発生当夜から翌日までの自動車の旅から見る新潟県中越大震災(中越地震)

企画・執筆・編集:藤田泰久(新潟県立直江津工業高等学校電子機械科卒業時、本山泰久)

本稿の内容については先ず筆者にお問い合わせください。

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
このworkは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。

目次(構造)

レポートについて

本稿は、現在の報道一般では中越地震と呼称され、県の命名では中越大震災とされる地震が発生した当日夜から翌日夕方までに私と友人二名が行った上越市と新潟市の間の往復において見聞きしたことを中心としている。

注目すべきは、この移動における報道からの乖離である。私達は震災から3時間も発たない内に上越市を発ち、新潟市には深夜に到着している。更には親友の急逝や個人的な事情が重なり、新聞やテレビを見ているような暇や余裕はほとんど無かった。当時の私達の意識と被災地の現状とのギャップから、この震災の断面を読者が直に読み取れると考え、本稿を執筆するものである。

本稿には新潟県の主要な幹線道路や施設、当時の情勢、後に判明した詳細なども含まれる。また、本稿では震災被害という広範なものを扱い、同時に散見する問題について述べるため、詳細な検証・発展考証については他に譲るものである。

謝辞

震災に遭われた全ての方々、そして義援金やボランティアといった形で助けの手を差し伸べている方々には頭が下がるばかりである。また、有益な資料を開放している関係各機関、並びに編纂に携わった方々と復興のために尽力し続けている方々に誇りと尊敬の念を表す。

本稿を執筆するに至るまで絶え間無い応援をして下さった恩師である中村忠雄先生と私の家族、全ての友人にこの場を借りて感謝の意を表したい。

中越大震災という命名について

このレポートで云う中越大震災とは、2004年10月23日、新潟県中越地域に発生した地震による被害全般のことである。命名は震災発生後の調査を踏まえて、県が行った。一般に知られている中越地震という名前は気象庁が命名したものだ。

本稿においては被災地の状況や問題を述べるため、本震・余震とされるもの以外では中越大震災という命名に準じる。

新潟県には地図上で簡単にわかる佐渡島の他、上越、中越、下越の地域がある。上越地域には上越市、妙高市等があり、中越地域には長岡市、柏崎市、魚沼市等がある。そして下越には新潟市、新発田市、阿賀野市等という具合に、各地域に市町村が存在している。

なお、各地域の明確な境界線は元々からして設定されておらず、これは幾つかの地域を内包する県としては日本唯一である。更に2005年7月現在までに新潟県のほぼ全ての市町村が合併された。これらの事情により、県外在住者には地域ごとの理解が難しいものがある。

しかし、県外の方が云うような、「新潟大地震」といった命名や認識は明らかに間違っている。例に挙げた新潟大地震などという云い方は明らかに的外れであり、しかもこの名前は1964年に発生し、新潟市を中心に被害をもたらした地震の一般的に知られる名前と同じである。

2005年7月現在までの認定数より

中越大震災と新潟大地震との違い

第一に、被災範囲の違いが挙げられる。新潟大地震は新潟県、山形県、秋田県等にまで被害をもたらしているが、中越大震災は現在の長岡市、小千谷市周辺に留まる。

第二に、被災者・被災家屋の数とその程度である。新潟大地震はアパートの倒壊や火災なども発生し、当時としては深刻な被害をもたらしたが、中越大震災の犠牲者、特に死者は48人であるのに対し、新潟大地震の死者は26人。被災家屋は、ここでは全壊(全焼)のみを挙げるが、新潟大地震では約2200棟、中越大震災では3177棟。

以上のように、一部の数値だけを見てもその規模・被害には明らかな違いが認められる。もっとも、両震災当時の土地開発・住宅事情の違いや数値に表れない被害というものもある。特に新潟大地震については資料自体が古く、当時の行政の対応については私の体験が伴わないため、満足なものにはなりえない。それでも中越大震災が如何に局地的なものであったかは理解していただけるだろう。

震災以前の状況

2004年には「7.13新潟・福島豪雨」の他、台風により福島などでも水害が発生した。世論の一部では「中越大震災によって豪雨被害保障がウヤムヤになってしまった」という声までもが出た点を見逃してはならない。現に、中越大震災の後は豪雨被害の話題が報道から失せてしまった。災害に遭った市町村、引いては県にとって、外部の関心を取り付けられないことは、復旧に当たって障害の一つとなる。福島などでは2005年現在でも未だに豪雨被害から完全に復旧を果たしてはいない。それほどにこの年の雨は深刻な被害をもたらした。

