幽香の了見

 地底と地上とを結ぶ縦穴は幾つかあったが、冷え冷えとしていたのは地上側の出入り口付近だけだった。
 忌み嫌われていたはずの妖怪達は、柔らかな風に髪の毛を梳かしていた。
 ――あるいは、嫌われている自分をこそ好んで、また別の場所に移った者もいるのかもしれない。
 そういう皮肉ったことを考える風見幽香もまた、居場所を移しているのだった。
 愛用の日傘は置いてきたが、冬は元々、キャスケットを被っていることの方が多い。それ以外は普段着にラムのジャケットを羽織っていて、妖怪にとっては厚着の方だろう。
 片手に提げた木製のトランクケースは、金具をキコキコと鳴らし、旅を急かすようでもあり、もっとゆっくりしろ、と窘めているようでもある。
 地底で花の取引が行われているらしい、という話を幽香が耳にしたのは、半年以上も前のことである。
 昔から温室栽培の技術はあったのだろうが、地上との取引ができるようになったことで、一年中、冬の間でも花市が開かれているのだった。
 幽香は花を見られない冬でも、それはそれで楽しく過ごす術を知っている。それでも、試しに見に行くぐらいは、という気にはなったのだった。
 ――不愉快なことが無ければ、そのまま地底で一冬過ごしてみるのも一興かしら。
 そう思い立ったのは、雪がちらちらと降るようになってからのことだった。この時期ならば地上に戻ることになっても、準備が間に合うのだった。いつもなら、雪が積もり始めてからの移動である。
 幽香には特に地底の妖怪に対しての偏見は無い。これは珍しいといえば珍しいのだが、幽香の場合、元々が選り好みをする性格なだけだった。自分が気に入らなければ、一般にいう聖人君子でも気に入らない。
 博麗霊夢ほど泰然とはしていないし、八雲紫ほど画策もしていない。
 人間の作る絵や詩の中に出てくるような、陽射しの下で顔を翳らせ、佇む……そんな少女の姿をした、妖怪であった。

 幽香はブーツの底で岩を蹴り、飛んでは、穴の奥へと進んでいく。
 やがて頬を撫でる風が止んだとき、地底の大空洞へと抜けたのだった。
 地底側の出入り口には、柱を立てて屋根を乗せただけの簡素な小屋が、集まっていた。
 見渡した限りでは、大空洞はすり鉢状になっており、中心部から端に寄るにつれ、緩やかな傾斜を作っていた。
 中心部には巨大な筒状の建造物があり、天井の地盤をぶち抜いていた。天井部分からやや下の辺りから、光を八方に布いている。
 幽香が想像していたものより、随分、光が柔らかい。感触としては、初夏の昼下がりを思い出させた。
 核融合炉から直接光を取り出しているのではなく、調節をしているらしいことは、専門的な知識が無くとも、何となく掴めた。
「その様子だと、地底は初めてかな」
 小屋の前で器械らしいものをいじっていた妖怪の少女が、声をかけてきた。
 見覚えのある顔である。たしか、妖怪の山の辺りにいる、河童だったか。
 幽香が無言で視線を返すと、相手の少女は被ったキャップはそのままに、はにかんだ。
「ここらは、地底に商売をしに来た連中が集まって、勝手に宿にしているんだよ。私もその一人ってわけさ。街の方には宿もあるけど、商売の必要が無ければ、あまり街中を歩きたくないね」
「どこで鬼とすれ違うかもわからないっていうし、賢明だわね」
「まあ、実際は私の場合、集まった連中の持ってきた道具とかの修理をしていたら、ここ以外に行く必要が無くなっちゃっただけなんだ」
 今直していたのは、電動歯ブラシとかいうものらしい。少女のいる小屋の入り口の辺りには大小の器械が並べられていて、これを全部直していれば、他に行く暇は無いだろう。
「上の方は、雪が降ってた?」
「まだ、そんなに」
「そっか……」
 帰りたいのか、そうでもないのか。器械いじりの少女は、幽香が通ってきたばかりの穴の奥を眺めて、目を細めた。
 花に特別な興味があるようには見えないので、幽香は自分の帽子の埃を落とすと、トランクを持ち直した。
 ――帰りはまた、この穴から地上に行きましょう。
 それだけを決めて、眼下に広がる街へと歩き出した。

 旧地獄街に近付くと、次第に闇が濃くなり始め、街中に入った幽香を出迎えたのは、道に立ち並んだ行燈の灯りだった。
 適当に立ち寄った蕎麦屋の話だと、暗闇に慣れ親しんだ在住者のために「無明権」とかいうものが尊重されているとのことだった。
 見上げれば明るいのに、辺りの風景は暗いわけで、最初は変な気分だったが、よくよく頭上を眺めていると、光と闇の狭間に滑らかな琥珀色の層があって、グラスに注いだブランデーのようだった。
 ――暗いのは好きじゃないけど、あの色合いは夕焼けでもなかなか出せなさそう。
 気に入った幽香は、あの色は街の外側からだと見えなかったことを思い出して、宿は街中で取ることに決めたのだった。
 宿を探しがてら、街の中心へと近付いていくと、水路が入り組んできた。
 構わずに歩き続けた結果、あの筒状の建造物の基部に辿り着いた。
 この筒は、正確には八角形をしていた。直径は大体、六十メートルぐらいか。
 その周囲は貯水地みたいになっていて、水路と繋がり、木製の柵が張り巡らされた岸には木々も立ち並んでいる。水に舟を浮かべて酒をやっている者もいれば、荷を運んでいる者もいる。
 カン、カン、と鐘の音が鳴ると、舟が逃げはじめ、やがて建造物の壁面から幾条もの水が放出された。どこからか聞こえる笙や琴の音が、飛沫に溶ける。
 ――この風景がここ数年の間に出来たものなんてね。
 トランクに腰掛けて紙巻煙草をやっていた幽香は、溜息を漏らさずにはいられなかった。
 神力が宿ったのが灼熱地獄の地獄烏だったとはいえ、余程に「地底の太陽」というものに、焦がれるものがあったのかもしれない。
 もっとも、いくら興味を覚えても、話す機会は無いだろう。
 腰を上げた幽香は、宿よりも先に花市を見に行くことにした。この地底の様子なら、花市の盛況さも疑いようが無かったからだ。
 そして、「第三水門から二番水路を行った所」という案内を通行人に聞いて、花市がある場所までやって来た。
 その花市は、もう片付けが始まっていた。
 ――そりゃあ市なんだから、終日なんてやってるわけがないのよねえ……。
 自分の迂闊さを笑いながら、それでも、と、片付けの作業を見て回る。水路伝いに露店が並び、どこの店も、裏に浮かべた舟へと、鉢を受け渡している。
 目立つのは菊や蓮。これが地上なら、時期としては結構前のものである。
 基本的には商売人を相手にしているだけあって、露店の店頭にいる者の説明は、片付けの手を休めずにではあったが、わかりやすかった。
 つまり、地下水脈の冷たい水と、温泉水、主にその二つを利用して、開花を調節しているのだった。それに地下の太陽の、場所によって光量が変わるという特性を組み合わせられるようになったことで、栽培の効率も上がった。
 今はまだノウハウが足りていないために四割近くが無駄になってしまうが、取引には十分な量が出回っている。
「趣味で楽しむなら、そういう、出荷には向かない花を探した方が、安く譲ってもらえると思うよ。どんな花でも、もらってくれる人がいれば、やっぱり嬉しいからねえ。うちにもそういうのがいくつかあるけど……?」
「うーん……今日は遠慮しておくわ。まだ、来たばかりだもの」
 ほら、とトランクを掲げてみせると、相手は笑っていた。
 目当ての花があるわけでもない。今日のところはこの片付けの賑やかさを、楽しめば良い。
 しばらく歩いていると、小さな橋の袂で、つんとした香りが鼻に触れた。
 そこでは五台のテーブルが置かれ、ワインなどの飲み物が振る舞われていた。
 店員よりも先に片付けから退けた店主らが集まっているようで、雑多な数字と花の名前が飛び交っている。
 その喧噪の中を眉毛一つ動かさずに給仕していたのは、幽香には見覚えのある人物だった。
「以前、花畑で会ったわよね?」
「あらまあ、――お久しぶりですわ」
 十六夜咲夜はメイド姿ではなく、ジャンパースカートに短丈のジャケットという出で立ちだった。それでも幽香にメイド姿を思い出させたのは、銀髪が特徴的である以上に、腰のベルトやブーツが、こざっぱりとしたシルエットを造っているからだろう。
 幽香が帽子を脱いで軽く挨拶した直後には、彼女用の席が用意されていた。
「相変わらず、ご精勤のようね。地下にまで手品をしに来たの?」
 椅子に腰掛けて、グラスの白ワインを飲む。気取った味ではなく、飲んだ後に鼻へ香りが吹き抜ける、快活さがあった。ワインとしては強めだろう。
「お嬢様が『私が地下に行っても退屈しないで良いようにしなさい』と言い出しましたもので、色々と準備をしていますのよ」
「何? これから来るの? ここに?」
 まさか、あの、紅魔館の主が、ほいほいと地底くんだりに来るとは思っていなかったから、幽香は口元を綻ばせた。
 しかし咲夜は、首を振った。
「いえ、そういうことではなくて、お嬢様が普段から楽しんでいるお酒や花を地底に増やす、ということです。具体的には、温室栽培の方法を教えたり、お酒の醸造方法や料理に必要な食材の育て方……ま、そんなところですわ」
 咲夜は子供のお使いの手順でも説明するみたいだった。もちろん、そんな簡単なものではない。
 紅魔館が石鹸や酒といった加工品を独自に作っているのは聞いていたし、幽香もいくつか品を持っている。そういうことを、地底でもしよう、というのが、紅魔館の主の意向なのだった。
「よくもまあ、そんな大仕事引き受けたわね」
「お嬢様のお傍から離れる以上、それぐらいの仕事でなくては、引き受けませんわ」
 それで現在、冬は館内での仕事以外は激減するため、地底での仕事を集中的に取り組むことになったらしい。
 気が向くと時間を止めて、館に戻り、またこちらで仕事をする。
 咲夜はそういう生活を、もう二週間も続けていた。
「あなた、過労死するんじゃないの?」
「忙しいときの方が、お酒は美味しいものですわ」
「このお酒なら、いつ飲んでも美味しいでしょうよ」
 特別、気遣っての台詞ではない。このワインは確かに美味い。
 咲夜も意味を正確に受け取り、頷いた。
「ありがとうございます。――このワインは去年のものですが、あと五年もすれば、もっと深みのあるものが味わえるようになるでしょう」
 そう言い残して、咲夜は他の席へと注ぎに行った。

