第二十一話「System of a Down」

「なんだい、ありゃあ!」
 千名の、本日何度目か知れない怒声を聞きながら、岡崎はコーヒーを口にしていた。千名が吸っている煙草の煙は換気扇へと吸い込まれ、山の空気に消えていく。岡崎は四角く切り取られた風景を見遣ると、コーヒーを置き、手帳を読み返した。

 先程に実施した遠野側の聴取でわかったことは、鍵の管理についての仔細、被害者であるケビン・マッカラムは今月末日付での解雇が重役会議で決定し、あとは株主総会の承認を得るだけだったということ。そして無力さだ。
 犯行現場である、マッカラムに割り当てられた部屋を開ける鍵は三つあり、一つめはマッカラム本人が所持、遺体のズボンポケットから発見されている。二つめは管理人から遠野側の責任者に貸与された合鍵である。こちらは遠野側に用意された部屋全ての分があり、遠野秋葉が鍵束によって管理していた。そして最後の三つ目は、この宿全ての部屋の鍵を開けることができるマスターキーであり、事件当夜は管理人である戸羽蕗の弟、秀也が紐を通して首から下げていた。このマスターキーは毎晩の消灯時間に行っている見回りの番につく者が管理しているとのことで、事件発生時の秀也の不在証明は彼の姉である蕗とナルバレックが証人となった。
 つまり、犯行の際に誰かがマッカラムの部屋に入る場合、彼に招かれるか遠野側の鍵を使わない限りは無理だったということになる。
 これらのことを千名が秋葉に確認し終えると、何名かいた遠野側の重役の一人である、久我峰がしたり顔で口を開いた。
「これはあれですな。そちらの刑事さんが仰っている通り、琥珀の犯行で決まりではないですか」
 その場にいた秋葉を除く全員が久我峰を見遣ってから、秋葉に視線を移した。彼女は自分のお抱えが槍玉に上がれば黙っているわけがなかたのだが、彼女が口にしたことといえば、控えていた重役の某のメイドに茶のおかわりを頼むぐらいだった。岡崎はどういうことになるのかよくわからなかったが、千名が黙っていたから、彼に倣うことにした。久我峰は続ける。
「なぜなら、マッカラム氏が琥珀を招く以外には彼の部屋に入る方法が無いからですよ。だって、秋葉様が鍵を管理していたわけですからね」
 千名は笑いを必死でこらえていた。琥珀犯人説に思わぬ助けが加わったからだ。岡崎は千名の震える口元を見て得心し、腕を組み直した。しかし。
「鍵なんて知らないわよ。だって、鍵はあなたに預けたじゃない。そうでしょ? ――久我峰」
 秋葉の言葉で、全てがひっくり返った。馬鹿な。そう呟いたのは久我峰だ。うろたえる彼の表情を存分に楽しんだ秋葉が、言葉を続ける。
「あら、忘れてしまったのかしら。まぁ、あなたは昨日に私が着いたときには随分とお酒を飲んでいたものね。なんだったら、あなたのメイドに聞いてごらんなさい。私が幹事であるあなたに鍵を任せたことをね」
 それからは事件当夜以来の大騒ぎで、久我峰が否定し続ける中、彼のメイドが呼ばれ、秋葉の証言を裏付ける発言をし、どういうことかと彼女に詰め寄る久我峰を取り押さえるまでになった。確認のために久我峰の部屋に案内された岡崎が鍵束を発見するに至って、ようやく、久我峰が膝を着いた。呆然としていたのは彼だけではない。千名は理解したのだ。自分と岡崎は、遠野の尻尾切りの証人にされたことを。

