外伝その4

 
 ご飯時は静かにするものだ―――などという格言はテレビ世代には通じないところではあるが、ここにはテレビはあっても電源は落とされているし、胸踊るような絶景もない。あるといえば、この建物を出て東に五分の場所に支店がある昼顔弁当店の箱に詰められた弁当が乗っている会議用の安っぽい四脚テーブルに、何故こんなところに貼ってあるのかすら謎な警察官採用試験の告知ポスター。個人用のロッカーには誰がやったかわからないが、下手な文字で「魂」とスプレー書きがされている。
 そんなところでどこをどうすれば騒がしくなるのかといえば、結局は集まった人間の相性だとかそういったものが原因となるわけで、その原因たる人物たちも、弁当を黙々と食べている舞には覚えがある。
 一人は片瀬健二という二十歳そこらの男性で、その人物に噛みつくように猛然と喋りつづけているのが進藤というこれまた二十かそれ以下と思われる女性。主にこれが騒がしさの原因だったが、ついでに他にいる人物はというと、この現場グループを任されている牧村南という女性で、舞とは斜向かいの席で、周りの様子も気にせずに弁当に箸をつけている。他にも数名いたが、この騒がしさには慣れっこだった。
「―――大体、先輩はなんだってただでさえ残り少ない生活費を競馬につぎ込んだりするんですかっ!?」
「来ると思ったんだよ!あの馬が俺に叫んでたんだよ、『俺に任せろ』ってな!!」
「どうせ馬糞をぼたぼたとたらしながらやる気なくトラックを歩いているのを勘違いしたんでしょっ!?」
馬糞という言葉に流石に数名が箸を動かす手を止められたが、腹は減っているので構わず芋の煮っころがしを口に放る様はなかなかに哀愁を漂わせた。
「たしかにその通りだが、いいか、馬ってのはだな、場内に入ったときのリラックス加減が重要なんだ、だからだな―――」
「そういう問題じゃないんですよっ!」
そろそろ止めに入る頃合だろう。健二と進藤を除く全員が、それとなく牧村女史に視線を渡すと、溜息を一つ吐いてから彼女が重い腰を上げた。
「二人とも、いい加減にしなさい!給料下げるだけじゃ済みませんよ!?」
暗にクビの可能性を示唆しながら脅しをかける。普通に怒られるだけであれば、あの二人のことであるから、大した効果は無いと判断してのことで、実際に使うのはこれが始めてだった。まったく、最近は比較的静かだったのに。牧村女史は叱責の効果があったことを確かめてから腰を再び席に下ろした。
「……懲りない奴らだ」
舞の一言に、牧村女史の叱責で口を止めた進藤から離れるために健二が身を乗り出して反応する。
「第一、俺と進藤が一緒のグループだってのが問題なんですよ。別に南さんが悪いってわけじゃないですよ。南さんが決めたわけじゃないですし」
「……仕事なんだから我慢する」
「でもですねぇ」
「……でもじゃない」
箸を弁当に戻そうとしたところで、舞があることに気づいた。すると舞の持っていた割り箸が健二の鼻の付け根を挟みこみ、顔全体を吊り上げるように力を込める。
「痛い!痛い!まじ痛い!」
「……人と話すときは目を見る」
ちなみに、健二がどこに目を向けていたかといえば、舞の首から下で、テーブルの影に隠れないところ、つまりは胸である。
「取れる!鼻が取れる!」
「……懲りた?」
健二が返事をする前に、割り箸が折れる。折れた先っぽがちょうどよく健二の目の部分に当たると、両手で顔を抑えた。とはいっても、全然全く眼球には当たっていないのではあるが。
「目が、目がぁあああああああああああっ!」
「……ネタが古い」
そうこうしている内に進藤がことの次第に気づくと、一人芝居を続ける健二の後ろにすたすたと歩いていき、首筋に痛恨のチョップをかまし、色んな意味で健二が沈黙した。
「うわ、先輩直伝のチョップ、威力ありすぎ」
「……やりすぎ」
「はぁ……午後の仕事が始まるまでに起こしてくださいよ」
牧村女史が溜息を吐くと、少し早かったが現場に戻っていった。職場のイニシアティブが誰にあるのかはっきりさせる必要があるのかもしれないと頭を悩ませながら。
 
 舞が健二を部屋にある唯一クッション入りの椅子といえる長椅子に進藤にも手伝わせて寝かせると、さきほどまで食事を摂っていたパイプ椅子を引っ張り出してそこに座る。進藤に指示して濡れ布巾を持ってこさせると、それを健二の額に乗せてあげた。