 ワインを飲みながら、道中に思ったことを幽香が手帳に書いていると、じきに他の者が退け始めた。
 ――あまりのんびりしていると、今度は宿がしまったりしてね。
 そういうのは想像して笑うだけに済ませたいところだ。幽香はグラスの残りを乾して、席を立とうとした。
 そのとき、
「ええっ、今日の分、終わっちゃったの?」
 落とした鈴のような声音が聞こえてきた。
「そんなに楽しみにしてくれてのかしら? それなら後で保管してある分を持っていってあげるけど」
「ううん、いい。外で飲めるっていうのが、良いんだもの」
 たった今飲み終えたばかりだけに、幽香は席を立ち辛くなった。
 その程度のことで妬むような輩を相手にする気は、元から無い。無神経なことを自分がするのは、美意識に反するのだ。
 美、といえば、咲夜と話している少女は、なかなか特徴的な妖怪だった。
 大きな黒翼にかけられた白いマントは、野暮ったさもあるが、清潔な力を感じさせる。長髪は癖が強そうで、卵みたいな丸みのある顔を小さく見せている。胸元には大きな目玉が一つ、くっついている。
 話し方といい、全体としては、可愛げがある。
 幽香は、ぱちん、と指を弾いた。
「お給仕さん、ロックグラスとアイスを二人分、もらえるかしら」
 振り向いたのは、翼の少女の方だけだった。咲夜は気付けば幽香の隣にいて、言われた通りのものを、テーブルにセットし終えていた。
 今更そんなことでは驚きもせず、幽香はトランクケースを開けた。
 幻想郷といえば酒であるから、地底にも酒はあると見込んではいた。しかし、舌に合わなかった場合の口直し用に、愛飲しているウイスキーのボトルも持ってきていたのだった。
「これ、外から仕入れられているものよ。こういう場所で飲んだら、なかなか楽しいかもしれないわね」
 自分に言っているのだ、と気付いた少女が、咲夜に目を合わせる。
 何をか況や、咲夜はグラスが既に置かれていた席を引いて、少女を座らせた。
 ――あなた、もういいわよ。
 咲夜に幽香が目配せをする。咲夜はにわかに目を細めて、他の席の片付けを始めた。
 咲夜ならば今すぐにでも倉庫からワインを持ってきて、少女のために開けてあげたかもしれないが、そこまでされてしまっては、少女は喜べなかったろう。
 しかし、幽香は咲夜の面子を保ってやるためだけに、そうしたのではなかった。
「ワインより強いけど、これは多分、飲み易いわよ。――」
 酒の用意をしながら、お互いに自己紹介を済ませる。
 少女は霊烏路空と名乗った後に、お空でいい、と付け加えた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう。いただきまーす」
 氷と踊った酒ばかりの香りを鼻先で味わってから、お空は口を付けた。
「これ、口の中、楽しいのがずっと残って……美味しい」
「そう、良かったわ」
 楽しい、というのは、彼女なりの香りの表現なのだろう。
 幽香は飲み手を試すような趣味は無く、思いがけず振る舞うことになった酒を楽しんでもらえたことに、喜んだ。

 他のテーブル席のクロスが取り外された頃、氷だけが残ったグラスに付いた水滴を、お空は指で撫でた。
「そろそろ行かなきゃ。ごちそうさま」
「用事でもあるの?」
「そうじゃないけど、早く行かないと食堂が混んじゃうのよ」
 じゃあ、と手を軽く振って、お空は去った。
 半分まで減ったボトルを、幽香はトランクにしまい直す。顔を上げると、グラスが消え、クロスが外されていた。
「悪かったわね、居座っちゃって」
「構わないわ。こういう場所じゃ、誰かしらが居座るものよ。あなたたちがいなければ、他の客が残っていたわ」
「ふうん……」
 咲夜ともすっかり打ち解けられたようだったが、話し込んでばかりもいられない。幽香は帽子の按配を整え、立ち上がる。トランクは、随分と軽くなったように感じられた。
 そんな幽香の背中に、咲夜が疑問をぶつける。
「あなた、さっきの子が何者か知ってる?」
「知ってるわ。ほとんど、噂に聞いていた通りの特徴だったもの。それに、――」
「それに?」
「太陽の香りがしたわ」
 霊烏路空は、地底における、太陽の母だった。


 宿泊先は、大した苦労も無く見付かった。というのも、花市をやっていた通りからすぐ近くが、旅館の固まっている地区だったからだ。
 ここら辺は今まで通ってきた中では比較的静かで、中心部から離れ過ぎてもいない。
 鬼達の屋敷は、かつて地獄で使っていた庁舎、地霊殿の近くに多いという。これは地獄の役人達が使っていた屋敷が地獄の移転で用済みになった際、鬼達に与えられたため……だそうな。
「では、ごゆっくり」
 番頭は説明をするだけして、幽香を案内した部屋から、去っていった。
 ちなみにこの旅館自体は、役人の別宅扱いだったものを、旅館として改修したとのことだった。地上と通じる前は、宴会場として使われることが多かったようだ。
「商売人っていうのは、どこでも似たようなもんね」
 最初は幽香の妖気に警戒していたが、前払いに銀製のアクセサリーを二点ほど渡したら、一挙に態度が軟らかくなった。好きなだけいてくれて構わないし、近所の食堂にも話を付けておくから、自由に食事をしてくれて構わない、とも言っていた。
 幽香は事前に地底での金品の相場を調べてあったが、あの調子だったら、もう少しケチってやっても良かったかもしれない。
 幻想郷では手形や証文による取引以外は金品交換が基本で、地底も例外ではなかった。それが地上との交流が復活した関係で、現物の方が好まれるようになったのだろう。地上でも、そういう傾向が出てきている。
 当の幽香はどうやって金品を手に入れているかといえば、空いた土地があればそこで花を育て、その土地が必要だという人間に金品と交換で譲っていた。
 相手が妖怪の場合は、寿命が長いことから一度でも土地が渡るとまず戻ってこないため、虐めては追い返し、迷惑料を徴収するなどしていた。ときには奪ったりもしたが、元々妖怪は土地に執着しない方なので、閻魔みたいなのぐらいしか気にしない。
 幽香も手に入れた土地を全て管理しきることは不可能だったから、気分に任せて、手放すケースもよくあった。
 咲夜が知っているかどうかはわからないが、今現在、紅魔館が建っている場所も元々は幽香が管理していた場所で、レミリアが我儘を言って幻想郷の中で煙たがられていた頃、幽香は八雲紫から「話をこじらせないように」ということで、大量の金品を渡された。
 馬鹿らしくなった幽香は、以降、妖怪を虐めるだけで、人間とも土地をやり取りするようなことはほとんど無くなっていた。
 ――閻魔には、わからないでしょうね。
 二階の和室から窓の外を眺め、幽香は煙草にマッチの火を移した。
 花が咲き乱れた異変のとき、幽香が妖怪を虐めることについて、閻魔は説教したものだった。
 自分なりに決めてきたことが、たった一つの例外で、どうでも良くなってしまったのに、その欠片を弄ぶことすら許されない。
 月に叢雲、花に風。花の異変のときの幽香の心情とは、正しくそれであった。
 こだわり続けているわけではないにしても、心中に滲みを作る出来事だった。
 ――旅先はお腹が減るわ。
 いつの間にか短くなっていた煙草を灰皿でもみ消し、幽香は部屋を出た。


