ミッターマイヤー家の食会・その1(海苔・黒山羊合作)帝国元帥フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルトは、その日、悩みを抱えていた。ローエングラム王朝の始祖にして一昨年、皇帝病によって急逝した獅子帝ラインハルト・フォン・ローエングラムの2周忌が二ヶ月後に迫っている。だが、彼の頭にあるのはそのようなことではなかった。腹が減った、のである。そう、腹が減ったのである。彼、フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルトは日々の執務に追われ、毎日、腹四分目の食事に耐え、週に二度ある休日にはなじみの食堂へ身分を隠して通うことが、楽しみになってしまっている。彼は、著しく混血の進んだこの時代にしては、少数派の箸愛好者である。ちなみに、バーラト星域自治区に本部がある旧自由惑星同盟箸の友、現バーラト箸の友、略して箸友に和平成立後初めて加入した帝国人でもある。そして『マイン・箸』を持ち、それを箸入れにいれ、普段はブラスターの横に、武器の持込が禁止されているような場所では、ブラスターなどと一緒に衛兵に渡している。渡された衛兵にとっては良い迷惑なのかもしれないが…。ビッテンフェルトが、箸を愛好しているのは、食物を大量に口に運搬できることと、箸を使った際に多少乱雑に食べてもそれが自然と様になるかである。それが彼の容姿に起因するところ大であるのだが、彼はそれを箸のおかげだと思っていた。何より彼には箸がにあっていた。だが、ビッテンフェルトが正々堂々とみなの前で箸を堂々と使えたのは、左官までであって、将官になってからは、ビッテンフェルトにとってあまり価値の無い対面と呼ばれるものが邪魔をして士官食堂が使えなくなり、さらに箸もつかえなくなった。高級士官食堂などと言うものは彼にとっては士官食堂よりも高級ではなかった。味は確かに士官食堂よりも上だろう。だが、だが、量が圧倒的に足りなかった。士官食堂の頃には、腹八分まで満たされたというのに。三割高い料金で、肉類が半減。野菜が急上昇、さらに箸が使えずナイフとフォークを音を立てずに使うなどという、貴族のような名を持つ貴族でない青年将官には難しく、食事のたびに胃がキリキリと痛み、超硬度鋼と結晶繊維とスーパーセラミックの複合走行を四重にして作られているイゼルローン要塞の外壁に匹敵すると、同期の士官学校生達から噂される彼の胃壁に初めて傷を付けた。「はらがへった・・・・腹が減ったのだ」ビッテンフェルトは執務室で低く唸った。まだ、終業時間までは時間がある。しかし、終わってしまえばこちらのもの、さっさと軍服を脱ぎ、夕飯はいつもの食堂に向かうだけだ。彼、ビッテンフェルト元帥は、あまり公の場には姿をあらわさないので、国務尚書であるミッターマイヤー元帥や芸術家提督として世間に知られる軍務尚書エルメスト・メックリンガー元帥などに比べれば・知名度は甚だ低い。私服に着替えた彼は、午後六時の男としてしか食堂の人たちに知られていない。そのため、彼は食事をがっつくことが出きる。「今日をもって閉店するだと!?」オーベルシュタイン元帥が地球教のテロのため死去していらい声量、勢い、回数どれをとっても衰えるばかりだった怒号が、食堂のカウンターで放たれた。いつもは食事をがっつく陽気な青年がこのような怒号を発する事は無かったため、店長以下ほとんどの店員が驚いた。「なぜだ、何故閉店するのだ!? 現にこうして儲かっているではないか」その台詞をたたきつけられた店長は、先程の驚きから立ち直れないまま、ビッテンフェルトの台詞に回答をした。「いやね、儲かってはいるんだけど、昨日プロなんたらというスカウトマンが来てね。『シャーテンブルグ要塞』にこの店を移転しないか、って言うんだ」シャーテンブルグ要塞は、フェザーン回廊の旧同盟領側に建設されたイゼルローン要塞級の要塞である。近日建設が完全に完成し、要塞内部に民間企業用のスペースも設けられることになっている。そこにフェザーンのある商社が権利を獲得し、スカウトに乗り出したらしいのだ。そしてスカウトマンの目にとまった店の一軒にこの店があったのだ。