第八章「モグラの頓悟」

 折原浩平は詰まりがちな喉に三杯目となるコーヒーを流し込むと、深い溜息を吐いた。彼が悶々としているのは、常連の喫茶店JSBの店内が賑やかなためだった。
 普段ならば看板を出していようが出していなかろうが決まった客しか入らない店に、どうしたことか月曜の真昼間から若い連中はもとより散歩帰りらしいご老人方までおり、これといって騒いでいるわけではないのだが、その息遣いや雰囲気が浩平のいるカウンター席にまでプレッシャーを与えている。
 常人には理解できまい。孤独と恋人、それに少々の親友『だけ』を愛したい浩平にとって、この賑やかさは枕元で念仏を唱えられるのにも似た苦行だった。
 これが即売会なら、賑やか大いに結構とばかりに歓迎する浩平だが、唯一といって良い常連先の喫茶店がこれでは、何かと油断ならない連中の多い交友関係においての鋭気を養うどころの話ではない。
 原因はわかっている。新しく入ったバイトの乾有彦と、この店のマスターが保護者となった椎名繭の二人だ。
 有彦は雇われた当初こそ『どこの馬の骨だか』といった心境で生暖かく見守ることができたのだが、彼の人当たりの良さと異常なまでの顔の広さが化けてからは、そうしてもいられなくなった。
 彼は全国を旅しながらバイトをしているのだが、その片手間に現在に暮らしている地域の情報や日々の出来事を面白おかしく書いたものを全国展開している雑誌編集部に投稿しており、浩平が通っている大学の知り合いによれば『その人にならデートコースからグルメスポット、果てはラブホテルのお世話まで全部任せる気になる』らしい。年中、同人やそれに関連したものしか読まない浩平こそ知らなかったが、世間一般にはかなりの知名度がある雑誌なのだ。
 当然、有彦が勤める店は読者にとって一番の関心事となる。勤め先のことを気遣って有彦は具体的な住所を載せることは無いのだが、ある程度は特定することが可能であり、地元の人間であればその確度は高くなる。そういった人間から徐々に情報が漏れ、勤め先に人が押し寄せ、最終的に有彦は気まずくなって別の土地へ移ってしまう。いわば旅する座敷童である。
 もちろん座敷童だから、その勤め先にしてみれば有彦は社長が頭を下げてでも戻ってきてもらいたい人材ではあるものの、有彦が旅を続けているからこそ彼の記事の価値と人気が上がる側面もあり、有彦の滞在期間は短くて一ヵ月、長くて四ヶ月程度となっている。
 一方、繭はというと居候させてもらっているマスターに対する感情からなのか、簡単な手伝いをしている。家にいる間は一人になってしまうことが嫌だったからなのかもしれない。店に出ていればマスターや玲の他にも浩平のような常連客から何かと言葉をかけてもらえる。最初こそぎこちない応対しかできなかったが、今ではその仕草が却って客に受け、ある程度以上は歳がいった層に人気となっている。リピーター率では有彦を上回っているというのは玲の弁だ。
 こんな状況にあって背中を丸めている浩平などはマスターからしてみれば嫌がらせに近いのだが、何故かそのマスターはカウンター席に陣取っている浩平の前でこれまた背中を丸めている。
 今も『貧しくても良い。静かな俺の庭。タイムゴーズバイ』という、韻を踏みもしない下手糞な詩を即興でシュプレヒコール代わりに口にしており、玲は一日五十回近く客からは見えない角度でローキックをマスターに叩き込んでいる。
「マスターは良いよなぁ、玲さんがいるから」
「そうかー、そんなもんかー」
「俺なんてさぁ、近頃じゃ茜と会ってものんびりしてられないし」
「そうかー、そんなもんかー」
 横で聞いていた七瀬は本日のランチであるシーフードスパゲティを食べ終わると、ようやく気になってきたらしい。彼女は玲に食後のコーヒーを入れてくれるように頼むと、回転式の丸椅子を回し、出来の悪い受付ロボットと化しているマスターを無視して浩平に向き合った。