「すみません、川澄先輩にこんなことさせちゃって」
おたおたしながら謝る進藤に舞はパイプ椅子に座るよう薦めた。同じ話すにしても、立たせたままではこちらが落ち着かないという考えからだ。
「……あと三十分」
「はい?」
「……休み時間が終わるまで」
「―――ああ、なるほど!」
それほど感心することでもないだろうが、進藤が手を打つ。
「……怒るのはわかるけど、他の人もいるから」
ちらりと他のテーブルを見ると、部屋にいる他の四名ほどが、なんだかんだいって心配そうにこちらを見遣っているのだから、舞は思わず笑いをこぼしてしまう。
「本当にすみません……」
進藤が二人分のお茶を入れながら頭を下げる。舞は別に怒っているわけではなく、却って出すぎた真似をしてしまったのではないかと反省するという按配で、どうにも感覚がずれていた。というのも、彼らがこのグループに配属されてから舞は退屈知らずで、少ない休みに駆り出されるこのイベント自治というハードなバイトが金銭的な理由でやるだけではなくなり、自然とこの年下の奇妙なコンビに気をかけていたからだ。
 なんでも、健二が東京に上京してきたのは理由があり、彼の高校の後輩だった進藤はそれを追いかける形で同じく上京。どういう経緯かは舞は知らないが、二人は同じアパートの部屋に住んでいて、現場の他の仲間からは「同棲だ」とからかわれていた。
 
 真実は―――健二が義理の妹である雪希と良い仲(勝手に想像を膨らませていただいて構わない)になり、ちょいと調子に乗りすぎて仲違い。ちょうど大学進学という口実があった健二は上京したまでは良かったのだが、外交の仕事で外国へ行っていた唯一の肉親である父親がこの事実を知って激怒。当然の結果として仕送りは打ち切られ、家に戻ってくる条件として「大学を自力で卒業しろ」というものが父親から出され、大学の単位を落とさずかつ学費を稼ぐという、なんとも今の時代では珍しい苦学生生活と相成ったわけで、それを見かねた進藤が「せめて部屋代と生活費は」ということで、同居による折半を申し出、進藤が健二の通っている大学に入学するまでの一年間、死ぬような思いで食いつないでいた健二はこの申し出に飛びつき、稼ぎの良いバイトとして選んできたものは偶然二人一緒のもので―――というような次第だった。
 
「いてぇ〜……」
倒れてからかれこれ十五分ぐらいしたところで健二が目を覚ます。首筋にはくっきりと手の痕が残っていて、自称チョップな手刀がどれほど強烈であったかがよくわかる。
「あ、先輩、大丈夫ですかっ!?」
「お前、自分でやっておいてそれはないだろ」
健二と進藤のやりとりを、お茶を飲みながら微笑ましく見ていた舞は、もう大丈夫だと判断すると席を立ち、弁当箱などの片づけを始める。
「俺がやりますよ」
「……それじゃ、お願い」
舞は健二に片付けを任せると、あと僅かとなった休み時間とお茶に手をつけた。健二を甲斐甲斐しく手伝おうと進藤は席を立ったが、舞に止められた。
「……やらせておけばいい。それよりも―――」
「なんですか」
「……彼、ちゃんとご飯食べてる?」
健二の身体は年頃の男性らしく逞しかったが、ちょっとしたときにふらつくようで、現に今も、ただ弁当を片付けるためにテーブルを右往左往しているだけだというのに、脚をもつれそうになっていた。
「えっと……ははは……あー……その……全然」
「……やっぱり」
進藤も親の反対を押しきる形で大学に入学していたため、入学金とアパートの敷金などの上京費を除いて双子の姉以外からの援護射撃はまったく無い。しかも、その姉も心理的には援護しても物理的には矢も鉄砲も撃たないため、ぶっちゃけ「一円ぐらい仕送りしてくれよ」と叫びたい心境でキャンバスライフ戦線に投入されているわけであり、西部警察の大門圭介軍団長(渡○也)もサングラスの影に隠れた愛らしい眼から涙を流しながら「食いな」と餡パンを差し出さんばかりの野良犬のような貧相極まりない食生活であった。
 それであるというのに健二は文句一つ言わず、更には自分の食べる分を進藤に分けるといった具合で、そんな状況で下手な土方仕事よりもきついこのバイトを続けているのだから、足もふらつこうというものだった。