新潟県内に限定すると、9月21日付で県災害対策本部が廃止されている。それまでに各市町村の災害対策本部は廃止されており、応急対応は全て終了したと報告書には記されている。当時の報道や県資料によれば、それまでの施策から、被害の甚大だった地域の堤防や河川ダムなどの水害対策、各市町村の緊急時マニュアルの見直しへと転換が図られていた。

一方、水害などから離れると、新潟県内の市町村統廃合の進捗に合わせた調整の他、東京電力の管理する柏崎刈羽原子力発電所いわゆる柏刈原発のトラブル、朝鮮民主主義人民共和国いわゆる北朝鮮の貨客船である万景峰号の入港、そして北朝鮮日本人拉致被害者など、これら現在に至っても決定的な解決策が施されていない問題も数多くあった。

道路について

このレポートの中での私を含めた三人の移動は自動車によって行っている。そのため、レポート本文での言及の他にもある程度の道路の解説を必要とする。

上越市から長岡市、新潟市までを繋ぐ国道8号線。柏崎市から長岡、新潟までを繋ぐ国道116号線。この二つが主なもので、トラック輸送や県内の移動にはよく利用される。特に国道8号線は、これさえ辿れば県内を縦断でき、116号線を含めた他の主要道路にも繋がるため、県外にもよく知られている。

他にも上越市から東京都までを繋ぐ国道18号線、小千谷市から東京都までを繋ぐ国道17号線、沿岸部には352号線、402号線がある。一方、内陸部は山中の市町村を繋ぐように敷設されているが、震災によって中越地域のほぼ全ての道路が土砂崩れの他にも陥没や亀裂を発生する被害に遭い、行き来が全く不可能な場所もあった。

以上は全て一般道であるが高速道路では県内を縦断する北陸道の他、長野、群馬等を経由して東京までの内陸を繋ぐ上信越道、関越道がある。

移動中は厳密な位置測定が不可能な場面も多々あったため、以上に列挙した国道からの道筋で把握することになる。

道中

地震発生

初震の際、私は上越市高田にある自宅の自室に一人でいた。家族は全員家には居らず、これから友人とどのように過ごそうかということばかり考えていた。そして、「バン!」という家屋全体に衝撃が走る音と揺れが来た。私は咄嗟に衣装箪笥を押さえにかかった。それ以外には私の部屋で倒れそうな物は無く、逃げようとはしなかった。

じきに揺れも治まり、家屋に異常が無いことを確認してから、自室に戻ってテレビをつけた。初震から十分と経っていなかったから、速報の内容も詳しいものではなかった。それから一時間の内に続報が入り、どうやら中越地域には被害が出たらしいということがわかった。

*報道について

当日、初震から私達が出発するまでの間の報道では、震源や各地の震度、それに浦佐―長岡間を走行していた上越新幹線とき325号が脱線したことなどが伝えられているものの、被災地の状況まではほとんどわからなかった。この場合、1995年の阪神・淡路大震災や2005年3月に発生した福岡県西方沖地震が理解には有用だ。

阪神・淡路大震災は早朝5時46分に初震が観測されている。一方、福岡県西方沖地震は10時53分に初震があった。なお、中越大震災は17時56分である。

被害実体はともかく、地震自体の規模ではこれら3つは全て一線を越えたものである。それにも関わらず、報道の迅速さと素材の種類においては明らかに差異が見られた。これは阪神・淡路大震災を検証する際に何度も云われて来た、初震発生時間の差から生まれたものだ。

ここで改めて中越大震災の17時56分という時間について考えてみよう。10月の新潟県内のおおまかな日没時間は17時である。これは私の記憶にも合致していて、初震のときにはカーテンを引き、電灯を点けていた。多少の誤差や地域毎の天候・地形の違いによる実際の明るさは違っただろうが、17時56分ともなると県内全域に夜が到来していたと云って良い。

阪神・淡路大震災の5時46分という時間の検証には「大半の住民は寝静まっていた」というものがある。一方、中越大震災においては、暗くはなっていたものの、夜勤従事者や休日、昼寝などの個人毎の事情を考えても、大半の住民は起きていた。更に福岡県西方沖地震では、真昼間であった。

こと報道に限った場合、取材の効率性や映像の質と量において、夜間は昼間のそれらよりも落ちる。

全国規模の報道には映像が不可欠だが、この体制が常に有用でいられるわけではない。報道に頼るしかない私達は、そのことを非常事態においてこそ忘れてはならないのだろう。

出発

初震発生後、何度かの余震があったが、19時過ぎ頃までに私の親友である二名(以下Y、K。私を含め全員が同年代)がそれぞれ先方からの電話連絡の後、私の家に来た。Yは市内に職場と自宅があり、Kは糸魚川市に職場と寮がある。今思えば、あれだけの地震があっても私の所に来た二人には、驚きすら感じられる。しかし、当時の私を含めた大半の者が大したこととは思っていなかったようだ。

