コンッコンッ
 
 私の部屋のドアを誰かがノックしました。
「は〜い」
「姉さん、見回りの交代時間です」
翡翠ちゃんですね。私はふとベッド横の時計を見やりました。
 12時―――相変わらず、翡翠ちゃんは時間に正確です。
私は日記を書く手を止めて、机から立ち上がり部屋のドアを開けました。
「ご苦労様です。翡翠ちゃん」
ドアを開けると、メイド服姿の翡翠ちゃんが、手に懐中電灯を持って立っていました。
 
 翡翠ちゃんの話によると、以前―――私は残念ながら覚えていません―――は懐中電灯ではなく、ランプを使っていたそうです。なんでも、前当主の槙久様の趣味に合わせていたそうなのですが、現当主の秋葉様が利便性のために懐中電灯に替えたそうです。
 
「いえ、仕事ですから。姉さんこそ何かしていらっしゃったのに、お邪魔しちゃいましたね」
 この娘は本当に私のことを気遣ってくれます。これは私が記憶を無くしたことによるものなのでしょうか?それとも以前からこうしてくれていたのでしょうか?
 …多分、後者なのでしょうね。こういったことは、一朝一夕で身につくものではありませんから。
「それこそ、お仕事優先ってやつです。翡翠ちゃんが気にすることじゃありませんよ」
日記なんて、それこそいつでも書けますし、実のところ、もう今日の分は三分の二以上書き終わっています。見回りが終わってからでも、さっと書いてしまえる量です。
 私は翡翠ちゃんから懐中電灯を受け取ると、早くお風呂に入って寝るように言いました。
「はい、それじゃあ、そうさせていただきます」
翡翠ちゃんはそう言って、自分の部屋へ着替えを取りに行きました。その足どりは軽やかかつ、早いです。
 明日は志貴さんがお休みですから、お風呂から上がったら志貴様のお部屋に行くつもりなのでしょう。
 さて、他人の色恋沙汰に興味を持っている場合ではありません。お仕事がまだ残ってます。
 私は自室の窓の戸締りと明かりを消して、見回りに出ました。
 
 
 ………さて、一通り見回りましたかね。腕時計を見ると、現在2時半。少しノンビリし過ぎたようです。あ〜、これでは翡翠ちゃんに、姉さんは動きが緩慢ですって怒られても仕方無いですね。
 部屋に戻ろうと廊下を歩いていて、ふと窓の外を見上げると、思わず「あら」と声を出してしまいました。
 今日はとても月が綺麗です。満月というわけではないのですが、太陽から受けているであろう光を、美しく反射しています。今日は空気が清んでいましたから、そのためかもしれません。
 折角ですから、いつもの所へ行くことにしました。
 
 そこ―――お屋敷の庭のテラスは、見回りが終わった後に天気が良い日などにいつも来るところです。
 ここからだとお屋敷の庭が見渡せ、風の通りも良いので、のんびりするにはちょうど良いのです。
 それに、ここはどうやら私が記憶を無くす前から来ていたようで、体が馴染みます。
 先日、翡翠ちゃんに聞いたところ、実際私は昔からよくここで息抜きをしていたそうです。
 私はテーブルの傍にある2脚ある椅子の内の一つに腰掛けました。
 庭の植物の葉が月明かりを柔らかく反射していて、その光を見ていると、一日の疲れやストレスが掻き消されていくようです。
 視線を庭から上にずらすと、そこには月が見えました。強すぎない、まるで体をすり抜けるような光です。
 目で光を捉えるというより、体そのもので光を捉えていると言った方がいいでしょう。
 何も考えず、しばらくそうしていると、物音が聞こえました。
 一瞬、泥棒かとも思いましたが、振り返ると、そこには志貴さんが立っていました。
 
