夏の夜に恋をして
 
 
「ティシャツでも着てくれば良かったな」
月姫蒼香はそうぼやきながら、背中にへばり付いた黒のカットソーの襟を掴んで、服の中に溜まった熱気を追い出した。下手をすると、胸元がはだけて自分では貧相だと感じている胸元を人目に晒す事になりそうだ。
 夏に合わせ髪の留め具を外し顎の辺りまで横側をカットしてみたが、どうにも上手くない。近頃、外出するといえば、夜中に学園の寮を抜け出すくらいで、今年の夏にまともに太陽を浴びたのは、盆を間近に控えた、今日が初めてだった。
 勾配が緩いとはいえ、流石に三キロ近くもある坂道を登りつづけるのは、体に応える。踵の低いサンダルの革は呻き声を上げているし、体自体も軋んでいるように思える。
 そういったことを意識しないようにして歩いていると、ようやく寺の山門が見えてきた。実家であるここに戻るのは、春休み以来初めてで、ゴールデンウィークの際はイベントにかこつけて連絡すら入れていない。
 山門をくぐると、柱の影がある場所に見知った顔があった。蒼香の目線より大分下に。
「やぁ、芽酌さん、お久しぶり」
「え、どなたですか―――って、ああ、蒼香ちゃん!?」
傍らに立てかけてあった箒に肘をあてながら、慌てて立ちあがる。
「まぁまぁ、すっかり女の子らしくなっちゃって」四十過ぎの年齢の女性とは思えないほどしっかりとした腕で抱き着いてくる。蒼香は暑苦しいなと思ったが、不快というわけでもなかった。「良い男の子でも見つけたのかな」
「……親父は?」
敢えて芽酌の問いには答えずに、聞きたいことを言う。
「奥で帳面の整理してるわ」
「そう。芽酌さん、お掃除、私も後で手伝いますから」
「いいわよ、疲れてるんでしょ?それに、私もちょうど休もうと思ってたところだし」
「あれ、もう休んでませんでした?」
蒼香はそう言って笑いながら、本堂の横に建っている平屋建ての実家に向かった。
 
 蒼香が玄関から左手にある縁側の廊下を伝っていくと、床の鳴る音で人が来たことに気づいたらしい彼女の父親が浅緑色の作業着姿で襖を開けた。
「おかえり」
「ただいま」
右手の持った扇子で喉元を扇ぐ。丸めた頭に添えられた老眼鏡越しに、父親というより教師のような視線を向ける。
「茶」
出し抜けに一声出し、そのまま蒼香の脇を取って居間の方へと歩いていく。
「はぁ?」
「冷茶だ、冷蔵庫にある。それにしても―――」立ち止まって振り向くと、昔と変わらない米粒を横に倒したような眼を向ける。「娘とは思えん」
 自分の格好のことに対しての言葉だと気づいて憤慨したときには、父親は既に廊下から姿を消していた。
 
「それで、今回の日程は?」
「葬式が一件。これは深山の婆さんだ。先日爺さんが亡くなったばかりだってのに、大変だな、深山も。盆に合わせたものは今回ほとんど無い。精々、出張って遺牌に経を読むぐらいだな。手伝いがいるような状況じゃない」
父親が盆の行事予定をつらつらと帳面から読み上げていく。蒼香は、冷えた茶を一口でコップ半分ほど呷ると、トンと調子をつけて切り出す。
「……それで、私がここに帰ってくる意味は?」
「まぁ、ゆっくりしていけ」
馬鹿だった。電話してもどうせ「ぐだぐだ言わずに帰って来い」と言われると思ったのがケチの付き所だった。蒼香は仰向けに後ろへ倒れこむ。染み一つ無い天井張りすら嫌味に思える。
「蒼香、はしたないぞ」
「私の夏を返してくれ」
「一方的に渡されたものを返せと言われても困る」
父親とは似たような性格だが、歳の分だけ口では不利だった。
「坂上さんから頂いた西瓜が切れましたよ」
芽酌のハスキーな声が響く。若い頃、民謡歌手になるために上京していたとかで、経歴については蒼香の父親以外あまり知られていなかった。そこまで考えたところであることを思い立ち、蒼香は体を上げた。