皆がそれぞれに事情や生活があった。それでも私達は当日に顔を揃えている。後述することになる親友Iの逝去の際に揃った面々から聴いたことからも、少なくとも上越地域全体において被災した意識は無かったことがわかる。

さて、これらを踏まえて、私達の問題行動(後になって痛感している)が起こる。Yが言い出し、Kと私が賛同した提案。それが上越市から新潟市までの自動車による移動である。

当時、Yには新潟市に恋人があった。これに地震の様子を見てみようという態度が重なり、実行に移された。

移動にあたって、Yが自分の車で運転をし、私とKは地図の確認や地震の被害の様子の確認を担当することになった。こうして私達はYの乗用車に乗り込み、出発した。時間は20時前後だったと記憶している。

上越市から柏崎市へ

上越市内を縦断している63号線から国道8号線に合流し、柿崎の辺りまで来たとき、私達は車の通りが極端に少ないことに気付いた。上越市内から高速道路以外を用いる場合、ほぼ全域が一車線となるから、車の通りがあればすぐにわかる。大型トラックが行き交い、通勤・帰宅ラッシュ時はもちろん、深夜になっても車が絶えない。

その点、運転しているYは気分良く運転を続けられるわけだが、私は不安であった。新潟市に行くにあたって中継地点である柏崎市に入るには米山を越える必要がある。ここは所々で見通しも悪くなり、道幅も狭くなる。もし陥没や土砂崩れなどがあったらと思うと頭が痛くなりそうだったが、じきにその不安は形を変えていった。

山を下りても灯りが見えない。車のヘッドライトの範囲以外では影の濃淡でしか景色がわからず、私は状況が掴めるまで速度を控えるようにYに言った。そして、信号機の灯りすら落ちているのを見て、全員が納得した。

柏崎市全域が停電していたのだ。

*地震後の停電

当時の報道によると柏崎市だけでなく中越地域のほぼ全てが停電に陥っている。これは災害時においても大規模な停電であり、自治体の通信設備ではバッテリーの不備が重なったために相互の連絡が不可能となった。これは災害時における対策を検討する際にも指摘されている。

この停電は震災によって電柱が倒れるなどの直接的な障害の他、電力供給施設が地震のために自主的に電力をストップしたために起こった。全域の電力が復旧するまでに3日近くかかったのも、供給再開に電力会社側が慎重になったことが影響している。

その一方、IP電話やISDNといった通信網は正常に機能していた。しかし、一般の電話回線は以前の災害時と同じように規制を受けている(いわゆる輻輳《ふくそう》時における制御)。災害に強い通信網を再認識する必要が自治体に限らず企業組織にも求められている。

闇と車の中で

柏崎市内では全ての街灯・信号機が停電によって消灯していた。頼りになるのは闇に慣れてきた目と車のヘッドライトだけだった。私達はここで初めて事の重大さに気付いたと云って良い。夜は暗いものだが、街の灯りが無いというのは心を酷く沈ませた。

このときYがどのような心境で運転を続けていたかはわからないが、疲れが溜まっていたのはそのときにもわかった。休憩できそうな場所を探して車を走らせるが、コンビニ(当然、停電している)の駐車場はどこも満杯で、とても市内には休憩できそうな場所は無さそうであった。

当時の私はその光景を見ても、地震に際して買い出しや避難のためにあくまでも一時的に車を停めているだけなのだと考えていたが、これらほとんどの車がいわゆる車中泊のために駐車していたことが後にわかった。

車の中での睡眠というのは私も遠出の際に何度か経験があり、この移動でも新潟市にて車中泊を行っている。一度でも経験のある人ならご存知だと思うが、こういった睡眠は頭はすっきりしても身体は重いままだ。むしろ眠る前より身体が疲れているようにさえ感じられる。今思えば、あの中で余震の恐怖と不安と闘っていた人達がどれだけ異常な状態の中にあったか。

闇の中で車が雑然と並んだ光景を私は忘れられそうにない。その中では、ただじっと震災の恐怖と闘う人達が居た。

*車中泊

あくまでも認定された数だが、犠牲になった48人中、建物の倒壊などによる直接死の数は16人。それ以外の方々は地震のショックやエコノミークラス症候群の他、慣れない生活の中での疲労による病状の悪化や事故で亡くなっている。

