第七章「街」前編

 
 痔という疾病がある。意味としては、股間部及びその近辺の疾病の総称で、これには痔瘻、痔核、肛門裂傷、脱肛などが含まれる。この疾病は世間でのイメージとは裏腹に凶悪極まりない疾病である。よほど重度のものでなければ命に別状はないものの、自覚症状が現れてから完治するまでには、人が生きるためにしなければならない排泄という行為に対して、悪戦苦闘しなければならない。
 
 アルクェイド・ブリュンスタットが主催するサークル『十六夜』が初陣を飾ってから一週間、アルクェイド達はその即売会に参加するために根城にしていたビジネスホテルから動かないでいた……否、動けないでいた。
「イ、イテ……グ、ァァァァァッ! ア、アルクェイド、痛いから、もっとやさしく塗って……」
「ふふっ、後でやさしくしてあげるから、とりあえず今は鳴いてね」
原因は以下の通りである。―――志貴的アルマゲドンのその日、やおい本に触発されたアルクェイドとレンによって寝込みを襲われ、レンが志貴を夢魔の力で強制的に眠らせている間、アルクェイドは観察(視姦)に始まり、指、舌と自身の身体に備わっているもの使い、その蕾を花開かせることに執着していた。その後、冷蔵庫にあるものを物色し、使えそうだったチューブのアイスを溶かして使用し、その後アルクェイドとレンにとっての命題であった『どこまで広がるのか』を試すため、一般のものよりもやや細めの、これが130円とは思えないほどの容量しかないコーヒーの空き缶を用意し、ターゲットにあてがう。そして、アルクェイドがパイルバンカーのような勢いで押し込んだとたん、菊は血を流しながら散った。
 結果、アルクェイド式パイル・バンカーによってお尻を掘られてしまった志貴は軽度の肛門裂傷に陥った。人間、一時の感情に流されるとろくな事がない。
 押し込まれた物の、罪に見合うかどうかは微妙なところだが、アルクェイドとレンは志貴の切れ痔治療のためにこの一週間ホテルに足止めさるという罰を受けた。
 アルクェイドとしてはさっさと次の目的地に移動したかったのだが、志貴が目に涙をため、両手でお尻を押さえながら哀願する姿は、アルクェイドの内部に開花しているサディステイックな部分をビンビンに刺激した。理性と欲望の狭間で揺れた吸血姫は、志貴の間抜けな姿が放つ怪しげな色気に抗しきれず、アルクェイド脳内理性軍は同欲望軍に屈した。ちなみにレンには発言権は有るようで無い。
 志貴の治療に当たっているのはアルクェイド。この人選は消去法によって決定された。志貴の裂傷は、アルクェイドが日本に来てから読みあさった医学書の知識に準じれば、なんとか“軽傷”という枠の中に入るものだった。あんな無茶苦茶なことをされても軽傷ですんだ当たりが、志貴の引く七夜の血のなせる業なのか、それとも遠野家の屋敷で二年近い爛れた日常を過ごした成果なのかは不明である。
 志貴の治療には民間薬が使われることとなった。以前、遠野の屋敷からくすねてきた琥珀印の治療薬(成分未調整)を使えば三日もかからずに治るというアルクェイドの提案は、志貴の激しい反対によって却下されたためである。―――
 