「なぁ、親父と芽酌さん、入籍ってしたのか?」
シャギシャギと西瓜に歯を立てて頬張っていた父親が、咳き込んで皿に種を撒き散らした。
「やだわぁ、蒼香ちゃん。あたしとこの人はお友達なんだから、入籍なんてしないわよ」
「ふぅん」
果たして、かれこれ二年以上も前に寺に転がり込んでから家主とつかず離れずの生活をしているのもお友達というのだろうか。蒼香は、未だ喉に詰まった種に苦心している父親を尻目に西瓜を食べ終えると、ご馳走様と言い残して自分の部屋に向かった。
 
 部屋は整然としていた。春休み以来の割に埃が積もっていないところから察するに、芽酌が掃除をしてくれているらしい。別段、それについては気にならなかった。大事なものは寮の方に持っていってあるし、第一、元から見られて困るようなものも無い。
 ここにあるものといえば、適当な着替えを突っ込んである、母親がまだ生きていた頃に譲ってくれた、クローゼット、ベッド、事務机、それとCDからMDに録音するためのデッキぐらい。寮の方には、MDプレイヤーだけを持っていってある。向こうで録音に困ったときは、デッキを持ちこんでいるルームメイトなり友人なりに頼めば済む。
 差しこみ式の縦置きになっているCDラックに、先日買って持ってきたものを何枚か突っ込むと、もうすることが無くなってしまった。
 何もしないのは気が滅入るので、スラッシュメタルのバンドのCDをデッキから流した。父親が怒鳴り込んでくるので、ヘッドフォンをしてそのまま横になる。ペーストの効いたヴォーカルの声を聞いていると、眠たくなってくる。服に皺が寄るかもと思ったが、さして気に留めずに眠気に身を委ねた。
 
 携帯電話の鳴る音で眼が覚めた。デッキで一巡したディスクは止まり、音楽は無い。開いたカーテンの外はもう暗くなっていて、足元に転がした携帯電話のディスプレイが音に合わせて明滅している。条件反射的にヘッドフォンを外しながら飛びつくと、誰からかも確認せずに受話ボタンを押す。
「もしもし」
『ああ、もしもし、志貴だけど』
いつも通りの呑気な声が聞こえてくる。乱れた髪を手で躾(しつけ)ると、寝ぼけ眼を瞬かせた。
「どうした」
『今、実家だってね』
「誰から聞いた?」
『秋葉にそれとなく』彼が実際どのように―――実(げ)に恐ろしき妹君から聞いたかといえば、殊に自分のこととなると顎の枷が外れやすいだけに、ご友人方の盆の過ごし方を聞き出した次第。傍らでは兄君の戯言に気づいた使用人姉妹にて笑いが密やかに交わされたは、察して余りあることこの上無し、と。―――『それでさ、今、寺の前まで来てるんだけど』
「うそっ!?」
大きな声を出してから、はたと口を塞ぐと、デッキに表示されている電光時計を見る。八時五十三分。決して遅いと言えるような時間ではなかったが、ハメを外した時間ではあった。大慌てで部屋の電気を点け、山門側の窓に駆け寄ると、新月の夜のように暗い闇を、影の濃淡を頼りに眼をこらした。しかし、眼に入ってくるのは、背筋をざわつかせる木の葉の身震いであったり、群れから離れた鴉の羽ばたきであったりで、当の志貴はといえば、正に影も形も無かった。
「ごめん、見えない。本当にいる?」
『本当だって。ほら』
山門の辺りで、光がちらりと尻尾を見せた。それは携帯のディスプレイの光が見せる軌跡で、蒼香は志貴に応える間も惜しみ、縁側に置いたままにされている雑用のつっかけを履くと、敷き詰められた砂利につま先を取られそうになりながら、そして波音が立たぬよう、体中の神経がそこに集まってしまったのではないかと思えるほどに、砂利の海を滑るように進んだ。
