第一話「Numps」

 最近、気づいたことがある。周囲の人間の俺を見る眼が違ってきたというのがそれだ。そもそも、話し方からして違う。
 朝、オフィス兼アパルトメントの一室から出てきた、ろくにケアもせずに放っておかれているにも関わらず主人に歯向かわない髪の毛を朝陽の傘にしたゼフィ―ルと会えば、「四捨五入四捨五入」と、念仏というか詩のようなことを口ずさむ。
「なんだ、最近はそんなおまじないが流行っているのか」
 何度目かの朝に俺は、彼に冗談混じりでそう聞いてみたが、「聖座に列する喜びさ」という、ていのよい、それでいてわかりづらい言葉を返されただけだった。
 日課となっているクロニクル誌を読みながら、最近趣味で煎れ始めたらしい珈琲を朝露の如く舌に滑らせているという、死徒らしくもない朝をエンジョイしているソロモンにそのことを話すと、いつものような小憎らしい笑みではなく、まるで七五三でも迎えた子供を見るような、あの――嬉しさと時事への興味を確認している――満足げな表情で応えると、また誌面に目を戻す。
 シエルもシエルで、娘の咲美を抱きかかえては、「ほぉら、おとうしゃまでしゅよー」とでも言わんばかりに目を弛ませて、俺に咲美を預けて朝食の準備に戻ってしまう。
「なんだ、俺は何かしたのかっ!?」
 調査費をちょろまかしたことはここ2、3年では覚えが無いし、寝屋で発奮しすぎて下のお二人さんの耳を害したことも、咲美が4歳の誕生日を迎えてからは、娘に萎縮したのか遠慮したのか、生まれたときからお世話になっている息子様がそうなったことはない。
「待てよ。……咲美が4歳ってことはだ」
 あっ。――俺、もうすぐ25歳だ。
「ようやく気づいたみたいだな。四捨五入の意味に」
 ゼフィールが言うが早いか、俺の肩に後ろから手を回してきた。本人が嫌がっている均整の取れたバストが背中に当たるが、気にはならない。慣れというのは恐ろしいものだが、これに慣れなければ俺がシエルに恐ろしい目にあわされるのだから、蛇も海千里山千里で龍になるというものだ。
「まったく、俺が最初にヒントをやってから、もう1周間も経っちゃってるじゃんかよ」
「あれのどこがヒントなんだよ。俺はてっきり、お前さんが経費を落とすときに上前をはねるのに成功して浮かれてたのかと思ったさ」
「ばぁか。シエルとソロモンの両方がチェックしてやがんだぞ?特に、ソロモンの奴なんか、『俺が何もやっていないのに』わざわざ難癖つけて、やれタクシー代がこんなに高いはずはない、やれ遊興費の内訳がおかしい、やれ酒の飲みすぎだなんて言ってくるしな、そんなことできるかっての」
 よもやとは思ったが、一応のこととしてソロモンに視線をずらすと、彼は新聞を読んだまま肩をすくめる。それがどういう意味かわからないほど、付き合いは短くなかった。彼にしてみれば、たかだか5年ばかりの付き合いなど付き合いの内にも入らないのかもしれない。実際、彼がどう思っているかは、新聞を読むように何かにつけて気持ちをはぐらかす彼の性格がわざわいして確かめられていない。
「難癖じゃなくて、本当のことなんじゃないか」
「本当に、全く、どうしようもないくらいに、君は何事にも軽薄だね。志貴君」
「お前さんが言えた義理か。さっさと席につけ。せっかくシエル君が作ってくれた飯が冷めるだろうに」
 俺を代弁して、ソロモンがゼフィールに一喝すると共に、読んでいた新聞紙を彼の頭に投げつける。野暮ったい2ライン柄のジャージ姿で頭から新聞紙を垂らす様は、知らない人間が見れば寝起きのティーンにしか見えないことだろう。
「ちゃんと畳んでおいてくださいよ、ゼフィール」
「そうだぞ、ゼフィール。新聞紙で遊んでいた子供が窒息死した事件だってあるんだ。不心得にもほどがあるぞ」
「あれ、俺の分のフォーク、どこ?」
「ああ、それなら――」
 秋葉、今ならお前がなんで俺に毎朝嫌味を言っていたのかわかる気がするよ。あれは愛情表現じゃなくて、ただ単に楽しかっただけなんだな。シエル、ソロモンのかつての埋葬機関時代からの同僚に苛められるゼフィールを見て、俺はそんなことを考えながら、シエルから受け取ったフォークを誰かさんに見たてた目玉焼きに通したのだった。

