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『時代……時代とは何だ』
 胸に生じた想いは、達観にも焦慮にも、成り得るものだった。
 それは連日の精神的な負担が抱かせた迷いだったのかもしれない。
 そこに、あっけらかんとした答えが返ってくる。
「新しければ新しいほど良いもの」
『馬鹿かお前は。女じゃあるまいし』
「空が女の名前で悪いか! 私は女だよ!」
『そういう意味じゃないわい!』
 霊烏路空の胸にひっついた目玉に象徴される八咫烏は、ぎょろぎょろと目を動かした。
 そうすると、もっきゅもっきゅと空の服の胸元まで揺れる。
 これの所為で、わざと怒らせる者が続出しているのだが、空は『私が地底の妖怪だから馬鹿にするんだ』と思っているし、八咫烏も『空だから仕方ないな』と思っている。
 そんな二人を今日も傍から見ていた古明地さとりは、普段からじっとりとした目の温度を下げて、コーヒーを啜った。
「お空。ここで休憩したいのなら、グダグダやるの、やめなさい」
 地霊殿のロビーはさとりにとっては天国で、座っているだけでペットが寄ってくる。そこに外見はほとんど人と同じのがやってきて騒ぐものだから、一々、散ってしまうのだった。
 空は調子に乗ると手が付けられないが、聞き分けが悪いわけでもない。八咫烏を取り込んでからは精神的にも大分成長している。
 恥ずかしげに自分の癖毛をいじりながら、ごめんなさい、と呟いた。
「あなたも、あまりお空で遊ばないで」
 さとりは基本的に、空は空として、八咫烏を勘定に入れないで接するようにしているが、必要があれば話は別だ。
 八咫烏も、空との間に割って入れるのは、八坂の神などを除いては、さとりだけなので、出来るだけ尊重するようにはしている。
 ただ、元は神だったものが、妖怪とはいえ少女の体とひとつになってしまったのだから、精神構造がややこしくなっている。抑え切れない部分というのが、必ず出てくる。
『私はただ、この子がまた地上に行ったとき、余計な喧嘩に巻き込まれないようにしたいと思って、頭を捻っていたのだ。地上の連中の時代感覚と、この核融合の力を、どう合致させたものか』
「それなら、あなたが勝手に核融合を制御すれば良いでしょう? そうすれば、お空も最初から、地上に出ようなんて思わないわ」
『それは無理だ。こうして君と話している私は、空の一面に過ぎない。かつて神だったものなのだ。やがて時が移ろえば私と空は区別が無くなるだろう。既に、必要が無いときは制御棒をしまえるようにもなっているな』
 眠ったまま動かない大きな犬をソファー代わりにしているさとりは、溜息を吐いた。
 彼女にしてみれば、自分のペットが気付いたらとんでもない化け物の力を手に入れていて、普通に接するのさえ億劫なときがある。
 それでも、空が可愛いのは疑いようがない。
 さとりが動物に囲まれているのは、彼らの心に澱みが無いからだが、殊に空には垢抜けたところがあって、さとりのように日々の変化が乏しい者にとっては、かけがえのない存在と言い切ってしまっても差支えない。
 当の空は八咫烏とさとりが自分の頭を通して会話をしているのが不満なようで、二人の会話が進むにつれ、唇が尖っていった。
「もう喧嘩なんてしないよ」
「喧嘩はしてもいいわよ。ただ、馬鹿にされるのは感心しないわ」
「うにゅ……」
 八咫烏とさとりとで、言っていることが違う。空に健やかであってほしい、という根本は一緒なのだが、空には混乱の元だった。
「そうそう、その『うにゅ』っていうのも、いつから癖になったのかしら?」
「……わからない。覚えてないよ」
「言葉遣いは大事よ。淑女みたいになれ、とは言わないけれど……あなたみたいに力が強いと、言葉ひとつで、相手は傷付いてしまうこともあるわ」
「力が無いから?」
「そう思われがちだけど、違うわ。自分の劣等感を力の有無の問題に挿げ替えようとする自分に気付いて、傷付くのよ。自分にできることとできないことの区別は、力の有無ではなくて、冷静な自己分析ができる精神力によるのよ」
 この会話を傍から聞いていたら、空に理解できるわけがない、と思う者も多そうだった。
 さとりもそうした自覚はあったが、彼女の能力は性格にも当然影響していたから、安易に言葉を濁したりはしない。
