第二十三話「Legion:Loukas」

 子供達が寝付いたのを見計らうと、有彦はパウロを連れて寝室から抜け出した。ダイニングでペットボトルのジュースを飲みながら、リモコンを使って何の気も無しにテレビのチャンネルを回して行く。ケーブルテレビの専門チャンネルを除いて全てのものがニュース特番になっていた。
 飛び交う声とテロップはもちろん英語で(ときにスペイン語のチャンネルもあった)、映像は先程に市内を化け物が暴れ回ったときのものを何度も使い回している。その映像が撮影されてから既に一時間近くが経っているというのに、目新しいものは何一つ無い。第一、件の映像にしてみても、吹き飛んでいる看板や炎上する車ばかりが目立って、肝心の化け物は影ぐらいしか確認することができないではないか。
「良いところになると映像が切れるんだよな……」
 報道管制ってやつか。有彦は座りの良さそうな言葉を呟くと、思考を画面から切り離した。他に考えることが自分にはあるのだ。
 これだけの事態になってしまえば、アメリカのお偉いさん方も座りの良さそうな言葉で誤魔化し切るに違いない。しかし、ここまで方向性のはっきりしないものをテロと云い切れるほど頭の悪い輩はいないだろう。となると、テロではなく、法治国家内での一つの犯罪として処理するかもしれない。それはまぁ良いとしよう。問題は、今回の仕事が不意になってしまうのではないか、ということだ。このニュースは日本でも報道されるに違いないのだから。
 そうなったとしても、上司や同僚は仕方の無いことだと慰めてくれるだろう。だが、それで自分が納得できるだろうか。
 できないんだろうな。有彦は、いっそのこと今にここを飛び出して、街中を撮影しようかとすら思い始めていた。それがどのような成果に収斂するかは想像もつかないが、何もしないよりはマシというやつなのではないか。
 そこで有彦は首を振った。こうして自分がここにいるのは、子供との旅行を取材するためだ。何が起こっても、親である自分が子供を放って置いて特ダネを追うなどというのは、自分でも許せない類の選択である。
 有彦がここに居座る決心を固めると、チャイムが鳴った。こんなときに客人だろうか。物好きでなければ、のっぴきならない事情があるに違いない。
 誰か一人ぐらい一緒に残ってくれても良かったじゃないか。有彦が力無く云うと、パウロが一声上げた。ありがとよ。有彦はパウロの頭を撫でてやると、玄関へと向かった。英語がよく解せないとはいえ挨拶や受け答えぐらいはその場でなんとかできる。いよいよとなれば、パウロに吠えてもらえば、大概の客は裸足で逃げ出すだろう。
 ぶつぶつと発声の練習をしながら玄関に着くと、チェーンがかかっているのを確認してからドアを開ける。すると、客人と目が合ってしまった。ギョっとしたのは有彦だ。カラーコンタクトだろうか、客人の目は赤く、薄明かりの中でもそれとわかった。
 こいつはやばいんじゃないか。有彦が玄関のドアから後ずさると、ドアにかかっていたはずのチェーンが床に落ちた。余計な知識が多い有彦であるが、道具も何も使わず、一瞬でドアチェーンを千切ってしまう方法なんて、見たことも聞いたことも無い。
 ドアがゆっくりと開いていく。その間にパウロが有彦の前へ出た。有彦はいつでも子供達を連れて逃げ出せるように心がけると、パウロを客人へと嗾《けしか》けた。そして、ドアが開き切った。
「やっほー、ソロモンは留守ぅ?」
 間の抜けた抑揚の声に有彦が尻餅をついている一方、頼みの綱のパウロは客人の手先でじゃれていた。
「あんた、志貴の友達でしょ? 前に写真で見せてもらったわ」
 はじめまして、アルクェイドよ。そう日本語で云った客人に、有彦は顔を引き攣らせた。


******


 ソロモンは腕時計を眺めると、溜息を吐きながらスーツの襟を正した。上空では二機のヘリが旋回しているが、それが報道関係者のものではなく、海軍のものだと彼は知っていた。