 番頭から聞いた先の食堂は、なかなか美味かった。地上では肉というと煮ることが多いが、鉄板で焼いた牛肉は日本酒とよく合った。
 幽香はどちらかといえば洋酒を好むものの、幻想郷の妖怪の大半がそうであるように、大概の酒は飲める。
 特に幽香の場合、長年に渡って胃に入れてきた種類が多い。宴会よりも一人で飲むことが多かったから、それだけ味の違いもよく覚えている。
 地底の日本酒はコクが強いわりに後味がすっきりとしていて、どうも製法自体が独自のものらしい。
 牛も地底印の家畜であり、空いた土地を利用して色々な家畜を育てていることがメニューに書かれていた。
 ――地底の連中、上の奴らよりも人間を食う機会が少ないとみえて、食事には五月蠅くなったようね。
 考えようによっては、地底の妖怪は、人間に近いのかもしれない。多くの妖怪から嫌われ、どこにも行くことが出来ないままに、過ごしてきたのだから。
 地底に来てからこっち、虐め甲斐のある妖怪に出会わないのも、そのためだろうか。それとも、自身の心境によるのか。
 ああ、霊烏路空は、どうだろうか?
 十六夜咲夜も、人間とはいえ、悪くはないのではないか。
 しかし、下手に騒いだために花を見る機会が失われるような事態は、避けなければならない。
 ――初日だし、今日はもう、寝ましょうか。
 幽香は酒が大して回らない内に、店を出た。
 地上から持ってきた懐中時計は、午後の八時を示していた。
 ドンッ、と肩に衝撃があって、幽香の手から、時計が落ちた。後ろからぶつかってきた相手が、幽香に振り返る。
 見るからに物騒な少女で、背中には長刀、腰には短刀を、帯びていた。
 藍染のマフラーが口元を覆い、軟らかそうな前髪の間に、鋭い双眸があった。
「失礼しました」
「いえ、とんでもない。ところで……」
「何でしょう?」
 幽香は時計を拾い上げた。周囲の連中も、それとなくこちらを注視していた。
「お時間は、あるかしら?」
 幽香の拳と、相手の脇差の柄がぶつかり合う。
 普通ならば幽香の拳が砕けるほどの衝撃があったが、相手の柄の紐の方が切れていた。
「……力任せに見せながら、打ち込みの速度が優れている。流石ですね」
「前に会ったことがあったかしら?」
「だとしても、名乗らざるにはいられません。魂魄妖夢、お相手いたします」
 しかしそこで、既に距離を取っていた野次馬らの後方から、どよめきが起こった。
 それに対して妖夢が、舌を打つ。
「……逃げている途中なのを、忘れていました。」
「何をしたのかしら?」
「斬りました。六人ほど」
「そう。でも私には関係無いわ」
 妖夢は脇差を鞘ごと腰から抜き、鍔に力を籠めた状態で柄によって幽香の拳を防いだため、刀が抜けない状態で、均衡状態に陥っていた。
 ――背中のは、この状態からでは抜けないでしょう?
 幽香が口端を緩めかけたとき、視界に殺気が閃いた。
 もし一瞬でも反応が遅れていれば、幽香の首が飛んでいたことだろう。
 妖夢の片手には鞘に収まったままの短刀があり、そしてもう片方の手に、振り抜かれた長刀が握られていた。
 いや、振り抜いたのではない。
 彼女の傍らに、いつの間にか、小さな霊魂がくっついていた。
 幽香の視覚が、状況を頭の中に染み渡らせた。あの霊魂が背中の長刀を抜き放ち、妖夢の手に掴ませたのだった。しかし、妖夢は大振りにならざるをえず、幽香の回避は間に合った。
 得物を抜かれたとなれば、格闘だけでは無理である。かといって妖力を使えば、騒ぎが大きくなり過ぎる。
「わかったわよ。行きなさい」
 妖夢は軽く目を伏せて挨拶を済ませ、飛び上がる。そして、屋根の向こうへ消えた。
「さて……あんた達の所為で逃げられたんだから、責任は取ってもらうわよ」
 幽香が振り向いた先では、妖夢を追ってきた数人の妖怪が事態を飲み込めずにいた。
 それが、命取りだった。
 幽香のスカートが翻り、それに目を奪われた妖怪の側頭部に、ブーツの踵が回し蹴りの要領で叩き込まれた。
「ゲッ!」
 悲鳴なのだか、骨が折れた音なのだかは、蹴った本人だけがわかっていれば十分だった。
 左足を引くと同時に、体を捻り、右足ごと、きりもみ状態で突っ込む。
 一人、二人と吹き飛び、倒れる。目まぐるしく動く全てを、幽香は把握していた。
 着地と同時に足を払い、浮いた相手に、渾身のタックルが決まる。向こうの辻の方まで吹っ飛んでいくのを最後まで見届けず、幽香は、最後の一人と向き合った。
「地上の陽に当たってないからかしら? 随分、ヤワだこと」
「ま、まて、話を――」
 言いかけて、気付いたときには、その妖怪は地面に押さえ付けられていた。普通なら暴れるところだが、その気さえ起こらない。
 幽香は、圧倒的だった。
「喋ってると、折れなくて良い場所まで折れるわよ?」
 相手は、これから自身を襲うであろう痛みを想像しただけで、気を失った。
 痛めつける気の無くなった幽香は、立ち上がると、傍に落ちていた自分の帽子を被った。
「今更、酒が回ってきたわね」
 楽しげに去っていく幽香の背中を、周囲は黙って見送るしかなかった。


「随分とお楽しみだったようで」
 宿の風呂から上がって、部屋でくつろいでいた幽香の所に、番頭が果物を持ってきた。
 先程の喧嘩の話が、耳に入ったのだろう。その手の噂は広まり易い。
 幽香は浴衣を引っ掛けただけの、ほとんど半裸だったが、構わずに煙草を吸い続けていた。
「明日にでも出てけ、とでも言いに来たのかしら?」
「そんなことをしたら、宿の評判は落ちますよ」
 言いつつ、地熱を利用した暖房器具の調子を確かめる。
 そのとき前髪の間から、人差し指の先ぐらいの大きさの角が、見えた。
「あなた、鬼だったの?」
「ええ。といっても、地上から来た鬼じゃありません。地獄が移るときに、居残ったんですよ」
「ということは……元は役人だったわけだ」
「ですな。お疲れの所、お邪魔しました」
 唸っていた暖房機が静かになったのがわかると、番頭は出ていった。
 番頭の持ってきたリンゴは小ぶりだったが、歯応えと酸味は適度だった。
 窓の外には、あの巨大な円筒が暗闇の中に立ち尽くしている。
 ――明日、起きられるかしら?
 そう思いながらも、幽香はなかなか、窓際の椅子から離れなかった。


 幽香が目を覚ましたとき、時計は八時になっていた。
 顔を洗うなどしてから部屋に戻っても、八時のままだった。
「はあ、時計職人ですか?」
 客用の受付で帳面を付けていた番頭が、小窓の向こうから声をかけた幽香に、顔を上げた。
 口で言ってもわかりづらいと思い、幽香は自分の懐中時計を、番頭に見せた。
 番頭は秒針が動いていないのを見て、頷いた。
「昨日、壊しましたか?」
「多分ね。――で、時計職人なんて、いるの?」
「いますよ」
「えっ、いるの?」
「聞いておいてそれは、あんまりですよ」
 番頭は手仕草で少し待つように伝えて、部屋の中にある戸棚から、置物型の時計を持ってきた。
 その置物には時計盤の他に日付盤や月齢盤まで付いており、きちんと機能していた。
「これ、私が退職したときに、付き合いのあった時計屋で買ったものなんですよ。元は地上のもので、壊れていたそうですが、その時計屋、凝り性でしてね。自分で部品を作って直したものを、売り出していたんです」
「自分で部品を?」
 凝り性というより、既に病的なものを感じる。時計というのは同じ部品でもズレが生じるものらしいし、それを一から自分で作って、なおかつ調整しているのだから。
「まあ、ここでは時計が必需品なもので、他にも何軒か時計屋はありますよ」
「そんなに地底の連中は几帳面なのかしら?」
「気分の問題ですよ。現にお客様だって……」
「まるで私が几帳面じゃないみたいね。当たってるけど」
 これが地上だったら『直すのなんて、いつでも良いか』と済ませていただろう。
 意識しているにせよ、していないにせよ、太陽の位置や明暗の加減で時刻がわからないというのは、相当なストレスがあるのかもしれない。
「あの霊烏路のお嬢さんも、あんまりに時計に慣れてるもんだから、太陽の加減を時刻で変えるようなことはしていないって話ですよ。ここら辺は常に暗いから、あまりわかりませんがね」
「お嬢さん、ね……会ったことあるの?」
「ええ。暇なときは、よくぶらぶらと歩いてるのを見かけますね。で、時計はどうします?」
 私が代わりに行きましょうか、という意味である。
 幽香は、かぶりを振った。
「直るまでどれぐらいかかるか、確かめたいから」
「そうですか。では、大体の店の位置を書きますよ」
 万年筆でさらさらと書かれたメモを受け取った幽香は、早速、その店に行ってみることにした。
 花市が終わるまでには、大分ある。ブーツに傷みや染みが無いのを確認して、悠々と宿を出た。