 顔を合わせた相手から目を逸らすことほど、馬鹿にする行為はない。さとりはそう信じているようだった。
 空はきょとんとしていた。ただし彼女は、自身の力で核融合を制御するようになってから、体も心も一定の力関係で成り立っているのだ、と体験的に学び取っている。
 圧倒的な力で全てが賄える。そう考えて地上に出たりしたのも、細かい点に目が届くからで、一種の反動といえる。
 ――力の強弱があっても、細かな特性は変えられない。そこから目を逸らしては駄目だと、さとりは言っているのだ。
 漠然とではあったが、空の頭に閃くものがあった。
「私、忘れっぽいのは直らないと思うけど……頑張って、馬鹿にされないようにするよ」
 その言葉を聞いて、さとりは『言い過ぎたろうか』と後悔したのだが、やがて、空の胸の中にすっきりしたものがあることに気付いて、驚いた。
 そして、ある明確な将来像を描き、影が差した。
 ――この子は、いつまで私の所にいてくれるのだろう。
 その言葉は、自分の胸にしまった。
「とりあえず、一挙にやろうとしないでいいのよ? 毎日、ちょっとずつよ?」
「うん」
 さとりの舌に複雑なものがのせられているとは、流石に空にもわからなかった。


 その日の休憩のことを、空は仕事が終わってからも覚えていた。
 大概のことは忘れてしまうのだが、胸の奥にまで届けば、忘れようもない。
 同時に、一挙にやろうとしない、という戒めも残っていたから、総じて、テンションは低かった。
 行きつけの食堂で夕食を済ませた空は、街中の温泉に入ってから帰ることにした。
 背中の翼から羽根が抜けるのを気にするタイプは、そもそも地獄街の温泉には入れないが、服を脱いだ空は、髪の毛はきちんと結い上げた。
 胸の目玉には薄くとも丈夫な膜が張られているので、火山の噴火にでも巻き込まれない限り、全く心配は無い。
 温泉は露天を木製の塀で囲ったもので、耳を澄まさずとも、話したり笑ったりの音が、漏れ聞こえてくる。
 手に取れる場所には常に酒が置いてあって、噛み煙草まである。
 空はそういうのには興味が無く、風呂の中で手足の筋を伸ばしているだけで、楽しい。
 今日は他に客もあまりいないな、と思っていると、併設されているサウナの方から、人影がやって来た。
「おっ、愉快なのが増えてるじゃないか」
「元気でやってるかー」
 星熊勇儀と、伊吹萃香だった。空は両方と面識があったが、若干、勇儀は苦手だ。
 種族がどうこうというより、さとりと相性が悪いらしい。二人とも長く地底にいるから、無理に付き合おうとして馬鹿を見たくない、などの事情もあるのだろう。
「萃香は地底の鬼だったの?」
 以前、地底から出たときにやり合った覚えがかろうじてあった。さとりと勇儀の場合とは違って、相性は良いのかもしれない。
 勇儀は一人で風呂の奥の方で酒をやり始めたが、萃香は空と離せる距離に留まった。
「元々、他の鬼を探すために地上に出たんだけどねえ、今は、ほら、上だの下だの、こだわってもつまらないから、飲み友達に困ると、戻ってるんだよ」
 鬼と一緒に酒を飲んで飽かないようなのは、よっぽどの性質で、そういう輩は大体が気分屋だった。予定がつかないときもあるのだろう。
 空は挨拶がてらに注がれた酒を、嫌がらずに飲んだ。特別、弱いわけでもない。
「そうだ、萃香は初めて地上に出たとき、馬鹿にされなかった?」
「うん?」
 空の言い方は素朴過ぎて、普通の鬼ならそのまま受け取っただろうが、萃香には上手く伝わらなかった。
 ――こういうのがいけないんだろうか。
 空は順を追って、さとりとの会話の内容を萃香に教えた。
「ははあ、なるほどね。面と向かって馬鹿にされた覚えはないけど、私も鬼だからねえ。細かいことなんて気にしないから、わからないなあ」
 地上に出たのは他の鬼を探すためだったが、使命感に溢れていたわけでもない。
 実際、萃香が地上でしたことといえば、宴会がほとんどだ。
「あんたのご主人の言ってることはわかるけど、一緒に酒でも飲んでいた方が、よっぽど楽しいと思うねえ。今も私は楽しいし」
「そっか……お酒ね……」
 地霊殿の中では何度も飲んだことがあるが、地上では暴れてばかりだった。
