っているのだろうか。鈴仙はとりあえず腰を地面に着けたままで身体の向きを直すと、スカートの裾が乱れていることに気付き、それを整えた。その間に永琳は顔を洗う際に使うために持って来ていたらしい手拭を地面に敷くと、そこに腰を下ろした。

「女所帯とはいえ、顔を洗わないわけにはいかないわ」
「……すいません」
「別にあなたを責めてるわけじゃないのよ。ただ、こう女の性について想いを馳せているわけ。困ったものよねぇ、そう思うでしょう? だってあなた、顔を洗ったら今度は色も多少は付けなきゃだし――」
「すいませんでした、全て私が悪うございました、勘弁してください」

鈴仙が頭を下げて、永琳は満足げに口元を緩めた。局面において徹底的に相手を落とすべし。鈴仙はそんな座右の銘を付けたくなる想いに駆られながらも、間を空けず、永琳に顔を向けた。

「どこまでご存知なのでしょうか」
「ウドンゲが水桶を壊したことしか知らないわ。ただ、あなたが何をするにせよ、倒れるまでやるべきよ」
「倒れるまで、ですか」

鈴仙は水桶云々については耳に入れないことにしつつ、倒れるまでという言葉に感慨を覚えていた。なるほど、師匠にあってはさすがは不老不死であるから、倒れる程度は何するものぞ、むしろそれくらいしなくて何とする、とまぁ、そういうことなのだろう。

鈴仙は腰に力が戻ったことに気付き、すくりと立ち上がる。永琳は腰を下ろしたまま、ただ永琳に笑顔を向けた。ああ、師匠の笑顔が私めにどれだけ力と勇気を与えてくれることでしょう。鈴仙には先程まで怖がっていた自分を恥にすら思えるのだった。

しかし、彼女の動きは井戸の前に立った所で止まってしまった。どうしようか。井戸にくくりつけてある細長い桶で代用できなくもないが、共用のものを汚すのは避けたい。

鈴仙がうんうんと唸っていると、背中がドンと押された。

「えっ」

彼女は真っ逆さまに井戸に落ち、やや間があって、ぼちゃんという盛大な音が井戸の底から昇ったのだった。

永琳は井戸の中を確認しようともせず、木の蓋をかけ、その上には自分が座った。彼女の顔には艶さえあって、それは心中から滲み出ているようでもあった。充実の一瞬である。

「倒れるまでやれって云ったでしょう?」

鈴仙が他の兎達に布団まで担がれて行くには、太陽が昇り切るだけの時間が必要だった。