 三本目になる煙草を給湯室で吹かしながら、千名は頭を振った。久我峰は警備の者によって厳重に監視されている。彼に同情したい気持ちが、千名には確かにあった。
「まさか、あの場で背任についてまで暴露するとはなぁ」
 久我峰には横領の他に、先代から続いている株主総会に対する『不当な』締め付けがあった。それは千名も個人的に調べていたことで、他にこのことを知っているのは、秋葉ぐらいなものだ。いざというときのために、一族の弱みを握り続ける。それこそが、カリスマ以外に必要な、当主としての能力なのだろう。
「あれは、もし刑事的に無罪ってことになっても、民事で叩き潰すつもりだよ。まいったよ。これじゃ、琥珀に当たっても無駄だろうな。彼女がマッカラムをぶっ刺したことを認めても、正当防衛でトントンさ。遠野のことは、また一からやり直しだよ。もっとも、蕗さんの居所がわかっただけ良かったのかもしれんなぁ……」
「彼女、千名さんは誤解してる、って云ってましたよ」
 岡崎には、千名が急に老けてしまったような気がしていた。それは夕焼けの所為なのかもしれなかったが、ここで千名の本心を聞かなければ、彼を見限ってしまうのではないか。岡崎はそんな例えようも無い不安に襲われた。
「たしかに捜査については誤解があったかもしれないな。だけどな、岡崎……孫二人の墓に手を合わせる爺さんの哀しみも、誤解だってのか」
 千名の頭に、事件の捜査が打ち切られた後に再会した田中の顔が浮かんだ。千名はそのときに、姉妹の墓の場所を知ったのだった。、
「俺はよ、何もかも遠野がやった、なんて風に、決め付けてはいやしねぇよ。ただ、遠野があの事件をややこしくしたことは事実なのさ。だから俺は、時効まであの事件を追っかける。たしかに出世や同僚の気遣いは棒に振っちまうかもしれねぇ。けどよ、あの姉妹は一生を棒に振られちまったんだ。刑事として俺ができることはやっておきたいのさ」
 岡崎は千名の横に立った。千名が見ている方角に何があるかはわからなかったが、彼の目線を追うことはできる。夕焼けに変わった陽射しが山々の木々の頭を薙いだ。谷間に影が伸び、清流の煌きがそれを払う。
「その子達にも、この景色を見せたかったですね」
「見てるさ」
 秋葉が後見人となり、成人した咲美が遠野家最後の当主となるまで、千名の捜査は続くことになる。二千二十年。既に時効を迎えた事件は、その全容を知る一部の人間の手を放れて、ようやく関係者の気持ちの整理をさせることとなった。しかし、同年に起こった「第二のチェルノブイリ」と呼ばれる悲劇が、全ての人間を巻き込んだ生存競争へと時代の流れを変えてしまう。全てを乗り越え、遠野志貴が最期の一突きを繰り出す、そのときまで。
「それにしても結局、あのマッカラムって人、何がしたかったんでしょうか」
「さあな。外人さんの考えることは俺にはわかんねぇよ。お前は帰って報告書を作ることだけ考えてろ」
 この呑気さが、歴史には必要なのかもしれなかった。