震災から5ヵ月後に実施された新潟大歯学総合病院の調査によると、車中泊経験者は血栓のできやすい体質となっており、実際に発症した者もあったとのこと。

上の円グラフの作成にあたり、分類には私の主観が入っている点に注意してもらいたい。

原発は止まらず

116号線への分岐点から8号線に乗り続けてすぐの所にセブンイレブンがある。ここは駐車場も広く、その先にある曽地峠を越える前の休憩場所として、新潟市方面への遠出の際にはよく利用していた。ここも避難場所として車が多く停まっていたが、街中程にはスペースが詰まっていなかった。私とKはYにここで休憩するように勧めた。

停まってからコンビニをよく見てみると、どうやら停電でも営業しているようだった。休んでいると言うYを残して私とKは飲み物などを買いに店内へと入った。店内は人が動き回る所為で秋だというのに暑く感じられたが、店員の方々は皆元気で、30過ぎぐらいの店長と思われる人物ともなると「ウチは営業してますよ! 他で断られた品も受けてますから、どうぞ!」といった具合で実に精力的であった。

私とKは最低限の物以外を買うのは他の人のことを考えると気が引けたから、150ミリリットルのボトルとサンドイッチだけを買って店を出た。そのときちょうど他の店に受け取りを断られたらしい配送便が来て、先の店長らしい方が溌剌と受け答えしていた。

出発の前から車に置いてあったという飲み物を飲んでいたYをそのままに、私とKは車の側面に背中を預けて座りこむと煙草に火を点けた。見れば、柏刈原発の照明がちかちかと強烈な光を明滅させていた。

「こんなときでもご苦労さんだよね」と言った私に対して、Kは「こっちゃ停電なのに東京には電気を送ってるんだ。馬鹿だよ」と答えた。私は決して原発推進派などではないのだが、Kの言葉には納得し難かった。私には原発の光が何よりも力強く感じられたからだ。東京にも友人があるし、いくら原発が問題だらけだとしても、いっそ爆発してしまえば良いなどとは思わない。私はただ純粋に、闇の中で光に興奮していたのだろう。

*原発の耐震設計

震災後の余震の可能性が強い中で原発の運行を中止すべきだという声も根強い中、2005年4月、柏刈原発と同じ業者が入っている静岡県の浜岡原発の耐震設計について故意に歪められた報告がされていたことがわかった。

海外ではアルメニア大地震の際、地元の原発運行に対して現地住民の猛烈な反対運動が起こり、政府は運行を停止している(当局によるとこれは元から計画されていたこととされている)。

沿岸部を抜けて新潟市へ

曽地峠にかかったあたりで、私の記憶は曖昧になっている。これまでの興奮の反動と昼間の疲れが出て、運転するYの助手をKに任せたからだ。

確かに覚えていることは、国道8号線で通行止め区間があったために引き返して沿岸部へと逃れたこと。当時の通行止めは長岡市と小千谷市を中心に各所で行われており、記憶と合致する地点を限定することはできそうにないが、長岡市近郊だったことは間違いない。

通行止めの風景も覚えている。数人の警官が慌しく動き、近隣の状況を把握しようとしているようだった。私達には負い目があったから、慌てて車を脇の道に入れ、適当な駐車場でUターンをしようとした。それほどにこの近辺の道は狭かったのである。もしかしたらYは8号線を外れていたのかもしれないが、そう大きく外れてはいなかったはずだ。

さて、なんとか駐車場らしき場所を見つけたまでは良かったのだが、そこでは役場らしき建物が避難所と化していて、車も駐車場にぎっしりと詰まっていた。そこにも誘導のために働いている方がいて、私達はまた慌てながらも車の向きを直し、しばらく引き返した。気付けば車は沿岸部を走っていて(402号線)、そのまま新潟市へと向かった。

*震災後の道路状況

道路局の資料によると、最大288箇所で一般車両の通行が禁止されている。この内、2005年7月1日現在までに復旧していない箇所は47にもなる。その分布は特に山間部において顕著である。当時の私達がこれらのことを強く実感するのは翌24日の昼になってからだった。

寒い夜明け

402号線から新潟市に入り、新潟大学の辺りまで来ると海沿いに五十嵐浜が見えてくる。ここは車での乗り入れが一部ながら可能で、車を使ってのデートや観光にはオススメの場所だ。Yは滅多に無い砂場でのドライブを楽しむと、休憩を挟んでから浜を出た。私の記憶では、24時を回ったか回らないぐらいであった。

この後にYは恋人の所へ行こうとするのだが、どう迷ったのか、彼が車から一人離れて会いに行くようなことは無かった。とりあえず私達は翌日の予定を話し合ったが、結論は出なかった。昼過ぎまでには新潟市を離れて帰路に着くことだけを決めると、私達は小針台の開けた場所にある建設現場に車を停め、そこで一夜を明かすことにした。