「そんなんでどうするのよ。例の即売会は今度の日曜なんでしょ?」
「あー、とっくに基本案はできてるよ。負けない程度の」
「勝つのが目的なのに、それじゃ駄目じゃん」
「勝つためのやつは腹案なの。それに必要な人材がどうにも見つからなくてさぁ」
「何よ、今回はでっかいバックが付いてくれてるんでしょうが」
 バンと浩平の背中を叩く。七瀬は詳しくは聞いていなかったが、このやる気の無いアホが大抜擢された事情を噂程度には仕入れてあった。浩平はコホコホと気の無い咳をしてみせる。
「必要なのは、そういうバックを頼らない人材なんだよ」
 秋葉原で行われる即売会は、通常は一定規模以上の会場を確保して行われる一般的なそれとは全く違う。
 元々、帝国のお膝元である日本橋で行われた試験的な形式の即売会を、その成功をもとに東の秋葉原でも行うようになったのが始まりである。
 先ずはその規模であるが、丸々一つの地域を使い切る。そのため、通常の即売会よりも警察や消防への届出が厳密かつ迅速に行われる必要があり、帝国のような組織立ったサークル連合体が出現しなければ実現しなかっただろう。
 実際にはサークルは縁日の屋台のように、歩行者天国と化した路上に配置される。この配置がまた難しく、一般の人間に迷惑がかからぬよう、例えば消火栓の半径三メートルは駄目といった具合に、規制を管理者側が設けている。参加者にわかり易いようにと運転免許の教本等にも載っているような常識と合致する点も多い。
 問題は、そこに即売会ならではの常識が入り込むことであり、この手の即売会が開かれる度、即売会を主催する組織の関係者と警察等公的機関との間で頭の痛くなるような舌戦が展開されることになる。それ次第で本来は味方のはずのサークルが遠くの島に配置されるような事態がそこかしこで起こる。そのため単純に祭を楽しもうという意見が両陣営で強くなり、積極的な戦略を立てられない。特に同盟側は『帝国主催』の常套句によって気勢を削がれるため、いつも八対二という絶望的な割合の勝負に持ち込まれてしまう。そういうことを繰り返していると、一般参加者の間でも帝国側の物品を求める者が多くなり、今では秋葉原は帝国にとっての第二の日本橋と化している。
 それでもときには帝国側の余裕からかはたまた雑事ぐらいは任せてやるという嫌がらせなのか、主催の権利が同盟側に回ってくる。実際には主催する組織自体は独立しており、帝国側、同盟側から責任者が出向し、現場やサークル単位の煩雑な仕事を買って出る形になっているものの、主催組織はあくまでも事務方に専念するため、この権利は何だかんだで重要なものだ。
 とはいえ、このままでは帝国を打ち砕くなどという言葉も実体の無い薄っぺらなものになってしまう。浩平としても、少なからず世話になったり仲良くなった者達を、そんな肩の狭い立場に追いやらせたままにさせるのは嫌だった。
「とまぁこんな次第なわけだから、なんつーか型破りな面子が必要なんだよ。特に俺の案にはね」
 気分転換と頭の整理がてら、七瀬にざっとした説明を浩平は行った。そうしている間に幾分か顔はテーブルから離れたものの、両肘を付いた姿はかつて授業中に七瀬が何度も見たものと同じだった。
「大変なんだね」
「だろー?」
「そうじゃなくって」
「ん」
 ここで初めて、浩平が丸めた背中を元に戻した。それ見た玲は、御代わり用の安いコーヒーではなく、七瀬が注文したのと同じ特製コーヒーをもう一つ入れるためにカップを取り出した。七瀬は急に真剣な眼差しになった浩平に気後れしながらも、それを彼に気取らせまいと話を続けた。
「秋葉原にだって住んでる人や同人と関係の無い商売をしている人がいるわけでしょう? それなのに与り知らない内にそんなことをぽんぽんされちゃってさ。それこそ大変じゃん」
「ふむ」
 浩平の腹案というのは、事前の準備段階、正確には広報によって客層に新しい流れを生み、秋葉原の存在そのものを抜本的に改革することだった。そうすれば、秋葉原を無力化、上手くすれば同盟に有利な地域として活用することもできるからだ。