「アルクェイドのばぁかぁ〜、痛くしないって言ったのに……」
民間薬を使用した治療が一段落して、志貴はパンツがずり下げられたままベットのシーツにくるまってすすり泣きながらグチを言っていた。
治療後、アルクェイドは手を洗ってくると言って、ユニットバスに入ったまま、なかなか出てこない。ナニカをしゃぶるような音や粘着質な水音が時々聞こえてくるが、それは世界の神秘ということにして志貴は考えないようにしている。
 レンも、近所の大型書店で買ってきた耽美系乙女的ロマンティック漫画誌という、志貴には訳の分からないものを読みふけっていて、以前のように志貴を慰めてくれない。
「……」
志貴はだんだんと惨めな気持ちになってきた。こんなに惨めな思いをしたのは去年の夏にアルクェイドがお中元とか言って、シエル先輩と秋葉に『四十代からの基礎化粧品ドモ○ルンリン○ル』の試供品をプレゼントして勃発した戦争―――アレはもはやケンカと呼べるレヴェルではない―――の仲裁以来かな、などと他人事のように志貴は考えてしまう。
 誰かに抱きしめられながら泣きはらしたい、と志貴は思った。ただ、迷子の幼子のように、抱きついて、抱きしめて、泣きつける相手がいない。このままむせび泣いてもいいのだが、それだとなんだか女々しくて志貴の心の片隅に燻っている『男の矜持』がその行為を許さない。
 以前、男っていうのは不器用な生き物なんだよ、と言っていた友人の言葉を思い出す。ああ、全くもってそのとおりだ。泣きたいときに泣けず、人にすがりつきたくてもプライドが邪魔をする。不器用故に惰性に流され、今も自分の意志をもてない自分がいる。
 思考が段々と自分自身を否定する方向へ向かい始めたその時、志貴の横になっているベッドに誰かが近づいてきた。
 
―――レンだ!
 
 志貴は恐怖で震え上がった。ベクトルこそ違うもののネロ・カオスに突貫したとき以上の恐怖に身体が震え上がった。その恐怖を具体的に言うならば、♂としての権利と義務を剥奪された上に、非生産的な種類の快楽を排他的な部分に植え付けられてしまう。まったくもってバイオレンスな恐怖だ。
 
 志貴がそんな状態に陥っているとは知ってか知らずか、レンは先ほどまで読んでいた―――人の頭に振り下ろせば確実に殺せそうな―――分厚い雑誌を両手で抱えるように持って志貴が上に丸まっているベッドに腰を下ろす。
 
―――寝たふりだ、寝たふり
 
 このとき志貴は、あえて攻めるべきだったのかもしれない。相手の攻勢に対して何の準備もなく、ただ甲良(コウラ)の中に閉じこもるだけでは『破滅の時』までの時間が延びるだけだった。そして志貴は知らなかった。レンの持っている雑誌に『これが勝利の鍵だ〜寝込みを襲え!〜』という漫画が掲載されていたことを。
 
 志貴がシーツにくるまってガタガタと震えながら狸寝入りをしている頃、アルクェイドはユニットバスの中で、志貴のXポイントの感触を思い出しながら色々な行為でたっぷり楽しんだ手を、あまり衛生的とは言えない方法で綺麗にしていた。
「志貴……かわいかったなぁ」
危険な台詞を言いながら、まだヌラヌラと光っている右人差し指をタオルで拭く。時折、右人差し指に愛おしそうに頬ずりするのは儀式めいていて不気味である。
 痔の治療の副産物だったフラストレーションを―――薬を塗るために汚れた手を効率的に活用して一時的に解消したアルクェイドは、トイレに足を組んで座り、これからの計画を練っていた。
 現在のアルクェイドにはお金がない。二年間近くにわたる日本での放蕩生活の末、日本で即座に使用できるゲンナマは億を切った。世間一般の中流家庭のような暮らしをしながらの逃亡生活は金を喰う。何せ、収入源がない。
 収入を生むにも利益の大きい株や先物取引などは、遠野財閥――秋葉や翡翠、琥珀など――に感づかれる。競馬や競艇に代表されるギャンブルは専門知識が圧倒的に不足していて、今から勉強しても稼げるようになるまでに時間がかかりすぎるのでダメだ。カモフラージュと逃走経路の確保、そして資金を少しでも豊かにするために同人漫画を造って売ると言う方法を採ってみたが、どうにも効率が悪い。
「―――となると、売り込むしかないわね」
ブツブツ言っていたアルクェイドは考えをまとめると、そこにたどり着くまでの計画を考え出す。
 同人業界の二大勢力―――帝国と同盟―――そして、全国にある同人ショップの半数以上を支配下に置く遠野財閥同人部門、どれに自分たちを売り込み、どこが一番いい条件で受け入れてくれるか、アルクェイドは考える。そして出た結論は、今の状態ではこちらが望めるだけの条件は引き出せそうもない、というものだった。相手に売り込めるだけの要素がまるでないからだ。
「ん〜、やっぱりもうしばらくは様子を観よう。同盟も帝国も派閥争いに終わりが見える頃じゃなきゃ売り込んでも意味ないしぃ〜」
アルクェイドはこれについては思考するのを止め、今後の計画を志貴と話し合うためにユニットバスから出ることにした。
 