 ちなみに、健二がギャンブルに走ったのも、少しは良いものを進藤に食べさせようという理由で、鬼も泣き出す良い話ではあるのだが、結局はギャンブルに頼ってる時点で色んなモノに負けてしまっている。
 舞がそんなことを知っているわけがないが、彼女はしばらく考え込むと空になった湯飲みをテーブルに置いた。
「……ちょっと遠いけど、私の家に夕飯を食べに来る?」
売り言葉に買い言葉、という例えがこれ以上当てはまるシチュエーションも無かった。
 
 
 派遣されていたイベント会場での仕事も終わり外に出ると、ビルの街並みに頭をくすぐられながら太陽が沈みはじめていた。夏を控えたこの時期の午後六時過ぎには似合いの景色を遠めに見ながら近場の山手線上の駅から電車に乗り、途中で乗り換えて郊外へと向かう。週末の土曜の所為か電車は比較的混んでいたが、さして気になる、というわけでもない。さりとて、それはあくまで都会の電車に慣れたものの話で、電車賃節約のために自転車で現場まで出勤するという、馬鹿げてはいるが堅実なことを実践している健二と進藤には酷であった。
「……都心の電車賃って節約するほどのもの?」
その苦労性の二人に席を譲り、自分はつり革に頼っている舞が二人の話を聞いた正直な感想を口にする。実際、往復にしても千円には手どころか足も届かないほどの金額だ。しかもそれはあくまで郊外に住んでいる舞の場合の話で、比較的都心に近い場所に住んでいる健二と進藤の場合はなおさらだった。
「いやぁ、それが……私が『どうせなら便利が良い場所に』なんて部屋借りちゃったからなんですよ」
「家賃はそのおかげで一ヶ月の交通費のこと考えたって割増になってるしな」
「わ、私だって失敗したなって思ってるんですから、それは無しっこですよ!」
「俺は別にお前を責めてるわけじゃないだろ!」
「先輩は気遣いってものが無いんですよ、気遣いってものが!」
何をとばかりに意気込んだ健二の首筋が再び痛む結果に至るのは自明だった。ただ、唯一説明すべき点があって、それは手刀を振り下ろしたのは進藤ではなく、舞だったということだ。
「……この角度か」
「何を会得したんですか、何をっ!?」
「……今後、必要かと思って」
「川澄先輩がやったら洒落にならないですよっ」
「……大丈夫、手加減できるから」
「あ、なら安心ですねぇ〜」
「……今はできなかったけど」
「え゛っ!」
驚いて健二の方を見ると、白目を向かせて良い具合に天国行き特急列車に乗り継いでいる彼がいた。彼は往復定期をいざというときのために持っているから、心配はいらない。定期切れしてる場合までは考えない方が良いだろう。
「……ハジメテだから」
「色っぽく言ってる場合じゃないですよ!」
「……あ、着いた」
「ああ!先輩、先輩、先輩ぃいいいいっ!!」
気絶している健二の襟首の後ろを掴んで駅のホームへと引き摺っていく舞の姿に、進藤は泣きたい気分だった。この光景にあっけに取られたために電車を下り損ねたサラリーマンの方がよほど泣きたい気分だったろうが。
 
 下車した駅から約十分の場所に舞が住んでいるアパートがある。二階建ての建物の外観は白塗りで、剥げた部分も無く、管理が行き届いていることが覗えた。セキュリティ用のゲートなどといった大層なものは無く、ごく一般的な独身者が住むアパートではあったが、職持ちの女性の一人暮しということを考えると、少し違和感があり、進藤は意識を取り戻してヨタヨタと後ろをついてくる健二に気を配りつつ舞に直接疑問を投げ付ける。
「川澄先輩は心細くないんですか」
「……心細い?」
その言葉を初めて聞いたかのような顔をする。
「だって、ここらへん結構暗いし……」
進藤の言い分はもっともで、駅からアパートに向かえば向かうほど街灯の数は少なくなり、途中、交番があったような記憶も無い。ここらへんで事件があったというような話は聞かないが、窃盗や痴漢ぐらいはあってもおかしくなさそうな印象を受ける。
「……夜目は利くから」
「そういう問題じゃなくって」
「……これもあるし」
「何があろうとやっぱり物騒だ―――と?」
舞がいつも着ているオールシーズン用の紺色のジャケットの内ポケットに手を入れ、その手を抜いたと思った瞬間、進藤の目の前を何かが高速で横切り、飛んでいたはずの蛾が空間から消えた。足元を見ると、焦げたような染みを浮かべて死んでいる蛾が一匹。また目線を前に戻すと、舞が一メートルぐらいの棒のような形をした黒いものを構えていた。