 その広報の方向性は決めてあったのだが、具体的な内容までは決めかねていた。そのための人材を欲していたぐらいだ。
 七瀬の何気ない感想が、手に入らないものを欲する子供と同じ質の不満を抱えていた浩平のエンジンに火を入れた。
「なるほど、そうか……でもなぁ」
「何がなるほどなのさ」
「いや、結局さぁ、うーん」
 こういうときの浩平は、七瀬からしてみると期待を持たせる反面、苛々する。大概、結果を考えずにどう引っ掻き回してやろうかとばかり考えていたりするからだ。そういう破滅的な部分が、あの事件に繋がった可能性を七瀬は捨て切れていない。そんな七瀬の肩を、コーヒーを用意し終えた玲が優しく叩いた。
「いつも一緒にいる人が、いつまでも同じだとは限らないんですよ」
 玲の言葉は七瀬にはよく理解できなかったが、玲の目線がマスターに向いていることに気付いた。きっと、経験を根拠にした励ましなのだろう。七瀬は玲からコーヒーを受け取ると、先ずは浩平にそれを渡し、自分の分を玲からもらった。
「おっと玲さん、デザートを忘れてますよ」
 脇から颯爽とショコラを手に登場したのは有彦だった。気付くと他の客はランチを終え、二時を前にして店を出ていた。
「あら、お会計も済ませてくれたんだ。でも、デザートはランチの場合は付けなくて良いのよ?」
「ふっふっふー、ランチには付けなくても良いかもしれませんが、可愛い女の子にはデザートを付けるもんです」
 それを聞いた玲がくすりと笑ってから、有彦君の奢りならと言うと、その場の輪に笑いが起こった。皿洗いをするためにカウンターに戻っていた繭の顔にも、そしてマスターにも。そんな中、一人思案を続けている浩平を有彦が見逃すわけもない。
「ったく、困ったことがあるならこの人生経験豊富な乾先生に先ずはお伺いを立てるのが巷の慣わしってもんだぜ」
「どうせイケナイお店とかでの経験じゃないんですか」
 大げさな身振り手ぶりがイカにも臭い。有彦はショコラを七瀬に差し出してから、肘でこつんと浩平の頭を突いた。
「女性の前でそんなこと言うもんじゃないだろう。ホント、同人とかやる奴ってのは皆こういう頭してんのかねぇ」
 そう言って、今度はぐりぐりと肘を浩平の頭に押し付ける。傍から見ると、気の弱そうな後輩をからかう上級生のようであり、有彦にも子供っぽい所が多分に見受けられる。浩平はそれを指摘してやろうとしたが、同人という言葉にピンと来るものがあった。
「同人をご存知で?」
「ん? ああ、まあな。編集部関係の知り合いの手伝いとかもたまにやるしさ」
 有彦が全国行脚の一方で遠野秋葉の命によって親友の動向を探っていることなど、ここにいる誰もが知らぬことである。そうであっても、うっかり口を滑らせた自分に……いや、これまでこんなことは一度も無かったからこそ、有彦は動揺した。
「乾さん、お願いがあります」
「やだ」
 動揺を隠すためにきっぱりと言い放つ。駄目だ駄目だ。こういうタイプに巻き込まれると、自分はつい調子に乗って頑張り過ぎる。有彦は必死で身に付けた自分なりの処世術を発揮していたが、そこで思わぬ伏兵が横槍を突いた。
「お願いします!」
「いいよーん!」
 七瀬の言葉に、有彦は全てを忘れた。それと同時に、あまりに現金な彼に周囲の白い目が突き刺さった。


  ******


 浩平の呟きに、七瀬の顔が上がる。今、彼は確かに言った。
「ありがとうって?」
「ああ、そう言ったんだ」
 浩平が七瀬と共に店を出てから数十分。彼女と歩ける時間はあまり残されていなかった。
 あれから浩平はマスターに有彦を即売会まで借りると宣言し、それに有彦は自分の落ち度を弁えつつも流石に無茶だと切り返した。こちとら根無し草、金は幾らあっても足りないというのがその理由である。そこで浩平が有彦の耳元で呟いた。