「……」
アルクェイドは言葉を失った。ドアを開ければそこは別世界で、彼女の目の前には、顔を涙と鼻水と唾液でグチャグチャにして泣いている志貴がいた。程良く引き締まった身体からはTシャツを残してすべて剥ぎ取られ、トレードマークである魔眼殺しの眼鏡は顔から分泌されるものでひどく汚れている。志貴をこんな状態に追いやったレンは純真無垢な少女の外見に似合わず、相当の手練れである。経験値は多い方が良い。
 志貴の口から出てくるのは言葉ではなく鳴き声だった。必死に何かを言おうとしているのに、外からの断続的な刺激のために言葉をつづることが出来ない。口からは泡だった唾液が垂れ、シーツやシャツ、志貴の身体を汚している。
 志貴がこんな状態になっているのに、アルクェイドは落ち着いていた。彼女にとって、これはいつものことなのである。
「レン、程々にしないと、志貴のお尻の傷がまた開くわよ?」
レンの旧主人はこの程度のことしか言わない。
 アルクェイドはレンに組み伏せられて、好き放題させられている志貴を一瞥し、先ほどから流されっぱなしになっているテレビに目を向ける。テレビからは深夜にやっている15禁すれすれのアニメが流れていて、その内容はというと、金と権力を持った青年が養育施設から少女を引き取り、自分好みの女に育て上げようとするものだ。アルクェイドもレンもこのアニメは好きだった。
 
「お前、いいのか?ガキの頃から目を付けて育てた花をよそ様にあげちまうんだぞ?」
「いいんだ」
「いいのか?今まで育ててきた世界に一つだけの花だぞ?」
「例えば……たまたま地面で拾った種から育ったのが阿片だった……お前ならどうする?」
「……少なくとも自分で使おうなんて思わないな」
「そうだ。俺にとって、あれは麻薬だ。姿を見ているだけで、声を聞くだけで、ただ考えるだけで……途方もなく幸福な気がする」
「お前、それただの惚気じゃないか?」
「……そうかもしれない」
男同士の語らいが終わり、片割れの男は自分の気持ちに方向性を見出したところで、今回の放送分が終わりエンディングが流れ出す。ちなみに、ベッドの上の戦争は、黒猫帝国連隊が私設志貴分隊を蹂躙しっぱなしだった。
 アルクェイドは悲惨な状態に陥っている志貴に、注意力のかけらも向けず、テレビ画面でスタッフロールが流れる中、油断すると流れて消えてしまう原作紹介や出版社名を、ひたすらメモ用紙に書き込んでいた。
 