「うーん、見えなかったのかな?」
突然応答が無くなってしまった携帯を、もう一度耳に当てる。
「見えたよ」
見当違いの方向から声をかけられて、志貴が思わず「わ」と悲鳴を上げた。
「静かにしなよ、親父に見つかると面倒なんだから」
「面倒?」
「人の恋路を邪魔したあげく、馬に蹴りを食らわすに違いないのさ」
「誰が馬に蹴りを食らわすんだ?」
「だから、親父が―――」
声の聞こえた山門の外側を覗くと、パチパチという音と共に光が弾けていた。仲良さそうに蒼香の父親と芽酌が腰を落として縁を囲んでいる。
「綺麗なもんだなぁ、線香花火ってのは」
「そうですねぇ」
面を食らったのは蒼香だけで、志貴はさも当然というように下がった眼鏡を指で押し上げる。
「遅いぞ、三年寝太郎。私は腹が減って死にそうだ」
「いくら起こしても起きないんですものねぇ。それが、この方が電話した途端起きるんですもの、妬けちゃいますねぇ」
「この歳で父親の儚さを思い知ってしまったよ、芽酌さん」
「春雄さんは遅い方じゃ―――」
「勝手に話を盛り上げるな」折れそうにない話の腰を強引に蹴っ飛ばす。実際に父親のケツを蹴り飛ばしたのはご愛嬌。「この色情坊主が」
「そ、蒼香、お父さんを蹴るのはどうかと」
志貴は、おもむろに蒼香を羽交い締めにしたは良いが、適度にはだけた胸元を上から覗きこむ格好になってしまって、力が入らない。
「おお、良いことを言うな、青年。仏教精神溢れるその心、私は感動した」
「それを言うなら儒教だろ、破戒僧」
声音には怒っている様子は伺えないが、それが却って、これでもかと実の父親につっかけの踵を浴びせるサマに箔を付けていた。芽酌が持つ線香花火に映し出されたその幻燈は、とても滑稽だったと志貴は後に回想している。
 
「ケツが痛くて、これじゃ経もおちおち唄えられんぞ」
「良い気味だな」
遅い夕食である素麺の卓を四人で囲んでいる中、蒼香の父親は痛そうに座布団に乗せられた尻をモゾモゾと動かしていた。どうやら、痛くない個所を探っているらしい。冗談が過ぎた故の自業自得とはいえ、志貴にはその有様が他人事のように思えず、眼を細くして、お互いに堅い握手を上座と下座の狭間で交わしていた。
「ところで、お父さんは何で作業服なんですか」
「それはだね」一般的に考えると、初対面の優男にお父さん呼ばわりされれば怒りそうなものだが、娘の躾以外にはこれといって琴線とでも逆鱗とでも例えられるソレは無いようで、さして気にもせずに話す。「副業が工業関係の講師だからだよ。最近では殆ど本業だがね」
「はぁ、そうなんですか」
さして興味も知識も無いので、生返事になる。
「親父、たまに経を間違えるんだ。いい加減引退したらどうだよ」
「お前が良い跡取を拾ってくればすぐにでも隠居してやるがね」
「私は婿取りのために学校に行ってるわけじゃない」
なまじ性格が似ていると喧嘩になりやすいもので、この親子もその例外ではなく、蒼香が実家に来ていると、顔を合わせる度に喧嘩になる始末で、それとしても傍で見ている芽酌のなんと楽しそうな表情か。志貴は彼女の表情に、屋敷の使用人姉妹の姉を思い出したが、また彼女とは違った面持ちのようで、きょろきょろと目線を、渡し舟よろしく、流している。
「どうかしました?」化粧っ気の無い顔の表情をころころと変える。「素麺のおツユ、足してきましょうか」
「いや、いいですよ」志貴は取って付けたような笑顔でぎこちなく取り繕う。「本当にお構いなく」
そういったやり取りの合間にも月姫親子の口喧嘩は続いていて、先に手を出すとしたら蒼香だな、と志貴は呑気に空想していた。尤も、志貴にしてみれば自分と蒼香の仲についてどうこう言われたり聞かれたりするよりも、この方が気楽なのは当然なのかもしれない。