「今日でこの店を閉め、ラインハルト獅子帝の二周忌の日にシャーテンブルグのみせをオープンさせるから、縁があったら来てくれよ」親父は陽気に笑った。だがビッテンフェルトは絶望した。彼の月収、元帥府から帰宅する際に通える距離、そして一度に出てくる量、それらを満たしてくれる食堂はココしかなかった。なかったのだ。代金を払い、食堂を退出したビッテンフェルトは対策を練り始めていた。如何にして食事の充実を図るか、従卒に料理が美味い人間をつけるという手段もあるだろう。だがそれは最後の手段である。情報はどこから漏れるかわからない。ビッテンフェルトが大食漢なのは衆知の事実である。しかし、帝国の七元帥の、それも黒色槍騎兵艦隊司令官が食堂に通っているのはよしとしよう。だが、彼にとって、この食堂がなくなることは、生活力のあまり無い彼が、いままでしっかりと補給線を支えられてきた最大の要因を失うことになる。まずい、ビッテンフェルトは生涯で初めて、生命の危機を感じた。彼の本分は戦術家食うこと)であって戦略家(作る事)ではない。唯一無二の生命線を断たれかかっているビッテンフェルトは、何とかしなければならないと思いつつも、今現在の満腹感に満足し、考えることを放棄した。後に、結婚をすることを決意したビッテンフェルトの台詞にこのようなものがある。「俺には、家計簿をつける姿は似合わない。そうは思わんか?」食堂から自宅へ帰ろうとした際に彼は思い出した。肩が異様に軽いのだ。「しまった、執務室にマントを忘れたな」適度に満たした腹で思案に暮れているよりも、明日の朝の出仕の際に元帥用のマントをつけていないというのが目前の問題として浮かび上がった。元帥用のマントは代えがあるとはいえ、彼の場合は最初に着けたマントをずっと使用しているため、代えのものは新品のまま。すなわち、布が堅く、重い。そんなものをただでさえ堅苦しい執務の間中着けていると考えただけで、働く気力さえ無くなってくるのだ。彼は少々手間ではあったが、食堂から程近い自宅に帰らず、自身の元帥府へと向かった。「おや、閣下。何かありましたか?」執務室の扉から上級大将の頃から重用している参謀オイゲンが執務室内の整理を終えて出てきたところで、ビッテンフェルトと鉢合わせた。「いやな、忘れ物だ」「なんでしょうか、私的なもので無ければ私が取ってきますが…」「いや、いい」オイゲンの言う『私的なもの』の範疇に元帥用マントは入る。というより、よもや元帥ともあろうものが自分の着けるマントを忘れたとはあまり言えない。尤も、ビッテンフェルトはオイゲンがそういったことも笑って済ますような人物であることを知っているが、それは部下の度量に甘えることにもなる。彼の矜持としてはそれはあまり感心できたものでなかった。「そうですか、ではせめてここでお待ちしています」「うむ」オイゲンを残して室内に入ったビッテンフェルトは、私的なものを収納するためのクローゼットを開けた。彼にはクローゼットよりもロッカーが似合うが、流石にそのような安物中の安物は元帥府、それも元帥の執務室などに置けない。彼は目当てのものを見つけると、ついでに軍服にも着替えた。府内を私服でウロウロするのは部下に対して示しがつかない。ここに戻ってくる際にも、府内に入る際の手続きをするところで、その格好のため警備の者に不審な目で見られた。流石に上官に対してであったから露骨なものではなかったが。「すまん、待たせたな」「いえいえ、小官は閣下に待たされたなどと思ったことは一度もありませんよ」死にかけたことは何度もありましたが、という言葉を続けそうになってオイゲンは必死で言葉を切ったが、それには彼の上官は気づかなかったようだ。「では行くか」「はい」府内の廊下を歩き、後はそこの角を曲がれば玄関ホールというところで、そこの角からミッターマイヤー国務尚書とお抱えのバイエルラインが出てきた。バイエルラインは本来ならば軍務などの関係職に就くはずであったが、本人が「ミッターマイヤー閣下の下以外で働く気にはなりません」という嘆願を出し、挙句にはこれが認められないならば辞めるとまで言いだした。これが去年中頃の話である。本来ならばこのような無理が通るはずはない。