「やだ」
「やだ、じゃないだろ。お前が買って出たことだろうが」
「いやなものはいやだい」
 朝のミーティングが終わっても未だに拗ねているゼフィールに、ソロモンが妬いた手を何度も振るうが、やはり妬くだけに終わること数十分。仁王立ちをして横隔膜と喉を酷使しているソロモンと、椅子の背もたれにしがみ付いてごねているゼフィールの二人に呆れたシエルは、ミーティングのときに供された珈琲を飲み終えると、さっさと玄関脇のオフィスに咲美を連れて行き、内勤の仕事に手をつけはじめた。まだ小さいというのに行儀が良い子に育ってくれたおかげで、仕事場に置いておいてもシエルはソロモンのゼフィールに対するそれと違って手を妬かずにすんでいる。単純に考えると、あの子は母親が電話の応対をしたり書類の音読確認や口語訳をしているのを見聞きしているのが楽しいのだろう。残念なことといえば(もっとも、気に病む類のことではない)、母親に似て耳年増の傾向が強いことだろうか。この間など、ゼフィールに向かって「○ノ○ッチ!」と叫んで彼を狼狽させたのだ。ソロモンは多いに咲美を褒め称えたが、シエルはもちろん彼女を叱り、シエルほどではないにしろ、俺も言って良いことと悪いことがあることは簡単な言葉で言い聞かせた。
 後日、シエルにどこであんな言葉を覚えたのかという旨を聞いてみたところ、どうやら彼女が、一方的に契約を破棄する電話を不躾にかけてきた相手に、思わず例の単語を叫んだことが原因らしい。
「それにしても、ソロモンのペシミストぶりにも困ったものですよ」
「生きるのも嫌になるぐらい生きていれば、そうもなるさ」
 だからこそ遥か彼方にある目標を点で捉えて行動できるわけだから、責めるわけにもいかない。そこで、俺はある種のおしおきを考えた。にんにく、その他、鼻や舌の弱い者が見れば地獄の釜にしか見えないものを夕食に作って出したのだ。その料理を、人はカレーという。この時点で気づかなかった俺は本当にゼフィールの言う通り馬鹿なのだろう。ソロモンのおしおきとして出したそれは、彼が匂いだけで怖気づいている間に、シエルが平らげてしまった。咲美とゼフィールは、傍らで鼻をつまみながらテレビを見て気を紛らわしていたようで、咲美は寝る前、「お父さん、お母さんがおかしくなるからあんなのもう作らないで」と、4歳とは思えないくらいに上手く単語を繋げて嘆願してきた。
「行け!」
「やだ!」
「行けよ!」
「やだよ!」
「この鉄錆女!」
「なんだと、このケチャップ野郎!」
 娘のあどけなさを思い出して逃避してみたが、眼前で繰り広げられるあどけなさの欠片もない状況から逃げ切ることなど不可能だった。ゼフィールの言葉は罵倒になっているのかなっていないのか微妙なところだが、ソロモンなど、ゼフィールが最も嫌がる女扱いまでし始めているので、早く収拾しなければ、いつ爆竹の火がダイナマイトに飛び火してもおかしくない。二人とも、お互いがダイナマイト置き場どころかクレイモア地雷原で爆竹を炸裂させては小躍りしていることに気づいていないのだからタチが悪い。この二人なら例え吹き飛んでも無事でいそうなものではあるが、巻き込まれてはかなわない。
「――ところで、何の話なんだ、それ」
「「あぁ?」」
 何気なくも重要な疑問を口にしたところ、化け物一匹、人間離れ一人にありがたいお言葉を頂戴した。そのお言葉で怯むほど俺も軟じゃない。
「二人が話し始めたのも、『あれ、今日だろ』ってソロモンが言い出しただけだったし、ゼフィールはやだやだの一点張りだろ?さっぱり話が見えないんだよ。なんなら、俺が代わりに引き受けようか」
 この調子で仕事が遅れてしまうよりはよほど良い。でも、ゼフィールが嫌がるような仕事なんてあっただろうか。気になるのはそれだけではない。そもそも、彼が仕事を――特にソロモンが取って来るような仕事は――嫌がることはあっても、拒否することはない。
「まぁ、いいだろう。この際、志貴君に頼むぞ。良いな、ゼフィール」
「え、あ、ああ。良いさ、良いともさ」
 唐突に爆竹が鳴り止んだ。例えるなら、すねた不良息子に強制するのを止めた父親とその不良息子といったところだ。そうされれば、不良息子は意地で『YES』と答えるしかない。彼らはお互いがお互いの扱い方だけはわかっているのか?それはそれで、破廉恥というかおめでたいというか……。