「ななななな、なんですか、それ」
「……先日支給された電磁ロッド」
「それこそ物騒ですよ!そんな物騒なもの、私は支給されてませんよ!?」
「……ああ、それは―――」
セーフガードに志願したからと口にしそうになって、直接の関係者以外にはその名前を言うことすら禁じられていることを思い出して、顎のネジを締め直した。
「それは?」
「……乙女限定支給だから」
「意味わかんないですよ!」
「おい進藤、夜なんだからあまり騒ぐなよ」
追いついた健二が諭す。たしかに、まだ早いとはいえ路上で大声を投げ付けていいようなマウンドに進藤は立っていなかった。
「すいませんねぇ……ほら、お前も!」
「す、すみません」
子供を相手に謝らせる親のように健二が進藤の頭を上から押さえ付ける。舞は気にしなくていいという旨を口にすると、アパートの敷地へと入っていった。
「……二〇二号室だから、先に行ってて。これ、鍵」
「いいんですか?」
進藤が流石に気を遣う。初めて入る相手にあまりにもフランク過ぎたからだ。
「……構わない」
それを信用しているという意味だと取ると、進藤は疲れと引き摺られた所為で腰を抑えている健二を引っ張り、階段を上がっていった。
 
「わ、綺麗だ」
鍵を開けて部屋に入った進藤が最初に思ったことがそれだった。玄関先から居間へと通じる引き戸は開けられていて、丸見えだった。とりあえず玄関を上がった二人は、ゴザが敷かれた居間へ入り、適当に座ると部屋の中を見まわした。
 隣の部屋の戸は開けられていて、中は暗いがどうやらそこは寝室らしく、畳まれた布団が濃い影を作っている。二人からは見えない位置だが、クローゼットや鏡が置かれており、この二つは舞が実家から持ってきた数少ないものであり、舞本人は遠慮したが、彼女の母親が強引に宅配便で送ったものだった。短い脚の和風テーブルの上こそ、何かのレポート用紙やペン、それに文庫本などが置かれていたが、それ以外はこれといって取り立てて物と言える物はなく、窓の右手にある細長い台の上には小型のテレビとステレオが当たり前のように置かれている。全体的に黒い色調が多いが、埃が目立つということもなく、蛍光灯の明りを鈍く反射していた。
「ウチとは大違いだな」
「先輩がほとんど散らかしているんじゃないですか」
アパートの部屋ということもあり、進藤が自分たちが住んでいる部屋にいるときと同じように声のトーンを落としながらも、健二に小言を言う。それというのも、進藤が少ない休みに部屋を掃除しようとする度に、健二が安眠権とかいう変な権利を主張して掃除したい場所から退いてくれないからだったりする。そのため、綺麗な場所と汚い場所の差が激しく、進藤の悩みの種だった。
「いいか、安眠権はかつての公民権運動の板垣退助が提唱したもののそのあまりの正当さとは相反する、人の欲望丸出しな部分が仇となって、その意見は握りつぶされたという、実に歴史ある権利なのだぞ」
「へぇ……って、認められていない権利は権利とは言えませんよ」
「馬鹿野郎、人に認められていないからこそ、この権利には価値があるんだ」
「言ってることは格好良いですけど、ツッコミどころ満載ですよ」
「ふぅ、いつの時代も権利を主張すると世間に叩かれるんだな」
舞が部屋に入ってくるまでこの調子だった二人だが、その舞はというと、ちょうど自分の部屋の下に位置している、一〇一号室と一〇二号室の壁ぶち抜いたような形で一つの部屋になっている、大家夫婦の部屋にいた。
「―――というわけで、少々お騒がせするかもしれませんけど、よろしくお願いします」
客が来ていることの最低限の説明をした後に、舞が大家に頭を下げる。玄関先に出てきていた大家夫婦の奥さんの方が、七十を過ぎて動きが鈍くなり始めた顎を動かす。
「ああ、わかったよ。ちょうどって言ったら変だけど、あんたの隣の部屋は空いているし、大声さえ出さなければ問題ないからね」
「……それでは失礼します」
「今、仕事からの帰りかい?」
「え……あ、はい」
帰りしなに呼びとめられて、つい返事に慌ててしまう。
「大変だねぇ……そうだ、ちょっと待っててくれないかい」
「ええ……」
奥方が、奥でテレビを見ている旦那に向かって、仏壇の横にある袋持ってきておくれと言うと、じきに旦那が片手にスーパーのビニール袋を持って玄関先に姿を表した。