 無理に言葉遣いを直そうとするよりも、酒の席でも設けて一緒にいる時間を増やし、徐々に慣らしていった方が、楽そうに思える。
「お酒を飲むと言葉遣いが変になる人もいるらしいし、釣り合いがとれて、ちょうどいいかもね」
「ああ、良いね、そういう考え方。私は好きだよ。ほら、もう一杯」
 空が気持ちよく酒を飲み干すのを見て、奥にいた勇儀も寄ってきた。
 風呂の中で飲むのは新鮮で、空は盃を満たされる度、それを空けたのだった。


 表に出たとき、空は半裸だった。
 脱衣所にほっぽってある浴衣を適当に引っ掛けて、帯も満足に結ばず、髪も解いたまま。
 それを注意する者もいない。
「おお、冗談でやったら、似合ってるなあ」
「勇儀、あんたが着なくなった着流し、今度あげなよ」
「そりゃいい、そりゃいい」
 こんな調子で、無責任に手を叩いている。
 空はといえば、泥酔してるというより、頭がぼーっとしていて、気分が良かった。
 鬼二人にしてみたら、今の空は、格好の玩具だった。
 屋台が並んでいる通りを歩きながら、三人で適当に腰掛け、つまんで、飲んでの、はしご酒。
「これおいしー」
「そうかい、そうかい」
 いつもより随分と艶っぽい声になっているものだから、店主や他の客まで、空に酒を注いだりしている。
 どれだけ雰囲気が変わっても、胸の目玉を見れば空だとわかるから、次から次へと、面白がる奴が出てきた。
 地底は地底なので性質の悪い妖怪も結構いて、空の首に手を回したりもしたが、次の瞬間には火だるまになって、どこかに飛んでいった。
「ありゃあ全治一週間ってところか?」
「ざまあねえ」
 周囲がはしゃぐ声に、勇儀は目を細めて、萃香に寄りかかった。
「これはとんだ掘り出し物じゃないか? え?」
「あっはっは! 地上でも宴会をやったとき、それを言おうか!」
 その内、所々で喧嘩が始まった。屋根から転落した者もいれば、戸板にゲロをぶちまけるのもいて、色のついた嬌声までどこからか聞こえてきた。
「いやー、いかん、いかん。これ以上はまずいね。帰れなくなるよ」
「構わないんじゃないかえ?」
「いかん、いかん。私らは構わんでも、この子に何かあったら、私らの所為だ。それはいかんよ」
「それもそうだねえ……こんな可愛い子を一晩で傷物にしただなんて噂が立ったら、鬼の名折れだねえ」
 勇儀も相当に酔っ払っていたが、何度か頷くと、空に背中を向けた。
「ほーら、おんぶだ、おんぶ」
「うーにゅー」
 空はあまり最初の頃と酔い方が変わっていなかった。
 言われるままに勇儀の背中におぶわれると、首筋に頬を擦りつけたりし始める。
 萃香は盃を掲げて、叫んだ。
「よーし、お前らー! お見送りだー!」
 普段は素直な奴はいないのに、こういう席で音頭を取られると、突っぱねる奴がいないのだから、地底というのも変な所だった。
 四百名は超えるかという人数が、わっしょいわっしょい、と叫び出す。
 空を担いだ勇儀が去った後には、酒で垢を濯ぐような光景だけが残った。


 空が目覚めたのは、地下水脈で出来ている川の傍にある、休憩所だった。
 地底にはこういう避難所として機能する場所が結構あって、それだけ、治安が悪いからだ。
 煎餅布団の枕元には空が脱衣所で脱いだ服が置いてあった。
 空の他には誰もおらず、十畳程度の広さしかない休憩所の中でも、物寂しさを覚える。
 外は暗かったが、休憩所の出入り口の水銀灯は光っていた。
 その灯りを眺めながら、空は記憶を辿った。
 色々なものが混じり合っていて変な気分だったが、誰かにおぶってもらったことなどは覚えていた。
 空の体内時計はかなり正確で、今は明け方にかかろうとしている時間だった。
 もっとも、地底に日の出は無い。四六時中、うすぼんやりとした灯りが、どこからともなく注ぐだけだ。
 空の場合、『お燐が顔を洗う時間』とか『さとり様とお茶を飲む時間』という風なニュアンスで、時間を把握している。
 明け方はどうかというと、『地獄烏の仲間と水浴びをする時間』だった。
「……まだお酒臭いな」
 外の川で体を洗ってから、帰ろう。
 空は、羽根の散らかった布団から抜け出した。
 帰り道は、ほとんど出歩いたことのない時間帯だったものの、水浴びでさっぱりした後の空には、短く感じられた。