「私のデスクに国際郵便が置いてある。それを読めば大体わかるから、後は任せた。――おい、何やってんだ。ほら、着替えろ。置いて行くぞ」
 ソロモンの言葉の後ろ半分は俺にではなくゼフィールに向けたものだ。そんなことを突然に言われた彼はキョトンとしている。
「今週最後の仕事を片したら、ついでに飯を奢ってやる。だから、とっとと機嫌を直して着替えて来い。そんな恰好で行くつもりか、馬鹿者が!」
「〜〜〜〜〜〜わかったよ……」
 言われた当初こそ、ゼフィールは何か言い返そうと口をもごもごしていたものの、未だにジャージ姿であることに気づくと、途端に素直になり、ミーティングルーム(一番日当たりが悪くて誰も個室として使いたがらなかっただけの部屋)を出て行った。その十分後には、先月の給料で買ったらしいのにもう着崩してあるスーツとサングラスを身体にあてた彼が半開きにしたドアから顔を出して、既に準備が出来ているソロモンをジト目でうかがい、それに応えて溜息を吐いたソロモンが「それじゃあな」と手を振りながら出て行くのだから、この二人の感情のやり取りにおける機微というものの不明瞭さが改めて俺の頭を悩ませる。
「〜っと、俺も仕事なんだった」
 聞いている相手もいないのだが、とりあえず呟くことで頭の歯車に被った埃を振り落とすと、ソロモンのオフィスに向かった。といっても、この部屋を出て向かい側の部屋がそこで、鍵もかかっていないドアをこれといった感慨も浮かべずに開けようとすると、奇妙な音が中から聞こえてくることに気がついた。瞬間、生来のクセ毛が逆立つ感覚を覚えたものの、それが何の音か思い至ると、自然にドアノブを回して、『中から飛び出してくる音をかわすようにして』身体を引いたドアに隠す。
「ワオウッ!ワオンッ!!」
「なんだ、やっぱりお前か。ほら、咲美ならシエルのところだ」
 お前とはソロモンの使い魔のパウロだ。その大きさに慣れてしまえば、ただの毛並み豊かな狼にしか見えない。狼を『ただの』と評せるようになったのは、いつ頃だっただろうか。ソロモン曰く「知性は犯罪者よりはある」だそうで、危険は無い。何故こいつを放し飼い同然に家の中に置いておくかといえば、ソロモンの気分に拠る所も大きいが、彼や他の者がいないときはシエルと咲実だけしかこの家にいなくなることを考慮してのことだ。他にも使い魔がいるのに、何故パウロなのかといえば、一度でも残りの使い魔をソロモンに見せてもらえばわかることだ。それは、もう、とにかく、その、なんだ、この世のものとは思えない。実際問題、『この世のもの』でないのは、この際、不問ということにしておこう。
 パウロの逞しい四肢が角の向こうに消えていくのを見送ると、ソロモンの部屋に入る。相変わらず、整理整頓はしてあるのに汚く見えるのは、わけのわからないアンティークの数々、それこそ、持ち主が博物館に寄贈したくならないのが不思議なくらい、管理に困る代物がそこかしこに置かれているからだろう。例えばこの本棚の横に置かれている大人でもすっぽり入れそうな大きさの壷。明らかに土器なので風化するはずなのに、ヒビのひとつも入っていない。中に何かが入っているようなのだが、怖いので覗いたことはない。以前、娘が好奇心で中を覗いてしまったのだが、泣き出すどころか笑い始めたため、シエルもそれに倣って覗いてみたところ、トイレめがけて駆け出してしまった。シエルのような恐怖体験の生き字引までもがそうなるものを好き好んで覗くほど、俺は馬鹿じゃない……はずだ。
 ソロモンは本やコレクションのために二番目に日当たりの悪い部屋を選んだためか、彼の部屋は暗い。家庭用としては多め4台の換気扇は全て常時稼動していて、換気は行き届いている。ブラインドの隙間を縫って辛うじて差し込んでくる光を頼りにデスクの上を視線で撫でると、なるほど、束になった書類や封筒、郵便などとは分けて、1通だけ、けばけばしい柄の国際郵便が置かれていた。住所や宛名などは当然にして英語で綴られているが、どうにもぎこちない字体からして、英語圏から送られてきたものではないらしいことがわかる。
 ずり下がっていた眼鏡を押し上げると、郵便封筒を手に取る。俺は送り主を何気なく見たのだが、そうしてからは慌てて中身を確認した。その文書は、日本語だった。