『成果に関わらず一括で十万円出します。もち、経費とは別で』
『喜んでお供させていだきます!』
 金は幾らあっても足りないのだ。このやり取りを耳にできたのは、すぐ近くに座っていた七瀬だけだった。
「本当に?」
「しつっこいなぁ、前言撤回しても良いか」
「ありがたく受け取っとく」
「ありがとうって言葉を? ややこしいな」
これからのことを考える前に有彦を味方に付けるための切り口を開いてくれた七瀬に礼を言ったのだが、これではこれからのことを考えるどころではない。先ずは彼女に説明をする必要があるのだが、浩平はあまり詳しいことを自分から話したくはなかった。
 今回から参謀には不本意ながら茜を充てる。それは、七瀬には恋人に対するものとは違った情があったからこその人事でもある。恋人であれば積極的にもなれるが、そうでなければ上手くいかない。それが浩平の為人の一端だった。
 もちろん、自分から七瀬に話さなくても誰かが話すか、彼女自身が訊き出すだろう。浩平自身、自分が情という言葉に逃げていることを自覚している。しかし。――
 しかし、七瀬が転校生として浩平と出会って以来、どこか彼女を守ろうとする意思のようなものが浩平に働く。例えそれが消極的なものだろうと、彼にとっては何かにつけて必要な通過儀礼だった。
「あのな、その……七瀬」
「今回は居残りでしょ?」
 浩平以上に七瀬は事に当たって敏感だった。茜が参謀として配置されたことを知ったときから覚悟はできていた。だからこそ、事情をよく呑み込めていない状況で、特別に親しくもない相手に、慣れない『お願いします』の言葉を出した。これで私の役目は終わりだな。それまで納得し切れていなかったものが、不思議と氷解していた。
 面食らっている浩平をどこか懐かしいものでも見るかのように眺めながら、七瀬は続ける。
「今回は急なことだったから許すけどさ、次は必ず付いてく。そのためにも絶対勝ちなさい!」
「お、おう」
 有彦は大収穫だったが、自分はもっと貴重な人物と既に出会っていたのではないか。七瀬の言葉に勇気付けられている自分に、浩平は複雑な想いだった。


 その日の夜、仙台駅から東京へと向かう新幹線はやての指定席に浩平と茜、それに有彦の姿があった。この強行軍を知る者は地域特殊地場産業育成課予算調達企画室長代理という、名刺に並べるには長過ぎる肩書きの人物と、彼が話を通した秋葉原のとある団体の長のみである。
「あ、お茶熱いですよ」
「ありがとさん」
 茜特製のハーブティーが魔法瓶から売店で買ってきた紙コップに注がれる。浩平が窓に映る自分の顔を他人のもののように見つめている。この窓ガラス一枚を隔てた場所にもう一人の自分がいるわけではないのに、そこにいる自分の更に遠くを想像する。連鎖はそこで止まった。
「茜さん、俺にもくーださーいな」
「何でお前が茜の隣なんだよ!」
「俺が正面に座ったら座ったで文句言うんだろうが!」
「んじゃ斜向かいに来いよ!」
 浩平が急に現実に引き戻されたのは、有彦が嬉々として茶の相伴に与ったからだった。浩平は気付いていない。有彦が浩平の所作を見取ってしたことだということに。
「ま、お前さんはそんな遠くを見ているより、茜さんにヤキモキしているのが似合ってるってことだよ」
「そうですよ。そんな風にしてお茶を飲んだら、火傷しちゃいます」
 茜と有彦が、お互いの顔を見合いながら親指を立てて健闘を称える。人付き合いが上手いようでいてその実は下手糞な浩平にしてみれば、わずか一時間の間に育まれた男女間の友情は理解し難い。こいつらもしかして生き別れの兄妹か何かじゃないのかという疑問すら浩平には浮かんでいる。
 ともあれ、この旅の間は遠くを見なくて済みそうだ。そう思って茜を見ると、彼女と目が合う。首を傾げて唇の端を緩めただけの慎ましい笑顔を前にして、浩平は熱い紅茶に口を付けた。