 
 ゴールデンウィークに栃木県の某所で行われ、同盟軍の惜敗という形で幕を下ろした即売会から一週間が経過した。この時期、世間ではゴールデンウィークに時間的にも予算的にも無茶な家族サービスをし、結果として未だに疲れがとれない多くの父親が自宅で愛する家族に邪魔者扱いされる時期でもある。
 その日、浩平は同じ大学の先輩で既に社会人である美坂香里から呼び出しの電話を貰ったため、昼間はあまり足を運ばない、市の中心街に出てきた。
 浩平が今住んでいる町は宮城県の時雨市という場所で、十二年ほど前に今まであったいくつかの市や町をを統合し誕生した市である。
 しかし、統合されることになっていた町や村はその大半が過疎が進んでいた地域であり、合併して誕生した際は他の市の人口に遠く及ばなかった。だが、新たな市庁舎建設を皮切りに異常と言ってもいいほどの社会資本整備が始まり、大量の公共事業に釣られて近隣からだけでなく東北全土、さらには首都圏からも企業があつまってきた。さらに首都圏などへ出稼ぎ、上京していた人間も砂糖に集まる蟻のように、次々とこの新たなるフロンティアへ集まりだした。そして、増えた人間が住むための住居や食事を供給するための店、そのテナントを入れるためのビル群などという調子で、建設ラッシュは加速度的に進んでいった。
 その異常なまでの社会資本整備は、当時、与党で闇将軍と呼ばれていた議員の辣腕によって行われた事だったが、結果として金が人を集め、集まった人が落とす金がまた人を集めるといった方程式ができあがり、時雨市の人口は県庁のある仙台市に匹敵するまでになった。
 
 時雨市の中心街には人があふれていた。片側二車線の道路には車があふれ、立ち並ぶオフィスビルには絶えず人の出入りがある。今の世の中、会社の利益が自分の利益に繋がるとは一概に言えないが、日々の糧を獲るために多くの人間は働いている。
 浩平は人混みの中をしっかりとした足取りで歩みながら、周りの光景を観て嫌な気分になっていた。奇癖なのだろうか、疲れが溜まっているときに蒸し暑そうなスーツをきた人間の群を見ると、なぜか蟻を連想させるのだ。
 やっぱ疲れてんのかな、浩平はそんなことを思いながら連絡を貰ったときのことを考えてみる。
 携帯電話に連絡をもらったのが今朝だった上、その内容も、午後一時くらいに待ち合わせをしたいから希望の場所を言ってほしい、というものであった。浩平は、連絡を受けた当日に待ち合わせとは性急だな、と思いつつ今日の予定を記憶の片隅からほじくり出し、美坂が言った時間の前後が大いに空いていることを確認した上で、どうやって断ろうか、などと考えた。
 数分の会話の後、浩平はこの話を受けることにし、待ち合わせ場所である喫茶店の名前を挙げて電話を切った。そうしなければ後が恐い。
 
