第三幕
 
 
 ヴァチカン市国ローマの大聖堂の地下約一〇メートルに埋葬機関本部の司令室兼執務室はある。この部屋はちょうどローマ教皇の寝室の真下に位置する部分だ。
 埋葬機関の任務は教皇の意向によって左右される。そのため、保守的な教皇の代にはそれほど内部は慌ただしくないのだが、改革的な教皇の代には宗教的・政治的双方への配慮もしなければならないし、教皇が暗殺されるといった事体も避けるよう努力しなければならない。その上、本来の任務である死徒殲滅が加わり、その多忙さは前者の比較にならない。
 現在の状況はどちらかというと後者である。教皇の嘆きの壁訪問の際などは、本部には書記官をはじめとした内勤の者と司令のナルバレックだけという有様であった。だがそれ以来は国内の公的な場を中心にしか教皇が姿を表さないので比較的暇がある。
 
 もっとも、今回のように死徒殲滅作戦は状況によって判断され、即召集される。この方法が安全だからだ。メンバーが普段は本部にいないことによって「なにをしているかわからない」といった抑止力を外部に与えることができる。その「なにをしているかわからない」者達を統括しなくてはならないのだから、司令であるナルバレックの神経は日に日に研磨され、鋭いナイフへと変わっている。鋭さと脆さを併せ持つ彼女にも一応は恋人がいる。本人は調度いい補強剤程度だと思ってやっていたのだが、段々と依存しているような節もあり、本人もそのことに気づいている。補強されたナイフは、よりメンバーに畏れを抱かせるという結果になっている。
 
 その当人、ナルバレック女史は執務室で銀のチェーン付きの円形レンズの眼鏡をかけて、召集するメンバーとその意図を報告する書類を、手先を団子虫の足のようにしてタイプライターを打っていた。集めたメンバーが全員特級の位なのでその意図を事細かに記述する必要があり、その上ご丁寧に書式まで決められているものだから、途中で誤植なぞしてしまったときには、金色の長髪ひとしきり掻き毟ったあとにそのページをぐしゃぐしゃにして焼却炉直通のゴミ捨て穴に放り捨てている。
 調度書類をまとめ終わった頃に部屋の木製のドアがノックされた。
「どなた?」
彼女は自分で、しまった、と思った。擦れた声には疲れがはっきりと出ていたからだ。思えば定例の教皇謁見があったのが午前一〇時。それからかれこれ一二時間以上ここに詰めっぱなしだ。しかもここ二週間ばかりは教会以外のところに行っていない。行く用事は無いのだが、行けないのと行かないのとでは心理的なストレスの質が違う。
 その度に思うのは、執務の効率が良いということで埋葬機関の中に任命者の部屋を作った前代のナルバレックだ。かといって「ナルバレックの馬鹿野郎」などと考えると、コードネームが世襲制であるとか別にして、自分を自分で怒っているような気がしてしまう。
 さて、苛々するのは勝手だが、流石に呼び出しておいて反故にするのは勝手が過ぎるというものだ、肩口に垂れかかっていた長い後ろ髪を整えてから、姿勢を正す。
 すると、こちらが怒っているのを見越して躊躇していただろう相手が返答した。
「…メレム・ソロモン様、サンヴァルツォ様、シエル様がご到着になりました。お通ししてよろしいでしょうか」
秘書のマルグリッドのか細い声が予想通りの来客を伝える。以前の秘書はふとしたはずみに殺ってしまった。あの衝動を途中で止められるのはある人物以外にいない。
「…通して、あと、人数分の紅茶をお願い」
「かしこまりました、それでは失礼します」
…結局、一度もドアを開けなかったか……それも仕方無いか、以前まで秘書代理だったあの娘は私がそのときの秘書を片手で首から脊髄を引きずり出すのを目の当たりにしているのだから。
 自分でもどうにかしていると思うのだが…この食欲にも似た抑えようの無い衝動をどうにもできない。若い頃は自殺まで考えたが、それすらも赦されない。神は人を殺すに値する購(あがな)いを私に求めているのだろうか。
 