 鈷型は既に再々起を果たし、複数の駆動音が、緊張感を間延びさせている。ソロモンを挟んで反対側では、志貴とケネスが――ソロモンがとっておきだと云って、渡した――T-76狙撃銃を組み上げていた。
「あとどれくらいかかる?」
 ケネスが眉を顰めて答えたところによれば、問題は照準の調整だけとのことだった。FBIから事前に借りておいたそれは、元々が超長距離狙撃を可能とするものだけに、照準には手心が必要だ。338口径という、得物としてはこれ以上は望めない一品であるが、正確に、射手である志貴の意図する場所に着弾しなければ、意味が無い。その志貴はというと、射撃による目標撃破という初の試みにも関わらず、ケネスとの打ち合わせが終わった後は煙草をやっている。
 自信はあるが、多用はしたくない。以前、この方法を実践する場合について話し合ったときの志貴の言葉だ。対死徒に限らず、目標を確実に倒すに有効なのは、何は無くとも、不意打ちである。近接戦闘によって確実に魔眼を活かす方法が最もスマートであるとはいえ、志貴は生身の人間だ。ましてや死徒ともなれば、懐に飛び込ませるなどということは、余程に自信過剰な相手か、奇策を用いるしかない。
 そういった諸々の長所短所の妥協点として狙撃という方法が採択されたわけであるが、これにも問題が無いわけではない。照準器を介すことによって魔眼の精度が落ちる懸念があり、これは訓練の際に『クリアできるハードル』だとわかったが、そのハードルを飛び越えるには、それ相応に志貴への負荷がかかる。
 更に今回の場合、そもそも不意打ちにはなり得ない。鈷型はとっくに志貴の存在を認識しているし、距離も五百メートル強しか離れていない。先ほどにサンヴァルツォに牽制させてみてわかったことだが、彼の影を用いた特殊な撹乱に対しても、鈷型は正確に足を運び、ワイヤーとワイヤーの間を飛び交っても見せた。ロズィーアンと取り込んだことによって、明らかに性能が上がっている。
 こういった状況では、志貴による決定打が行われるまで、彼を援護する必要があった。ソロモンの固有結界によってほぼ全ての攻撃を逸らすことはできるが、武器の無くなったシエルと、撹乱と暗殺以外では死徒に抗する能力は特に無いサンヴァルツォだけでは、鈷型のウィークポイントを射抜ける隙を生じさせるには役者が足りない。ケネスには狙撃銃の取り扱いに関するサポートを志貴に対して行ってもらう必要があった。ソロモンには相手の隙を引き出すだけの能力と自信があるが、防御から攻撃に移る隙に志貴に魔手を向けられるのは避けられないだろう。
 ソロモンは考えをまとめると、もう一度だけ腕時計を眺めた。事後処理を考慮に入れると、そろそろ決着をつけなければならない時間になっていた。彼は振り向いて志貴に合図を送ると、志貴が腹ばいになって眼鏡を外し、狙撃銃を構えた。
「状況開始!」
 ソロモンが滅多に出さない大声を張り上げると、志貴が第一射目を発射する。弾丸は鈷型の胴体部に命中、貫通したが、志貴は舌打ちと共にボルトを引く。照準器を調整しようと手をかけると、両耳の間を貫かれたような痛みが走った。胃液が逆流し、口からは涎らしきものが漏れる。視界では赤黒い蝗の大群が舞い踊り、正気と意識を保つのが精一杯というところまで追い込まれていた。
 ソロモンは志貴を気にかけながらも、超人的な視野と反応で鈷型の動きを捉えていく。一撃目もそれなりに効いたらしく、立ち直った鈷型は脅威を排除せんと駆動音を高鳴らせて突っ込んできた。
 その突撃はソロモンの予想を超える威圧感と速度を有していた。鈷型は取り込んだワイヤーを限界まで引き絞ることによって、加速していた。鋼鉄製とはいえ、それはある程度の太さまで編み込んだものだ。理論上は可能である。しかし、それを可能にするには、ビルの柱を捻じ切るだけの馬力と、捻じ切ってしまわないだけの繊細さが必要だ。ソロモンが感心する間も無く、鈷型が間合いを詰めて彼の固有結界に激突する。その衝撃で鈷型に元来備わっていたパーツの幾つかが大きく歪んだが、ソロモンも軽い立ち眩みを覚える。