 その日の仕事は朝から快調で、休憩時にさとりと顔を合わせるまでは、すっかり報告を忘れていた。
 さとりはいつも通りの目付きをしていたが、何に呆れたのか、溜息を吐いた。
「鬼というのは、即物的ですね」
「即身仏?」
『急性アルコール中毒で死んだ場合も含めてもらえるなら合ってる』
 こめかみの辺りをぴくぴくさせて、さとりは抹茶パフェをつついた。
 ――甘い物は良い。誰のトラウマにもならない。そんな風に思いながらデザートを食べ、悦に浸る。それが私、さとりの趣味である。
「そこ! 人のモノローグを勝手に作らないように!」
『突っ込みが細かいな』
 空は慌てて、昨晩のことを自分の口で説明した。さとりの能力は便利だが、時系列を正確に辿るわけでもないらしいので、放っておくと大変なことになる。
 むかしむかし、おじいさんとおばあさんが鬼退治をしたお祝いに子供を作ったのが桃太郎、などということが起こり得る。
 さとりは時折、ああ、とか、うん、とか相槌を打ちつつ、空の話を最後まで聞いていた。
 それはどちらかというと、話自体より、空の話し振りを楽しんでいるようだった。
「……お空は、外で飲む方が好きかしら?」
「んー、まだわかりません。さとり様は?」
「静かに飲めるなら、どこでも良いわ」
「……」
 自分が外に行っても、そこにはさとりがいない。そのことに、空は今更ながら気付いた。
 さとりが静かに過ごすには、地霊殿のような場所しかない。だからさとりはここにいるのだし、その妹のこいしはいなくなったのである。
 さとりが力の強弱に敏感なのも、彼女の能力は存在するだけで凶悪なものだからか。
 そういう考え方をする自分も、さとりを傷付けてしまう。
 空はどうしようもなくなって、俯いた。
「あなたは外に行ったら騒ぐし、帰ってきたら落ち込むし、落ち着きのない子ね」
「うにゅ……」
「その口癖も直ってないし」
「……」
 さとりはパフェをつつくが、口には運ばない。クリームと抹茶の色が混じり合い、容器の中で模様を作る。
 それを眺めていたさとりは、不意に呟いた。
「しばらくは、一緒にいられるかしらね」
 その言葉に込められたものを量りかねて、空は目を瞬かせた。


 旧地獄街は通りによって表情が全く違う。
 昨晩、空らが飲み歩いた通りは、地下水脈に沿っており、水路には舟も出せることから、問屋なども集まっている。もし空が朝まであそこにいれば、勢いで飛び込んだ連中の着物や履物が浮いているのを目撃していただろう。
 建物は狭苦しく、喧嘩も絶えず、楽しみといえば酒盛りと軽口、金儲け。近頃はエネルギー革命のおかげで景気が良くなっている者も多いため、空は大変に人気がある。
 地上と繋がる縦穴から地霊殿へと向かう通りは、昔は地獄の役人が住んでいたため、武家屋敷のような立派な門構えが目立つ。そのほとんどは現在、勇儀のような鬼が使っている。
 他には宿泊施設を兼ねた色っぽい店の多い通りや、鬼が経営している酒蔵などで埋め尽くされた通り、職人町と、細分していけばキリがない。
 その中で空が一番通っているのが、鬼らの屋敷からそう遠くない、食堂などがある通りだった。
 ここら辺は気性の所為ではなく成り行きなどから地底に移り住んだ者が多く、他の地域より真面目なのが多い。案外、真面目であることほど嫌われる理由は無いのかもしれない。
 とはいえ、これはあくまでも他の地域と比べた上での話で、基本的にはすっとぼけているのがほとんどである。
 今日も仕事が終わると、仲間と取り合わないで済む食事を求めて、空は足を運んだ。
 空は八咫烏とくっつくまでは、つまり地上との間に交流が回復するまでは、全くと言って良いほど地霊殿の外に出たことが無かった。
 そのため、食材が昔より充実していることは噂程度にしか知らない。
 がつがつと食って、お茶を飲んで、景気の良い話をして笑う妖怪らの話を聞いて、食堂を出る。
 いつもより早い時間に出たのは、今日に限って、人と話すのが億劫に感じられたからだった。
 今の生活は大変気に入っているのだが、そのほとんどはさとりと共有できるものではない。
 地底がどれだけ栄えても、さとりの生活には全く関わりがない。それどころか、悪影響さえ出かねない。地底が地上よりも、あるいは同じぐらい栄えたら、地上から逃れたさとりは、どこへ行けば良いのか?