  ******


 閃きや勘は必ずしも個人が占有できるものではない。しかし、それが訪れる時とそれを実行できるかどうかには差が生じる。九品仏大志が秋葉原入りしたのは六月のこと。浩平達に先んじる事、一ヵ月以上もの差があった。
 もっとも、この素早い人員配置は今回は同盟が主催する秋葉原即売会に危機感を抱いてのことではない。その証拠に大志に随伴して秋葉原入りした者はほとんどおらず、その僅かにいたものでさえ、西に流通していないもの(つまりは同盟サークル製)を仕入れるために付いて来ただけだった。いわばこれは即売会準備のついでに人事異動をしてしまおうという程度のものだったわけだ。
 では大志が悲観でもしているかというとそうでもない。彼は優秀だったが、特別に同盟を良く思っているわけではない。あくまでも一脅威として存在するものという認識でしかなかった。何故なら彼の関心は専ら自分も所属している帝国や、彼曰く『同志』の千堂和樹に向けられているからだ。
 ただし、その『一脅威』と認識することができるのは、彼が帝国の腐敗とは縁遠い、稀有な人材であることを証明している。それは彼が到着した直後に向かった秋葉原近くにあるホテルの一室での出来事を見れば明らかだった。

 長年、環七の内側に用意されたマンションで東京プリンも羨むような生活を送りながら秋葉原情勢に目を光らせているのは矢島と橋本という、因縁浅からぬ仲の二人である。
 彼らに共通しているのは、出身高校が現帝国主催・藤田浩之と同じこと。そして、青春の一ページに失恋というインクを零したということである。その失恋に藤田主催が関わっていたという噂もあるが、そこにこの二人が同人業界に足を踏み入れる原因の一つがあったのかもしれない。
 高校卒業後の二人の再会は不幸そのものであった。矢島がその生真面目さによって女友達の恋人との不仲の相談に乗っている間に、その女友達と付き合うようになった。これはよくある話で、こうなると必ずもう一方の男性がしゃしゃり出てくる場合が多い。その男が地元のゴロでなくても、矢島は自分の恋人のために身を挺しただろう。
 かくして、決闘というイカにもタコにもな事態と相成ったわけだが、当然のごとくただのスポーツマンだった矢島がゴロに敵うはずもない。あわや大事な身体の骨の一本でも折られるという段になったとき、助っ人が登場した。
『助けに来たぜ、矢島ぁ!』
『お前……橋本か?』
 ここまでは良い具合に逆転劇のシナリオっぽく進んだのだが、そこからが拙かった。脚本に忠実なゴロなんているわけがない。登場した勢いのままドロップキックをかました橋本は両足を宙で掴まれ、さらさらヘアーを生ゴミ袋に突っ込ませた。その隙にと顎への一撃を画策した矢島はそれを逆手に取られたために肩を路地裏の側壁に叩き付けられ、全治一ヵ月の重傷を負う。
 決闘場となった路地裏には、ボロ雑巾二枚が打ち捨てられ、件の女友達はごめんねと軽く謝ってゴロと一緒に街へ繰り出す。所詮、彼らは男としての天秤にかけられただけに過ぎなかった。
 以来、彼らはインディーズバンドでレゲエやってる色男がゴロをぶちのめす類の話を熱心に描くようになったという。理由はどうあれ、人の執念がその価値を高めることもあるのだという証左であった。
 ちなみに橋本が矢島の助っ人に現れることができたのは、件の女友達にカマをかけていたからであり、それが矢島に知れる段になって、二人の仲は決定的に悪くなった。それでも彼らはジャンル上の割り振りや世代間の都合によって一緒くたにされることが多く、今の今に至るまで二人の関係に破局らしい破局は訪れていない。
 そんな彼らが秋葉原という、重要な戦略拠点ながら帝国の本拠地から見れば僻地となる場所に事実上の責任者並立という立場で飛ばされたのは、意識的に緊張感を保たせようという、彼らの気質をよく知る現在の帝国首脳部の考えによっていた。