「おや、川澄さん、今、帰りかい?」
「やだよあんた。それは私が今聞いたところだよ」
「ああ、そうかい」
喋り方は奥方にそっくりだが、顔つきが全然違っていて、こんな優しげな声など出るなど良そうもできないぐらいに、いかめしい顔をしている。眼鏡の代わりにサングラスでもかければ、その着ている渋い緑色の作務衣とあいまって、どこぞの親方と言われても不思議に思わないほどだった。
「これの新潟に住んでる妹から送られてきた桃だよ」
旦那がビニール袋の中身を舞に見せる。なるほど、拳二つ大ぐらいの大き目の桃が五個ほども入っている。
「早速、友達と食べておくれよ」
奥方が旦那から受け取って舞に手渡す。
「どうもすいません、ありがとうございます」
「いいんだよぉ、ほら、そのお友達も待ってるだろうから、ね」
「はい、失礼しました」
今度こそ、舞が部屋を出ていく。大家夫婦はとりあえず居間に戻ると、先ほどまで見ていた某国営放送局でやっているドキュメンタリーに目を向け直した。
「まったく、礼儀正しい子だよぉ」
先に口を開いたのは奥方だった。短く刈り込んだ白髪を撫でながら、それに対して旦那は、目はテレビに向けたまま、耳だけ傾け、相応の応えをする。
「なんでぇ、最初にあの子が店子で入ってきたときは、無口で気味が悪いねぇ、なんて言ってたくせによ」
「そらぁ……あれだよ、近頃は変な若いもんももいるから気をつけろって知り合いから聞いてたからさね」
旦那が癖らしい舌打ちをすると、またテレビに集中しなおしたが、ふと何かを思い出したらしく、奥方の方に顔を向けた。
「なぁ、そういえばよぉ、この話って前にもしなかったっけか」
「ああ、したねぇ」
「……桃でも食うか」
「あいよ。まだ十個以上あるもの、どんどん食べておくれ」
それは要するに、お裾分けでもする店子が今の所は舞を含めても二人しかいないということでもあり、それに旦那は気づいたが、いるだけましかと考え直すと、またテレビに目を向けたのだった。
 
 
「ただいま」
舞がビニール袋をガサガサと揺さぶりながら、狭い廊下で壁に当てないようにと気をつけつつ部屋に向かう。ドアノブを捻ったとき、いつも帰ると鍵が開いている実家のことを思い出した。
「おかえりなさ〜い」
「お先にくつろがさせてもらってます」
進藤と健二がどこから持ち出したか知れないビールを片手に一杯やりはじめていた。
「……いつ買ったの、それ」
舞は進藤が未成年だということを注意しようかと思ったが、見た目よりはしっかりしているようだし、舞自身の機嫌も悪くはなかったので、差し出口は控えた。
「あはは、さっき、先輩が途中で見つけたコンビニで買ったらしいんですよ。バッグに入れてたらしくて、私も気づきませんでした」
ほらと言うようにして、テーブルの下に置いてあったバッグを舞に開いて見せる。中にはごろごろと一ダース分ぐらいのビールが入っていた。どうやら健二は黒ビール派らしいこともラベルから知れる。節約をしているとはいえ、ある程度の嗜みはケチらないあたり、若者らしかった。
「進藤が俺のバッグを電車に忘れないで助かりましたよ。川澄先輩のおかげで俺は死んだお婆ちゃんに四度目ぐらいになる挨拶をしてたからそれどころじゃなかったし」
「先輩、それ微妙に笑えない線を越えてますよ」
「あ、お前もそう思う?」
「そうですよぉ」
良い具合に出来あがり始めているだけのかこれが本当の二人なのか、舞には判断つけがたかったが、今このテーブルの輪に加わろうものなら、料理を振舞うなどはできなくなることだけは直感でわかっていたので、大家にもらった桃を冷蔵庫に突っ込むと、おもむろにまな板の前に立った。
 
 さて―――はっきり云おう。舞は学生時代まで料理を料理と呼べる代物にできた試しはない。卵焼きを作ろうと思えばスポンジにガスバーナーを当てたかのような物が皿の上に盛られ、気を取りなおしてサラダを作ろうと思えば、レタスやらサラダやらの芯が入っていたなんていうこともよくあった。