新潟市には私の姉が通っていたような歯科専門学校の他(姉が実家に戻るときは私も親に伴って迎えに行っていたから、ある程度は私には土地勘がある)、先に挙げた新潟大学などもあり、学業の盛んな街である。そういった施設を取り巻くようにして住宅街があり、坂が多い。私達が寝床に決めた小針台も、例外ではない。

建設現場には土日ということで人目も無かったから、ここで早速寝ようと思ったのだが、私達には朝方の寒さに対する不安があった。新潟市の朝方はよく冷えるのだ。

私は生まれ育った上越市と仕事で短期間住んでいた長岡市以外には住んだことが無いため、どういった気象的要因でそうなるのかわからない。しかし、経験として私とYはお互いが20歳になった機会に新潟競馬場で遊ぶため夜から出張ったことがあり、そのときはとても寝れたものではなかった。

当然、過去の経験からYが毛布を用意してあるものだと私は思っていたのだが、彼はそうしていなかった。これについては出発前に確認しなかった私にも責があるため、食い下がろうとはしなかった。

Yは運転席で背もたれを倒し、助手席の私もそれに倣った。Kは後部座席で体を横にした。真っ先に寝入ったのは運転で疲れていたYだった。彼は朝の7時頃までそのまま眠り続けた。一方、私とKは何度も体勢を変えたり靴を脱いだりし、なんとか寝入ったが、3時間ほどであまりの寒さに目が覚めた。

一度でも目が覚めると寝られたものではない。足先は冷え切り、吐く息すら冷たい。辺りが明るくなっていたから、私はKを誘って車の外に出た。下手にじっとしているより、体を動かそうと思ったのだ。私とKは軽く体をほぐしてから煙草に火を点け何本かで時間を潰しながらYが起きそうにないことを確認して、その場を離れた。来るときに通ったセブンイレブンで暖かい物でも買おうと思ってのことだった。

浜からは海風が吹き、冷えた空気で周囲には靄がかかっていた。私達が居た建設現場は住宅街の奥の浜側にあったから、私達は小声で話しながら十分程歩き、セブンイレブンに入った。

店内は平常通りで、近隣の住民も何名か買い物をしていた。このときの私には寒さと空腹で余裕が無かったらしく、新聞を手に取った覚えすら無い。Kが何を買ったかはよく覚えていないが、私は味噌味のカップラーメンを買うと店内のお湯を使わせてもらい調理を済ませ、店の外でKと話しながらそれを食べた。

ここまで読んでくれた方にはよくわかったことだと思うが、この旅には2つの要素があった。私達の覚悟の無さ、震災被害のあった場所とそうでない場所とのギャップだ。それだから私達は大いに戸惑いながらも奇妙な安心感に包まれるときが数多くあったわけだ。

こういった私達の旅も、ここからいよいよ佳境へとかかっていく。

*気温

新潟地方気象台によると、2005年10月下旬の平均気温は新潟市で14.3度、他の地域もこれに準じている。この数値は平年と比べて特別低いわけではないのだが、この月の中旬までは軒並み平年を上回る気温だったことを考えると、被災者にとっては酷であった。

また、降水量が多く、それが秋の間に続いたことは当時の天然ダムなどの様子を報道で見た方にもわかるだろう。現在でも地震によって乱れた地勢のため雨による災害の危険性は依然として高い。

新潟競馬場

Yが起きるのを待って、いよいよこれからどうするかという結論を出すことになったが、Yと私が競馬好きなのがKには災いし、ここまで来たからにはという調子で新潟競馬場へ行くことが決定した。ようやく暖かくなってきたという所で出発し、競馬場の近くにあるコンビニで食事と競馬新聞を購入すると、開場時間まで車の中で過ごした。

地方競馬廃止の風潮が高い中で三条競馬場が廃止され、県競馬自体も全廃したものの、新潟競馬場は健在である。例えここで競走が開かれていなくても、大型スクリーンに映し出される他の競馬場の競走を見るために土日になればそれなりに人は入る。

昔よりも公園としての価値が上がったようにも感じられるそこでは、震災などまるで無いもののように感じられた。家族連れが日向の芝で寝転び、整然と並べられた客席では香具師のような格好をした中年から私達のような若者までが居て、屋内にある馬券売り場では行列ができていた。