 ふと、志貴は自分の名前が呼ばれたような気がした。
「呼びましたか?」
出鱈目な方向から投げかけられた問いに、蒼香の父親が一瞬ではあるが呆然となる。
「いや、呼んだ覚えはないぞ―――青年。ただ、ウチが潰れたら遠野の家に面目が立たんということを蒼香に言っていただけだ」
歯切れが悪そうに代名詞を呼ぶ。それについてあることに気づいた蒼香が乗り出した腰を取りあえず落ち付ける。
「親父、志貴の名字って教えたっけ?」
彼女の父親が酔っ払ったみたいにゆっくりと首を振る。アルコールの類は出ていないので、ただ単に癖のようだ。
「件の遠野だよ、遠野。ほら、よく遠野の娘と友達だって話してるだろ。あれの兄貴が志貴」
「秋葉はあれ扱いか」
「ありゃ、まずかったかな」
「まぁ、構わないんじゃないかな。流石に壁に耳ありなんてことは無いだろうし」
わかってはいても、ついつい壁面に視線を走らせてしまうのだから、彼の妹恐怖症は、重症の度合いを極めている。
「そうだな。もしそうでなかったら、私はともかくとして、志貴は両足どころか両手までもぎ取られて、達磨になっちまってる」
蒼香は腕を交差させて自分の両肩を掴んだと思うと、次の瞬間には二葉の草を思わせる形で両腕を開け広げた。志貴は洒落にならないと云うように顔色を変えて、聞かなかったことにしようと素麺を口に運び、蒼香もそれに倣う。
「蒼香」
「うん?」
妙に深刻な父親の声音に素麺を啜る口を止めて首を彼の方に向ける。
「食事が終わったら私の部屋に来い。志貴君はここで待っていてくれれば良い」
そう言って立ち上がると、丸めた頭を畳まれた扇子の先で漫才師よろしく叩きながら食卓を去っていった。
「達磨ってのがまずかったのかな」
「―――かもね」
志貴の場の取り繕いに、蒼香は否定の代わりを茶を濁して済ませると、素麺の残りに手をつけた。
 
「茶」
「はぁ?」
先刻の書斎で、先刻と同じやりとりを交わす。違う点といえば父親自身が、足が短いテーブルの角の下に置いてあったポットで急須にお湯を入れたことだった。その傍を見ると、しっかりと封がされたビニール袋があり、その中に茶葉の出涸らしが入っているようだった。
「茶は良い。煙草とは違って副作用が無い」
「親父、煙草なんて吸ってたことあるのかよ」
蒼香の記憶にはそういった父親の記憶は無い。出された茶を啜りながら、父親が何を言わんとしているのか見測っていた。
「ある。若い頃にな。母さんに何度止めろと言われたか知れない」
「それでも止めなかったんだろ」
「ああ。だが、三十のときに甲状腺をやっちまって入院していたときに、母さんには随分と心配をかけてな。それ以来、一ミリのニコチンも喉には通してないさ」
扇子を扇ぎながら、面影が似ているのであろう蒼香の、その身体を射抜いた先にあるらしい妻の残滓を観抜く。蒼香はそれに耐えられなくて、顔を背けることでそれをいなした。
「母さんは」父親の声に蒼香が顔を上げると、彼は机の上にあったペンを指先で回して、頭に転がり出てくる単語を一つ一つ言葉にしていった。「良家の一人娘で―――ウチとは比べ物にならないほどの―――当然、相手方は一族全員で大反対。困った私は親友に相談したのさ。ほら、深山だよ。そうしたら、あいつ、父親の知り合いに相談したとかで、きっと悪い結果にはならないって言ってきたのさ。その相談した相手というのが、遠野の係累の一人だった。晴れて私と母さんは結婚。短い間だったが、とても―――そうだな、幸せだった、なんて言葉しか見つからないな―――幸せだった」
「なんでまたそんな話を?志貴がウチに来たからかよ?」
少々、苛立ちが出ていた。何か思惑がこの会話に隠されているのだとしたら、そんなことに志貴を、ましてや母親をダシに使うような真似は許せなかった。