 まったく、ある側面から見れば同人という狭い世界の住人の悪い見本だ。大志はソファに腰を沈めながら、今度の合コンはお前がやれだのその前に手前ぇの原稿をアゲねぇと企画が台無しになるんだのと言い合っている二人に冷たい目線を遣っている。
 大志はこの手の仲の悪い者達が何故かサークル活動を共にし続けている例を幾つか知っているが、大概は付き合い上のマイナスよりも知名度という実利を取ろうとする下手なアマチュア根性が要因となっていると推察している。これについてはまだ多くのサンプルを得る必要があったが、未来永劫変わらないであろう結論は『こいつらイタイ』だった。大志は往々にして、TPOを弁えた面をしつつも頭の中でどぎついことを考えているのである。
「ま、今日は歓迎のめでたい席だ。これくらいにしようじゃないか」
「そうだな。この忙しい中で折角開いた歓迎会だものな」
 矢島の提案を橋本がどす黒く染める。口では橋本が矢島よりも先んじているが、その矢島はどうにも無責任・無自覚なことを他人に言ったり薦めたりするため、五十歩百歩である。大体、歓迎会とは名ばかりで、ただの顔見世でしかない。歓迎の料理にしたって、近所のピザ屋に注文したやたらと生地が硬いピザだけだ。
 彼らが友人であれば問題は無いのだが、なんせ責任者である。矢島は軽いフットワークを活かして即売会当日を仕切り、橋本は裏方に徹する。それぞれがそれぞれの長であり、彼らをまとめるべき上役は置かれていない。これが事実上の責任者並立といわれる所以である。これを帝国の懐の広さと取れる程、大志は甘い人間ではない。
 精々大きな失敗を二人で犯し、二度とこのような人事が行われないようになることを願いたいものだ。大志は自分の思考を腹に押し留めると、軽い頭で杓子定規に会釈と世辞を言って部屋を辞した。取り残された二人は面食らっていたが、この場に二人が留まる理由が無いことを悟って、解散となった。
 大志は今日から秋葉原即売会が終わるまでの一月間、決して短くない時間を彼らの補佐をするために宛がわなければならない。初日から長い事付き合っていられるかというのが、正直な気持ちだった。

 長期滞在者用に割り当てられている短期契約の部屋があるアパートへと向かう前に、大志は逆方向にある秋葉原へと向かった。上役二人の失敗を願う彼だが、心中に付き合わされては堪らない。それを防ぐためには、少なくとも自分が助かる方策を練るための情報を仕入れる必要があるのだった。


 やはりこの時間が一番『らしい』。大志は夕方六時を過ぎた秋葉原を、かつて和樹と何度となく歩いた道のりで辿っていく。先ずはこうして、自分の身体を使って現状を直感的に把握したかった。
 駅に近い位置に乱立している電気店の前では携帯電話や家電製品が光り、店員の手にしたメガホンから聞こえる宣伝を聞き流しながら歩く雑踏の中を進む。サラリーマン、OL、バンド練習帰りの大学生……オタク以外にも多くの人々がこの街を通り過ぎていく。帝国と同盟が同人というシロモノをお互いに奪い合いながらこね回していようと、秋葉原は秋葉原だった。
 だが、貸しビルの中に一歩でも入れば、数年の間にオタク向け産業がこの街を一気に侵食したことがわかる。その密度は、山手線と神田明神通りが地図上で交差する場所を基点に、奥へ行けば奥に行く程に高まり、中央通りと蔵前橋通りが交差する点に至ってようやく一息吐ける。
 以前はもっと雑多に、それでいて整然と電気屋や露天商が路地や路地裏を賑わせていたものだが。――大志は考えながら、じきにそれを失わせたのは自分が所属している組織によることを思い出す。もう他人事のように文句を言うだけでは済まない場所に自分はいる。それはともすれば気概を削ぎかねないものだったが、大志は違った。
「同志はここをどう変えていくつもりだ?」
 その期待こそが、彼の何よりの原動力だった。