 そういった諸々が今になって噴出してきて、空には到底、解決できるようには思えなかった。
 ――自分がしっかりすれば済むわけではない。
 そんなのは大概のことに言えるはずなのだが、空に限った場合、彼女がしっかりすればしっかりしただけ莫大なエネルギーを十全に発揮できることから、本来の性格もあいまって、気付くのが遅れた。
 川に出てから何となく歩いていると、昨晩騒いだ辺りに来ていた。
 いくらなんでも二日連続はまずい、と、咄嗟に橋を渡る。
 川の反対側にはこれといった建物は無く、釣れもしないだろうに釣糸を水路に垂れているのや、煙草を吸いながらスケッチをしているのや、有象無象が好き勝手に過ごしている。
 今は冬に当たるから、水路に沿って植えられている桜の葉も、枯れていた。
 桜を見上げながら歩く空に、足下から声がかけられた。
 水路に浮かぶ舟から、萃香が手を振っていた。
「やあ、来たね。ちょうど探そうかと思っていたところさ」
「嘘吐け、これから花札をしようかってところだったろう」
 今日は口が悪そうなのが一緒である。
 なんだか浮付いた、白いような青いような洋服を着ている少女は、帽子に小さな桃がくっついていた。
「――あっ、天地人だ」
「え、何よ、その微妙に格好良いあだ名……」
 この反応からして、間違いなかった。
 天人である比那名居天子とも、地上に出たときに会っている。
 名前はすっかり忘れていたが、「天子だよ、天子」と萃香が笑いながら教えてくれた。
「まあ、とにかくあんたも乗んなさいな」
「うん」
 舟は荷物も載せられる大きさがあったから、人数でいえば、六人ぐらいは余裕で乗ることが出来た。
 萃香は船首側に腰掛け、天子は左舷の縁に寄りかかって、酒を飲んでいた。天子を挟んで反対側に、空は飛び移る。
 着地の瞬間、空が浮力を生じさせると、背中のケープがふわりと舞った。
 舟に船頭はおらず、ゆっくりとした水流に任せて、二艘が行き違える程度の広さの水路を下っている。
 乗り心地を確かめるように、慎重に腰を下ろすと、天子が盃を投げてよこした。
「朋有り、遠方より来たる、亦楽しからずや、とも言うし、酒困を為さず、何ぞ我に有らん、とも言うわね」
「何だ、まだ論語を読んでいたのか」
「他のよりはまだ馬鹿っぽい話があるからね。大学とかやってらんないわよ」
「あんたは李白の詩でも読んでる方が合ってるよ」
「馬鹿にされてるのかしらねえ」
「いやいや」
 多分、ずっとこんな調子で管を巻いていたのだろう。舟の端には空になった酒瓶が三本、つまみが入っていたらしい袋がいくつか、まとめてあった。
 それぞれの手元にはまだ乾物や果物があって、萃香によると、足りなくなるとや、岸にいる輩に買いに行かせていたらしい。
「――両岸の猿聲、啼いてつきず、輕舟すでに過ぐ、萬重の山、と」
「ほら、似合う」
「こんな所で萬重の山なんて言っても、間抜けにしか思えないけどね」
「わかってるじゃないか」
「猿はお前だろうけど」
「うっきっき」
 空はこの手の話が全くわからないので、山とか猿とか、わかりやすい単語を拾うだけである。
「人間は元は猿だった、って聞いたことがあるよ。なら、天人は木から下りずに、空に上った猿なの?」
「合理的といえば合理的な推論だわね。人を怒らせもしない推論なんて、面白くもなんともないわ」
 嫌味の部分は全く解さず、なるほどな、と、空は素直に頷いた。
「それで、いつから飲んでるの?」
「……昼過ぎ、かな」
 うん、それくらい、と、萃香も頷く。
 空が退けてから、萃香は戻ってきた勇儀と一緒に飲み明かして、軽く眠った後、天子を呼びに行ったのだという。
「なんで?」
