第六幕「克己」
 
 太陽光のアスファルトからの照り返しと地熱で、身体が焼かれそうだ。
 熱い。
 彼女は地面から逃れるようにして、道路沿いの塀の上に4本の足を使って飛び乗った。
 
 黒猫に変化したアルクェイドの使い魔であるレンは、主人であるアルクェイドの「マンションの部屋まで急いで帰れ」の言葉通りに、ひたすらマンションへと疾駆していた。
 主人と別れた町外れからは大分離れ、住宅街を日陰のある塀の上を選んで走りながら、繁華街傍のマンションへと向かう。
 色々と考えることはあるが、先ずは主人の命令を忠実に聞くことこそが、レンにとっては重要だった。
 マンションに到着し―――アルクェイドの結界は使い魔であるレンには影響が出ない―――部屋のある階まで一気に駆け上る。こういったときは、猫の姿の方が都合が良い。部屋の前まで辿り着くと、変化を解いて人型に戻った。この部屋がある階の全ての部屋は、アルクェイドが借り切っているために、人の目を気にする必要は無い。
 ワンピースの腰元のボタン付きポケットのボタンを開け、中から鍵を取り出す。
 別に鍵をかける必要など無いのだが、志貴とシエルが以前来た際にアルクェイドに「気分の問題」と言い、それ以降アルクェイドは鍵をかけて、その鍵はレンに預けるようにしていた。
 金属製の鍵をドアノブ下の鍵穴に差し込むと、金属同士の摩擦音がし、ゴッという音がして鍵が止まる。そこで鍵を回すと、小気味良い音を立てて鍵が開いた。鍵を抜いて、ポケットに押し込む。部屋の中ならば落としても特に問題が無いので、ボタンはかけなかった。そしてドアノブへと手を伸ばし、捻り、ドアを開いて部屋へと入った。
 
 部屋はよくある居間・食堂兼台所が一つずつある形式で、それに加えて書斎兼寝室があり、もちろん浴室もある。
 部屋に入って直ぐの廊下左脇に書斎兼寝室、右脇に浴室、廊下先に居間がある。居間に入って右に、食堂兼台所がある。全体では四部屋ということになる。人が二人住むにはちょうど良い部屋である。
 玄関からレンはまず居間へと向かった。外出前に掃除をしたので、整然としている。以前はここにベッドだけがあるという、部屋という概念がどこかに忘れられたかのような状態であったが、今ではベッドは書斎兼寝室の方に移動してある。その替わりと言ってはなんだが、長方形の一畳程の多きさの木製テーブルがあり、その二辺にソファがそれぞれ置いてある。
 他にはこれといって無いが、居間は客が来ない限りあまり使わないので、私物等は全て詳細兼寝室の方に置いてあるのだから、仕方無いといえば仕方無いのである。
 彼女はカーテンを開け、居間からベランダに出るための窓というよりサッシの引き戸を開けた。地上からは十五〜二〇メートル程離れているので遮蔽物が無いため、強くない程度の風が居間の中に吹き込んでくる。しかし、これでは風が入っても出て行かないので、レンはもう一つの側の小さな窓を開けた。これで、風の通り道ができた。
 部屋の中の滞留していた空気が綺麗な空気に入れ替わっていく。レンはそれを引き戸の傍で感じ取りながら、今、主人がどうなっているかについて思いを馳せた。
 
 いつものように一撃で相手を仕留めたのだろうか。
 或いは、楽しみながら相手を攻撃しているのだろうか。
 いや、それとも―――
 
 彼女はそこで思考を止めた。戦いのことに考えを巡らせれば、必ず最悪の結果も予想してしまうからだ。そうして、自分が今やるべきことは、主人を心配することではなく、素人が帰ってきたときにゆっくり休めるようにしておくことだ、という結論に達した。
 彼女は踵を返して、廊下脇の書斎兼寝室へと向かった。
 