 大志は秋葉原の端まで来た所の喫茶店で休憩してから、来た道を戻り始めた。目的の店は駅から四百メートル程離れた路地裏の貸しビルにあり、その隣のビルの一階と二階は大人が嗜む小道具一般を取り扱っている店が入っている。ほとんどの客が入ったときと手荷物の量が変わっていないという、相変わらず微妙な繁盛の仕方だが、らしいといえばらしい。
 さて。大志は貸しビルの階段を上っていく。エレベータもあるにはあるのだが、大人が三人も乗れば鮨詰め状態であり、髪のセットに毎朝命を賭けている大志としては、あまりそういった事態になりたくはなかった。和樹や瑞希がいれば『そんなヤワなセットじゃないだろが』と突っ込んだことだろうなんて思いながら、大志は三階を目指す。階段はそこで終わりだ。
 目の前には短い廊下があり、その奥には非常灯が見える。大志の知り合いだけあって用心深さはかなりのものがあるようで、ザルと化している消防法を尊守し、非常口を荷物で塞いでいない。チェーン展開ならばともかく、個人経営の店子の場合、それを守っている者はここだけの話ほとんどいない。
 階段正面には自動ドアが設置されていて、その横に縦書きの文字で『造形承ります』とだけある。かなりの達筆で、太筆で勢い良く書かれている。店の名前を知っている一見さんはほとんどいないというのが、この店の特徴だろう。偶然、この店に辿り付いた。そんな客こそがこの店には相応しかった。
 店の名前は『ガキタレ』。嘘か真か、旧日本軍兵士を標榜する数名の店員兼クリエイターによって運営されているホビーショップである。
 大分前の話だが、この店が共産党極右構成員の経営だと警察に勘違いされたときに仲裁したのが大志である。元々がいい加減なタレコミに基づいて行われたガサ入れだったから、意外と簡単に警察は引き下がった。それでもガキタレ関係者は大志に恩義を感じ、彼らの陰りのある気風や製作能力の高さを認めた大志も何かと立ち寄るようにしている。
「九品仏か……少し待て」
「茶なら持参しているから結構」
 いつもレジの傍で仕事をしている岩切は関係者唯一の女性だが、他のメンバーもそうであるように白髪である。これが染めているからなのか生まれつきなのかは常連でも意見の分れるところであり、終いには『きっとあの人達は地雷を踏んだために親兄弟が死んでしまったけど、技術を磨いて必死に生き抜いている人達の集団なんだよ』という涙ぐましい話がでっち上げられ、その段になってようやく『俺たち何やってたんだっけ』『あ、キハ二〇型の旧色入ってら』というようにぐだぐだに店内を回ることになる。
 大志はどこから取り出したか知れない五百ミリリットル容量のペットボトルの茶をレジの邪魔にならない場所に置くと、岩切が出してくれたパイプ椅子に座った。
「景気はどうだい、同志岩切」
「光岡のドールの素体の発注が多すぎて困っている」
 岩切が光岡の愚痴を言うということは、即ち景気が良いということだ。これが御堂というセムシみたいな風体の店員に対する愚痴だと、本当に景気が悪い。他にも二、三名は店員がいるのだが、普段は自宅で作業しているために滅多に店には顔を出さない。特に店長の犬飼は実は法人名なのではないかと疑いたくなるくらいに影が薄く、大志でさえお目にかかったことが無い。
 大志はそれとなくレジの後ろにある暖簾の奥の工場を覗いたが、熱っぽく作業机を照らしている照明と乾燥機だか何だかのブーンという音が聞こえるぐらいで、人影は無かった。
「今日はもう客以外は来ない」
「そのようだ」
 客も来そうにない。大体、この店は平日の真昼間に『あんたいったい何の仕事をしているんだ』と訊ねたくなる客が訪れ、十万単位で金を落としていくことがザラにあるような所だ。逆にこういったゴールデンタイムに客が訪れることはまず無い。
「それで、今日は何の用だ」
 大志が来たということは即ち他の伝手ではどうにもならない商品の仕入れか、昭和何年にA局で放送されていた○×という番組の第二十三話に出た少女Cを作ってくれとかいう無茶な注文かのどちらかだ。今回はそのどちらにも当てはまらなかった。
