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第十七話「境界にて侵食を努める」

 手を合わせることから全てが始まり、辻褄を合わせることによって全てが終わる。それが殺人捜査であると岡崎は教わった。精神論の類ではあるが、頭を切り替えるのにはそれくらいが調度良い。岡崎が手を合わせ終えると、千名は煙草を唇から離した。
 千名が検視を始めてかれこれ二十分。機動鑑識班の者達は、被害者に割り当てられた部屋から彼が倒れ込んだ場所までの調査を終え、後は被害者の遺体を警察病院へ運ぶだけとなった。その後、段取りに従って身内なり親しい大学病院なりの医師が呼ばれ、検死となる。現場百回とはよく云ったものだが、今や、現場を資料室の棚に収めることができるようになった現代である。しかし、その事実を現実として補完するのは、担当刑事達の報告書によってであり、幾ら鑑識や検死の技術的な精度が上がろうと、それは変わる事が無い。千名が岡崎を待ったのは、岡崎という一人の刑事に対しての、彼なりの誠意だった。
「巡査長の報告通りだ。思っていたより角度は深かったから、こりゃ肝臓に届いてるな」
 近隣の巡査長が到着してから刑事達が到着するまではビニールシートを被せてあったという遺体は仰向けにされていて、それは宿の管理人に覆いかぶさった被害者を退かした際にそうしたのだという。衝突や転倒の際に包丁が深く刺さったことも考えられるが、ナルバレックの証言と千名が確認した廊下に残された出血の量からして、致命傷は刺されたときに負ったに違いなかった。
 瞼は剥かれてしまったかのように開き切り、色彩の無い瞳孔が空を見上げていた。岡崎が千名に頷くと、千名は控えていた者達に遺体を運ばせる。宿の入り口へと続く角の辺りから様子を窺っていた者達を重そうな担架が押し退けて行った。
「よくもまぁ、走り回れましたね」
 被害者であるマッカラムは身長が百八十を越え、日本人の感覚に照らし合わせれば巨漢の類に入る。そんな彼が腹部に包丁を刺したまま走り回るという異常さを思い、岡崎は口を開いたのだった。それを受ける千名はというと、別段、不思議そうにも思っていない様子で、コートの内ポケットに突っ込んであった携帯用の灰皿に煙草を落とした。
「ショック死でも無い限り、人間ってのは死に難いもんさ。まぁ、刺されたときに興奮していたってのも考えられるがな」
 岡崎は傍に控えていた鑑識班の班長に目配せをしたが、彼は首を振るだけだった。死亡時に興奮状態にあったのか、それともその前から興奮状態にあったのか……血中の酸素濃度を測る事はできても、その僅かな隙間までをも埋めることは難しい。
「俺は外人さんの考えることはわかんねぇが、死体は万国共通さ。刺したのが同室にいた女中だとすれば、まぁそうなんだろうが、こんだけ深く刺すには勢いつけねぇと無理だろう。しかもその女中は片手しか無いって話だ。確実にやるなら、男の方が迫ってきたときに隠し持ってた得物でグサっとやっちまうのが上手いわな」
「つまり、琥珀犯人説なわけですね」
 溜息を吐いたのは岡崎である。彼はこのとき、二種類の感慨を覚えていた。一つは、琥珀が犯人であった場合の取り扱いの難しさ。そしてもう一つは、事件には御誂え向きのこの舞台に比しての呆気の無さだ。
 前者については実際に琥珀が犯人だったとして、その特定に至った後は検事局に任せてしまえるのだが、それまでの一連の手続きや関係者への対応は担当刑事に任される。罪の大きさが身体的なハンデによって増減することは無いのは確かだが、デリケートさを要求されるのも確かだ。昨今は犯人を刑務所に放り込んで、はい御終い、というわけにはいかないし、千名の豹変振りからして、遠野家というのは特に厳しい目と長い手を持ち合わせているのだろう。こちらの気は重くなるばかりである。