 入り口のドアが開く。ソロモンが相変わらずの生意気な面を見せる。
「やぁ、ナルバレック。相変わらず不機嫌じゃないか」
その後ろにはシエル…もう私にとってこの女は特別な魅力はない。殺せば死ぬ。
「失礼します」
そして最後にサンヴァルツォ…よくもまぁぬけぬけと…。
「入りますよ」
この男は私の感情を知っているはずだ。なのに平気で他の場所へ行き、平気で拠り所を見つける。
 ソロモンが私のサンへの視線に気づいているのを、私は知っている。そして今もそ知らぬ顔をして本題に入る。
「で、こんな時間に呼び出して何だい?まさかこんな夜中に死徒を殺ってこい、なんて言うんじゃないだろうね」
一々わかっていることを口にする…。
「ああ、そんなことは誰も頼まないさ。苦労したいというののなら行ってきてもらっても構わないが…」
悪態は尽きないほどにある、この際、言うだけ言ってしまいたい気分だ…と、入り口のドアがノックされた。
「紅茶をお持ちしました」
マルグリッドだ…本題に入る前で何より。
「入れ」
ドアが開く。南部の生まれらしいが、セミロングの黒髪がドアの向こう側とこちら側の気圧差で軽くなびく。彼女は私の秘書という立場上、情報閲覧や機密に対する許容度は高い。面倒だ、紅茶を淹れさせながら話をするとしよう。
「さて、本題だが、明日の教皇庁の機密会議に私と共に出てもらう。私からはそれだけだ。あとは、前回から今回までの各自任務の報告をしてくれればいい」
私が言い終わると同時にソロモンが質問をする。
「私達がその会議に出席する必要性は?」
「直死の魔眼の少年…遠野志貴といったか…彼に接触したのは君達三人だけだ。彼の能力の詳細な報告を質問を交えて答えてもらいたいらしい。使い方次第では死徒に対する抑止力にもなり得るからな」
そのときシエルが口を出してきた。
「であるならば、彼も出席する必要性があるのではないでしょうか?」
「この会議はあくまで前置きだ。彼の所属がはっきりするまでは正式な会議に出席させるというのも大仰すぎる。尤も、先の『試験』の結果を見れば誰もが埋葬機関への所属を納得するだろうがな。それまで待てない理由は、教皇が東アジアの某国へ訪問する日にちが近いためだ。とりあえずの報告ぐらいは終えておきたい、というわけだ」
サンがそこで怪訝な顔をしながら言った。
「それは初耳だな。本来ならば以前から私達に訪問国への潜入なりなんなりの命令が出るはずだろう?」
「その点は考慮済みだ。某国は我々に対するテロ行為の可能性がすこぶる低い。教皇庁にしてみれば、極力我々が動くのは避けたいらしい」
それ以降質問は無かった。我ながら嘘が上手になったものだ…いや、元々だろうかな、これは…自分で苦笑してしまいたい。
 
 紅茶を飲み終え、報告も終わり、彼らを帰すことにした。
「ああ、サンヴァルツォは残ってくれ」
「…わかりました」
「では私達は帰ろうか、さ、シエル君、王子様がお待ちだよ」
「……」
私とサンヴァルツォを残して、秘書をはじめとした三人が退室した。
 
「さて、サン、近くへ…」
彼が私の目の前に来る。衝動はすぐに来た。口は既に彼のそれに触れていた。彼も手を私の腰に回す。数秒そのまま抱き合ったあと、拳一つほどの間を開ける。
「…以前話した例の計画を実行してくれ……今夜がチャンスだ」
彼は何も答えない…ただ、私の眼を見ている。
「頼む…教皇庁が直死の魔眼の少年を手に入れれば、死徒殲滅作戦を実行できなくなる…それではダメだ…」
サンは自分から私に口付けをすると、黙って部屋を出て行った。執務用の机に突っ伏した私は、眠れない夜を過ごした。
 
 
 
 埋葬機関のから約一〇メートル上にある地上。そこでは過去類に見ない大殺戮が繰り広げられていた。
「おいっ、誰か警備員を……!」
警備員が来るはずはない。私は既にこの建物のほとんどの人間を殺した。ナルバレックの命令によって埋葬機関から出向している者もいな。私が彼女の代わりに購おう。神のため、祭壇を牛達の血で塗り尽くそう。
 スマチェットと呼ばれるドイツ製のナイフ…ナイフの上下両方にエッジがあり、ポイントから刃の付け根までに左右対称に湾曲している鉈といったほうが正確かもしれない特殊ナイフ…がその形状を生かして、あらゆる死に方を相手に強要する。
 頚動脈を切り払う、喉への突き、重みをを利用して首を切り落とす…。
 血が廊下の絨毯に染み込み、歩くたびにジュシュジュシュと水音を立てていた。
 
 
 
 翌日、この惨劇が報道される。
 
「本日未明、イタリアのヴァチカン市国教皇庁にて、本日行なわれる会議に出席する予定だった教会の首脳陣他二二名が惨殺されました。当国担当局によりますと、大規模なテロ行為であると……ん?……失礼しました、ただいま入った情報によりますと……遺体の状況から鋭利な、重みのある刃物によっての犯行と思われます。え〜、その鑑定結果によりますと…同一犯!?おい、何かの間違いじゃないのか?!………」
 
 そのようなオペラをたった一人で演じれる役者などいない…キャスターであるピネッロはADの報告を疑わずにはいられなかったと同時に、奇妙な好奇心が自分の中にあることを自覚していた……。
 