当事者であるミッターマイヤーですら、そのような事体になっては困る他無い。国務はあくまで皇帝であるアレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラム、引いては摂政であるヒルデガルド皇后、更に引いては国民のために行なわれるもの。それを個人的感情によって部下を選ぶようなことは、精錬潔白を信条としているミッターマイヤーにとっては、部下への感情よりも優先されるべきものであるからだ。バイエルラインもそれは十分承知しているであろうが、それゆえにミッターマイヤーも頭を悩ます。事体を収拾するには、バイエルラインを止めさせるか、無理を通すか、そのどちらかしかない。その英断を下せるのは、一人しかいなかった。かくて、このような国全体から見れば些細であるはずの人事問題の報告書が摂政であるヒルデガルドの手元に渡った。翌日、ヒルデガルドからこの人事問題への結論が発表された。それは以下のようなものである。ウォルフガング・ミッターマイヤー元帥の行なう事に私心無し非常に簡潔ではあったが、これはミッターマイヤーに対して全面的な信頼が無ければできないことである。これにより、ミッターマイヤーは人事に対して周りを気にすることなく決定を出すことができた。かくてバイエルラインは国務尚書元帥ミッターマイヤーの補佐官に任命された。もちろん、これに対して良く思わない省庁もいくつかあった。今現在、そして過去において確かにミッターマイヤー元帥は信頼に足りるが、それが未来においても永続するものであることを皇后は何を以って証明するというのか。この波紋は皇后が自身が全責任を取るということで一時収まり、ミッターマイヤー自身の国務が結果を出し続けていくことで完全に収まった。尤も、それでも一部不満が残る者がおり、ミッターマイヤーを始めとした者達には厳しい目が光り続けている。そのような事情があってか、ミッターマイヤーはストレスを発散するために、周に一度のペースで仲間を一人づつ呼び、夫人の料理や世間話を肴に酒を楽しむ。最初は国務省内の部下などを呼んでいたのだが、最近では元帥級の者にも話が持ちかけられ始めていた。だが、シャーテンブルク、ドライ・アドミラス・ブルクなどの要塞方面への人事から軍事配備に至るまで各省庁は多忙を極めており、元帥などは暇さえ見つけるのも苦労する。ビッテンフェルト自身も愛用の箸の悲鳴が聞こえてくるような生活をしていた。現在はラインハルトの二周忌のために各元帥が帝都に戻り始めることができる程には暇になっており、ミッターマイヤーはそういった経緯からビッテンフェルトの下へと来たのであった。ミッターマイヤーとバイエルラインはその旨をかいつまんで話した。「ビッテンフェルト元帥、今度、卿を食事に招待したいのだが、如何なものかな?」ちなみにこの言葉をミッターマイヤーが発した少し前に、バイエルライン補佐官は控えめに礼をし、二人の前から退出している。その姿を見て、ミッターマイヤーが意地悪い笑みを口元に浮かべた。彼が頭の中で、冗談の勉強の次は女か?、などと親友譲りの毒のある考えを発揮していたかは、定かではない。「私は良いのですが、国務尚書閣下はよろしいのですか?」ビッテンフェルトは控えめに、理性の働いていた返答をした。満腹だったからだろう。そして、彼の戦術家としての本能が動き出した。たしか、ミッターマイヤーの奥方はとても料理が上手だそうだ。ここは、ご馳走になるべきか、と。「ああ、たまには酒の飲める男同士で語らってもいいものだと思うが」ミッターマイヤー家の人間で酒が飲めるのは、ウォルフガンク・ミッターマイヤーだけだった。ミッターマイヤーの親友、オスカー・フォン・ロイエンタールが亡くなってからは、酒量が極端に減った。一緒に飲む相手がいないというのは、酒の旨味もそれ以上のものにはならなかった。酒量が減って。エヴァンゼリンは喜んでいたが・・・。「わかりました。謹んでお受けいたしましょう」ミッターマイヤーの提案を受け入れた。その時彼はまだこの食事にある人物の思惑が隠れていることを・・・。その晩、エヴァンゼリン・ミッターマイヤーは豪華に装丁された見合い写真の整理に忙しかったという。