「拝啓、お元気でいやがりますか。

 仕事でそちらに行く用事ができちまったから、息子を連れて遊びに行ってやろうと思い、お手紙を出してやりました。返事は期待していないので、チケットの日付と到着時刻を記載して速達で送ってやったぜ。それじゃ、それまでおっ死(ち)ぬなよ。

 親愛なるテメェの親友、乾 有彦より

 P.S――志貴様、お久しぶりです。翡翠です。この度は夫が志貴様の元気な姿を拝見したいと申しまして、私も行きたかったのですが、残念ながら、秋葉様から一族会議の給仕は姉さんだけでは手に余るので頼むと仰せつかりました故、今回はあきらめざるをえません。どうか、夫と息子をよろしくお願いします。」

 それは、俺がアメリカに来た頃に結婚したらしい二人からの手紙だった。俺は封筒の奥にはさまっていた数字の羅列が書かれた紙を取り出した。これが件の日付と到着時刻らしい。そこには、こう書かれていた。

 U∀852便 2003年 12月 1○日  現地時間11時間05分着予定

 俺は取るものも取らず、告げるものも告げず、大急ぎで車庫の車に火を入れた。
「今日じゃねぇかっ!!」
 怒号と共に、踏み込んだアクセルに合わせてクラッチを繋ぐ。エンストとパンク両方をぎりぎりのラインで切り抜けられるほどに感覚が鋭敏になっている。
「ちくしょう、ソロモンの奴ぅ〜〜〜!」
 彼があっさりと俺に用事を譲ったのは、喧嘩に夢中になって時間を失念していたからに違いない。かつての戦友(とも)から譲り受けたスピデルはここサンフランシスコでは大変目立つため≪アルファロメオが旧型Spiderのアメリカ市場撤退を発表して何年も経っている。存在したとしても、それはアメリカ市場向けモデルであり、Europaモデルはほとんど存在しておらず、あったとしても全米で数台である上に、実際に乗るとなるとアメリカで定められている法律基準に合わせて改造する必要がある。そういった事情により、実際に使用されている台数は数える程度≫、普段に速度を出す場合は警察に注意するのだが、そんな場合じゃない。捕まらないように注意すれば良いだけの話だと自分を無茶な理屈で説得させながら、坂を疾走する。時間はそんなに無い。後で考えてみれば、俺が有彦を待たせてならない理由は無かったのだが、あいつとの約束に遅れるのはなんとなく嫌だったというのも本音だった。

 俺たちの騒がしい週末はもうとっくに始まっていたのだ。