 時計屋は結構前からあるためか、地霊殿からそう遠くない位置にあった。
 ここら辺は鬼達の屋敷から近く、人通りは少ない。
 鬼とやり合うのは幽香もやぶさかではないが、これ以上、修理するものが増えても困る。あまりぶらぶらとせずに歩いていくと、じきにそれらしい店の前にでた。
 町屋風の店先に、看板の代わりに、二メートル近くもある掛時計が出ている。店主の趣味なのか、よく手入れされた盆栽もいくつか置かれていた。
 引き戸を開けて中に入れば、土間を上がった先で仕事をしている店主らしき姿が、見えた。
「……修理かね?」
 低い声だったが、聞き心地は悪くない。それに、よく通る。
 店内の左右に積まれた風呂敷包みは、全て時計らしい。いくつかは中身が出ており、どれも艶がかっていた。行燈の光が、時計に命を与えているようにも見える。
「修理って、よくわかったわね」
「物を壊しそうな顔をしとるからな。うちの孫みたいに」
 嘘か本当かは知らないが、店主は頭に巻いた手拭いを取って、土間まで出てきた。
 頭は白髪ではなく、皺の走った顔の割に、綺麗な銀髪をしていた。
 幽香は無言で懐中時計を取り出し、店主に手渡した。
 すると、物陰からひょろひょろと霊魂が出てきて、店主の手の平に乗せられた時計に頬擦りし始めた。
「そいつは時計フェチなのかしら?」
「いや、そういうわけじゃないんだが……これが一番、わかりやすくてな。汚くはないから安心せい」
 店主だけでなく、霊魂まで尾っぽの辺りを振って、大丈夫だとアピールする。
 霊魂はじきにこくこくと頷いて、また物陰に隠れた。
「シャイなの?」
「あんた、わりと気にする方だなあ。まあ、こういう年寄りにも色々事情ってもんがあるんだ。心配せんでも、直せるもんはきちんと直す」
「どれぐらいかかる?」
「実際に開けてみないとはっきりとはわからんが……まあ、明日には直ってるだろ」
「えらく早いわね」
 一週間ぐらいか、さもなければ直らないと思い込んでいたので、意外だった。
 そんな幽香の反応に、店主が手拭いをヒラヒラと振りながら、説明した。
「部品を発注するわけでもなし、こんな所で急ぎの仕事が入るわけでもなし。さっさと直したのを渡して、異常があったらまた来てもらう方が良いわけだ。それが面倒なら、地上に戻ってから直した方が良いぞ」
 地上から来たのは、見ればわかるものらしい。
 地上にも修理屋の類はあるが専門的なものではない。ここで預けてしまった方が、間違いは無いだろう。
「――こちらでお願いするわ。直せても直せなくてもいいから、とりあえず、明日また来るわ」
「承った」
 それまでいい加減そうな態度だった店主が、急に容を改めて、頭を下げた。
 番頭もそうだったが、地底はそういう文化なのだろうか。
 しかし番頭と知り合いということを考えると、他の可能性も有り得た。
「あなたも、元は役人だったの?」
「あんた、あの宿に泊まってるのか」
 奥の机に時計を置きに行っていた店主が、わざわざ振り返った。
「まあ、役人とは無縁だったわけじゃないが、ちょっと違うな。長いことお仕えしていた所から出るとき、こっちで住めるようにしてもらったのさ」
「何もこんな所じゃなくても良かったんじゃない?」
「長生きし過ぎたのが日の当たる場所におると、妬まれるからな。こういう所が合ってるんだ」
「そう謙虚なことを言う割には、手に物騒な傷が多いけど?」
 店主に時計を渡してから、ずっと観察していた。指先だけなら工具で傷付くこともあるだろうが、指の付け根や手の甲、平に、種々の傷跡が走っているのが見えた。
「欲求不満なら、もっと若いのを見付けてくれ」
「あなたの孫とか?」
 流石に機嫌を損ねたのか、店主は答えなかった。
 幽香も自分がここまでねちっこくなっているのが不思議だったから、帽子を脱いで、軽めの謝罪とした。
 そのまま踵を返して、入ってきた引き戸に手をかける。
 そこで、今一度だけ振り返った。
「表の盆栽、間引き方が良かったのね。枝の曲がりが結構だわ」
 店主は黙ったままだったが、霊魂が出てきて、ぺこりとお辞儀した。

 花市の近くまで来た幽香は、喫茶店を見付けた。こんな所でコーヒーが飲めるとは思っていなかったので入ってみると、久々に嗅ぐ豆の香りで、逆に眠気が昇ってきた。
「いらっしゃいまし」
 カウンターの向こうから、十六夜咲夜が手を振った。
 ――突っ込んだら負け、って言うのかしら……?
 とりあえずカウンター席に陣取って、煙草のフィルターを肴にしながら、軽食が出てくるのを待つことにした。
 客は他にいない。それというのも、コーヒーの値段が全体的に高いからだろう。昨日の食堂で熱燗を一本頼むより高い。
「お昼にこの入りで、やってけるわけ?」
「最低限、私が飲みたいときに飲めれば良いの。住居も兼ねてるから」
 冗談も兼ねていたようで、口端は笑っていた。
 いくら高いとはいえ、本物のコーヒーが飲めるなら、自分のような客はいるのだろう。そんな客がやって来るかどうか、幽香は入り口をぼうっと眺めていた。
「昨晩のお相手でも待ってるのかしら?」
 咲夜の言い方は、幽香と妖夢との一件を知っていなくても出てくる言葉だった。
 幽香は鼻で笑いつつも、その妖夢の件について触れた。
「変な霊魂がくっついて回ってる子、あなた知ってる?」
「まあ、珍しいからね」
「そうよね、やっぱり珍しいわよね」
 幽香から、その妖夢と会ったことを教えられ、咲夜は首を傾げた。
「冬とはいえ、そんなに暇なのかしら?」
「あなたほど忙しいのもいないだろうけど」
 咲夜が、ブレンドとサンドウィッチをカウンターに出す。
 煙草を消して、とりあえずコーヒーを口に運ぶ。たっぷりと時間をかけて一口目を嚥下して、幽香は温い息を吐いた。
「お酒はしみるけど、コーヒーの場合、鼻の奥に穴を開けて、脳味噌に飛び込んでくるわよね」
「テイスティングとしては嫌な喩えね。参考までに、煙草はどうなるのかしら?」
「耳の上にもう一つ耳穴が出来る感じ」
「ああ……はいはい」
 そんなやり取りをしている内に、サンドウィッチが無くなった。
 新しく出来た耳穴の掃除をしながら、幽香が思い出したことを呟いた。
「さっき、時計屋に行ってきたわ。珍しいのが、そこにもいた」
 手仕草で宙に描いた霊魂を、撫でてみる。
「まさか地上と地底がこうなるとは思わなかったんでしょうね」
 あの老人のことを知らなければ、「時計屋に妖夢がいた」という意味で幽香の言葉を取るはずで、咲夜も時計屋については聞き及んでいるらしかった。
 となれば、話は早い。
「やっぱり、親戚かしらね」
「どうかしらね……同じ妖怪が血を分けているとは限らないでしょう。ただ、冥界の庭師の先代はどこかに幽居した、というのは聞いたことがあるわ」
 妖夢が冥界の庭師であることは、幽香も思い出していた。咲夜と同じく、花の異変のときに会ってもいる。
「その先代とあの子と、関係があるの?」
「お祖父さんに当たる、って。それでもやっぱり、血縁もあるとは限らない」
「やけにこだわるわね」
「血が繋がっているかどうか、というのは、当人には迷惑な噂だもの。真偽はともかくとしても」
 幽香には、そこら辺の人間の機微がわかりづらい。ただ、科学的な見地から共感できなくもない。
 花や植物の中に特殊なものが出てきたとして、それを別の種類とたった一つ共通点があるだけで「似たようなものだ」と満足してしまう場合がある。これは個々の特質が理解されなくなる、という点で、双方にとって著しい損失になる。
 自分の知っている範囲で解決しようとするからそうなるのであって、観察者としての本分と謙虚さこそが、世界を広げるといえる。
 とはいえ、そうした精神は幽香の場合、ほとんどが草花に費やされるから、もっとごちゃごちゃとした人間関係の話になってくると、お手上げだった。
「ま、祖父と孫って関係はほとんど疑いないし、それで良いでしょう。それより、あの子は自分のおじいちゃんがここにいるって、知ってるのかしら?」
「微妙な所だけど……妖怪を斬ったりしたこととは関係があるのかどうか」
「妖怪を斬ったのは知ってるけど、何があったの?」
「え? その場にいたんでしょう?」
「どういう噂になってるか知らないけど、私は妖夢を追ってきた連中と遊んだだけよ。遊ぶのに理由はいらないもの。わからなくて当然よ」
「普通はそこで訊ねるか、相手の言い分を聞くものだけど……」
「あなただってどっちかといえば人の話を聞かない方でしょうよ」
「私が聞きたくないことを喋ろうとする輩が多過ぎるのですわ」
「はいはい、私も気を付けることにするわ。というけで、コーヒーのおかわり」
 二杯目をゆっくりと飲みながら、幽香は咲夜が知っている範囲のことに耳を傾けた。
 どうも妖夢は何かを探していて、そのくせ相手の話を聞かないものだから、揉め事に発展するらしい。昨晩のことも、数ある揉め事の一つでしかなかった。
 かれこれ一週間、そこかしこで、似たような話を咲夜は耳にしているとのことだ。
 総合的に判断して、幽香はこう断言するしかなかった。
「剣呑だわ」
「私としては、そこにあなたが加わりそうなのが一番の不安」
「そんなことしないわよ。まだのんびりしたいのに、面倒事が増えるのは嫌だわ。巻き込まれた場合は、話は別だけどね」
「……まあ、妖怪にしては殊勝な心がけよね。面倒なことになりそうだったら、ここに来なさいよ。夜も開けてるから」
「覚えておくわ」
 金の代わりに宿の名前を書いて咲夜に渡し、店を出る。
 早朝の湖畔を思わせる冷たい空気が、幽香の頬を滑った。地底では昼過ぎに雪が降ることが多い、と咲夜は言っていた。
 ――雪に映える花というのも、良いかもしれない。
 幽香は、ようやく花市の方へと足を向けた。