「この店の同志達は意外と顔が広い。それを見込んで頼みたいことがあるのだ」
「『意外と』は余計だ」
 そう言っている岩切本人ですら、あるとき路地裏で普段は見かけない年配の露天商に『姐さん、姐さんじゃねぇですか! やぁ、相変わらずべっぴんでぇ』と声をかけられるような人物であるから、説得力が皆無だ。
 大志はそこら辺を持ち前の軽い笑いで流すと、ペットボトルの茶を一口飲む。
「同志もどうだね?」
「男子が口を付けたものの相伴には与れん」
 そう言って、レジの脇から近所で売ってる牛スジ缶を取り出して栓を開ける。古風か前衛的かがわからない嗜好をしているようだ。なお、彼女はおでん缶よりこれが好きである。しかも冷めたやつが。
 大志の奇異の視線に気付いた岩切が、牛スジを奥歯でくちゃくちゃやりながら答える。
「これはあれだ……浸透圧が調度良い」
「なるほど、浸透圧……同志は深いな」
「だろう?」
「ああ」
 缶入り製品に浸透圧もへったくれも無いのだが、何か相通じるものがあったのだろう。岩切は牛スジの後にコンニャクを串で突き刺すと、顎で続きを話すよう促した。どうやら、聞いてもらえるらしい。
「この付近一帯が今現在、大きな流れの中にあることは同志も知っていることであろう?」
「うむうむ」
 生返事だが、ちゃんと聞いてはいる。それにしてはコンニャクを何度も串で突き刺し、空いた穴に出汁が滲みるのを楽しんでいるのだが、個人の趣味についてどうこう言う大志ではなかった。
「我輩の頼みというのは、そんな流れから取り残されている部分の動向の調査なのだ。細石となるか、巌足るか。それを見極めるためにも、同志諸君に協力してもらいたい。成功の可否に関わらず、何らかの報酬は払わせてもらう」
「構わんぞ。他の者達には私から話しておく」
「やけにすんなり引き受けてくれるのだな」
「上手くいくかどうかわからんものほど気も張るし、上手くいかなくても良いなら尚更だ。それに、九品仏の物言いは適度にやる気を起こさせる。懐かしさすら覚えるぞ」
「変わっているのだなぁ」
 お前に言われたくない。その言葉を聞いて大志はほくそ笑むと、立ち上がった。
「行くのか」
「これでも忙しい身なのだよ。ここと同じようにな」
「褒め言葉と受け取っておこう」
 岩切は缶に残った中身をがぶ飲みすると、それを噛みながら手元の作業に戻った。大志はそれとなく店内を見回すと、自動ドアを潜る。
 とりあえずはこれで良い。そもそも、この行動自体が心配のし過ぎというやつなのかもしれない。大志は岩切との会話で解れた頭と軽い足取りで階段を下りていく。途中の一階へ降りようとする踊り場で、見慣れない男性と擦れ違った。その頭は白髪で、着ている者は渋いというよりも汚らしい感じさえした。
 あの店のファンだろうか。考えながら一階に下りると、そのまま表の通りに出ようとする。そこで岩切の声がした。
「九品仏、茶を忘れているぞ」
 彼女の手にはたしかに大志が持参したペットボトルが握られていたが、気付いてここまで持ってくるまでに息を切らすことすら無いのだから大したものだ。
 大志は岩切に礼を言ってペットボトルを受け取ると、思ったことを口にした。
「今、客が上っていったようだが、良いのか」
「ああ、あれは客じゃない。店長だ。急な仕入れがあったらしくて、伝票を――」
 今日に限って。大志は珍しく後悔していた。あまりに一瞬のことだったから、顔を見る事ができなかったのだ。それにしても……
「同志岩切。先程の件、よろしく頼む」
 それにしても不吉だ。路上で頭まで下げた大志を岩切が不審に思っている間に、彼はさっさとアパートへ向かった。


  ******


 こうした流れのままに、秋葉原即売会は当日を迎えようとしている。鬼が出るか蛇が出るか。それは双方のキーパーソンに共通した不安となっており、それぞれの危機管理能力を奮い立たせる。
 残酷な惰性に支配されようとしている街で、龍が蠢き始めていた。