かくて翌日、執務を全て終えたビッテンフェルトはミッターマイヤーのいる国務省へと向かった。これからの日々の食事をどうするか、ということはとりあえず置いておくことにした。やろうと思えば自身の元帥府から多少遠くてもでかけていくことができる。流石に朝食、昼食は無理であるがせめて夕食くらいは、ということだ。国務省前に着いた彼は軍服の襟を正すと、黒色に染め上げられたマントを風に任せながら省内へと入った。玄関ホールに足を踏み入れると、それを見つけたバイエルライン国務尚書補佐官が応接用のソファから立ち上がりビッテンフェルトへと歩み寄ってきた。事前に連絡は入れておいたため、バイエルラインは職務が終わり次第、玄関ホールにてビッテンフェルトを待っていたのだ。「お早いことでありがたい。私もあまり時間が無いもので、内心ヒヤヒヤしていたのです」バイエルラインは、そこだけ彫りぬいたようなクリっとした両目をホールに備え付けられた時計に目を向けながらそのようなことを言った。バイエルライン補佐官に恋人あり、という噂は国務省内はもとより、彼を知る者達がいる場所で公然のように流れている。ある者は彼が恋人と実際に会っているところを見たと言い、ある者はレストランでの様子は実に楽しげだ、あれは結婚も遠くないといったところだろう、と言う。どれが真実に近いかは別として、噂のどれもが恋人がいる、ということだけは共通していたので、いることはいるのであろう。尤も、当のバイエルライン自身がそのことを問われても、苦笑いを浮かべるだけで何も答えないため、確証は得ることはできないでいる。バイエルラインが国務尚書室と直通になっている受付所のテレビ連絡機を用いて、国務尚書室にいる人物、つまりミッターマイヤーに連絡を取ってから10分程して本人が玄関ホールへと姿を現した。彼のたなびかせる赤一色のマントはその人格の本髄に流れる感情を表現しているともいえる。玄関ホールにいた将官全員が敬礼をするのを手で制してから彼はビッテンフェルトの待っているソファに近寄ってきた。それに合わせてバイエルラインがミッターマイヤーに歩み寄り、数合の会話を交わした後にバイエルラインは玄関ホールから小走りに出て行った。それをミッターマイヤーは苦笑とも微笑みとも取れる表情を浮かべた後、彼を迎えるために既に立っていたビッテンフェルトに話し掛けた。「卿も行動が早いな」「閣下の『疾風』の異名にはとても敵いませんがな」それぞれの立場が変わり、時が経っても、友に宇宙を駆け抜けた者達である、その友誼の間には冗談を交わすだけのゆとりがあった。「冗談はともかく、まぁ、それだけエヴァ…ごほんっ…妻の料理を楽しみにしてくれているということだな。妻には既に卿が来ることは伝えてあるから、今ごろハインリッヒと料理でも作っていることだろう」「では、早速参りましょうか。ご夫人を待たせるのは如何に将官のような無骨者でも忍びないものです」その応えにミッターマイヤーが軽い笑い声を上げた後、二人は玄関ホールから去っていった。国務省から歩いて20分のところにミッターマイヤーの邸宅はある。帝都フェザーンでの省庁や関係職員の邸宅や宿泊所は省庁を囲むようにして設置されており、更にその円の外側に旧フェザーン自治区時代からの都市がある。真夏まで後少しといった夕方の強い日差しを防ぐようにして立ち並ぶ並木道を元帥二人はマントをたなびかせながら歩いていた。「そういえば卿は私の家に来るのは初めてだったか」「いえ、何度か閣下に呼ばれたことはありますが、そのときはミュラーやワーレンと一緒でしたので、一人で、ということであれば確かに初めてですな」その応えを聞いたとき、ミッターマイヤーは表情を一瞬感情のやり場の無いような形にしたのをビッテンフェルトは認めたが、それっきりミッターマイヤーの邸宅に着くまで彼の側から話題が振られることはなかったため、疑問を口にすることはできなかった。夜七時を少し過ぎた頃に二人は邸宅へと着いた。ミッターマイヤーが玄関の扉を開けて中に入り、ビッテンフェルトはそれに続いた。「エヴァ、帰ったよ」ミッターマイヤーは国務省などの公的な場では妻のことを名前で呼ばないが、家に帰るとその枷を外す。