 
 よく整備された街道をしばらく歩くと待ち合わせの場所である喫茶店が見えてきた。
『音楽と嗜好品の店JSB』
厚みのある木製の看板に書かれた名前の店は、時雨市誕生以前の旧市街地と現在の市街地との境界線近くにある。建物自体は木造の平屋建てで、塗料をあまり使わず木目の美しさを引き立てるように設計されている。
 店内に入ろうと分厚い木のドアのノブを握り少し開くと、中から綺麗な音色のクラシック音楽がかすかに聞こえてくる。店の雰囲気を壊さない程度の音量で流れる曲はいつも違う曲で、浩平にしてみれば、聴いたことがない曲がほとんどだったりする。店長がマニアだからなぁ、などと思いながら浩平はドアを開け店内に入る。
「いらっしゃい、折原さん」
「よぉ、折原いいとこに来た。ちと来い」
店内には同じ格好をした人間が二人いた。この店の店長と店員である。それぞれ、紺のパンツに白のYシャツ、紺のネクタイに黒のベスト、腰から膝下まである黒のエプロンと一風変わった制服を違和感無く着こなしている。特に店長の方は室内にも関わらず真っ黒いサングラスを掛け、頭髪がすべて白髪なため特異な雰囲気を出している。
「こんちわ。マスターに―――玲さん」
視線を左右に振り、それぞれに挨拶をする。
「注文はどうする」
浩平に玲と呼ばれた女性はそう答えると伝票を取り出す。
「いつものベイクドチーズケーキに……あと、ブレンドで」
「はい、じゃあ、待っててね」
「玲、確かおやつ用にとっておいたビターチョコのエクレアあったろ、折原が来たから喰っちまうぞ」
マスターが思い出したことを口にする。
「わかったよ。飲み物は?」
「ダージリンのロイヤルミルクティで」
令が厨房に入り折原とマスターの注文した品物を用意し始めると、閑古鳥の鳴いている店内にコーヒーの香りが漂い始める。
「折原、お前が日曜にこの店に来るとは珍しいな。平日とか大学の講義さぼって、うちの店の個室で原稿やりに来ることは多いのに」
注文した品物が来るまでは暇なので、男二人で世間話に興じ始める。
「さぼってないっスよ」
「それはそうと、今朝のニュース見たか?」
マスターは、浩平の抗議を何事もなかったかのように受け流し、新たな話題をふる。
「見てませんけど、なんかありましたっけ?」
「旧市街地の再開発計画がまた消し飛んだそうだ」
「またですか」
鸚鵡返し(オウムガエシ)に近いが、理解はしていた。
「どいつもこいつも選挙のたびに旧市街地の再開発を公約として掲げているくせに、当選したら破棄しやがる。地場産業育成計画の方も、来年は予算が付かなくてつぶれそうだって話だ。それ以外にも、メイドロボが人間から働き場を奪っていく、って問題も起き始めている。計算上は10年以内に、工場で働いている人間の4分の1がメイドロボとその亜種に替えられるらしいぞ」
まぁ、といつものように注釈宣言文を付け加えてから、マスターは続ける。現在メイドロボの普及は進んでいるとは言い難い。元々が朝鮮戦争時代に、アメリカに亡命していた東欧諸国の科学者集団が開発した『汎用半人型強襲兵器―――下半身が戦車で上半身が人の胴体モドキ』であるからだが、戦争末期に何とか形になり戦線に投入されたが、戦闘に参加しても運用方法が難しく、戦車のように盾にするには小さすぎ、かといって兵士のように粗末に扱うにはデリケートすぎた。そういった事情により当然の処置として、投入された戦線各所で役立たずの烙印を押され、人型ロボットの研究はここで終了した。そして終戦間際に研究開発チームの解散が決定し、人類初の人型ロボットはそのまま歴史に埋もれるかに見えた。以上を会話の端々に付け加えながら、マスターは乾いた喉を指先で掻いた。