「まぁ、聞け」
「うん……」
娘が腰を再び下ろしたのを確認すると、一呼吸おいた。
「遠野の当主はお前のお友達に決定している。嫡男以外が頭首になるのは異例ではあるが、前例が無いわけでもない」それに、という言葉を間に挟む。如何に誤解がないよう要点をまとめて伝えるか、父親なりに苦労があるのだろう。「今日、志貴君と会ってわかったことがある。ありゃあ、遠野というより、もっと別の……」
「なに?」
「私も遠野の忌事を何度か受け持っているが、ああいう人間はいなかった。遠野的ではあるんだが、遠野の連中独特の匂いが無い。群れた狼の身体が擦れ合ったような、むわりとする匂いだ。あれが私はどうにも気に食わなくてな」
その匂いとやらはここには無いはずなのだが、しきりに鼻の前を扇子で扇ぐ。感覚的に、というより、精神的に応える匂いらしい。
「そういえば、以前、秋葉を呼んだとき、素っ気無かったものな」
流し目を笑わせる。父への敵対心というものはもう無かった。
「すまん、どうにも、性に合わないんだ」
「ううん、友達をやめろなんて言い出さないだけ、そこらの親よりマシ」
それについて父親は何も応えなかった。思い当たる人間を知っているのだろう。
「結局、何が言いたいんだ、親父」
かれこれ二十分近く話している。そろそろ切り上げる頃合だ。
「私は、お前が変な音楽に凝っているのは反対したな」
「不良の原因だってね」
「音楽自体が悪いとは言わない。ただ、変な奴らと関わり合いになり易いのはいただけない」
「心得てるよ」
「それでいい。そういうことだ」
そうしてから、父親は口を噤んだ。
 
「親父さんも、蒼香と同じだな」山門の表側で、置いたままだった消火用のバケツを横に線香花火を焚いていると、志貴がぽつりと呟き始めた。どういう表情をしているのか。彼の眼鏡に灯りが反射していて、蒼香にはわからなかった。「直接答えを言わないで、ヒントだけ言う。冷たいように思えて、そうじゃない。多分、秋葉も蒼香のそういうところが好きなんだと思う」
線香花火が会話の間を測ったように燃え尽きる。志貴がそれをバケツに投げ捨てると、熱が溶ける音が鳴る。
「親父はどうだか知らないけど、私は単に、相手がどういう奴なのか、試してるだけなんだ」
「そういうのは嫌なのか?」
「私は、自分の友人をタダでは信じられない。自分の彼でも」乾いた唇を舐める。そういた仕草が、髪のヘリにかかって志貴の視界となっている。「といっても、彼なんて志貴が初めてで、本当のところ、よくわからない。私は、相手に合わせて自分を変えるなんて器用なことはできない―――格好はともかくね」
片方の手を膝から放して、耳の横の髪をかいて、笑いかける。志貴もそれに応えて、笑い声を漏らした。
「俺も不器用だし、ちょうど良いんじゃないかな」
「かもね」
「また、かもね、だな」
「志貴。良いことを教えてやるよ。かもねって言う奴は、大概、自分でもそれがどうなのか、わかってないのさ」
「それじゃ、俺が言うことが答えになるわけだ」
「かもね」
「決まりだ」
志貴がそう言って蒼香に抱きつく。膝立ちだったので、そのまま後ろに倒れこんでしまう。
「痛いじゃないか。それに、道沿いだぞ?」
「どうせ誰も来ないよ」まぁいいか。そう思って志貴の差し出された唇に応えようとしたところで、ボン!という音が耳の筒一杯に入り込んだ。反射的に志貴が起き上がると、呆然としている蒼香の手を引いて立たせた。「花火……?」
「おー、やっぱり特注だと違うなぁ」
「春雄さん、もう一回やりましょうよ」
「おうおう、やろうやろう」
蒼香の父親が、翌日の葬儀でしきりに尻をモゾモゾとしていたのは、想像するに容易い。
 
 