 花市には、蓮根が並んでいた。
 蓮根の隣には大根があり、そのまた隣には南瓜があり、今川焼き屋が鉄板の前で退屈そうにしている。
 幽香は通りの入り口まで戻り、立てかけてある看板をよく確認した。
『花市(二七の市の日はお休み)』
 二七の市とは何ぞや、と思って更に隣の看板を見てみると、『二と七の付く日は市でお買い物!』とご丁寧に書かれていた。
 今日は、十二月十二日だった。
 ――番頭にしろ咲夜にしろ、教えてくれたって良いじゃない。
 幽香は憤ったが、そもそも彼女は自分が花市を目当てに来たことは誰にも言っていないのだった。
 やがて自分でもそれに気が付いたが、落ち込んだりはしなかった。これが昨日だったら地上に帰ってしまったかもしれないが、地底でのんびりできる状態にはなっていたので、特に問題は無いのだった。
 気を取り直して、再び通りに入っていく。
 地べたにシートを敷いて、その上に持ってきた野菜などを並べている。反物や工芸品を持ってきているのも結構いて、よく見ると、花を売っているのもいた。
 確かにこれなら、通常の市のある日は、花市は休みで良いだろう。
「このシクラメン、庭用の?」
 赤い花弁に白が柔らかく混じっているものが目に留まる。
 店主は椅子に座ったままで、店先で屈んで鉢を眺めている幽香に答えた。
「いやあ、このまま鉢で、部屋に置いて楽しんでもらうのが一番だねえ。霜に弱いもんでさ。庭用となると、やっぱり花市でないとね」
「なるほどね……じゃあこの鉢、ちょうだい。後で取りに来るわ」
 用意しておいた路銀を渡して、他を見て回ることにした。
 今の花屋はともかく、全体としては、やはり野菜を売っているのが目立つ。
 中でも蓮根が多い。いくら地底とはいえ、季節としてはやや外したものである。それにしては太く、がっしりとしていて、艶からして、味もなかなかに思われた。
 一度、通りの端っこまで行って戻ってきた幽香は、適当な店主に話しかけた。
「地底って、蓮根がそんなに出来るの?」
「ああ、お客さん、上の人か。――地底には結構、使われていない貯め池みたいなのがあってね。元は地獄の釜を置いていた場所だ、とか言われてるが、そこでやたらと蓮根が取れるのよ。地底にいた尼さんが食う物が無くて作り始めたんだけど、水が合ったっていうか、もりもり育って、蓮は咲くわ根っこはこの通りぶっといわで、あっという間に特産物よ。誰もこんな所で蓮なんて植えたことなかったから、気付かなかったんだな。煮て良し、揚げて良し、擦り下ろしたのも食えるんだぜ? 俺なんて蓮根が三食続いても飽きないな。そうそう、その尼さんなら俺も会ったことあってさ、物憂げな感じがね、良かったね、うん。でもねえ、ほら、例の船の騒ぎで、その人も上に行っちゃったんだよね。俺らにしてみたら蓮根を授けてくれた仏様みたいなもんなんだけど、あの人より立派な人が蘇ったとかいうから、まあ、仕方ないんだろうなあ」
 何かのスイッチが入ったとしか思えないぐらいの速度でくっちゃべって、店主は脇に置いてあった酒を飲んだ。
 解説は大変にありがたいが、ここで買うぐらいなら食堂で煮物でも頼んだ方が良い。
 ただ……、
「うーん、そんなに美味いのか……」
 この隣で悩んでいる剣客少女は、食堂では頼めなさそうだった。
 いつからいたのか知らないが、妖夢は食い入るように蓮根を見つめている。
 店主は、ぱん、と手を叩いて、にわかに立ち上がった。
「論より証拠、とりあえず食ってみねえ」
 店のすぐ後ろにある水路で汲んだ水で、蓮根を洗う。汚れだけでなく皮もそれなりに剥がれた所で、おろし金で卸す。
 それをお椀の中程まで注いで、妖夢に突き出した。
 妖夢はお椀を傾けて粘り具合を確かめてから、ずずりと啜った。食べる音だけで、幽香にも質感がわかる。
 一頻り味わった妖夢は、差し出された酒で口を直した。
「確かにこれは美味いな。このまま白米にかけてもイケそうだ」
「おう、イケるイケる」
「こんなことなら最初から市に来れば良かった……」
「何のことか知らないが、買ってくなら安くさせてもらうぜ」
「ああ……じゃあ、十キロぐらいもらおうか」
 そんな具合で、幽香を他所に、話がとんとん拍子にまとまった。
 何とはなしに妖夢と一緒に店を離れた幽香は、縄で括った蓮根の束を担いでいる妖夢に訊ねた。
「噂と大分違うんだけど」
「噂?」
「揉め事が絶えないんでしょ?」
「……ああ! 昨夜の人じゃないか!」
 これは立ち話では駄目そうだ。
 幽香は妖夢を誘って、咲夜の所へと戻った。
 彼女ら二人の後ろに刃物の類を持ったのが付いて来ていないか視線を走らせて、咲夜は溜め息を吐いた。
「まさかこんなに早く戻ってくるとは思わなかったわ」
「花市がやってなかったのよ」
「花なら持ってるじゃないの」
 幽香が持って来たシクラメンの鉢が、カウンターの上に置かれている。
 幽香は答えるのが面倒くさかったので、カプチーノを二つ頼んだ。
 妖夢はといえば、蓮根と刀を自分の隣の机に上手いこと置いて、カウンターに突っ伏していた。
「ここは落ち着くな……」
「ちょっと、寝ないでよ? ――もしかして、昨晩から寝てないわけ?」
「宿を追い出されてな」
 やはり、そういう宿もあるらしい。まあ、幽香が泊まっている宿の番頭でも、妖夢相手に堪忍袋の緒がもつかどうかは怪しいのだが。
「しかし、土産も手に入ったし、これでいつでも帰れる……」
「お土産を探してたの?」
「ああ。正月には幽々子様に地底の珍味でもお出ししようと、暇をもらってこちらに来たんだ。意外とあっさり許可も出たので気ままにやっていたんだが、どうしたことか、肝心の土産だけが見つからなくて」
 どうも微妙な嘘が紛れていそうな話だったので、幽香は慎重に問い質してみた。
「いったいどういう探し方してたのよ」
「土地のことは土地の者を見ればわかる、というだろう?」
「ああ、まあね」
「だからこう、土地の者を斬ればもっとわかるかな、と……」
 蓮根を買ったときは、たまたま疲れていて、そういう気が全く起きなかったらしい。
「首でも土産にすれば良かったのよ」
「一時はそれも考えた」
 考えたのか。相当に追い込まれていたらしいが、自業自得である。
 もっとも、妖夢もそれなりに相手は選んでいたのだろうし、さもなければもっと大事になっているだろう。
 咲夜がカプチーノを出した頃、妖夢はすっかり寝入ってしまっていた。
 咲夜は店の表の灯りを落としてくると、幽香とは妖夢を挟んで反対側の席に座り、妖夢の代わりにカップに口を付けた。
「お優しいこと」
「自分に甘いだけよ」
「そう」
 シュボッ、と燐の燃える音がして、やがて紫煙が店内に漂い始める。カプチーノの厚ぼったい香りの邪魔にはならなさそうだった。
「いつもこれぐらい暗いと、引き籠るのには良さそうね」
 声まで暗闇に翳ったかと思われた頃、幽香が呟いた。咲夜はリンゴの皮を剥く手を止めた。
「引き籠るのなら、暗さは関係無いでしょう?」
「窓の外が暗ければ一人でいることに安心するけど、明るいときに一人でいるのは落ち着かないわ」
「子供と違って、一人暮らしに慣れた人の意見だわね。今みたいに数人でいるのはどうなの?」
「こいつらはこんな所にいて何が楽しいんだろう、って思うわ」
「自分は含めないのね」
「自分を他者と同列に扱うのは、冷静なようでいて、惰性だわ」
「惰性は嫌い?」
「他に行く場所があるなら好きよ。そこにしかいられないのに惰性に任せるのは、自殺みたいなものね」
「結果として、それが安息になるかもしれないけれど」
「それは人の勝手よ。少なくともこの子は、寝心地は良さそうだわ」
 自分の腕を枕にして、妖夢は寝息を立てている。霊魂の方も肩の上で寝転んでいて、たまにぷるぷると身震いする。
「このシクラメン、ここに置いておいてもらえるかしら」
「ええ」
 幽香は席を立つと、咲夜の切ったリンゴをひとかけら、指で摘まんだ。
「また来ると思うわ」
「そう。いってらっしゃい」
「その言い方は新鮮だわね」
 店を出てから、リンゴを齧る。少しボケた歯触りが、嚥下した後も残った。