「や、七夜さん。…お邪魔だったかな?」
志貴さんの格好は、寝巻きではありませんでした。お風呂から上がったときに見た、Tシャツの上に長袖を羽織り、下はチノパンという格好です。春過ぎとはいえ、夜は冷えますから、ちょうどいいかもしれません。
「いえ、そんなことはありませんよ。まぁとにかくお掛けになってください」
「じゃぁお言葉に甘えて…」
そう言うと、私とテーブルを挟んで反対側の椅子に座りました。
「ところで志貴さんはどうなさったんですか?翡翠ちゃんと一緒だったんでは…」
そうです。明日(もう日付は変わっているので今日ですが)は志貴さんはお休みですから、今晩は翡翠ちゃんと一緒にいるはずなのですが。
「ああ…その、なんだ…しばらくしたら、翡翠が疲れたようで、寝ちゃったんですよ。それで寝る前にちょっと涼もうかな、って思ってね」
志貴さんの言葉には何かを隠そうという気持ちが顕著に出ています。本当に嘘が下手な方ですね…。    
「なるほど。つまり、翡翠ちゃんと”疲れること”をしたら、先に翡翠ちゃんが寝てしまったわけですね」
なんだか歯切れが悪いので、訳してしまいました。
「え〜〜、まぁ、実にその通りなんですが〜、その〜…表現が相変わらずはっきりしてますね」
あら、少しハッキリと言い過ぎてしまったようですね。志貴さんの口調がますます怪しくなってしまいました。その上、やたらキョロキョロしています。
「そ、そういう七夜さんこそ、どうしたんですか?」
反応がわかり易くて可愛いですねぇ。翡翠ちゃんが惚れてしまう理由がわかるような気がしますよ。
「うふふ、そうですね。私も志貴さんと同じで、寝る前に涼んでいるところです」
「はぁ〜、そうなんですか〜」
「そうなんですよ〜」
そんな会話をした後、二人ともしばらく涼んでいました。
 
「あっ、今日は月が綺麗なんですね……気がつかなかった」
志貴さんが突然、空を見上げながらつぶやきました。メガネに月の光が反射して、表情がいまひとつ読み取れません。
「ええ、私も見回りの途中に気がついたんですよ。でも、満月というには欠けていますし、一般に言う”綺麗な月”とは違いますから、てっきり、綺麗だと思ったのは私だけかと思いました」
私がそう言うと、志貴様は、そんなことないよ、と言った風に首を振ると、こちらにゆっくりと顔を向けました。
「満月が美しいのは、当たり前なんだよ。けどね、あの円形が欠けた形の月には、なんだか感慨深い、そう、慰められるような美しさがあるんだよ」
暗がりの中で、月の光で浮かび上がる落ち着いた顔には、妙に大人らしい志貴さんがいます。
「まぁ、単に俺が”欠けている”ということに変な同情とか共感めいたものを感じているだけなんだけどね」
「はぁ〜、それはぜひとも、それがどういった共感なのか聞きたいですね。同じ月に同じ感想を持った者としては」
志貴さんが嬉しそうな顔をして答えました。
「へぇ、七夜さんもか。ん、じゃぁ話そうかな…」
「あっ、ちょっと待ってください。長くなりそうですし、折角ですからお茶でも飲みながらゆっくり話しませんか?」
「それは良いねぇ……でも、七夜さんこそ大丈夫なのかい?明日も仕事があるんでしょ?」
「いえ、明日は志貴さんも秋葉さんもお休みですから、朝はどたばたしなくていいですから、そんなにお気を遣ってもらわなくて結構ですよ」
そう私が言うと、志貴さんも、それならということで承諾してくださいました。
「それじゃあどうしますか?日本茶にしますか?それとも何かご希望がありますか??」
それを聞いた志貴さんが微笑みます。どういう意味の微笑みなのでしょうか?
「それじゃぁ、紅茶。それと、ブランデーも持ってきてくれないかな」
「ブランデー、ですか?」
「そう、ブランデー。何に使うかは、持って来ればわかるよ」
そう言う志貴さんの笑い方は、子供のように無邪気です。
「それでは少しだけ失礼しますね」
「はい。お願いします。七夜さん」
私は台所の方に行きました。
 
 
「はぁ…そういう飲み方があるんですねぇ」
志貴さんは、私が淹れた紅茶に、持ってきたブランデーを淹れて、「紅茶のブランデー割り」なるものを作っています。
「いやぁ、とある小説で出てきた飲み方で、以前有彦のウチで試しに飲んでみたんだよ。そうしたら、紅茶がブランデーを、ブランデーが紅茶を互いに香りを強調し合って、なおかつ味も全体的にマイルドになって美味かったんだよ。それで、七夜さんの淹れた紅茶でやったらさぞ美味しいかと思ってね……っと、完成」
どうやら出来たようです。
「そうそう、七夜さんも飲むかい?」
夜風にのって”紅茶のブランデー割り”の香りがこちらにまで漂ってきました。
 …確かに良い香りです。
「それじゃぁ私も」
「七夜さんもイケル口だねぇ〜」
志貴さんはどこぞのバーテンのような台詞を吐くと、嬉しそうに先程のようにして私の紅茶にブランデーを微妙な手つきで淹れています。
「この分量がなかなかに難しくってね。どちらが強すぎても弱すぎても、味が損なわれてしまうんだよ……っと、ハイっ完成」
出来たそれを私の前に手を伸ばして置くと、志貴さんはカップをかざしました。
「えっと…ちょっとキザかもしれないけど……良い夜に」
私も志貴さんに習ってカップをかざします。
「良い夜に」
「「乾杯」」
こうして昼に続いて、夜の月の下でのお茶会が始まりました。
 