 後者に関しては、これはもう反論の余地も無く、岡崎の個人的な感慨であるのだが、その分、彼にとっては切実で、こんな山中にまで来て普段よりもごちゃごちゃしたことに巻き込まれた感が強いのだった。
 そんな彼の心中を千名は自分なりに汲み取ったらしく、事件に相対して落ち込んでいる部下を励ます風を装って、自分の肩と岡崎の肩とを近づけた。
「先ずは女中が犯人だっていう前提で動くのさ。そうすりゃ、あの連中だって捜査に協力は惜しまんだろうし、その過程で真犯人に関することだって聞けるかもしれねぇだろ?」
「どうも私には千名さんが他のことを聞きたがってるように思えるんですけどね」
 顔を千名から遠ざけつつ、岡崎は不満そうに応えた。しかし、彼が思っていたほど、千名の顔は冗談ぶってはおらず、両の眉根には皺がより、むしろ厳しい表情をしている。千名は身体を岡崎から離し、新しい煙草を咥えると、それに火をつけた。両切りの短い煙草から苦い匂いが立ち昇った。
「俺はな、どうもこの殺人自体は大したことじゃないように思えるんだ。これが組織的な意思による殺人だとしたら、もっと上手い方法が――例えば事故に見せかけるとか、その辺のヤクザ者に金を握らせるとかが、あってもおかしくない。かといって、仏さんと加害者の間の個人的な行き違いが原因と考えるのは、ちょいとばかし無理があるわな。なんせ、片や企業の重役、片やその企業の元締めの女中だ。接点が無さ過ぎるってもんさ」
「危害を与える側と与えられる側との像が一致しない、ということですか」
「そうさ。だから俺はこう考えた。これが最も上手いやり方なんだ、ってな」
「けどそれは、予断だとか先入観だとか、そういったものが過ぎるような気がしますよ」
「最初から正しい道筋で捜査ができるとは限らないさ。したって、それで尻が込むようじゃ、この仕事は勤まらない」
「……なるほど」
 説明を聞き終え、とりあえずは納得の意を表したものの、岡崎には喉の通りの悪さが残っていた。それは、千名の言葉に刑事らしさが欠けているように思えるからだった。では刑事らしさとは何かと問われたら、岡崎はやはり喉を詰まらせるだろう。これは云わば、今まで千名と刑事という、個人と職業の間に目立った差異を岡崎が認められなかったことから来る、一種の戸惑いなのである。刑事と云えば彼にとっては千名のことを表していたし、千名とは即ち刑事だった。
 今ここに来て、千名という個性が刑事という存在を侵食している。そしてそれは、職業に頼らなければ社会的な立場を確立し難い現代にあっては、致命的な行為なのだ。
 果たして、千名は個性のみによって立つことができるのだろうか。岡崎には判らない。彼にはただ、刑事として考えた段取りしか、判らないのであった。彼がふと振り返ると、そこではナルバレックが煙草を吸いながら、谷を見下ろしていた。


 マティセクのこれまでとこれからの段取りは、刑事というよりも個人としてのものだった。語るとしたら資料室の老人が相手になるだろうイタリアでの一週間が、彼を個人として行動させる決心をさせた。現在の彼は、一仕事を終えてから休暇を取った、仕事以外にも生き甲斐を見出そうとする中年に過ぎないのである。
 人が自分自身を試すことができるのは、思春期を終えてから定職に就くか就かないという頃の極々短い間だけなのだろう。事実、マティセクにとってこの休暇は、自身を押し潰してしまいそうな不安――あの誰もがニキビを作りながら悩んだ夜に抱えていたような不安をも覚えさせているのだった。
 では、彼が全く刑事でなくなったかと云うと、そうではない。ナルバレックに感じさせたような刑事としての自覚は常に持ち合わせているし、段取りに応じた手段は実に刑事的な行動理念に適っているのである。その理念とは事件を社会的に解決するという単純なものであるが、個人や法人は必ずしも社会的な解決を求めはしない。それぞれの有する人格を守り、金銭面を補強さえできれば、それ以上は望まない。だから刑事……警察は社会的に貢献する組織でありながら、個人および法人には嫌われるのである。