 料理の下手な人間には幾つかあって、技術が無い、要するに包丁などの扱い方がわからないといった場合。調味料や灰汁、ダシなどの知識が無い場合。舌の感覚が悪食によって狂っている場合。変なこだわりがある所為で人の言うことを聞かなかったり、参考というものを知らないなどの場合があるが当てはまるわけであるが、舞の場合は直感に頼りすぎるためにレシピや作り方を学ぼうとしなかったという場合であり、これに関しては次のような経緯があって、必要は発明の母とでも云いましょうか、必要無ければ鍛錬なしとでも云いましょうか、先日に娘の様子を見に来た際に彼女の料理を口にした母親が、驚きのあまり白目を向いたという、身体の弱い彼女にとっては感動の場面どころか悲劇の場面になってもおかしくない結果に至る。
 
 いざ料理がテーブルに並べられたわけだがその内訳はというと、スタミナを考えて豚肉を使った肉じゃがと、旬のモロヘイヤのそばつゆがけ。昨日のセールの際に買いすぎて処分に困っていた豚の冷凍モモ肉を材料とした生姜焼きのサラダ盛りと、昨夜に作り溜めしておいた豚汁というものであった。
「豚……ですね」
健二のこの呟きは感嘆故の言葉であって、決して嫌な意味ではない。それどころか、喜びのあまり「今なら飛べる!」などと言い出して窓から飛び出さんばかりだ。やったとしたら、死にはしないだろうが重体ものであろう。
「……イスラム教徒?」
「うわ、川澄先輩、マニアックな冗談ですね」
ご存知だろうが、イスラム教徒は豚肉を食べることを教義により禁じられている。余談だが、某エジプト考古学の教授はイスラム教徒の奥さんと結婚したが、とある用事で立ち寄った中国で急に餃子を食べたくなり、その欲望に忠実に従ったことが奥さんに知れた結果、離婚に至ったことすらある。
「あはは、健二先輩がイスラム教徒だったら、ここにいませんって!」
「おい、それはどういう意味だ」
「そのままの意味ですけどぉ?」
「……冷めない内に食べる」
再び会話に注意を削がれかけた二人が、舞の鶴の一声で我に返った。彼らの前にあるのは、普段は給料日前にしか食べられないような豚肉である。ではそれまで何を食べているかというと、パン屋で貰った耳のカスを油で揚げたり―――この油も久しく取りかえられていない―――、鶏肉やら卵の特売日に、二人の内片方がサボれそうな講義をサボって買いに行き、それで食いつなぐという、お前らどこの国からの違法入国者だよと言いたくなるような食生活のひきこもごもである。そんなことが続く中に降って湧いた恵みの清水が目の前にリットル単位で滴り落ちているわけで、二人は箸を掴むと御飯茶碗片手に猛然とおかずに食らいつき始めた。
 なんだ、この二人は黙って食事を食えるじゃないか。舞の目には二人の様子がそう映っていたが、他の人間がノックもせずに部屋のドアを開けてこの光景を突然目にすれば、裸足で逃げ出そうというものだ。二人は舞のように小皿に一旦取り分けてから口に運ぶという手間すら惜しみ、御飯の上に乗せるとそのまま掻き込むという動作を最小限の動きで淡々と繰り返していて、それは鬼気迫るものすらあるのだから。
 
 そんなこんなの狂乱地味た夕食が皿の上から綺麗に片付けられたときには、舞は既に立ちあがり、先に食べ終わった自分の分の食器を洗い始めていて、その食事の早さに残りの二人は唖然とした。量自体は二人と変わらないのであるから、それも仕方ないというものである。
「ご馳走様でした、俺も手伝いますよ」
「あ、私も、私も」
二人が食卓に残った食器を洗い場に持ってきては申し出たが、舞は首を振った。
「……冷蔵庫に桃が入っているから、切っておいて」
「本当に手伝わなくて良いんですか?」
「……下手に手を出すと、怪我をする」
言われて見てから健二は気づいたが、洗い場は正に戦場で、銃弾代わりの食器が洗われた端から水切り籠に半ば飛びながらも割れずに突っ込まれており、とても手を出せるような戦況ではなかった。
「わかりました。ほら、進藤、お前は包丁持ってきてくれ。俺は桃を持ってくから」
「了解です、先輩」
二人はそれぞれが持つべきものを持って洗い場から撤退すると、居間のテーブルにそれらを置いてから腰を下ろした。
「ふぅ〜、なんつーか……すげぇな」
「あんなに集中して皿を洗う人、初めてみましたよ」
「いいや、あれは皿洗いじゃない……死ぬか生きるかの、水際攻防戦だ。大挙して押し寄せ上陸作戦を試みようとする大艦隊を相手に、海軍と空軍の立体的な融合によって理想的な戦況を作りだして、本来不利であるはずの戦闘を優位に進めているのさ」