それは彼自身が自分の意識しない場所で私的なことを公務に持ち込まないようにしていることを表してもおり、ビッテンフェルトは顎を引いて下を見ながら軽い溜息を付いた。『俺には勤まらん職務だな』そう心の中で呟いたからだ。程なくして、ミッターマイヤー夫人エヴァンゼリンが玄関から続く廊下奥の開け放った扉から出てきた。「おかえりなさい、アナタ。いらっしゃいませ、ビッテンフェルト元帥」その笑顔を見ながらビッテンフェルトは一種の違和感とでも言うものを覚えた。といっても、別に嫌なものではない。なんというのか、本当に充足していることが傍から見てわかるようになった、とでもいおうか。戦後に何度かお目にかかった夫人であるが、その頃はミッターマイヤーは先に上げたバイエルラインの一件のことやその他では故ロイエンタール元帥の遺子を引き取ったこと、更には戦後処理に関する各部署との摩擦などで疲れていることが見て取れたし、それを一番心配していたのは夫人である。それを乗り切り、現在は多少の摩擦は残るものの、正に充足した生活を送っている。それが仕草や雰囲気に出ているのではないか、とビッテンフェルトは勘に近い洞察をした。「本日はミッターマイヤー閣下のお招きとはいえ、ぶしつけに参上いたしましたが、それもご夫人の腕を見込んでのこと。お許し願いたい」ビッテンフェルトは一瞬だが後悔の感情を心中に走らせた。純粋に現在の生活を充実させようとしている夫婦を、自分は自身の食欲などというもののために利用したのだな、と。しかし、そのことをいつまでも引きずるような彼では無かった。なれば今宵の食会をより良いものにすることが大事ではないか、と思い直していたからである。廊下を玄関から進んで最初に左手にある扉を抜けたところがミッターマイヤー家の応接室である。今回のような食会はもちろんのこと、その他集まりがあるときにはここが使われる。家族のみの場合は台所と繋がっている食堂で、ウォルフガング・ミッターマイヤー、エヴァンゼリン・ミッターマイヤー、かつてロイエンタールの従卒であったハインリッヒ、そしてロイエンタールの息子で、現在はミッターマイヤー家の養子であるフェリックス・ミッターマイヤーの計四人が団欒とした食事を取っている。応接室の、奥に長い木製のテーブルの上座部分の椅子にミッターマイヤーが座り、彼から見て右手の席にビッテンフェルトが座った。「実を言うとな、ビッテンフェルト。私も今晩のメニューをエヴァから聞いてはいないのだよ。食前酒が出てこないところから見ると、どうやら洋食ではないようだがな」その台詞を聞いたビッテンフェルトはすかさず自身の本音を吐いた。「ほう、それは楽しみですな。正直なところ昨今はこの帝都も洋食を出す店が多くなって辟易していたのですよ」「ふむ、確かに旧フェザーン自治区の頃の文化を軽んじる風潮があるのは確かだな。実際、旧帝都であるオーディンから移転してきた、そういった関係の企業が旧自治区時代の企業をどんどん合併している。合併とは言っても、実の所それは吸収に近い。株価の差も明らかだ。これは帝都から移住した軍人層やその家族を取り込むための動きであることは自明だが、これを放置するは得策ではない。一考する必要があるな」「そうしていただけると私の胃袋も助かりますな」「卿の胃袋と並べられては、フェザーン文化も迷惑かもしれんがな」確かに、というビッテンフェルトの応えと共に、二人は笑い声を上げた。その笑い声を合図にしたかのようにエヴァが応接室に台車を引いたハインリッヒを引き連れて入ってきた。別に堅苦しい礼をするわけでもなく、エヴァは普段と変わらぬ風に話し始めた。「今晩は私の料理をわざわざ召し上がりに来てくださってありがとうございます、さて、ビッテンフェルト様が箸を使うのがお好きだと聞いたものですので、今回の料理も箸を使って食べるものばかりにさせていただきましたわ」そこでビッテンフェルトは先ほどまでの、無骨な顔に似合わない笑顔に似合う間抜けな表情をした。「はっ?そのような話をどこから聞いたのですか、私の屋敷の者すら知らないことですぞ」彼は自分の癖のある髪の毛根から汗がにじみ出てくるのを感じていた。「主婦というものは顔が広いものですよ」それだけ答えてエヴァは応接室から立ち去った。