******


 ケビン・マッカラム。アルメニア系アメリカ人として生を受けた彼の一生は、長い苦悶の果てに不名誉なレイプ未遂犯として片付けられた。彼が遠野側に接触したのは、二千一年。アルメニア共和国大統領が来日した年である。奇しくも、というのは適切ではない。ある人物からの使命が、彼を動かしていた。しかし、彼の努力は最悪の結果を彼の人生以外にも招くことになる。アルメニア人は彼らの愛するハイアスタンにおいて虐殺と震災以上の悲劇を目の当たりにし、その大半が死ぬ。彼がそれを見届けることが無かったのは、彼にとっては幸せだったかもしれない。
 彼は元々、アメリカのある企業での経験を買われて久我峰グループに招かれたのだが、それは遠野一族全体を巻き込む運びとなる。アルメニアへの経済復興支援。国連に対するアピール以上の価値があったそれに、遠野一族が参加する計画を打ち出し、株主総会の了解を取りつけたのはマッカラムである。
 度重なる紛争と震災、その都度に飛び交う利権。それらの価値がわからない者は、遠野にはいなかった。秋葉を代表とする保守派が粘ったものの、最後にはそれぞれの個人的な繋がりすらも利用し、計画に関わった。各国に存在する親日派の資産家などからの寄付金と称する投資を取り付けることも、計画の一部であった。
 順調に運んだ計画であったが、その中途である組織からの妨害を受けた。それは不幸な巡りあわせであったが、反対していたとはいえ一度動き出した計画を曲げるような秋葉ではない。
 マッカラムの尻に火がついたのはこの頃だ。彼のスパイ疑惑が一部から持ち上がったのである。そもそも、遠野側の個人的な繋がりを介して行われた投資家への接触が漏れ、その投資家が殺害されるなど、内部からの情報提供が無ければ決してできはしない。それが当時の遠野側の主流派の見解であった。
「汚れ役を買って出たのは私です。皮肉なことに、海外への進出というデリケートな計画にあっては、久我峰グループこそが問題の種だったんです。一族を結束させ、最終的解決に向かって邁進するには、久我峰グループを秋葉様がコントロールする必要がありました」
「一族内での汚れ仕事をあなたが解決することによって、秋葉氏の立場が強化される。そういう考えだったわけですね」
 マティセクの言葉に、琥珀が頷く。彼女は、他に私ができることはありませんでしたと笑ってから、話を続けた。
「今回の会議が自分の処遇を決定するものだったと知って、マッカラムさんは落ち込んでいました。そんな方を、私は……」
 寝るに寝れず、自室で酒を呷っているマッカラムがマティセクには想像できた。しかし、彼が琥珀を襲うには決定打が必要だ。自分はもうどうしようもない。そう思い込む、決定打が。彼がそのことに想いを馳せていると、アルクェイドが初めて、話題に加わった。
「妹って、視界に収めないと駄目なんじゃなかったっけ?」
「ある程度の位置さえ掴めて、更にそこに感応者である私がいれば、流れを捉えることは可能です。肌を重ねていたマッカラムさんはびっくりしたでしょうね」
 マティセクには何の話だかわからなかったが、二人の笑い方に、言い表しようもない恐怖を感じた。この二人は、明らかに違う感覚を知っている。そしてそこには、大きな哀しみもある。マティセクには何故かそう思えた。
「まぁ、話はわかりましたよ。『何らかの方法』で錯乱したマッカラム氏が襲ってきたところを、刺したわけだ。あなたに乱暴された形跡があれば、正当防衛が成り立ちますからね」
「その通りです。本当はもっと、苦しませない方法を選びたかったんですが……秋葉様が譲りませんでした」
「それだけあなたのことを心配していたんでしょうね。翡翠さんと同じように」
「心配なんて無駄なんですけどね。私はもう、そんなに長くないでしょうから」
 そこで琥珀が、もう一度、あの笑い方をした。にっこりと、それでいて哀しそうなその表情はマティセクの心を締め付けたが、更に彼を緊張させたのは、ドアの開く音だった。そこには、誰あろう、翡翠がいた。
「聞いていたんですか」
 マティセクの問いに、翡翠はコーヒーを差し出し、更にホットドックが手渡された。
「お待たせして申し訳ありません」
「いや、その……ありがとうございます」
 翡翠の先程と変わらぬ仏頂面に、マティセクはすっかり気を抜かれてしまった。なんとも居心地の悪い、気まずい雰囲気になってしまったので、マティセクはとりあえず、ホットドックとコーヒーを馳走になることにした。
「はい、姉さんの分です」
「え、あれ?」
 驚いている琥珀に、翡翠がもう一度、ホットドックを差し出す。琥珀は戸惑いながらもそれを手に取ると、嬉しそうに口に運んだ。
「一杯食べて、早く元気になってくださいね」
「うん」
 マティセクは急いで食事を終えると、楽しみにしていたコーヒーすらも、熱いのを我慢して一気に飲み込み、部屋を辞した。アルクェイドもそれに続く。二人は部屋の外に出ると、目を合わせた。
「どう思います?」
「アルメニアって、アララト山がある所でしょ? それなら、間違いないよ」
「いや、そうではなくて……琥珀さんの体のことですよ」
「どうかな。人間の体って、よくわかんない」
 それは嘘だった。アルクェイドには、琥珀の死期がいつか、かなり正確に把握できていた。志貴の顔が思い出される。伝えるべきか、止めておくべきか。彼女は決めた。
「私、警察の人がいなくなったらすぐにここを発つけど、あなたはこれからどうするの?」
「サンヴァルツォ氏のことも心配ですが、あまり長くも休めませんし、何より、娘のことが気になります。警察の方と一緒に山を下りますよ」
「ねぇ、子供ってそんなに可愛い?」
「ええ」
 帰ったら一緒にホットドックを食べよう。マティセクはそのことだけを考えることにした。


******


 アルメニア、アララト山中。そこに偽装された地下への入り口がある。かつてトルコ軍が秘密裡に掘り進めた地下基地が現在の埋葬機関の本拠地である。ケマル政権時代からの政治的取引と、虐殺の歴史的否定への協力。その一方ではアルメニア教会とも接触し、民族運動にも加担。そういった諸々の活動があっての、現在であった。唯一の難点は近隣に存在していたロズィーアンの居城であったが、それも既に無い。
 ナルバレックは難題が粗方解決した解放感と、見下ろした先にあるアララト盆地の自然や街並の素晴らしさに、珍しく溜息を漏らした。またしばらくは地下の暮らしである。今度にあの山荘に行けるのはいつになることやら。
 日本からの帰路の間は無線などが使えなかったから、その二日間の情報がほとんど無い。落ち延びたロズィーアンはどうなったのかが気になっていた。姿を消したアルクェイドにしても。
 ナルバレックが本部の最深部にエレベータで降りると、何名かの部下が出迎えた。彼女はその内の一人から書類を受け取ると、仕事に戻れとだけ告げて、足早に自室に入った。
 愛用の細長い煙草を咥え、秘書に紅茶を持ってこさせる間に荷物を片付ける。革張りの椅子にようやく腰を落ち着けると、ちょうど秘書が紅茶を持って来た。
「日本はどうでしたか」
「前から目をかけていたボウヤが立派になっていたな。まぁ、次あたりには……」
「そのボウヤにしてみれば災難ですね」
「馬鹿を云うな。私に抱かれるなら本望だろうさ」
 冗談を交わし終えると、秘書を下がらせる。紅茶を一口飲んでから、いよいよ書類に目を向けた。
「ほう、ロズィーアンが滅んだか」
 書類には、その顛末が記されていた。