「あんたの、馬鹿にされた云々の話で、思い出したからさ」
 ちょっ、と舌打ちしたのは、もちろん天子である。
「私が猿だったってだけよ」
「ふうん……?」
 空は天子が天人になった経緯は知らないので、首を傾げるしかない。
 猿蟹合戦の猿が柿を蟹に投げたみたいに、要石を投げているのは知っているのだが。
「ふうん、じゃないわよ。お前の所為で私は機嫌を損ねたのに」
「うにゅ……」
「ふん、馬鹿は素直に酒を飲めば良いのよ。馬鹿を誤魔化すには一番の方法よ。じきに馬と鹿の区別もつかなくなるのだわ」
 天子なりに気を遣っているのだろうが、全く意味を成していない。
 萃香は「それは良いことを聞いた」と天子に酒を強引に注いでからかった。
「とにかく! 馬鹿にされるかどうかなんて、本人以外には関係の無い話だわ。一々蒸し返すようなのは、無神経なだけよ」
「うん、まあ、さとり様だから仕方ないよ」
「……」
 そういう妖怪なのだから仕方ない、という意味だったが、天子には伝わらなかった。
「お前みたいな奴なら、いくらでも好きな世界を作れるだろうさ」
 それは皮肉だったのだが、この簡潔なやり取りに、空は盃を落とした。
「さとり様、嫌がらないかな?」
「問題、そこなわけね」
 作ること自体には、懸念が無いのである。
 ただ、空には外の世界への膨張という概念だけがあったから、天子のような、ひねくれた結果出てくるような一種の理想論は、思い付かなかった。
「あーあ、本当にこいつが好き勝手やったら、紫にまた怒られるねえ」
「なっ!?」
「にゃはははは」
 空は二人の会話を聞きながら、そういう短絡なことはしない、と決めた。
 いざとなれば、――
 そういう思考の安全弁が用意できたことで、彼女の太陽から翳りが飛んだ。
 表情にもそれが出たので、落とした盃に萃香が酒を注ぎ直してやる。するとそれを一挙に飲み干して、空はあっけらかんと言った。
「ねえ、萃香の瓢箪で、酒舟にしてみようよ」
「お、良いねえ、その考え」
「馬鹿! ほんと馬鹿! 沈むでしょ! ってもうやって、――あ、ちょっ」
 そのとき、猿のような鳴き声が、水路にこだましたという。 


「さとり様、見てください!」
 夜半に帰ってきた空は、勇儀からもらった着流しを着ていた。
 大きな翼のために背中の生地を縦に裂き、縁を縫い直してある。色っぽさよりも快活さが出ていて、空らしいといえた。
 手には土産の一升瓶が握られており、さとりは思わず笑ってしまった。
「あなたはとうとう、帰ってきても落ち込まなくなったのね」
 空の心に迷いが無くなっているため、ちょっとやそっとでは、読めなくなっている。
 それでも漠然と、新しい地底がどうとか、要石で固定だとか、物騒なキーワードが嗅ぎ取れた。
「……いつの間にか私は、ひまわりだわね。いつもあなたを見てる気がするわ」
「原子力発電には付き物ですからね」
「え? そうなの?」
「それより、飲みましょう、飲みましょう」
 空に言われるまま、さとりはペットらにグラスとつまみを持ってこさせた。
 このひまわり畑は、どこででも咲き誇ることが出来そうだった。
 そしてそのとき、二つの太陽は、一つの太陽となっているに違いなかった。


「うお、なんだお前!」
 目を覚ますと、天子は猫車の中に押し込まれていた。それを押す火焔猫燐は上機嫌だった。
「酒浸りの天人とは、なんという幸運! このまま灼熱地獄へご案内!」
「おい、やめろ馬鹿」
「死ぬに死ねず、甘い香りを醸しながら、焦げが出来て……よだれが止まらん!」
「焼肉みたいに言うなあ!」
 酔っ払った空は、その晩、地震らしい揺れを感じたが、すぐに忘れてしまった。