「無理にでも私に価値を認めさせようという腹か。よろしい、認めさせてみろ!」
「おいおい、何を熱くなってんだよ」
 ゼフィールが頭を出して茶々を入れるが、ソロモンの目は血走っていた。高くなった月の所為か、はたまた性分なのか。ゼフィールは溜息をしてから、後方へと目を向けた。志貴は射撃できる状態まで回復し、先程の一撃から計算した距離と誤差、更には鈷型の接近による差し引きまでを考慮に入れて、照準器にかけた指を動かす。
「どこで習った?」
「ここでさ」
 ケネスは自分がすることは無くなったと思い、煙草に火をつけた。彼は知らなかったが、志貴は鈷型だけでなく、橋の脆弱な点なども視界の中で魔眼によって測量していたのだった。それにより、通常の方法では得られないほど射撃の精度を高めている。しかし、それは諸刃の剣というやつで、当然、志貴の負担はピークに達していた。耳はほとんど聞こえなくなり、鐘楼のような音が鳴り響くだけ。瞳孔は開き切り、目元には血管が浮き出ていた。
 影を使って鈷型の進路を妨害し続けているサンヴァルツォに遅れて、シエルが志貴の傍らから飛び出す覚悟を決めた。これ以上、志貴が耐えられるとは彼女には思えなかった。
「ゼフィール、何か無いのですか!?」
「あー、これとかはどうだ?」
 ゼフィールは鈷型の相手に忙しいソロモンの代わりに、適当に取り出した剣をシエルに渡した。何の印か、鞘の代わりに刀身には赤十字が描かれた白地の布が巻かれている。シエルはそれが何かわかったが大して気に病むこともなく、それを持って鈷型の上方の空中へとワイヤーの間を飛んで向かっていった。その剣はソロモンが以前に失敬したアスカロンのオリジナルだったが、彼が怒り狂うのは後日に気づくまでお預けとなる。
「サン、足を!」
 イエス、マム。サンヴァルツォはやれやれと心中で冗談めかすと、ソロモンの結界に弾かれた鈷型の着地点に、影を集める。沈み込むとまではいかずとも、足を取られた鈷型の動きが止まり、シエルが上空四十メートルからアスカロンを鈷型の頭頂部へと放った。鈷型は咄嗟に上体をガスによって振り、基幹部への直撃を避けたのだが、それによって露出した胴体下部にあたる動力部へ剣が突き刺さった。
「どうだ?」
「近過ぎる」
「そうか」
 ソロモンは志貴と簡単な会話を終えると、彼としては何年ぶりかになる、直接攻撃に打って出た。それは遊び気の無い正拳突きだったが、鈷型は五十メートル近くも後ずさった。その地点にもサンヴァルツォはそつなく影を集め、志貴が間髪入れずに第二射を行おうとした、しかし。
 どっちだ。志貴の視線の先には、明らかに大きな死点が二つあった。志貴は迷いはしたが、より胴体中心部に近い点を狙撃した。それは確かに二つの内の一つを貫き、鈷型は動きを止めた。取り込まれたワイヤーは切り離され、だらりと橋の上にのたくった。
「まだだ!」
 サンヴァルツォが叫ぶが早いか、鈷型の下半身に電気が走った。吊り橋構造では一部の破損が全体の崩壊へと繋がりかねない。肝心のワイヤーの四本もが鈷型によって断ち切られていた。更に極点爆破が伴えば、サンフランシスコ湾はもう一度再開発を迫られることだろう。それだというのに、ケネスにはソロモンが笑っているように見えた。志貴にもう一射を期待するのは無理だというのに。ケネスは傍らで頭を抱えている志貴の背中を擦った。
 ケネスが手を止める。橋のワイヤーが再び動き出したのだ。ソロモンはそれを防ぐことができるだろうが、その間に鈷型は爆破に充分な電気を溜めることができるだろう。そして、彼が観念する前に、事は起こった。
 橋のワイヤーが、鈷型を貫いた。一つ、二つ、三つ……そして四つ。鈷型は生き物のように動くワイヤーによって上空へと持ち上げられ、ばたばたと足を動かす。なけなしの電力をスパークさせるが、そんなものは効果が無い。
「哀れね、豚の体に入るなんて」
 アルクェイドの出現に逸早く気づいたのはソロモンだ。十分以上前から気配は強くなっていたが、ここにきてようやく待ち人が姿を現した。彼女は空中で身動きの取れない鈷型と対峙している。