 ドアを開けると、布の繊維質の匂いが鼻についた。この部屋にある棚は全てが布のサンプルで埋まっている。服のデッサンを興す際に、参考にするためだ。実際の作業を行なうときに、必要な分だけ材料を買って来る。
 他にはそれぞれの壁際にベッドと製図板があり、製図板の横には資料用の本が入っている三段程度の低めの本棚が置いてある。
 製図板は、昨今のオフィス・オートメーション化によりパソコンにとって替わられて中古屋に売りに出されたものをアルクェイドが見つけ、買ったものだ。
 普通であれば、デッサンから実際の寸法や型紙を興すならばパソコン等の製図ソフトを用いた方が便利なのではあるが、アルクェイドはパソコンを使ったことがなかったし、使う気も無かった。
 志貴が以前そのことについて彼女に聞いたところ、「ややこしいから」の一言で返され、それ以上何も言えなかったことがある。
 レンが部屋に足を踏み入れると、閉めていたカーテンを開け、窓を開けた。布の匂いが嫌なわけではなく、単に空気が淀んでいたから、窓を開けた。
 次にベッドの乱れを直し、製図板の上に乱雑に置かれていたデッサンのラフを本棚の中の専用バインダーに挟んだ。製図板は使う際に通常傾斜をつけるため、用具や資料は別の机の上に置く。アルクェイドは昨日の夜は満月だったためかどうかは知らないが、やたら張り切ってデッサンを興していて、レンが邪魔にならないようにと行っていた居間からこの部屋に帰ってきたときには、彼女の立派な主人は製図板の上に突っ伏してよだれを垂らしながら寝ていた。
 レンが気を利かせてタオルケットを主人にかけて、自分は傍に置いてあったマットの上で猫の姿で寝たのであったが、途中で起きたアルクェイドは、自分の間抜けな様子をレンに見られたことに恥ずかしがりながらも、感謝の意を込めて、自分にかかっていたタオルケットをレンにかけ、自分はベッドで寝なおしたのであった。
 レンは製図板の上を片付けながら、その時の主人の間抜けな寝顔を思い出して、クスクスと笑っていた。
 
 片付けも一通り終わり、掃除もし終わった後、レンが時計を見ると、既に夕方の五時になろうとしていた。もっとも、風呂掃除から夕飯の仕込みまでやったのであるから、手際はかなり良いと言えるだろう。
 そこに来て、レンは急に眠くなってきた。暑い中を走った所為もあるだろうし、気疲れも多少あった。考えてしまうことを考えないようにするというのも、疲れるものである。
 失礼かとは思ったが、彼女は主人のベッドの上に寝転がり、そのまま眠ってしまった。
 
 彼女は最近、眠っているときに夢を見るようになった。今まではこんなことは無かったのであるが、恐らくは、自分の感情を抑えようとする意思が弱まったためであろう。
 彼女は、最初に自分を作った主人の教えを絶対とし、現在の主人であるアルクェイドに対しても、その教えを元に接してきた。神の教えを絶対とする、禁域の修道女の様に、自身の意思によって全ての行動を抑えてきたのである。
 彼女には、その禁域が、今は解かれたような気がするのである。不必要なまでの教えの厳守を改革した一六,一七世紀の修道改革を彼女が連想しえたのは、彼女を作った主人が与えた知識の賜物である。
 今見ている夢は、彼女が過ごしている日常を断片的に描いたものであった。
 主人との他愛の無い会話。
 主人とその友人達との時間。
 自分という自我から生じる、野心無き素朴な願望。
 それらが場面が気がつかない程自然に移り変わりながる。
 
 そして、彼女は目を覚ました。
 
 その時の彼女が覚えているのは、違和感のある香の匂いと、包帯に包まれた腕だった。
 
 後にアルクェイドが発見した破壊された時計は、時刻九時を指していた……。
 
 
 第6幕・完
 
 初稿2001/9/2
 
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