 太陽の根っこ。水路の交わるそこを、幽香はそう名付けて、昨日と同じように煙草を吸っていた。違いを挙げるとすれば、トランクと目的が無くなったことだろう。
 思考というやつは荷物が無いときの方が重たく感じる。デフレと似たようなものかもしれない。素直に景気が悪い、と言ってしまった方が良いようにも思える。
 とまあ、こんな風に、一々の思考が泥に嵌まる。
 こんな湿気のある場所で煙草を吸っているのも悪いのだろうが、見通しの良い位置に陣取って、太陽の木を見上げ続けている。
 ここまで大きな建造物を幽香は見たことが無い。遠くに見える地霊殿も相当な大きさなのだろうが、これと比べるとただの洋館にしか見えない。
 それでいて、あまりに周囲と隔絶しているために思考が躍動するには至らない。
 今日はちぐはぐなことばかりだ。
 ――他に、行く場所はあったろうか。
 何度目かの自身への問いかけに、瞳孔が痺れた。
 上空から、何かが落ちてくる。
 黒い塊のようなそれは、噴き出し始めた水の筋を幾条も砕きながら、真っ直ぐに落ちてきた。
 そのままの速度で着水していれば周囲の屋根まで水飛沫を被るはめになったろうが、そうはならなかった。
 球体上のそれは、体を包んでいた翼を広げ、マントを翻し、風に体を抱き上げさせた。
「やっぱり、昨日の人だ」
 煙草を吸ったままでいた幽香は、目の前に現れた少女を、じっと見つめた。まさか、あの天辺からこちらを視認したのだろうか。
「烏は光物には目が利くっていうけど」
「私はどんなものでも明るく照らせるわ」
 霊烏路空は周囲の喧騒を気にもせず、幽香の隣に降り立った。今みたいなことを臆面も無く言えるのには、素直に感心する。
 幽香は煙草を消して立ち上がり、帽子を被り直した。
「観光案内でもしてくれる?」
「する、する」
 歩き出した幽香の右腕に、お空が引っ付いた。
「今日は私があなたの制御棒!」
「……その言い方は随分アレだけど……そういえばあなた、自分のは?」
 話に聞く限りでは、お空は右腕に力を操るための制御棒を嵌め、左右の足にも特徴があるとのことだった。
 その手の質問は慣れっこなのか、お空は簡潔に答えた。
「必要の無いときはしまっておけるの。仕組みはよくわからない」
「そう、奇遇ね。私もあなたの仕組みがわからないわ。どうして、わざわざ私の所に来たの?」
「昨日は半端に別れちゃったから、今度会ったときのこと考えてたんだ。それで、さっき見付けて……」
 太陽光が地上に届くにはとんでもない年数がかかるそうだが、地底ではそうでもないらしい。
「ねえねえ、鬼のお酒飲みに行こうよ。友達と飲みに行っても、みんな先に潰れちゃうから、つまらないんだ」
「飲むだけじゃなくて、何種類か味わえるなら、良いわよ」
「じゃあ決まり」
 お空は幽香の腕を抱く力を窄めると、鬼の屋敷が集まっている方角へ歩き出した。
 時計屋とは離れていたが、町並は似ていた。瓦屋根が町屋にのっぺりと続き、軒先で行燈や提灯が光を揺らす。道端の砂利の音は暗闇が空気を噛み締める音のようにも聞こえる。
 こちらでは、雪が降り出していた。
「この間、初めて地上の雪を見に行ったんだけど」
「けど?」
「土臭くなくって、美味しかった」
「食べ物じゃないわよ」
「当たり前だよ。あんなに沢山積もってたら、食べ切れない」
「……気宇壮大なこと」
 鬼達は軒先や小さな屋台に少人数で集まっては好き勝手に飲んでいた。
 大騒ぎしている連中は見受けられず、これは時間帯も影響しているのかもしれない。
 それにしても鬼というやつは、金髪だったり赤髪だったり、大人しくしていても目立つ。幻想郷は女子の比率が高いこともあって、着物の背中に長髪を流して飲む様は、鬼のケレン味の無さも手伝って、強烈だった。
 幽香の場合、黒髪から色素を丹念に落としていった具合なのだが、妖怪の頭髪事情は個体差が顕著で、一概に語れるものでもない。なお、霊夢などは「寝過ぎが原因」と断言して憚らない。
 お空は長い後ろ髪をなびかせて、戸の開いている屋敷の中にふらりと入った。
 そこは細長い建物の奥に向かって甕が並び、広いとはいえない座敷で、一人の鬼が、肘掛けにもたれて酒を飲んでいた。
「おや、いらっしゃい」
 水浴びをしている女性よりも木に引っ掛けられた着物の方が色っぽかった、という冗談を聞いた覚えが幽香にはあったが、その喩えが初めて、幽香の血肉となった。
 その鬼は無造作に投げ出した体に襦袢と着物を引っ掛けているだけの格好でありながら、長年に渡って枝振りを完成させた樹木を、連想させたのだった。
「相変わらず勇儀は風邪ひきそうな格好してるね」
「道端で酔っ払って寝ちまう萃香やあんたよりは、よっぽど健康的だと思うんだけどねえ。まあ、ここん所は引き籠ってばっかりだから、文句も言えないか」
 話しながら、お空が廊下にある掛札を指差しで幽香に教えた。二十ほどもある掛札の内、名前を表にしているのは一枚だけ。その札に、星熊勇儀と書かれている。
「その日お酒を飲んだり振る舞ったりした鬼が、ああやっておくわけ」
 いかにも鬼らしい、あっけらかんとした風習だが、実際の効果は考えない方が良いのかもしれない。
 ついでにお空が幽香の紹介もしてくれたので、幽香は帽子を脱いだだけで挨拶に代えた。
「それで、何で引き籠ってるの?」
 座敷に座って、満杯まで足されていた一升瓶から、お空が酒を注ぐ。
 勇儀は幽香にも酒が渡ったのを見届けてから、唸るように答えた。
「冥界のが、チンピラを斬ってるって話でね。勝負したいんだが、冥界のは手を出し辛い、んで、こうして畳の皺を数えてたわけ」
「冥界がどうかしたの?」
「あすこは閻魔と縁があるからね。あれは良くも悪くも私心が無いけど、万が一にも関わると、面倒臭くっていけない」
 閻魔、という単語に、幽香が猪口の傾きを戻した。
「あれ? 口に合わなかった?」
 お空の問いかけを、幽香は微笑で誤魔化す。
 改めて酒を味わってから、それについて答えた。
「美味しいわ。このはっきりしたコクは、地底のお酒特有だわね」
「そうでないのもあるけど、大体はそうかな?」
 お空の言葉は勇儀に向かってのもので、彼女は額の一本角を僅かに動かして、思い出すような仕草を見せた。
「私なんかは濁酒の味が基本にあるから、かえって凝った造りになってるかもねえ」
 実際に酒を造っているのは彼女ではないのだろうが、意向が影響する立場なのは間違いないらしい。
「そういえば、酒の造り方についても閻魔は口出してたっけ。それについちゃ、犬の小便みたいな酒も多かったときのこと考えると、有難かったけどねえ」
「犬の小便って飲めるの?」
「……間違っても飲むなよ? ああ、裏庭にハゼの干物があるから、焼いてきてくれ。こちらさん、酒についてはきちんともてなしておくから」
 お空はこくこくと頷いて、履き直した靴を鳴らしていった。
 彼女の翼が見えなくなってから、勇儀が肘掛けから体を起こした。刀も通さないといわれる肌が、着物の袂を億劫そうにくねらせる。
 慣れた手付きで胸元を直したものの、露出度はあまり変わっていなかった。
「あの子はギラギラしてて、飼い主とは大違いだねえ」
「いつからここに来てるの?」
「あー、っと……たしか船が上に出たか出ない頃だったかな? あの性格だから、灼熱地獄の外が楽しくて仕方なかったんだろう。あっという間に馴染んだよ。そこいくと、あんたみたいなのとは相性が良い」
「……どういう意味?」
 訊ねるかどうか迷いながらだったが、別の酒を注がれるときに、つい声に出ていた。
 その酒は、随分と辛口だった。
「死に場所を探してふらふらしてるように見える、ってこと」
「ついさっき会ったばかりにしては、知ったような口をきくじゃない」
「あんたとあの子だって、似たようなもんだよ。私はあの子のことはそれなりにわかる。あの子とふらふらできるってだけでも、相当な根拠さ」
「あの子の何がわかるのよ」
「明るい所かな?」
 失笑を幽香は禁じ得なかったが、自分でも奇妙に思えるぐらい、その笑い方はぎこちなかった。
「……さっきの話だと、閻魔と会ったことあるみたいね」
「あんたもね。まあ、人によって印象が変わるような奴じゃないよ」
 じきに、ハゼの焼ける独特の匂いが流れてきて、お互いの空気が緩んだ。天窓に嵌められた障子戸に、雪の陰がちらつくのが見える。
 外の方が明るく感じるほど、この中は暗いらしい。目が慣れると、そういうことはわからなくなる。
 もしかすると自分は、自覚しているよりもずっと、暗い場所に居続けていたのだろうか。
 瞼の裏よりも暗い、そんな場所に。
「長く生きてると、気付かなくなることもあるのかしら」
「かもしらん。私もね、酒の味に気を付けるようにはしてるよ」 
「私も、リキュールでも造ろうかしら。一時期は毎年作っていたけど」
「良いね。出来上がったら、私にもおくれよ」
 閻魔が去って、鬼が居る。その意味を考えながら、幽香は猪口を口に運ぶ回数を重ねていった。