 
「う〜ん、美味い。ヤン=ウェンリーになったような気分だ」
紅茶のブランデー割りを飲みながら、志貴さんが私にはよくわからないことをつぶやきます。その視線は月ではなく、銀河を漂う星々へ向けているようです。
「まぁ、それはいいとして、お話の続きをお願いしますね。志貴さん」
「むっ…そうだね」
ムードを台無しにされて少々志貴さんの気分が悪くなったようですが、そんなこともすぐに忘れて話しはじめてくれました。
 志貴さんは本当に良い人です。
「どこから、はじめたらいいかな?」
「志貴さんが話し易いように話してください。私はそれを聞いてますから」
「ん、そう言ってもらえると、話し易いよ」
 
「まず、円ってものについて話そうか。円。このカップやテーブルもそうだけど、円ってのは、恐らく物の形として、一番綺麗で、丈夫で、理想的な形だと言える」
テーブルに置いたカップをしげしげと眺めながら言います。
「そして、人間にとって円ってのは、心の形として理想と言えるんじゃないかな」
「心の形…ですか?」
「そう、心の形。完璧な調和がとれる形として、円が理想と言うのも、おかしくはないと俺は思うんだよ」
少々強引な仮説ではありますが、その分、志貴さんの考え方がよく伝わってきます。
「けど、それはあくまで理想でしかない。現実に心がその形になれている人間なんてのは、いない」
志貴さんが置いてあるカップの端を指先でチンッと弾きます。その音は夜の静寂の中に、染み渡るように、静かに、響き、そして消えました。
「……でもね、それじゃあ人間は美しくないかと言うと、そんなことはない。必死に欠けた部分を埋めようとしている人間は、俺は見ていて、美しいと思うよ」
「世間一般では、それを努力と言うのでしょうね」
「そう。逆に言えば、人間は欠けていなければ、努力をしないとも言えるんじゃないかな?」
そう言うと、志貴さんは、こちらを楽しげに見つめながら、紅茶で口腔を潤しています。その様は、こちらがどんな反応を返すかを楽しんでいるかのようです。
 
「……そう、ですね。確かに、月は満ちてしまったら、今度は欠けていくしかありませんものね。……でもね、志貴さん。私は思うんですよ。人間も月と同じで、一度満月になって、欠けて、そうしてまた満月になろうと努力するように思えるんです。だって、満ちるということがどういうことなのか、わからずに満ちようとするなんて、それこそ理解できませんよ」
志貴さんはティーポットから紅茶をカップに淹れて、ブランデーを注いでいます。酔ってきたのでしょうか。手つきがかなり怪しく、ブランデーのビンの注ぎ口がブレています。
「なるほどね…。流石は七夜さんだ。俺よりも教養がある。酒の味を知らなければ、また飲もうとは思わないのと一緒ってわけだな」
「うふふ、お酒と同列にされては、月もさぞ傷ついたでしょうね」
「何を言ってるんです、七夜さん。人を満たすという点では、月よりも酒の方が役に立っていますよ」
つい先日まで下戸で通っていた人間の台詞とは思えませんね。もっとも、お酒を美味く感じるようになるには、楽しいことと辛いこと、その両方を知っていなければ、美味しくはならないそうです。きっと、この方は今までその片方―――辛いことしか知らなかったのでしょう。今は本当に美味しそうに、お酒を飲んで、楽しそうに酔われます。
「ふふふっ、私もなんだか楽しくなってきました。お酒が美味しい所為でしょうかね」
「そう言ってもらえると、俺も嬉しいよ」
志貴さんが、ふぅ〜、と言った様子で月を見上げます。
「…要するに、志貴さんの言う共感というのは、自分も今日の月のように欠けていることによって感じたことですか?」
違う、という意思表示に志貴さんが片手を開いてこちらに向けます。
「今はそんなことはないんだよ。七夜さん。俺は今、七夜さんや秋葉や有彦、それに何より翡翠。そんな皆のおかげでかなり満たされているんだよ。さしずめ、俺は欠けていたころの自分を思い出して、今の幸せを実感している酷い男ってところかな」
志貴さんがなんとも言いがたい苦笑いをします。
「それだったら、私だって酷い女ですよ。思い出せもしない、昔を満たされていたのだと思い込んで、今は満たされていないんだと感じている、恩知らずな酷い女です」
それを聞いた志貴さんが、笑うのを止めて、こちらをえっ、と言った目で見ました。
「あらやだ。どうやらお互いお酒が大分回ってきているみたいですねぇ〜」
持ってきたブランデーは、既にビンの半分近くを空けています。
「それじゃぁ俺も折角酔ったんだから、勢いに任せて凄いことを言っちゃいますよ」
「ははぁ、なんでしょうねぇ〜。気になりますねぇ〜…」
 