たっぷり6時間近くはそこで元手を転がしたように覚えている。収支は黒字で、Yと私だけでなくKも楽しんだ様子だった。この日の目玉レースは京都競馬場で開かれる菊花賞であったから、途中で今回の旅に誘えなかった共通の友人で、競馬好きでもあるIの分の馬券も買ってやろうかという話になった。しかし、昼過ぎだというのに彼の携帯電話が繋がらなかったため、私達もそろそろということで、2時過ぎ頃には競馬場を後にした。

沿岸大渋滞

Iが亡くなったという連絡を仲間内のHから受けたのは、新潟市から402号線で北陸街道を辿り、柏崎市まで後少しという所だった。たまたまトイレ休憩をしていた私達三人は、海を見下ろせる駐車場の中でばらばらになっていた。すると、Kが突然に私の傍に神妙な顔でやって来た。

私はまた腹の調子が悪いだとか下手な冗談でも言うものだと思っていたから、彼が自分の携帯電話を私に手渡そうとしたときには、思わず彼の顔をまじまじと眺めてしまった。

私は現在もそうだが、高校卒業後の一時期に神経症にかかって携帯電話を使わなくなってからは、余裕が出ても二度と持たなくなっていた。それで、Iと親しかったKの所にH経由で電話が回ってきたのだ。後に通夜の準備のために帰宅した際に私の兄から聞いた所によれば、自宅には真っ先に連絡が行っていたらしい。

Iとは高校時代からの仲だったが、誰よりも親しく、お互いに家族のことで苦労し、一緒に将来を見つめてきた。だから私は、Hの上擦った声で訃報を聞いたときに目の周りから力が抜けてしまって、目玉が落ちそうな感じがした。Kに目を合わせようとしても、合わせられなかった。

Kもよく苦労した身の上だったから、私のことを察してくれたらしかった。一方でYは、育ちの良さがこのときばかりは災いして、気ばかりが焦ってしまった。彼は年が明けた頃になってようやく当時の心境を語ってくれたが、Iの逝去まで一度も親しい人との別れを経験していなかったという。なるほど彼の祖父母は父方母方共にご健在であったから、今にしてみれば納得が行くものの、当時の私は、苛立ちさえ見せるYに遣る瀬無い怒りを覚えてもいた。

私はKとよく打ち合わせて、Yに運転をこのまま任せるかどうか考えたが、そのままということになった。ただ、Iの家に着いてからは極力はYのためにも彼をIの遺体から遠ざけることはこのときに決めた。私達がそんなことにまで気を回すほど、Yは明らかに焦っていたし、苛立っていた。その苛立ちがピークを迎えるのは、刈羽近郊の沿岸で大渋滞にはまったときだ。

このときの渋滞は私が東京に車で何度か出かけたときにすら一度も見た事が無いようなもので、地平線まで車が続き、沿岸部は高台から見下ろすと蟻の行列のようになっていた。その向こうでは柏刈原発が見え、日中の天気の良さも相俟って、非現実的な光景に思えた。

渋滞の原因が地震にあることに思い至るまで時間はかからなかった。本来なら、私達はもっと早く新潟市を出ていなければならなかったのだ。それこそ、起床した直後でも早過ぎるということは無かったはずである。なんせ、新潟県を縦断することができる道で無事に済んだのは沿岸部の道だけだったのだ。

沿岸部の道路伝いに建てられた町並みの中で住民が渋滞を見物さえしていた。私達は沿岸部の渋滞が余りにも酷いから、急いでわき道を探し、上手いこと内陸部へのルートを繋いで行った。結果としてそれはより早くIの家への帰路となったが、同時に、とても危険な賭けになった。

先ず、地図が役に立たない。行く先々で道が陥没し、それは内陸部へ行けば行くほどに酷くなった。通れる道でさえも、危険な箇所にパイロンが置かれ、それを避けなければならなかった。8号線に出るまでが勝負と踏んだ私達だったが、それすらも難しいということがわかったのである。下手をすれば車が駄目になってしまうことさえ考えられた。しかし、引き返してもあの渋滞であったから、私達は他の車の往来を見つける度、その道を辿って行った。

どこをどう行ったかも記憶が定かではないが、3つほど山間の集落と町を抜け、遠回りをしながら8号線に出るまでに二時間近くもかかった。信号がある度に何百メートルも列が並び、ガススタンドは駐車場と見紛う。国道8号線に出てからも柏崎市内は渋滞であったが、沿岸部はほとんど動けないような状態であったのに対し、平均で時速40キロも出せ、更には柏崎市を抜けると60キロを上回ることもしばしばであった。