「マスター、詳しいんですね」
歴史の教科書にも、触れられる程度にしか出てこないメイドロボの歴史を、熱く語るマスターに浩平は変に感心してしまった。
「まぁ、話はここからが問題なんだが」
マスターの語りって長いんだよなぁ。浩平はそんなことを思いながら、注文した品が早く来ないかと厨房の方へ注意を向けていた。
「朝鮮戦争前後から、社会、資本両陣営を問わず核燃料の需要が高まり、それに関わる人間も増えてきた。あの時代の核爆弾を作るのに必要な爆縮レンズの技術を既にソ連に盗まれ、これ以上の核技術漏洩は許されないアメリカにとっては、買収もできないし拷問にかけても情報を吐かない、拉致して記憶回路を解体しても情報を読み取ることのできないロボットはうってつけだったんだろ。解散寸前だった、いや実質解散していた開発チームは潤沢な予算と豊富な資材が各方面から寄せられて、完全な機密保持用の人型ロボットの開発を模索し始めた、ってわけだ」
腕を口の前に組んでまるで昔を懐かしむかのように語るマスターに、浩平は自身の脳内議会にマスターの年齢鯖読み説を取り上げ、マスターの年齢について再考の余地ありとの決議が満場一致で採択された。
「だが疑問は尽きない。開発初期はお粗末以下だったAIが、今では人間と同等の性能を得ている」
「技術の進歩って事でいいんじゃないの?」
厨房から出てきた玲がそう言ったとき、マスターは唇を歪めて、一瞬だけ酸味を搾り出したレモンのような表情をした。
「はい、注文の品。浩平君はベイクドチーズケーキとブレンド」
浩平の前に、ケーキを中心に乗せた陶器の平皿とコーヒーを満たした白磁のカップが置かれる。
 ケーキの盛りつけられた平皿には、やや濃いめのきつね色をしたベイクドチーズケーキを中心に薄紫色のシャーベットと牛乳色のアイスクリームが半球状の形に整えられ添えられている。
「お、うまそうじゃん。玲、俺のは?」
「マスターが注文したのは紅茶じゃないですか、アレを入れるには時間が足りませんよ」
「紅茶なんてパパッと淹れればいいだろ」
「どんな葉っぱでも最高のものを淹れるのがプロでしょ。だいたいダージリンのファーストフラッシュで淹れるのに、お湯を注ぐだけじゃもったいないと思いませんか?」
浩平はベイクドチーズケーキを切り分けながら二人の痴話喧嘩に耳を傾けていた。この二人はいつも食べ物のことでケンカをして、いつもマスターが負ける。痴話喧嘩で女性の方が圧倒的に強いのは、真理の一つだろう。
「茶一杯のために恐ろしいほどの経費をかけんなよ」
「値段以上のものを提供していますから、問題ありません」
結局マスターが玲に白旗を揚げ、本日発生した紅茶紛争は幕を下ろす。
「マスターも毎回、懲りませんね」
痴話喧嘩においては、男の勝率は女のそれに比べると著しく低い。浩平は本能でそれを悟ってから、譲れるところは譲るようにしていらぬ衝突を避けようとしている。
 だが、この男はそれを悟っているにもかかわらず、精神的上位者の玲にたてつき、大体は返す言葉でさらに痛めつめられる。
「ふん、心が折れない限り負けはしない」
年甲斐もなくこっぱずかしいセリフを吐くが、浩平はすでにその言葉が昔の子供向けアニメで、悪役が敗北した際に言う捨てセリフと何らかわりのないものであることを知っていた。
 