 それを弁えずに彼だけで遠野側に接触すれば、部屋の扉を開けてはもらえなかったことだろう。扉はアルクェイドによって開けられた。出向かえたのは翡翠である。ここは彼女と、その姉である琥珀に割り当てられた部屋だった。
 ここに来るまで、マティセクとアルクェイドは一度、秋葉の部屋に向かったのだが、途中、洗濯物を運んでいた某のメイドらしい者に訊ねたところ、秋葉は二階にある二部屋をぶち抜いて作られている大部屋で会議をしており、今回の事件の担当者以外は一切、取り次ぐなというお達しが出ているとのことだった。
 マティセクの用事があるのは秋葉(彼は彼女との面識が無いため、意識としては遠野家の当主)であり、それを知っていたアルクェイドは会議室に押し入るか秋葉が琥珀の様子を見に来るのを待つかのどちらが良いかと彼に問い、彼は後者を選択したのだった。
 肝心の用事は急ぐ必要がある性質のものではあったが、現在に対処を要するよりもどちらかというとこれからの対処についての示唆を与えることが役目であり、それが終わって初めて、マティセクは刑事としての自分から派生したこの個人的な用事を終え、母国に帰り、老人を相手に資料室で土産話をすることができるのだった。

 二人に挨拶を済ませた翡翠は、一度だけ部屋の中に引っ込むと、すぐにまた戻ってきた。彼女によると、琥珀に客を通しても良いか確認したとのことだった。それを聞いても、アルクェイドは普段と変わる所が無く、爪先で小走りするようにして、部屋の中へと入って行く。マティセクは申し訳なさそうな顔をしてからアルクェイドに続き、翡翠がドアを閉めた。
 十六畳ほどはある縦長の室内の配置は概ね管理人が住んでいる棟の客室と変わりが無く、ベッドが二つある以外は取り立てて気になる部分も無い。部屋の出入り口と一つだけある窓は直線で結ぶ事ができ、その左右にベッドが窓側を頭にして置かれている。その片方で、琥珀が上体を起こし、腰から下を掛け布団に入れていた。事件の際に血で汚れてしまっただろう着物は襦袢と共に替えられ、薄茶色の着物と白の襦袢が、首筋の脆さを際立たせている。それでも不思議と、マティセクには彼女が一般的な東洋の女性のイメージとは違うものであるように思えた。
 白いカーテンは紐で纏められ、窓は開け放たれてい、達磨ストーブの上で薬缶が蒸気を吹いていて、簡単なクローゼットとベッド以外には家具が無いことから、マティセクには病室のように感じられた。事実、この部屋の住人は病に侵されているに違いなかった。
 マティセクが思うに、事件とは病のようなものである。風邪か癌かの差異はあれど、多かれ少なかれ人はそれに巻き込まれるし、対処さえ間違えなければ健康に戻ることもでき、充実した時間の中で死を迎えることもできる。被害者は確かにその例えが適用されるだろうが、では加害者はどうなのだろうか。これもマティセクにしてみれば、同じように適用されて然るべきだった。加害者の責任とは、病を負うことになった責任と何ら変わりの無いことだと思えて仕方が無いのである。彼に医者としての経験は皆無であったが、それ故に、彼特有の大胆な思考と優しさもあって、そのような考えが脳裏にこびり付いていた。
 アルクェイドは部屋に入って真っ先に窓際に向かうと、きょとんとしている琥珀に笑顔を振ってから、一メートルほどの間隔しか空いていない反対のベッドに腰掛けた。マティセクも、病人と喋るのであれば近くにいることが良いように思えたから、アルクェイドに近寄り過ぎない程度に間隔を空けて、ベッドに腰掛けた。
 マティセクが自己紹介のために口を開けようとしたところで、アルクェイドがそれに先んじた。彼女は流暢な日本語を喋ったから、マティセクは少しばかり戸惑ったものの、聞き取れる範囲では自分の紹介に間違いが無かったことを確認し、言葉が切れるのを待って、はじめましてと頭を下げた。琥珀は緊張も遠慮もせず、ただ笑顔で、こちらこそと頭を下げたのだった。