重い夜空

夜の帳が下りてから程無くしてIの家に到着することができた。HはIの御家族と一緒に待っていた。さぞ心細かったことだと思う。私は彼に感謝を述べてから、Iの遺体に手を合わせた。若年性の成人病だったらしく、それが突然に発症、最期には腎臓が駄目になったとIの御祖母から聞かされた。Yは泣き崩れてしまって、Kとの打ち合わせも無駄になった。

見れば遺体の鼻筋からは止むことなく鼻血が垂れ、それが死に装束にかからないよう、御祖母が何度も何度も手拭で吹き取っていた。私は興奮すると異常に冷静になる性分で、このときも例外ではなかった。今でもはっきりとIの遺体の様子を思い出せるし、詳細を紙に書き出すこともできる。

私の親類は癌で亡くなる者ばかりだったから、Iの遺体はとても綺麗なものに思えた。私は彼の御家族に連絡が行き届いた他の仲間を出迎えると告げてKと一緒に家の外に出た。

続々と仲間が集まってくる中で、私はKと一緒に外で煙草を吸いながらこれからのことを話し合った。夜空にはどんよりとした雲がかかり、道中で生じた感情が私の奥へ押し込められるようだった。

後日

親友との別れから

私達の工業高校時代に担任を3年間勤めてくれたA教諭は震災当時の勤め先のある地域の避難所で連絡を受けたと通夜で話してくれた。この方は実に小ざっぱりとした人柄で、通夜で出された御握りと漬け物をとても美味しそうに食べながら「向こう(被災地)じゃ御握りでさえもあまり食べられないのよ」と言い、笑っていた。

Iは父親が小さい頃に亡くなったときに通夜で親戚が笑っていたのが嫌いだったと語ってくれたことがある。しかし、笑ってくれる仲間が大勢集まってくれたことに、私は今でも感謝している。別に私が居たから集まったわけでもないし、私が尽力したわけでもない。それでも、私は全ての人達に感謝している。

Iの葬式まで全てが終わったのが26日の火曜日。私は家族の事情で月末までに引越しを終える必要があったから、報道を見ていない。この頃の私は知り合い等に頼まれたり自分で持ち込む文筆をしながら、時折頼まれるバイトでなんとか家族に迷惑をかけないようにする生活だった。一方で警視庁警察官の新潟県からの採用二次試験を11月21日に控えており、そのための準備をしてもいた。結局、この試験には落ちてしまったが、これまでのやり方を見直す良い機会になった。

県外の方の意識

11月21日に新潟市曽和にある自治研修所にて開かれた先の試験では、警視庁から担当の方々が数名来てくれていた。この二次試験は恙無く終わったのだが、私には驚かされることもあった。

私の面接が始まってしばらくした頃だったが、二人一組の面接官の専ら私に質問をしていた方が「地震は大丈夫でしたか」と訊いてきた。私は変だなと思ったものだ。私が一次試験を受けるに当たって提出した個人的な情報には、もちろん住所も書かれている。その資料は二次試験にも引き継がれたはずで、最新のものも面接の前までに提出してあった。

この質問も状況判断や的確な報告の素養を視るためのものだったのかもしれないが、担当官の方の口調は世間話のようであったから、私は上越市には全く被害が無かったことを答えながらも首を捻ってしまった。

社会人は新聞などの報道には毎日目を通しているだろうし、時事についての知識を要する面接官ともなればなおさらだろう。このときの私は、あの震災の報道が充分にされていないわけがないと思っていた。

風評被害が観光組合を中心に深刻な問題として叫ばれたとき、私は初めて、決定的な感慨を持つに至っている。私の母は旅館に長く勤めているから、ニュースや新聞などでそれに関連した報道があれば必ず目を通すようにしていた。

私が全国規模の報道に対する疑問を個人的に持ったのはこれらの経験が影響している。しかし、私は資格や免許の書き換え等、手続きで忙しかったために、熱心に震災報道に目を通すには年が明けて現在の住居で家族が落ち着いた段まで待たなければならず、それまでは専らテレビのニュースに頼っていた。

冬の到来

2005年の2月までに県内には大雪があった。ただし、この年の雪は断続的かつ地域毎のばらつきが多く、私が住んでいる高田平野での雪かきが必要な降雪は4度ほどだったが、被災に遭った地域では実に19年ぶりの大雪となった。それらの地域にある家々は雪にすっぽりと埋まり、春になって重さで潰れた建物が姿を表すということにもなった。復興計画が遅れたのも、この雪が要因にあった。

改めて注意しなければならないのは、ただ大雪があっただけでここまでの被害が出たわけではないということだ。この大雪の範囲と震災被害の範囲はほぼ一致している。そのため、震災による全壊をかろうじて免れていた家屋等が数多くあり、避難勧告によって除雪活動を行うこともままならなかった。