「な、なんと!?」
やたらと真面目ぶった口調で話す健二に進藤も調子を合わせる。イメージとしては、MMRのシリアスな解説シーンで樹林と他の誰でも良いがその一人とのやり取りを想像してくれればあまり違いはない。嘘っ気満々という点でもこの例えは当てはまる。
「つまりだ、ああやって常日頃から自身を死地に置くことによってだなぁ―――」
健二が振り向くと、舞は既に健二の後ろにあたる台所と居間の間にある引き戸のところで手をタオルで拭きながら立っていた。
「……桃は?」
「……今、やります」
「……そう」
頼まれたことは早めにやりましょう。かつて小学校で教師に言われたことを思い出す。ときとして、お願いと命令は同義語になる。
 健二が果物包丁の刃の根元を使って桃の皮を剥いて行く。桃は切り分けない場合が多いのだが、彼は適当な大きさに切り分けると、進藤が持ってきた平皿の上に乗せていった。
「それにしても、本当に先輩は器用ですよねぇ」
「む……そうか?」
進藤の何気ない言葉に健二が手を止める。舞も進藤と似たような感想を抱いていたので、相槌を打った。
「料理はやってくれませんけど」
「お前は一言余計なんだよ」
誉められたと思って損をした。健二は再び桃を剥き始めた。また、桃はあまり時間をかけて剥いていると、痛みやすい上に手もかゆくなるということを彼は知っていたので、とりあえず三個分の作業を終えると、台所に手を洗いに行った。
「……桃ってこんなに綺麗に剥けるんだ」
小さ目のフォークに突き刺した桃を口の前で止めて、舞が感想を漏らす。
「あれ?川澄先輩って普段は果物とか食べないんですか」
「……そういうわけじゃないけど」
よもや、剥くより『斬る』方が得意などとは言えない。それを言ったら言ったで、進藤は納得したであろうが。そんなやり取りを二人がしていると、健二が台所から戻ってきた。
「二人ともまだ食べてないんだ」
「ああ、今いただくところですよ。ね、川澄先輩」
進藤の言葉に、舞が頷くと、とりあえず目の前で止めていた桃を口の中に放りこんだ。大き目の桃だったので、噛んだ瞬間に口の端から果汁が少しだけ垂れる。慌ててそれを手で拭って、噛んだものも喉にいれた。
「か、川澄先輩、もう一回―――」
「先輩のえっち……」
ナニを連想したのか、健二が手を奮わせているのを、進藤が窘める。
「ななななな、何を言ってるのかね、進藤一号生!我輩はそのようなことを言われる筋合いはない!」
「思いっきりドモってるじゃないですかっ!」
二人の相変わらずの言葉の掛け合いをも舞は気にせずに、桃を食べた後の独特の喉の乾きを誤魔化すために、健二が持ってきたビールを流し込む。その様子を見て、健二も桃をぱくつきながら、進藤を適当にあしらう。
「川澄先輩、お酒飲まないかと思ってましたよ。ん、桃とビールって合うな」
「……飲む。たまに、だけど」
特にこう暑くも楽しげな夜は。その言葉を口の奥で描き回しながら、ビールを再び流し込む。
「ああ、そうそう」
「……何?」
健二が思い出したようにバッグの中からファイルフォルダを取り出すと、そこから一枚の紙を取り出す。舞はそれに見覚えがあった。
「セーフガード?」
進藤が四つんばいになりながら健二の横から文面を読み取る。舞が先日、上司に渡したものと同じだった。
「で、なんか怪しいから、川澄先輩か南さんに聞こうと思ってたんですよ、これ」
「先輩、いつこんなのもらったんです?」
「この間、お偉いさんが現場に来ただろ。そのときにだ。ついでにお前のもあるぞ」
もう一枚同じ用紙を取り出す。コピーしたものかと思ったが、捺印済みなのでまるまるコピーしたというわけではないらしい。そういえば、と舞が手を口元にやって考え込む。私が提出したときも捺印をした。どうやら、用紙だけをファックスで先に送ったために、処理の順番が前後したらしかった。
「心当たり、あるんですね?」
健二の追随する言葉に、舞が降参というより、感慨深そうに答える。
「……私だけじゃなかったんだ」
「それって、川澄先輩もってことですよね」
舞がそれに対して頷く。ついでに、その書類をもう提出したということも話した。
「まぁ、無条件で給料が二割も上がるってんだから、取りあえず出しても良いって気になるよなぁ」
「え、二割増ですかっ!?」