 
「ふう〜ん、これはきな臭いことになってるねぇ…どう思う、シエル君?」
朝から教皇庁の建物に続く大通りは大騒ぎで、ソロモンは買ってきた号外新聞を読み終えたあと、それを机の上に放り投げなげている。
「…埋葬機関のメンバーで私達以外が本国に帰ってきていないのを狙ってだとしたら、やっぱりあのナルバレックしか首謀者は考えられないですが…」
そこでソロモンが大きく頷く。
「ここで注意しなくてはならないのは、これが死徒に関わってくる問題なのか、ということだ。それならば『教皇庁の中の死徒と関わりありと思われるものを殲滅した』という辻褄が合う。だが、殺された教皇庁の人間の内全員がそれに該当する確率は極めて低い。それに、テロであるならば教皇を直接殺害した方が効果があるだろうし、なにより今回のような『たった一人で』あれをできる人間なんていない」
シエルが俯きながら溜息を吐く。予想通りの結論が出そうだ…。
「やはり…ナルバレックの独断ですか」
「ああ、間違いない。この際、実行犯については…まぁ彼で確定なんだが…咎める気はないね。埋葬機関は事実上ナルバレックの意向次第でどんな命令も出せるし、それを拒否する権利は我々メンバーには無い。酷くて国外追放、良くて教会追放程度だろうね。今時、教会に所属してなくては信仰してはいけないという時代でもない」
テーブルの上のコーヒーが多分な苦味を湯気と共に周囲に撒いている。シエルはそれに口をつけてから、湯気で曇った眼鏡を拭きながら口を開く。
「これから、どうしますか?」
ソロモンが首を振る。正直彼も困っているようだ。
「ナルバレックを解任させるしか方法はないだろうね。彼女の目的が何かは知らないが、教皇が今回のようなことを望むとはとても私には思えない。ただ、しばらくは道化を演じた方が得策だろうね…死徒どもが今回のようなゴタゴタを見逃すはずがない…ナルバレックもそれくらいわかって事を起こしただろうし、何より我々だけでは彼女を抑えきれない」
抑える、というのは簡単なことではない。殺すだけならばまだしも、相手を屈服させるだけの力が必要だからだ。
「今は状況に流されろ、ということですね」
「聞こえが悪いな、様子見、と言ってもらいたいね」
低い笑いを喉から出しているソロモンを見やりながら、シエルは残りのコーヒーに手をつけた。
 
 
 埋葬機関執務室…ナルバレックは時間との戦いを楽しんでいた。これだけの騒ぎが起こればメンバーは自然とここに戻ってくるだろうが、時間がかかる。教皇が事体の把握をし、それを解決する人間を集めるのに最低でも一週間はかかる。特別に集めておいたメンバーのみで死徒共を抑えさせればいいが、彼らを表の社会に関わらせるのはまずい。それまでに自分の行いが埋葬機関の目的に適応していることを教皇に対して証明する必要がある。
 そのために必要な人間は遠野志貴、そしてもう一人。その「もう一人」は必要不可欠であると同時に不確定要素でもある。「裏の世界」についてはメンバーに任せる。「表の世界」は『彼』に任せる。その表と裏を繋ぐことができるただ一人の人物…早く姿を見せろ。
「ふふふ…就任以来だな、これほどのスリルは…ふふふふふ…ははははは…」
その笑い声は、ドアの外で気配を消していたサンヴァルツォにだけ聞こえていた。彼の目は彼女のような遠くを見ることはできない。ただ、目の前の守るべきもののためだけに向けられていた。
「ビエラ…昨日は帰れなかったね、ごめんよ。ナルバレック…君の購いは私がしよう。その購いは君一人だけで購い切れる質と量ではない」
彼には彼自身が気づいている欺瞞がある。ビエラとナルバレック、この両名を自分だけで救え切れると思っているのか、という…。
 それでも彼はやるだろう。
 
 やれる、やれないではない…やるしかないのだ…
 
 
初稿2002/7/12 改討2002/8/7

次回の幕を開ける

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 あとがき
 
「ふぅ〜…疲れました。伏線から伏線でようやく事が動き出しました。ちなみにキャスターのピネッロさんは結構重要です。いやぁ、マスメディアの人間って結構好きなんですよねぇ。裏の世界と表の世界。こういう構図が実際あったら、正直腹も立ちます。さてさて、彼は大丈夫ですかねぇ…。さて、一週間に二本UPしたのには理由がありまして、本業の方にそろそろ本腰入れて取り掛からないといけません。雇用保険を無駄に浪費する社会問題野郎になるのは不本意ですので。それでも、次回は次回で一ヶ月以内には必ずUPします。プロットはできてるんですが、実際書くとなると感情描写とかそういったものが必要になりまして、いやはや…。改討についてですが、思ったより時間はかかりませんでした。本職が忙しく、サイト整備を急いでいたため、そちらを優先させました」