残ったハインリッヒを含めて、三人全員がなんともいえない間を肌に感じていた中、ミッターマイヤーがその間を突き崩すように口を開いた。「まぁ、あれだ、エヴァもあれでなかなか活動的でな、気にしないでくれ」気にするなというのが無茶な含み方のある台詞を吐いて去ったエヴァのことを気にするなというのは、もっと無茶である。そこでハインリッヒが襟を正した。「ビッテンフェルト閣下、料理の説明は私がさせていただきます」それを聞いてビッテンフェルトがハインリッヒにようやく関心を向けた。「おお、ハインリッヒか、久しぶりだな。あれから元気にしていたか」「はい、あのときはお世話になりました」あのとき、とは今からは随分と前になるが、ある日世話を任されているフェリックスのためにミルクを買いに出かけたとき、まだフェザーンの地理に明るくなかった彼が道に迷ってしまい、そこに通りかかった(このときも先の閉店する店へ行こうとしていた)ビッテンフェルトと鉢合わせになり、食事を共にしたことである。「あのときはご馳走様でした」「なあに、一度しか俺の顔を見たことがないのに、顔を覚えていてくれたことの礼だとでも思ってくれれば良い。あのときは俺が軍服でもなかったのに、それでも俺だとわかったのだからな」普通は、儲からない探偵稼業の男のような着崩したジャケットにスーツズボンをして、おまけにサングラスをつけている男を見分けるなどというのはできない。ミッターマイヤーが話に参加してきたのはそのときである。「ほう、そんなことがあったのか。ハインリッヒは今年に私の知り合いの元情報部で今は探偵をやっている者の下で助手をやりはじめたんだ、熱心にやってるようだぞ」「はい、前は軍人になりたいと考えていましたけど……色々ありましたから」ミッターマイヤーはハインリッヒが何故その道を選んだか知っていた。フェリックスの母親をその仕事を通して探し当てたいと考えているのだ。ロイエンタールの死はそれに関わった様々な人間に影響を与え続けている。それこそがロイエンタールが生きた証なのだ、とミッターマイヤーは思っている。そしてその証の最たるものがフェリックスなのだ。その母親、エルフリーデ・フォン・コーンラウシュを見つけてからどうするのか、そこまでハインリッヒは考えていない。ただ、会って話がしたいのだ。ロイエンタール元帥はどんな方でしたか、と。「そうか、それは良い。ついでに私の食欲を満たせるような店も探してくれよ」一同がその台詞で軽く笑ったところで、ハインリッヒが本題に入り、料理もテーブルの上に置かれた。洋食で使われる材料を使って、中華風の調理を施した魚や野菜、珍味などがずらりと並べられ、その一つ一つをハインリッヒは丹念に説明した。この説明ができたのは、彼がエヴァの料理の手伝いを仕込み段階から手伝っていたからである。ハインリッヒが深々と礼をして、応接室から去り、ミッターマイヤーとビッテンフェルトが料理を前にして食べる前に感想を漏らした。「私も箸を使うことはあるが、果たして私のつたない手先で食べきれるものかな」「はっはっは、その方が私の取り分が増えるというものですよ」そうして、食会はようやく料理を食べる段階まで進んだのであった。食事も中頃を過ぎ、残った料理をちびちびと口に運びながら、エヴァが途中で持ってきた今日の料理に合う酒、白ワインを喉に流していた。胃の腑が食事と酒でほぐれてくると、そこに溜まったものが上に浮いてくるのはよくあることだ。どうやらそれはこの食会にも当てはまるようである。「それにしてもな、ビッテンフェルト。近頃の連中は本音を出さん。訳を聞いてみれば、閣下のような公明正大な方になりたいからだ、とくる。当り障りの無いことが公明正大だというのか卿は、と厳しく言ってやるんだが、そういう輩は後を絶たない。バイエルラインのような部下は貴重だよ」ミッターマイヤーは本音を言う際に必要以上にも以下にも言わない。それこそが彼を公明正大たらしめる所以である。そんな彼が愚痴を言うのは、そうそうあることではない。ロイエンタールが生きていた頃は互いにそういったものを許容し合える仲であったから、そんなことはなかったのだが。「閣下、それはどこも同じですよ。どいつもこいつも有名な者を模倣しようとして、模倣すらできていない。