 
 喫茶店JSBから西に十キロほど離れた旧市街地、美坂香里はマウンテンバイクをこぎ、東を目指していた。
 茶褐色のジャケットをぴっちりと閉め、同色のパンツはサイズが少し小さめなのか、ペダルをこぐたびに変化する脚の筋肉が、肌にピッチリと張り付いている布地を変化させる。
「ああ、まいったわね。私としたことが遅刻なんて」
美坂はそんなことを言いながら、左手で肩に掛かる程度の長さまでカットされた少々癖のある髪をなでる。乗っているマウンテンバイク『トモロ0117』の調子もよく、デコボコで所々ひび割れている旧市街地の路面でも、前輪フォークに装備されているサスペンションが衝撃を吸収してくれるため、路面状況をあまり気にせずに走れる。
『トモロ0117』は美坂が試行錯誤しながらチューンナップしたマウンテンバイクである。ギアチェンジ等の機構部分を別の自転車から外した三段変速のものに無理矢理付け替え、元々空色であったカラーリングを『気に障る』という動機で、マグマのような赤と白銀の二色に変更し、夜中でも使えるように大型のライトをつけ、荷物を置くためのカゴを後輪の上に取り付けた。ブレーキは前後共にディスクブレーキで、その制動力は計り知ず、分厚い硬質ゴムでできたタイヤは多少のデコボコ道など問題なく走る。
 そういったことがあって、当然、美坂の交通手段は雨の日以外、自転車である。香里が現在住んでいるアパートがある旧市街地は運行するバスが少なく、鉄道も廃線や本数の減少などで使い勝手が良くない。美坂はスクーターを使いたかったが、社会資本の補修があまり行われていない旧市街地では、道路も歩道も状態はあまりよくない。その上、旧市街地では治安に対しても中心街ほどの信頼を寄せることはできない。ナイフでパンクさせられることも珍しくはない、とアパートの大家は語っていた。
 十二年前に始まったの開発ラッシュ時に、現地住民が開発に反対し開発の手が入らなかった地区や、建築企業が何らかの理由で建設物を完成せぬまま放棄した地区がある。中心街に住む住民はいつしかそういった地区の総称として旧市街地という言葉を持ち出すようになり、やがて公のレヴェルでもそれは定着してしまった。
 時雨市が生まれて五年も経つと、旧市街と呼ばれる地区の治安の悪化と、同地区の社旗資本の維持が問題として、様々なメディアに取り上げられるようになった。政治家達はマスコミに、痛くもない腹を探られるのではないかと時雨市から手を引き始た。
 結果として、金を握る官僚と市をつなぐパイプが激減した時雨市の財政は一気に悪化した。国から出る助成金を含めた毎年の予算は、建てた公共施設及び社会資本の維持費と中心街の治安維持に回され、旧市街地はさらになおざりになる。交通の便が悪くなり、さらに治安の悪化といった、続発するこれらの問題は旧市街地の住民達に対し市街地への住居の移転という手段を半ば強制した結果となる。これは地元企業にも言えることで事務所を移す地元企業も多くなり、中心街ははますます人口が過密になり、旧市街地はより一層、寂れていった。
 美坂は頭に叩き込んだ地図で道を考えながら、指定された喫茶店へ『トモロ0117』をこぎ進めていく。五月晴れの空は青く、その青さが封印した記憶を呼び起こす。
 美坂は、一時『トモロ0117』をとめ、右手を口元へ当てて吐き気を押え込んだ。昔はこの空をどんな気持ちで見上げいたのか、今の香里にはそれすらも分からない。だが、はっきりと感じ取れるのは、心の底からわき上がってくる運命に対する憎しみと死んだ妹に対する哀愁だった。
 