「やあ、どこかで血塗れになって倒れているのかと思いましたよ」
 受付の窓の前を通り過ぎると、番頭が出てきた。
 時刻は、午後の二時。勇儀とお空に付き合った結果、ついさっきまで、あの屋敷で酔い潰れていたのだった。
「三千世界の鴉を殺し、って歌ったのは誰だったかしらね……」
「高杉晋作ですな。朝っぱらから五月蠅い鴉を殺して、お前とゆっくり寝てたいもんだ、というやつで、まあ、地底で鴉なんて地獄烏ぐらいしか――」
 言いかけて、番頭の唇がくちばしみたいに尖った。
「まさか、霊烏路のお嬢さんと何か……?」
「あの子に誘われて鬼の所で遅くまで飲んでたら、こんな時間になったのよ」
 血の気の多い話でないとわかって、番頭の口端が緩んだ。
「それはまた艶のある話ですな。――お風呂でしたら、浴衣を用意いたしますが?」
 返事も億劫で、幽香は手を振りながら浴場の方へ歩いていく。
 長らく二日酔いというものを経験していなかったが、数種類の酒を試しながらの夜通しの飲酒は、流石に応えた。
 何より、――
「楽しかったわね……」
 湯船に肩まで浸かり、泡の音みたいな大きさで、呟いた。
 お空は地上に出たときに疑問に思ったことを、何でも聞いてきた。
 どうして地上の太陽には黒い点があるのか。風向きが毎日変わるのは何故か。神様のいない神社があるのは? 里で食べたあれはどこから?
 そういうことを幽香の酒を足してやりながら、時には同じことを繰り返し、聞いてきたのだった。
 幽香は長年の経験から、お空がどれほど強大な力を持っているか、知識以上に把握している。それでいながら純粋さを失わずにいるお空が、幽香の目には大変に貴重なものとして映ったのだった。
 自分がどんなに美しいかも知らないまま、窓の外の景色を眺め続ける少女。そんな絵が、幽香の頭の中にあるお空の額に飾られている。
 勇儀はといえば、心得たもので、たまに冗談を言ってからかう以外は、盃に想像の舟を浮かべて、楽しんでいた。
 お空はその言葉通り尋常でなく酒に強かった。
 強かったが、睡眠欲はもっと強かった。
 あるとき、目を擦り始めたな、と思っていたら、やおらコローンとひっくり返って、幽香の膝に頭を乗せた状態で寝始めてしまった。
 それから勇儀もピッチを上げ始めたため、幽香も盃を乾す回数が増え、軽く寝て、起きてみれば、お空は帰った後だった。
 妖怪だけあって、こうして風呂に入っているだけで、残っていた酔いが醒めていく。
 人間なら体に悪い方法だったが、幽香にしてみると、脳髄から余計なものが抜けていくようで、心地よい。煙草でもそうだが、彼女はこの手の感覚が、特に好きなのだった。
 酒気の代わりに珠の汗が肌を潤し始めた頃、脱衣所に戻った。
 湯に浸かる前に洗った髪は結わえてあったが、解かれたそれが肩口を撫でる。
 浴衣を着込んで部屋でのんびりしていると、花市のことが今更のように思い出された。
「まあ、今日もお預けだわね」
 さっきまで来ていた服は、ジャケットだけが部屋に置いてあった。残りは番頭が洗っているのだろう。
 もっとも、今日は他の服に着替えることも無い。腹を決めて、窓際で詩集を読み始める。
 陽射しが当たらないから窓際にいる必要も無いのだが、微かな土の香りの中で、没頭していく。
 小一時間も経ったろうか。番頭が顔を見せた。
「良かった。起きてましたね」
「どうかした?」
「お客人です」
 寝ているかもしれない客の所にわざわざ言いに来たのだから、つまらない客ではないのだろう。
 トランクの中から服を取り出し、湿り気が飛び始めたばかりの浴衣から着替える。
 地底に来てからこっち、予定通りに動けたためしが無かった。

 玄関へと向かいながら、幽香は客人が誰か予想してみた。
 咲夜、妖夢、お空……。
 一人ずつ顔が浮かんだが、その予想はことごとく外れた。
「おはようさん」
 霊魂を連れた老人、――時計屋が、着物姿に眼鏡をかけ、頭にはカンカン帽を被り、ステッキを突いて、立っていた。
「うちのは、どこで死んでるかね?」
 出し抜けに言った時計屋に、受付に引っ込みかけていた番頭が、引っこ抜かれたみたいにして戻った。
「先生、それは……他の宿にいなかったというだけでは?」
「まあ、別に死んでなかろうが死んでいようが、どっちでもええんだ」
 話が見えない幽香ではあったが、誰のことを話しているかは察しが付いた。
「あの子なら、紅魔館のメイドの店で寝ていたはずよ。起きた後はどうしたか知らないけど」
「ああ、あのとぼけた嬢ちゃんの所か。そうか、なんだ、生きてるのか。お前さんがあれの死に場所を知っているなら、骸に小便でもひっかけてやろうかと思ったんだがなあ」
「本当にやりそうだから、見付けたら黙っておくことにするわ」
「そうかい」
 喉の裏を鼓みたいに鳴らして、時計屋は笑った。そして懐から包みを取り出し、幽香に手渡した。
 包みを開いてみると、中には幽香の懐中時計が入っていた。秒針が、規則正しく動いている。
「いやあ、なかなか興味深い造りだったぞ。衝撃があると、壊れたフリというか、そういう状態になって、それなりに時間をかけていじってやると、簡単に直りよった。締めの計算が精巧な証拠だ」
「ふうん……壊れたフリね……」
 コンコンと蓋を指で叩いて、幽香は懐に時計を入れた。
「ところで、どうしてわざわざ来たの? 私から行くことになってたわよね」
「今朝、盆栽の具合を見ていたら、知り合いと会ってな。お前さんが遅くまで飲んでたっていうから、外出がてら、宿に届けてやろうと思ったわけだ」
 勇儀は幽香が出てくるときに寝ていたから、時計屋の話で該当するのは、お空だけだった。
 普段からあそこら辺はぶらついているようだし、時計屋と知り合いでも大しておかしくはない。
 それより、気になることがある。
「空はどんな時計を持ってるの?」
 時計屋ならそれぐらい知っているだろう、と思ったが、彼は首を振った。
「元が烏だからか、神がかってるからか、一分一秒まで違わずに言い当てられるんだ。あいつが時計みたいなもんだよ」
 そうだったんですか、と感心したのは、お茶を出しに来た番頭だった。
 時計屋は上り框に腰を下ろしたから、幽香も宿の草履を履いて、同じようにして隣に座った。
「それにしても、上客を捕まえたもんだな。え?」
「人聞きの悪いことを言わんでくださいよ」
 からかわれた番頭は、そそくさと受付の中に入っていった。
 幽香は代金のことを思い出して、いつも懐に入れている袋から、銀を幾つか取り出した。
「これで足りるかしらね」
「ああ、十分十分」
 と言いつつ、幽香の手の平に出された銀の内、三分の二だけを時計屋は受け取った。
 それを懐に突っ込んでから、彼は訊ねた。
「もう上に戻るのか?」
「気分次第ね。ただ、今日ぐらいはのんびりするわ」
「そうか」
「あなたは?」
「久々に、あのとぼけた嬢ちゃんの所に茶でも飲みに行くよ」
「じゃあ、あまり茶腹を膨らませない方が良いんじゃないかしらね」
「あいつが入れた茶と、あの嬢ちゃんの茶を比べられるか?」
 幽香が肩をすくめると、時計屋は笑って、茶を飲み乾した。
 ステッキを、タンッ、と床に突いて拍子を付けると、真っ直ぐに立ち上がった。
「……孫と、どんな話をすれば良いと思う?」
「話したいことがあれば、自然と話すわよ。話さなくても……それはそれで良いと思うわ。それが近しいってことだと思うもの」
「そうか。いや、つまらんことを聞いたな」
 後ろは見ずに手を振って、時計屋が宿を出ていく。
 番頭はそれを見るや、素早く表に出て、頭を下げていた。
「そんなに世話になったの?」
 戻ってきた番頭に、何とはなしに訊ねる。
 番頭は他の客がいないことを確認してから、幽香の隣に座った。
 幽香は特に大柄というわけでもないのに、番頭は同じぐらいの背丈しかない。それだけ小柄と言って良い。
「鍾馗(しょうき)みたいな方ですな」
「鍾馗って、魔除けとかの」
「ええ、その鍾馗です」
 唐の高祖・李淵に受けた温情に報いるために、後の玄宗・李隆基の代に彼の病魔を祓ったのが鍾馗である。
 なお、日本だと戦国時代の上杉氏に仕えた斎藤朝信の異名や他の武将の旗印、帝国海軍戦闘機などで触れることが出来る。
「まだ地獄が移転する前のことですが、その頃は冥界が治外法権みたいなことになってましてね。西行寺のご令嬢があの通りの方で、手が付けられなかったからなんですな。八雲の化け物も、生前に知己だったからこそかもしれませんが、余計なことはしたがらず、半ば匙を投げてました」
 そこに、是非曲直と縁がある出身とかいう、魂魄妖忌、今の時計屋が現れたのだという。
 彼は冥界に足を踏み入れ、辺りを飛び交う死蝶の群れを見ることとなった。
「私もそのときは案内役の一人として付いていったんです。お恥ずかしい話ですが、危うく小便を漏らしそうになりましたよ」
「まあ、噂じゃ、あの蝶々って触るだけで死ねるって話だものね」
「いえ、違うんですよ。そうじゃないんです。あの先生は、笑ったんですよ。笑って、白刃を閃かせた」
 ――見ろ、あんなにも罪の無い死がある! 全て斬って、私の罪としてくれようぞ!
 妖忌は足下の土を砕いて、蝶の群れの中に飛び込んだ。
 まとわりつく蝶を斬っては捨て、斬っては捨て、上空から見るとそれは芋虫が蟻にたかられるも同然の状態だったのに、いつまで経っても妖忌は死ななかった。
 死なずに、蝶を死なせまくっていた。
 やがて見ていた側の印象も変わっていく。
 妖忌を岸壁とするなら、蝶は打ち寄せる波だった。その二つは相容れないようでいて、蝶の痕が妖忌の陰を濃くしていた。
 岩を活き活きと表現することで景気を表す水墨画の斧劈皴にも通じる、力強さがそこにはあった。
 それが三昼夜も続いた。
「いくら私らが鬼でも、意識が朦朧としてきましてね。応援でも呼ぼうかという話が出たとき、西行寺のご令嬢が、現れたんですな」
 番頭が西行寺幽々子を見たのは、それが初めてだった。
 蝶が人になった夢を見たなら、ああいう姿になるかもしれない。そんな風に思ったという。
 幽々子は口元を隠していた扇子を下げた。
 ――剣士というのは、皆、あなたのようなのかしら?
 答える妖忌は、黒ずんだ染みを体中に作りながらも、岸傑さは変わらなかった。
 ――いいえ、私でようやく、一人前といったところでございましょう。
 ――では私は、あなた以外の剣士を、一人前とは呼べませんね。
 幽々子は、散りに散った蝶を悼むように、または祝うように、歌を舞った。
 番頭にはそれが、妖忌に斬られるのを待っているかのようにも見えたという。
「結局、先生は斬りませんでした」
「それから?」
「罪作りな方だ、とだけ仰って、一度引き上げましたよ」
 番頭は、懐かしいような、おぞましいような、複雑な皺を眉間に作った。
「じきに先生がご令嬢の指南役という形になりましてね。それからはわりと平穏で、仲間で話題になったことといえば、お孫さんについてですかね。先生が最低限度以外のことはほとんどお孫さんに教えていなかったとかで、どういうつもりか、わからなかったようです」
「その言いぐさだと、あなたはわかるの?」
 番頭は、自分の顎を擦った。
「多分……教えなかったんではなく、教えることが無かったんだと思いますよ。私には、あのときに先生とご令嬢が交わしたやり取り以上に必要なものがあるとは、思えません」
 もっとも、それは番頭が現場を見たからこそで、一緒にいた数名の同僚を除いて、わからないことだった。
 ただ閻魔だけは、その目で見たわけでも、浄玻璃の鏡を使ったわけでもないのに、番頭の話に頷いていたという。
「私がここに残ったのも、先生が幽居されたことと無関係じゃないのかもしれません。ま、もちろん、こういう風に暮らしたかったから、というのが一番ですがね」
「儲からない宿での暮らしを?」
 屈託なく笑って、番頭は盆を下げた。