 一通りの社交辞令が終わったところで、翡翠が琥珀の傍らに座り、額や手首に手を当てるなどして姉の健康状態を確認する。その様は堂に入ってい、マティセクは感心したのだが、見ている分には翡翠がより不健康そうに見えたのだった。彼が難しい顔をしている横で、アルクェイドが興味のままに寝不足なのではないかと問い質すと、翡翠は苦笑いをしながら、それに頷いた。
「六時半頃に警察の方々が到着されるまではずっと秋葉様のお世話や姉さんの看病がありましたし、秋葉様達が会議で篭られた後も、ぐっすり眠るというわけにもいきませんでしたから。朝食もこれからなんですよ」
「それは間が悪かったですね……出直しましょうか」
 そう云ってアルクェイドに振ったマティセクであったが、彼女が応える前に翡翠が首を振る。肩口まで伸ばされた髪は、どこか所在無さ気に、毛先を舞わせた。
「警察の方々との話がまとまり次第、秋葉様も仮眠のために戻ってきますし、朝食と云っても、姉さんは食べ物はまだ無理です。ですから、私の分だけ、それもコッペパンにハムとレタスを挟むだけにしようと思ってるんですよ」
 彼女の話を聞いて、喉を鳴らしたのは琥珀とマティセクである。アルクェイドはちゃっかりと姉妹の朝食の相伴にナルバレックと共に与っていて空腹のくの字も無かったが、マティセクは九時間ほど前に機内食を食べたきりだ。琥珀も、食欲だけはある様子である。
「翡翠ちゃん、そんなこと云わずに私にもくださいよぉ」
「私を心配させた罰ですから素直にミネラルウォーターだけにしてください。マティセクさんには作ってきますけど」
「それは嬉しい。できればその……」
「ああ、コーヒーですね」
 嬉しそうに口元を綻ばせたマティセクが、コーヒーは濃い目で、砂糖を多めに入れてくれるよう頼むと、翡翠はようやくメイドらしい仕事ができることに喜んだのか、髪を少しばかり伸ばしてからは付けなくなったヘッドドレスの無い頭を手で撫でると、足取りも軽やかに、部屋を出て行った。途端、マティセクが表情を引き締め、アルクェイドは窓の外に目を遣った。彼女は仔細については聞いていなかったし、興味も無かったが、せめて部屋の居心地ぐらいはと、山の自然に意識を傾けたのだった。
「私は刑事とは云え、それは母国やそれに関連したことにおいてのみです。それでもお話いただけるのなら、是非、お訊ねしたいことがあります」
 琥珀は何がおかしいのか、目を細めて笑みを浮かべた。マティセクはそういった日本人的な表情に慣れていなかったから、それが悪意のあるものかどうかは判別できず、戸惑ってしまう。琥珀はそれがまたおかしいのか、くすりと笑ってみせた。
「事件についてはじきにわかることですし、さして興味も無さそうですね」
「もちろん、あなたが犯罪者であれば、これからの私のあなたに対する接し方も変わってきますが、それは差し当たり、考えたくないのです。その、あなたのように……そう、表情が豊かな方が犯罪者かどうかはね」
「刑事さんがそんな基準で犯罪者かどうかを見極めても良いのですか」
「云いましたよね。今ここにいる私は刑事ではないと。ましてやドイツ・ブランデンブルク州第二管区署の警察官でもないのですよ」
「見た目よりも卑怯な方なんですねぇ。刑事ではないことを強調しても、そのやり方は刑事以外の何者でもない……違いますか」
「違いますね。あなたが個人としての個性を主張しながらも、主人に対してはメイドとして従順であるように、その二つは交わってはいても明確に区別されるべきなのです」
「線によって分かつことはできずとも、点と点は個別に存在するということですね」
「私の日本語の解釈に間違いが無ければ、それで良いはずです」
 自分でも驚くほどよく解し、話すことができたとマティセクは思う。たしかに、学生時代に専攻したもの以外では最も時間を費やしたのが日本語に関することで、娘との接点を求めて暇を見つけては日本の歌や本を自分なりに翻訳などしていた。だが、これほどに会話ができるとは思ってもみなかった。まるで、自分と目の前の女性との間の世界の境界の層が、窓から吹き込む山の風によって意識的に剥がされているように思えるほど、濃密な会話だった。