しかもそれすら気づいていないのですからな」ビッテンフェルトも主催であるミッターマイヤーが乗り気であったから、その気に乗じている。と、そこでミッターマイヤーその人から思わぬ切り返しを受けた。「なぁ、ビッテンフェルト、その閣下というのは止めてもらえんかな。公儀の場であるなら結構なんだが、流石にそれを離れてまで僚友に閣下などと呼ばれたいなどとは思わん」そこでビッテンフェルトは初めて気づいた、いや、納得した。並木道で見せた表情はこれが原因だったのか、と。「わかりました、閣下、いや、わかった、ミッターマイヤー。皇帝に仕えていた頃のように話そう」皇帝、とはもちろん現在のジークフリード・アレクサンデル・フォン・ローエングラム(アレク大公)ではなく、その父親であるラインハルトのことである。「そうか、すまんな、わがままであったように言ったあとで思ったのだが」短めの金髪の前髪部分をなで上げながら、ミッターマイヤーはそうこぼした。「それはそうとして、ミッターマイヤー、そろそろ俺も帰ろうと思うのだが、その前にご夫人に挨拶がしたい」「おお、そうか、そうだな、ちょっと待っていてくれ、今呼んでくる」そう言ってミッターマイヤーは応接室から出て行った。一人残されたビッテンフェルトは、今晩のことを整理していた。「俺も少々、周りに流されていたかもしれんな」これはもしかしたら今晩だけには限られない一言であるのかもしれない。「お、おい、エヴァ、そんなものを持っていってどうする気だ!」「あらアナタ、ビッテンフェルト様にはこういうことも必要だとはお思いにならない?」ミッターマイヤー夫妻の話す声が応接室の扉の外から聞こえてきた。珍しく言い争っているようだ。そんなもの、というのがビッテンフェルトには気になった。内容から察するに、夫人が押しているようであるのはわかったのだが。「エヴァ、やめろ、そんなことをすればビッテンフェルトは…」「あの方にもいい加減に覚悟を決めてもらわねばならないのですよ、アナタもわかってください」そんなもの…覚悟…あまり良いキーワードではない。ビッテンフェルトは苦い顔をしてそう思った。そして扉は開かれた。夫人の手には薄いながらも豪華な装丁をした本が、ざっと見て10冊は積んであった。「ご夫人…それは……?」疑問の答えを言わずに、夫人は本をビッテンフェルトの前に置いた。「まぁ、とにかくご覧になってくださいな」夫人の笑顔から威圧感を受け取りつつも、一番上の本を手にとって開いた。「これは……」見合い写真ですよ、と夫人が続けた。言われるまでもなく、一目見て彼は気づいていた。見合い。彼にとっては縁遠いものであった。仲人役を買って出るような者が皆無だからだ。何より、彼自身が女性にあまり興味が無い。全く無いわけではないが、かといって能動的には行動しない。「ご夫人、好意はありがたいのですが、私には用の無いものです」そう苦笑混じりに言って本を閉じた。そして本を机に置こうとしたとき、夫人が言った。「料理の上手い方ばかりを取り揃えましたよ」「会ってみる価値はありそうですな!」思ってみれば、日々の食事についての問題を解決するのに、結婚という選択肢もあったのだが、結婚そのものを考えに入れたことが無かった彼にはその先まで考えが浮かばなかったのだ。そうして、ビッテンフェルトと夫人の会話は進み、日取りの予定までもが決まっていった。その様子を応接室の入り口から見ていたミッターマイヤーは中に入ろうにも入れなかった。「さて、それではそろそろ私は失礼します。ご夫人、例の件、よろしくお願いしますぞ」ビッテンフェルトが応接室から出ようとしたところで、ミッターマイヤーに気づいた。「おお、ミッターマイヤー、俺は帰るぞ。今日は楽しかった、またな」「あ、ああ……」ミッターマイヤーの気の抜けた声を聞いたのか聞かないのか、ビッテンフェルトは高らかに笑いながら玄関から出て行った。そのとき、エヴァの呼ぶ声がミッターマイヤーの耳に入った。「アナタ、また別の方を呼んできてくださいね、そのほうが張り合いがありますから」ミッターマイヤーは苦笑しながらも、快く承諾した。彼にとって、仲間と、そして家族といるときこそが楽しいのだから。初稿2002年4月21日