 アルクェイドはつまらなさそうに腕を突き出すと、志貴が認めたもう一つの点のあった場所を抉り、鈷型に背を向けた。
 海に落ちなさい。その言葉と共に、四本のワイヤーが内部から鈷型を引き裂いた。何個もの固まりに断たれたパーツは、次々と海へ落ちて行く。アルクェイドはそれを見届けると、ワイヤーを元の場所に修復した。どの道、正規の修理は必要であるが、それまでは充分に持ち堪えられるようにしたのだった。
「気が効いているじゃないの、あなたにしては」
「こんなのが落ちたら、生態系が崩れるわ」
 降りてきたアルクェイドにシエルが絡んだが、すぐに治まった。シエルは疲れもあったし、何より、志貴のことが心配であった。彼女はすぐに志貴に駆け寄ると、彼を仰向けにする。彼には意識があったが、眼鏡をかけてやるまで、何かに魘《うな》されるようにしていた。
「あいつ、美味しい場面になるといつも現れるな」
 志貴が喉を絞りながら毒づくと、ソロモンがにやついた。最初からアルクェイドを呼ぼうとしていたのか。いや、彼女を表舞台に引きずり出すのが目的だったのだろう。志貴に会わせさえすれば、それが叶うのだとソロモンは知っていたのだった。
 当のアルクェイドはというと、少し離れた所から、志貴を見下ろしている。その目には既に人間のような感情が戻っていたが、志貴にはわかっていた。アルクェイドがどれほど人間に触れようと、最初の頃のままなのだと。彼女と自分が出会った関係が、そのまま永遠に続く。それを終わらせるのはどちらなのだろうか。志貴は疲れたとシエルに告げると、そのまま眠りに落ちた。


******


 有彦は空港から乗った高速バスの中で、疲れて寝てしまった正行を見ながら、志貴の寝顔を思い出していた。あのとき訪ねてきたアルクェイドは、美味い飯と布団を用意しておくように告げてから、直ぐにまた出て行ってしまった。有彦はわけがわからなかったが、志貴達が厄介なことに巻き込まれていたのはわかっていたし、学生時代の頃のように親友に飯を作ってやるのも良いだろうと思い直して、厨房へと向かった。玄関での騒ぎで起きてきた子供達にも手伝わせた。
 ソロモンを除いた一同が食事を終えて朝方に寝入ると、有彦は置手紙を書いて、正行と共に家を出、そのまま空港へと向かった。取材は粗方終わっていたし、この騒ぎで帰国ラッシュが始まる前に発ってしまおうという考えもあった。
 正行には咲美ときちんとした別れ方をさせてやれなかったが、昨日に撮影した集合写真を息子に見せてやると、嬉しそうに微笑んでから、頭を父の膝に乗せたのだった。
 日本時間で月曜の昼前には家に着いた。駅からの通り道にある会社に寄って簡単な報告を済ませると、同僚達が集まってきて、向こうでは何があったのか、ニュースではテロだなんだと云っていると騒ぎ立てた。
「それで、何と答えたんですか」
 翡翠がお茶を入れながら問う。有彦は土産話を区切って茶を喉に流した。会社で上司から聞いた所によると、翡翠も何かと大変だったらしい。それだというのに黙って話を聞いてくれるのは、申し訳ないと思いつつも、有彦には心地の良いものがあった。
 帰ったのか。元気な声が階段から聞こえてくる。騒がしいのが来る前に話を終えよう。有彦は空になった湯飲みを翡翠に渡した。
「楽しい週末だった、って云ったよ」
「きっと、志貴様もそう思ってます」
「だと良いんだけどな」
「大丈夫ですよ」
 翡翠が愛しそうに写真を見て云う。時限で撮影された写真の中央には肩を組んだ志貴と有彦がいて、その足下で子供達が犬と遊んでいる。シエルは有彦の反対側で強引に志貴の腕を取り、時代遅れのピースサインをしていた。ソロモンは椅子に座り、擦り寄ろうとするゼフィールの頭を片手で押さえつけていた。
 面白そうなもの見てるじゃないか。駆けつけた一子が翡翠の肩越しに写真を見遣る。有彦は仰向けに寝転がると、かしましい女二人の声を聞きながら、目を閉じた。



 ...Week End