ゆらめき

光陰矢のごとし。

十六夜咲夜が彼女の主人であるレミリアの前から姿を消して、何年かが経った。

メイド長はいつ戻るのだろうか。そんなメイド達の会話を聞く度、パチュリーはつまらなさそうな流し目を彼女達に遣ってから、通り過ぎる。

今日もそんな通過儀礼を終えてから、月と星の光以外は射さないテラスで、パチュリーは紅茶を飲んでいた。相席にはレミリアが座り、彼女はパチュリーが本から目を上げても、斜に構えたまま、どこかをじっと見つめている。紅茶はとっくに冷めていた。

パチュリーはレミリアに声をかけることを今一度、躊躇う。どのような言葉が、彼女の微妙な均衡を崩すことか。その虞《おそれ》が、パチュリーの口を重くする。本心を云えば、そのような斟酌どころではなく、喉から心臓が飛び出そうな程の好奇心に満ち溢れている。

現在、咲夜は時間の矢の唯中にいる。彼女が矢そのものと云っても良い。パチュリーにはその状況を説明できる幾つかの理論を用意する知識や閃きはあったが、それは意味が無いということもよく理解していた。なにせ、時間の矢が過去から未来、あるいはそれに代替する概念を貫くものだとして、それをこちら側から観測することなど不可能である。不可能であるからには諦める。それがパチュリーのモットーであった。

一方、レミリアは違う。彼女には能力もあり、不可能を可能にする業があり、想いもある。パチュリーは全てを決定するのはレミリア自身なのだろうということを最後に、この数年間にほぼ毎日繰り返された問いの答えを実行した。

「ねえ、レミィ」

レミリアの背中の羽が強張る。彼女はこの数年間、一度もパチュリーと話をしていなかった。

「あなたには咲夜の居場所なんて関係無いのかもしれない」
「空間的に捉えている限り、私達のことを理解することは無理よ」
「でも、お互いの身体を抱き合いたいときだってあるでしょう? 目を合わせたいときも、声を聞きたいときも」
「それらのどれもが、相手の存在を意識するためのものに過ぎない。私はそんなことをしなくても充分なの」
「少なくとも私は、あなたに目を合わせてもらいたいわ」
「今はまだ希望があるの。絶望が私を取り囲むときが来たら、あなたを標《しるべ》にするわ」

そう、と答えたぎり、パチュリーは黙り込んだ。

絶望か。なるほど、そんなときこそ友人の出番だろう。だが、友人の立場から云わせてもらえば、彼女はとっくに絶望に取り囲まれている。

咲夜がレミリアと同じ時を過ごすために旅立ったとき、レミリアはすぐに後悔したはずだ。時……その云い方も我ながらどうだろう。そもそも、咲夜が置かれているだろう状況から考えれば、時間の概念自体が無意味になる。時間を操る能力者の一世一代の大仕事が、時間の意味を無くすことだった。

パチュリーには皮肉で嗤う趣味は無かったから、その代わりに自嘲を口元に浮かべた。彼女が席を辞そうと立ち上がり、背を向けたとき、レミリアは引き止めなかった。

「ねぇ、レミィ」

レミリアはパチュリーに初めて目を向けたが、彼女は振り向こうとはしなかった。

「咲夜は狂う程に長い一瞬の中で待ち続けているわ。彼女はあなたに希望を味わう時間を与えた。それじゃあなたは、何を彼女に与えられるのかしら」
「あの子に届く運命は最初から一つしか無い」
「そう、それならおやりなさい。私はいつまでもあなたの友人よ」

パチュリーがいよいよテラスから去った後、レミリアは冷めた紅茶を飲み干した。固まってしまった液中の血が舌に不快な触りを残す。彼女は一度、先ほどから何度も見つめていた一点を睨むと、席から立ち上がる。椅子の足が鳴ると同時に、彼女が自分の片腕を自身の爪で切り落とした。

片腕の付け根から血が噴出する一方、眼球が零れ落ちそうなほど飛び出る。痛みには慣れていたが、想像以上の不快さであった。人間とは身体の造りそのものが違うとはいえ、自分の身体から大量の血液が流れ出るなど、耐えられるものではない。しかし彼女は、不敵な笑みだけはその顔に湛え続けていた。

「これでフランをだっこしてあげられなくなったわね」

床に落ちた片腕を持ち上げると、その肌に爪で文字を刻む。その工程が進むと、腕自体が形を変える。それは腕を代償に作り上げた、純度の高い、グングニルという槍の存在。レミリアがその名を冠した技とは違う、咲夜に届く唯一の運命。

そして、いざ行かんとしたところで、膝が地に着いた。限界が近い。レミリアには死ぬつもりは毛頭ない。彼女は最後に今一度、一点を睨んだ。その先には北極星があった。

「咲夜、あなたに墓標をあげる。――受け取りなさいなっ!!」

レミリアの構えられた腕が投槍の要領で振り下ろされる。その力だけでテラスの先に広がる湖は割れ、轟音に館中の者が身を縮めた。そんな中、パチュリーだけが、本を読み続けている。そのときの表情を、彼女に仕える小悪魔は終生まで忘れることは無かった。

投擲されたグングニルはその時点で秒速二十七万キロメートルを突破。

その先端が前方に集積していく有象無象を叩き壊し、貫き、ぐちゃぐちゃにしていく。

到達点を四次元上に認識。

更に加速。

加速。

加速。

光速に達した。

「お嬢様、ありがとうございます」

その言葉がいつ発せられたかはわからない。瀟洒な従者はその存在を完全に消し去った。

グングニルはそのままどこぞへと突き進む。

どこに向かう? そんなことを考える暇も無い。その槍は次の一瞬には、あなたに届いているかもしれないのだから。