「俺がなんで七夜さんに、その名前をつけたか」
夜風がザッと庭を一気に通り抜けたような気がしました。
 
「あはは〜、それじゃあ私は勝手に酔っていますから、志貴さんも勝手に話しちゃってくださいな」
私は、椅子を志貴さんとは反対の方向に向けて、紅茶を啜りながら聞くことにしました。その話を聞いて、私がどんな表情になるかわかったものではありませんから。
 
「昔…俺がまだ七夜志貴だった頃。その頃の俺は、多分、満ち足りていた。けど、それもすぐに欠けてしまったんだ。それから、俺は遠野志貴になった。有馬の家に預けられてからも、今も、ずっと、七夜志貴だった頃、満たされていた頃に近づこうとしている」
私の後ろで、紅茶を啜る音が聞こえます。
「…で、七夜さんには、七夜志貴のように満たされてほしいと思って、七夜ってつけたというわけ。……酷い話だよ。自分の願望を勝手に七夜さんに押し付けてさ」
「そんなことは―――」
…言葉がそれ以上は続きませんでした。一気に言葉を言おうとすると、きっと泣き出してしまうでしょうから。
 私は、ゆっくりと、言葉を続けることにしました。
「そんなことは…ないです。私が名前をつけてくれるように頼んだんですし…今、その名前の意味を聞かされて…私は…嬉しいんです…」
 
 目が覚めて、最初に見た光景は、空虚な、真っ白い壁の病室でした。自分の名前が”琥珀”であるらしく、またその名前をあまり好きではないらしいということぐらいしか、わかりませんでした。
 自分がわからない、知らないということを、知っているというのは、とても不安で、何をしたら良いのかすらも考えることはできませんでした。
 その病室に入ってきたのが、翡翠ちゃんと…志貴さんでした。最初、誰なのかわからなくて、不安でしたが、翡翠ちゃんが自分はあなたの妹だと説明して、志貴さんのことも紹介してくれましたから、じきに不安も消えていきました。
 その後の出来事は本当に一瞬のことのように過ぎていきました。これといった目標はまだ見つけられないですが、翡翠ちゃんを始めとした皆さんのおかげで、心が段々と満たされているのは、実感しています。それも、志貴さんのように私のことを想ってくれる方がいてこそなのだと、今、気づいたんです。
 
「…さて、そろそろ戻らないと、翡翠ちゃんが気づいたら寂しがりますよ」
私が忠告すると、志貴さんが腕時計を見やりました。
「ん…もう3時半か。そうだね。そろそろお開きとしようか」
「はい…ほら、志貴さん。急いだ方が良いですよ。翡翠ちゃんは早起きですから」
「そうだった…!七夜さん、悪いけど、後片付けをお願いします!」
「はい。わかりましたから、ほら、急いで行ってあげてください」
私がそう言ったときには、志貴さんはもうお屋敷の中へ入っていました。
 
「…ありがとう、志貴さん」
 
 さて、私も片付けて寝るとしましょうか。ああ、そういえばまだ日記が残っていましたね。ちょうど良いですから、このお茶会のことも書いておきましょうか。
 私が満ち足りていく、大事な跡ですから、ね……。
 
 
 
 
 
 
 エピローグ
 
 明朝、秋葉が、自分に対して何のフォローもしてくれなかった兄に対して、それ相応、いや、それ以上の報復をしたことを知っているのは、遠野の屋敷の人間だけである…。
 
 
 
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あとがき
 さて、いかがだったでしょうか。初めての連作ということもあり、かなり疲れましたが、良い経験になりました。連作においての、締め切りの感覚や内容の多い少ないなどのさじ加減を体に覚えさせることができましたから。
 話じだいは、いわゆる「キャラによる語り継ぎ」の形式をとった、琥珀(七夜)・翡翠姉妹の翡翠Good Endのその後を描いたものです。
 やはり、最大のヤマ場はその4なのですが、全体を何かの機会にでも改訂したいと思っています。
 
 それでは、ここまで読んでくれてどうもありがとうございました。
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