 
「つまりだ、うちの市が抱えている問題を整理すると、旧市街地と経済基盤の二点が重要になっているわけだ」
JSBでは、マスターと浩平の世間話に花が咲いていた。
「旧市街地の治安回復に警察機構は何で動かないんですか?警察が月に一度くらいでもいいから手入れをすれば、治安は多少よくなるのに」
「警官じゃダメなんだよ。完全武装の機動隊を一個連隊くらい投入して、最初っから殺す気で行かないと、こっちに死人が出る。大体、旧市街地にある未完成のビルに徒党組んで住み着いている連中は、住所不定のガキ共だ。奴らには加減も計画性もない」
旧市街地にある建設が途中で止まってしまっているビルには非行少年グループが住み着いてしまっているものもある。そういったビルの近隣にすむ住民は、恐怖に耐えながらそこに住むよりは、中心街などの治安の良い街へ引っ越す方がいい、と次々引っ越し、中心街の発展に一役買っている。
「それに、今の市議会員には旧市街地出身者が殆ど居ない。それは、少数意見が殺される今の民主主義に置いては致命傷だ」
「じゃ、マスターが選挙に出てくださいよ」
浩平の問いかけにマスターは、言葉の意味が分からないとばかりに、顔をしかめた。
「一応、店の現住所は旧市街地に入っているわけですし、見た目もビシッとスーツでも着てサングラスを外せば問題なくなりますよ」
十中八九、冗談に聞こえるように浩平は話す。それがマスターにも分かったのか、本人は面倒くさそうに右手を振ってこう言った。
「古狸と、人非人(ヒトデナシ)共に囲まれながらする居眠りは、あんまり気持ちよさそうじゃないんで、辞退させて貰うわ」
マスターはそういうと、冷めてしまった紅茶を美味そうに飲んだ。その光景を玲は何か言いたそうな顔で見つめていたが、結局は何も言わずに厨房に腰を掛けて外の様子を観、ぽつりと呟いた。
「外はこんなに晴れているのに、何でうちにはお客がいないんだろうね」
「玲、それはな、休日は中心街に客足が集中していてこっちの方に回ってこないからだ」
「マスターはおかしいと思いませんか?平日ばっかり客が来て、休日に来ないなんて」
「文句は行政に言え」
玲が言う文句をマスターはすっぱり切り捨て、突然、何かを察したのか、サングラス越しでも分かるほどの鋭い視線を、店の外に投げかけた。
「浩平、お前の連れが来たみたいだ。姿格好を見る限り、なかなかヴァイオレンスな女みたいだな。俺は恐いから逃げるぞ」
ティーカップにスプーンとフォークを乱雑にアンティークの食器の上に載せて左手に持ち、席を立つ。それと同時に、マスターがヴァイオレンスな女と表した人物が扉を勢いよく開けて入ってきた。
 その人物は、店長が予見したとおり浩平が待っていた人物、美坂香里であったが、浩平には目もくれずマスターの方へ早足で歩み寄っていった。
「なんだ?用があるんなら食器を降ろすまで待ってくれないか」
マスターは、浩平の待ち人―――美坂が、一種の興奮状態に陥っていることをその両眼の異様な輝きから読みとり、相手に軽いストップ求める。だが、美坂はマスターの言葉を聞かず、一方的にマスターに話しかけた。
「あなた、相沢裕一って男を知らない?」
「相沢?だれだそりゃ」
「男よ―――あなたによく似た背格好の」
「ほぉ、世の中には同じ顔をした人間が三人いると言うからな。ま、見かけたら浩平にでも教えておくよ」
マスターは、そう言って奥の方へ引っ込んでいった。
「美坂さん遅いっすよ」
浩平が愚痴をこぼす。
「この店の所在地が不確かなのよ。それよりも用件だけど、これから市役所へ来てほしいのよ」
「はぁ、なんでまた」
「それにはちょっと面倒な事があってね。歩きながら説明するから」
美坂は本当にすまなそうな顔をして浩平に市役所行きを促すが、その時の眼には表情がなかった。こういう眼をしているときに付いていくと、ろくな事にならないことを浩平は知っていた。
「あ、歩いていくんですか?結構遠いのに」
「若いんだから問題ないでしょ」
「いや、俺あんまり寝ていないんで・・・」
遠回しに拒絶の意志を美坂に伝えるが、言葉のキャッチボールだと思ったものはバッティング練習だったようで、投げた言葉が無慈悲に打ち返される。
「うだうだ言わない。男でしょ。店員さん、お会計お願いします」
女性がよく言う伝家の宝刀に対して、浩平は何の反論もできず、そのまま引きずられるようにレジの前に連れて行かれる。
「浩平君も災難だね」
財布の中から千円札一枚と二枚ほどの硬貨を受け皿に置く。玲は受け皿の金額を確認した後、レジを打ちお釣りを浩平に渡した。その短いやりとりの間、美坂は玲を舐め回すような目で見ていた。玲の方もそれに気づいていたようだが、特に気にもしていないようだ。
「それじゃまた、平日にでも来ますんで」
「留年(ダブ)んなよー」
奥から出てきたマスターはそう言いながらカウンターの席に腰を下ろし、ドアを開け外に出ていく浩平の背中に向けていった。
 その言葉を聞いた浩平は何か言いたそうな顔をしていたが、前にいた美坂に引きずられるようにドアから離れていった。中途半端に開いたドアは、微妙につけられた傾斜によって、自然と閉まるようになっている。ドアが完全に閉じた後も、窓から二人の会話がかすかだが聞こえた。
「あのアホ共、何考えているんだ?」
「まぁまぁ、即売会が終わったばかりで休むにはいいんじゃないんですか?」
「……確かにな」
マスターの視線は、そのまま店の隅に置かれているカラーコピー機に向かった。
「即売会の2日くらい前は、こいつもほぼ二十四時間動いていたしな」
「個室も予約がびっしりでしたしね」
あのときの混雑ぶりを思い出したマスターは、とても嫌そうに顔を歪めた。
「来月までにバイトを捜すか。ガタイがよくてこいつの似合う奴」
そう言って、脚にかかっている黒いエプロンをつかむ。
「来るかどうかは分かりませんが、時給とか決めないといけませんね」
「まぁ、そうだな」
二人の希望通りのバイトはチラシを貼って三日で見つかることになる。乾有彦、という十九歳の青年が来週の月曜日から勤めることになるのだがそれはまた後の話である。
 空調の利いた店内でマスターと玲は楽しそうに語らっている。外では、太陽の光がひび割れたアスファルトを焼き、蟻が死んだ蝶を運んでいた。