進藤がビールに咽ながら言葉を吐き出す。
「そうだよ、ほら、ここのところだ」
健二が指差した場所にはなるほどその通りの内容が書かれていて、この書類に署名捺印をして提出した場合、今年の八月付けで給料が二割増しとなるとのことだった。ただ、各種保険に関しては組織内で管理する、との項目があり、健二にしてみればここが不安の種になっていた。
「俺はやってみてもいいが―――進藤、お前は止めておけ」
「え〜!」
当然のように、進藤が不満の声をあげる。
「確かに二人揃って給料が二割増しってことにでもなれば、こうして川澄先輩の家でご馳走してもらうなんてことも必要無くなるけどさ……やっぱりマズイって。お前、まだ未成年だし」
「今更それを言いますか!?」
「今だから言うんだろうが!」
二人が再び白熱必至というところで、舞が片手を上げる。
「……私は別に気にしてないけど?」
「……川澄先輩、酔ってますか」
「ちょっと」
健二が溜息を吐く。そんなことが問題なのではない。進藤は、未承諾とはいえ、彼女の両親から預かっているようなものだ。それを自分が傍にいながら、危険が考えられるような仕事に就かせるべきではない。そういった面から、欲望の赴くままである彼も、同居しているのにも関わらず、進藤にだけは手を出していない。
「とにかく、進藤は今回だけは見送れ。この仕事がしっかりした形のものなら、もう一度くらい再募集があるはずだしな」
「うー……わ、わかりましたよ」
不承不承ではあったが、健二の言に進藤が従う。それを受けて、健二が手を鳴らした。
「よし、真面目な話終わり。飲むぞ〜!」
「お〜!」
「……お〜」
食前、食事中の短時間で、既に五本近く空けているのだが、それは問題にならなかった。
 
「それでですねぇ―――って、川澄先輩?」
健二准尉は気力充実。進藤伍長は既に塹壕(トイレ)で倒れた。弾薬は既に底をつき、それぞれが装填したものだけしかない。そんな戦況下で殲滅作戦を続行できるわけもなく、准尉は小隊長である舞中尉の顔色を覗ったわけであるが―――
「……嫌いじゃない」
「は?」
「……クマさん、嫌いじゃない」
「はぁ……はぁ!?」
一つ目は相槌。二つ目は驚愕。舞が倒れこむようにして健二に抱き着いてきたからだった。
「ちょっと、川澄先輩、まずいですって」
「……ウニウニ……」
既に知的生命体の言葉ですらない。リボンを解いて下ろされた、舞の綺麗な長髪が健二の鼻先にかかり、彼女の胸元は健二の左肩一帯を圧迫し、健二は今にも心臓発作を起こしそうな気すらしていた。ここ二年ばかり、女という女を避けつづけ、自身の本性を押し隠してきた努力が水泡に帰そうとしているのだから焦ろうというものだ。
「こ、これが甘えん坊属性というやつかっ!?」
知的生命体である誇りを忘れかけてわけのわからないことを口走り始めている。ここで健二は思考を次の段階に推し進めた。ぶっちゃけ、これはヤっていいものだろうか。いやまて健二。彼女はどう考えたってまともな精神状態とは言えない。いわゆる心神耗弱だ。こんなときにヤってしまったとして、果たして俺は自分を許せるのかっ!?
 彼女に対しては、進藤に対してのような負い目もなく、お互い大人なのだからそこらへんは笑って済ませられそうな気さえ彼はしてくる。明日は三人ともシフトに入っていないので、よしんば寝過ごしたとしても問題はない。ここで自分の理性という怪獣を銀河の彼方にウルトラマンあたりに連れて行ってもらっても良いではないか。思考が段々と自己肯定に取って代わられていく。屁理屈の上に屁理屈が積み重ねられ、何時の間にかそれらを既定事実であるかのように偽装し、スパイラルの速度は二次関数の如く跳ねあがる。
「―――って、あっ」
スパイラルが頂点に達した瞬間、垂直に上昇した物体が頂点を迎えたときのように、力が抜けると、舞に押し倒される格好で仰向けになった。
「……寝てるし」
それを知った瞬間、健二はもうどうでもよくなり、お互いが汗臭いことや、酒を飲みすぎたなというようなことを思いながら、惰性に任せて眠りについた。
 
 翌日、健二と舞が添い寝をしている光景を見た進藤がどうしたか。それは自明である。数日後。健二はセーフガードに正式参加。八月を手前に控え、着々と組織は実体化していく。燻られた豚の肉汁は、狼達にはさぞ美味であろう。