この大雪の被害の大部分は震災被害と云って良い。県も調査においてそのことをよく心得たからこそ、前例の無い震災とは直接繋がりの無い大雪による被害を一連の被災として、長期避難中のものに限り、認定した。

認定そのものは喜ばしいが、次々と増える認定数によって財政は圧迫されることにもなった。全壊や半壊などの認定毎の支給額にも差が生じている。新潟県の一連の対応に政府の見方は厳しく、施策の具体性も無いままに義援金や義援物資が消費されていく。

復興の急がれる中で、如何に調査結果と施策を直結させ、結果を出していくのか。注目する必要がある。

上のグラフは震災による全壊認定数と降雪による滅失数とを比較したグラフである。数値は県土木部作成の資料によっている。

仮設住宅での冬

雪は長岡市などの仮設住宅に避難している人々の生活をも直撃している。

阪神・淡路大震災で指摘された仮設住宅の問題は様々にあるが、大体は以下のようになるとされる。

行政の「先ず都市の再興ありき」の分配によって避難住民の地族的な繋がりが断絶されたこと。それによって独居老人の孤独死が発生したこと。全壊・半壊などの被害住宅の認定基準の違いによって帰還や再出発が困難な場合があったこと。

これらに仮設住宅での冬季降雪を如何に乗り越えるかという問題が加わったのが中越大震災である。

今回の震災では阪神・淡路大震災での経験を持つチームの協力によって仮設住宅が建設されている。しかし、その完成品は雪国の者には信じ難い構造をしていた。屋根が平らなのである。

行政や現場チームのどのような判断があったのかまではわからない。もしかしたら、例年の降雪量から計算が成り立っていたのかもしれない。しかし、雪国において屋根が平らというのは素人目に見てもおかしい。雪が落ちないからだ。また、同じ積雪にしても雪の重みに抗する力は段違いでもある。新潟で屋根が平らなのは、鉄筋コンクリートで建物が作られているなど、構造材からして頑強な場合だけだ。

案の定、仮設住宅では大雪によって室内では建物全体が軋む音が聞こえ、屋根の雪下ろしが追いつかないために湿気が酷い状態にまでなった。

また、仮設住宅は長屋構造であるが、長屋と長屋の間が狭過ぎた。車二台が擦れ違えるかどうかという程度しかない。これでは雪下ろしをしてもその雪によって住宅が埋まってしまう。ある地域の仮設住宅ではトラックの荷台に雪を落として対処していたが、効率はどうやっても下がってしまう。

ましてや、仮設住宅には山間部の村からの避難者が多いため、老人が多い。体力がある年齢の者は日中には休めない仕事がある。雪下ろしの人手は足りず、ボランティアの手を借りてやっとという状況の場所も多かった。

厳しい冬を越えても

雪による問題も住民達による必死の努力で乗り切ったが、震災被害によって操業を停止・縮小した企業の失業者や家屋の被災認定による支給金の不足などの問題が残っていた。

2005年7月現在、ありがたいことに義援金総額は160億円に達しているが、義援金の取り扱いには公平性・迅速性・透明性を三本柱とする配慮が必要だとされているため、被災者個人の事情への配慮は棚上げにされてしまった。

また政府側の配慮は激甚災害法の適用までが精々であり、被災住民は自助努力ばかりが求められる中で復興へ向け、窮屈さにも負けずに気を吐かなければならない状況にある。

まとめ

震災という大きな問題の発生によって、皮肉にも浮き掘りにされた多くの問題があることを、私は本稿を執筆するにあたって実感した。

私は新潟県が好きだ。山があり、海があり、豊かな平野を川が通る。人は逞しく、大雪すらも当たり前のこととして受け止める。故郷として以上の感慨を持たせてくれる。

しかし、私を初めとした県民個人は、そのような土地や人々に甘えてはいけないとも今回の執筆を通して感じた。先に挙げた素晴らしいものも、震災では悲しみの要因に変わってしまった。

終わりに

ここで先ず、執筆から零れ落ちてしまった問題に苦しむ方々のことを考え、私の不甲斐なさに恥じるばかりであることを書く。私は震災発生から今日まで、いつだって自分に恥じるばかりであった。

震災発生当初から、山古志村は特に注目を浴びてきた。しかし、私達は山古志村にだけ目を向けるべきではない。既に震災から半年以上が経過し、山古志村の住民はそれぞれに再出発を果たそうと努力している。帰還へ向けて村復興に関する問題が出る一方、新しい土地での農作物の収穫も成功したという。

山を越えるという意味の「山越し」という言葉を、復興への想いの象徴として本稿の最後に残すものである。