 マティセクは大きく溜息を吐くと、コーヒーはまだだろうかと関係の無いことを考えた。琥珀はどうだろう。気づけば、アルクェイドが面白そうに二人の顔を見比べていた。

 琥珀は腕が無い側の肩を片手で抱くと、口を噤む。彼女にとって、マティセクの自分に対する考察は驚くほど事実を踏まえているように感じられるものだった。彼が志貴や他の誰かとの交流を持っている、あるいは持っていたとすれば、天啓にも似た閃きのままに語ることも難しくないのかもしれない。しかし、それはやはり、マティセクという、太い電線のように幾つもの信号をやり取りできる神経を持つ人物だからこそできることのようにも思えるのだった。
 琥珀には慎重にならなければならない理由があった。それは、先ほど彼女自身も口にしたが、今回の事件に関係したことではない。いや、関係の無い、と切り捨ててしまうには無理はあるのだが、この際、切り捨ててしまっても、彼女の思考には影響が無いどころか持ち前の思い切りの良さを活かすことができるし、マティセクにとっても、あまりにもマクロな視点は彼の性分には似合わないのであった。
 その理由とは、このマティセクに彼の希望しているだろう話をすることによって、秋葉に何らかの累が及ぶ可能性を否定できないという点にあった。彼女がかつて持ち合わせていた屈折した遠野家に対する想いは既に変質して久しい。それは片腕を失ったときか、それともその後のことか。
 これはむしろ、琥珀の変質自体を見極めるよりも、秋葉の、遠野家の変質を見極めることが肝要である。遠野家は確かに一地方に比しては強大な組織力と影響力を有しているが、その総本山である遠野屋敷自体は、主人一人と女中が二人という、余りにも脆弱な構成であり、故に、一人二人でも関係を持ったり捨てたりするだけで、内部は大きく変質する。
 志貴が出奔と翡翠の結婚。前者は鉄鎚で叩かれたような衝撃であり、後者は傷口に薬を染み入らせた。形と性質、双方の変質はその二つの出来事を中心に起こったのである。
 今、この宿にあって、秋葉、琥珀、そして翡翠という構成は、一時的にその変質を元に戻し、それまでに積み重ねられた遠野家の業が、彼女らに降りかかっている。
 ナルバレックがあっけらかんと語り、また千名が推察した通り、殺人自体は大したことではない。マティセクが関わった事件によって表面に滲み出た、遠野家の膿。今こそ傷口を開き、膿を出さねば、長い手は腐り落ちる。
 琥珀は長い逡巡の後、出入り口であるドアを一度だけ見遣った。妹の翡翠だけが何も関わることができず、心だけを痛めてきた。秋葉に前当主から一次的には解放されたとき、姉妹は決定的に擦れ違ってしまったが、翡翠だからこそ、心の痛みを優しさに換えることができたように今では思える。そう考えることができる、妹に対する姉の想いは、優しさ以外の何物でもなかった。

 琥珀が決心を固めた。それは即ち、病に対するマティセクの対処が確かなものだったという証拠だった。
「お話しましょう。寄付金に関することですね?」
 マティセクは、翡翠の申し出を受けたとき以上に、表情を綻ばせた。自信は無かったが、やはりこの女性が間に入っていたのだと確信を持てた。先ほどのあの線の細い、翡翠という女性では、あのような交渉事はできないように思えたし、しかし、事前に聞いていた当主の気質からして、自分で関わりを保つ努力をするようにも思えなかった。
 残ったのはこの琥珀と云う女性だけだ。マティセクの頭に、これまでのことが走馬灯のように浮かんでは消えていく。老人に話すとき、自分はなんと切り出そうか。そんなことを思った。そして、あるフレーズが脳裏に留まった。

 そのとき私は、コーヒーが飲みたかった。――この一週間の出来事が形となった。