 幽香が咲夜の店を訪れたとき、彼女はグラスを拭いていた。
 スカートではなく黒いスラックスを履き、シャツに白く包まれた細めの体をベストで調えている。
 前に訪れたときにしまっていた戸棚には様々な形のボトルが並び、どれが真の琥珀色か惑わせる。
「ズブロッカ。――ロックで」
 咲夜は手早く用意して、コースターの上に品を出した。こういうときは時間を止めない辺り、サービスの質というものを見せることに、誇りを持っていると言える。
 その手で贈られたものを、ゆっくりと味わう。
 ここに来る前に見てきた貯め池の蓮は枯れていたが、その緑を想い起こす香りだった。
「元から好きなお酒だけど、地底で作った氷で飲むと、ふくいくとしたものがあるわね」
「そういえば以前、氷精に作らせた氷で飲んでみたことがあるんだけど……」
 他愛の無い話をしながら、グラスを替え、灰皿を埋めていく。
 直った懐中時計を見てみると、天辺を回っていた。
「食っちゃ寝してから繰り出したんだけど、結構経ってたのね」
「時計が泣くわよ。私はてっきり、余計な騒ぎに巻き込まれないようにしてたのかと思ってたわ」
 妖忌と妖夢のことを言っているのは明白で、幽香は頬を緩ませた。
「どうなった?」
「妖夢の方は、あなたが帰った後もずーっと寝こけてて、起きたときに風呂を貸してあげたら、奥でまた寝直してたわ。今日はやられた連中の仲間に見付からないように、夜までここで時間潰してから、上に戻るつもりだったみたい」
 いつも持ち歩いているとかいう文学集を妖夢がカウンターで読んでいたとき、妖忌が店に入ってきた。
 幽香が置いていったシクラメンを挟み、二人は椅子を二つ隔て、お互いに知らぬ顔をしていたという。
「私がシクラメンだったら、あの瞬間だけで枯れてるわね」
「そう謙遜するものじゃないわよ」
 それぞれの霊魂の方はシクラメンの辺りでゴロゴロし始め、妖忌が置いたカンカン帽で遊んだりしていた。
 妖忌はブレンドを二杯飲んで、煙草を一本、じっくりと吸うと、勘定を払った。
「それだけ?」
「それだけ」
 まさか本当に喋りもせずに帰るとは思っていなかった。
 何が問題かといえば、そういう二人を想像しても、全く違和感が湧かずに、それどころかカウンターの木目の表情まで、頭の中に描けそうだった。
「妖夢の方は、夕方には帰ったわ。今頃はもう、屋敷で寝てる頃でしょうね」
「蓮根を肴に、主人に付き合ってるかもよ」
「その主人は普段は早寝らしいけど……まあ、そういうこともあるかもね」
 自身も主の気まぐれには慣れている身だけに、思い当たることもあるらしかった。
 紅魔館製のチーズを摘みながら、黙々と、モクモクと、時間が過ぎる。
 再び口を開いたのは、幽香の方だった。
「あの子、やっぱり、あの人に会いに来たんじゃないかしらね。あれだけ暴れていた理由が、人斬り性情だけとは思えないわ」
「世の中にはそれで十分に説明できる人も多いわよ。いずれにしろ、本人に聞かないとわからないことだわ」
「……そうね」
 自分が思いたいことと真実は別である場合もあるし、そういう遊びが無くてはいけない、とも幽香は思う。
 彼女は自分について話すことにした。
「私はここに、花を探しに来たのよ」
「その花はきっと、自分が花だということを、忘れているのかもしれないわね」
「勿体無いことだわ」
 窓の外を見つめる少女が、誰を見ていたのか。
 幽香が懐中時計を眺めているのを、咲夜はじっと見ていた。
「……何?」
「その時計、うちにあった物なのよ」
 時計の縁を幽香はゆっくりと撫でた。
「そんなはずはないんだけど?」
「間違いないわ。お屋敷の貴重品は、私が全部磨いていたから」
 幽香は咲夜という人間の年齢についても頭をひねった。しかしそれは、どうとでもなることのように思われた。
 幽香が何を聞きたいのか見て取った咲夜は、手を休めて、自分のグラスに酒を注いだ。
「お嬢様はスキマ妖怪とかと揉めたことがあったんだけど、そのときに、外から持ってきたけど余り気味だった財産の内、結構な量を、渡したのよ。その中にそれも入っていたわけ」
 幽香の知っていることと、符合している。
 ただ、――と、咲夜は続けた。
「それは賄賂とか迷惑料とかじゃなくて、お嬢様なりに納得がいく方法だったみたいね。文章で記載されるような経緯としてじゃなく、そのときにちゃんと自分は対価を払ったんだ、ってわかりやすく示したかったのよ」
「それにしては、私はこれが紅魔館のものだったなんて、知らなかったわ」
「そこがお嬢様の……悪い所ね」
「褒めようがないわよね、そこは」
 幽香が笑うのを、咲夜はグラスを傾けることで、誤魔化した。
「それで、その時計は直ったのかしらね」
「直ったわ。前よりも良くなった」
「ふうん、そんなにあの人、腕が良いの……」
 頭の中で自分が持っている時計のことでも考え始めたらしい咲夜を横目に、幽香は時計を懐にしまった。
 すっきりとした酔いの中で目を閉じると、秒針と一体になったような気持ちになれた。


 幽香が地底に来てから、一週間が経った。
 花市には足を運んだが、地底で買った花は、結局、咲夜の店のシクラメンだけだった。
 太陽の根っこで、また煙草を吸っていた幽香は、初めて来たときと同じように、トランクに腰掛けていた。
 こうしていれば、太陽に黒い点が出来ることは、わかっていた。
「……来たわね」
 現れたお空は、制御棒を片腕に嵌め、他の部分も噂に違わなかった。
「黙って帰ろうかとも思ったんだけど、渡したい物があったのよ」
 お空は黙ったままで、心許なさそうに制御棒を撫でている。
 そんな彼女の、垂れた前髪を、幽香はそっとすくってやった。
「あなたには必要が無いかもしれないけど、この時計、持っていてちょうだい」
 取り出した懐中時計を、お空にしっかりと手渡す。彼女の指先は強張っていたから、しっかりと、確かに渡した。
「私は、時計を見るより、太陽を見てることにするわ。だから、持っていてちょうだい」
「……うん」
 幽香はお空の頭に頬を付けると、ゆっくりと呼吸をしてから、離れた。
「春になったら、私が造ったリキュールでも飲みに来ると良いわ」
 それからはお空の顔を見ないままに、トランクをキコキコと鳴らしていった。
 後ろで、太陽の水が溢れたようだった。

「んや?」
 歯磨きをしていた河童は幽香を見付けると、慌てて水を口に含んで、中のものを吐き出した。
「これから帰るの? てっきり、このままいるのかと思ってた」
「冬の間に、しておきたいことが出来てね」
「そっか。そういうときには、冬はもってこいだからね」
「ええ……」
 幽香は吸いかけの煙草を味わうと、火を消した。
「時計っていうのは、簡単にいじれるものかしら?」
「うーん、一から作るかどうかは別として、やっぱり元からあるものを手入れしたり分解したりしながら覚えないと駄目だね」
「そう。ありがとう。やっぱりこっちから帰ることにして正解だったわ」
「土蜘蛛もいないしねー。あいつらはホントに――」
 幽香の気持ちは、もう穴の上へと向かっていた。
 頭に浮かぶのは、寒椿が一枚一枚、花弁を散らしていく様だった。
 雪を被りながら、まるで恋占いをしているようなその様が、幽香は昔から好きだ。
「そう、昔から……」
「昔って? いつのこと?」
 河童の問いに、幽香はトランクを持ち直した。
 去り際に、彼女は河童に答えた。
「少女になった日のことよ」