「ったく、あのくそ親父ぃ!」
「蒼香、人が聞いてるよ」
「構うもんか」
程近い繁華街にある二十四時間営業のレストランに駆け込んだ二人は、窓際の席で時間を潰していた。ここらへんは、再開発とそれに外れた地域とが混在していて、住宅街の路地を抜けると何時の間にかこうした繁華街に抜けるということが多い。遠野家がある街とは対照的で、要害とでも言える建物が四方八方に分散しているのが、その原因でもある。
「よし、カラオケ行くぞ、カラオケ!」
「今から?」
時計を見ると、もう日付が変わろうという頃だ。
「今からだから良いんじゃないか。深夜料金で安いし、かき集めればメンバー集まるだろ」
志貴はしばらく躊躇していたが、結局、じきに折れた。
「わかった。地元の友人が車を持っているから、そいつに仲間集めさせる」
「よし、決まり。こっちはスタジオの知り合いに連絡するよ。イベントの無い週末だから、奴(やっこ)さんたち、暇を持て余してるだろうしね」
「なんだかんだでこうなっちまうんだなぁ」
「嫌かな?」
蒼香の光さえも飲み込むような濃い色の瞳が志貴を仰ぐ。志貴はその構図をしばらく愉しんで満足すると、思い当たったなかで『適切』な言葉で蒼香に答えた。
「かもね」
 
「なぁ、蒼香」志貴の声は鼓膜どころか室内中を叩き回る爆音にかき消されて、すぐ隣の蒼香にも聞こえない。腹に力を入れて声を絞る。「蒼香!」
「なに?」
「これのどこがカラオケなんだ!?」
志貴の言い分は『適切』で、見渡す限りに人が肩を擦り合わせ、ブラックライト加工のスポットライトが部屋中を飛び交っている。アンプから出る振動は一週間放っておかれたスタジオの咆哮のごとき。ドラマーは連打の反動に足を浮かせ、ギターはミスった調律でひび割れたピックを観衆に投げ付け、ベースは―――「テメぇは何してんだ」という罵声も気にせず―――ハイネケンを呷る。シンセサイザーは意味も無く両手をクロスさせてはボーカルに合わせてパーカッションをキメている。
「あいつら、いつもああなんだ」
「そういうことじゃないだろ!」志貴は憤慨していたため、つい合いの手のように差し出されたボトルを掴むと、ラベルも確認せずにそれを口に突き立てた。ちなみにラベルはこうである。シミノフ。アルコール度数九十強を記録する世界有数のウォッカをストレートで飲んだことになる。次の瞬間に吐き出したは良いものの、口の中が焼け爛れたように熱い。「誰だ、こんなもん渡したの!」
「おう、遠野。見ない間に軟弱になったな」
犯人は乾有彦その人だった。カッターシャツの襟を正しながら、久々の旧友との再会を喜ぶ、というより、笑うしかない。
「有彦、なんでここに」
「まぁ、ここじゃおちおち話もできねぇ、あっちのバーに行こうぜ」
志貴がそれに賛同したのを見ると、有彦はスタスタと入り口横の壁沿いに反対側まで続くバーカウンターに向かった。志貴は、盛り上がっている蒼香の手を半ば強引に引き、有彦の後を追った。
「お前は大学行っちまってから顔も見せないんだからよ、シエル先輩も心配してたぜ」
「屋敷にはたまに帰ってるんだけどな」
志貴は有彦に申し訳の代わりに差し出されたチェイサーを飲む。彼を挟んで有彦とは反対側にいる蒼香はというと、持ち歩いていたゴムのヘアバンドで髪をまとめていた。肝腎の有彦はというと、勝手に持ち出したシミノフのボトルを店主に謝りながら返している。
「尤も、そんな可愛い子がいたら俺なんか構ってられないか」
「ん、私のことか?」
蒼香は髪をまとめる終えると、志貴に注文を変えられた結果のコークに口をつける。
「うげ」
炭酸は久々だったので、思わず舌が出た。
「酒を飲もうとした罰」
「そうそう。秋葉ちゃんと同じってことは、まだ二十の手前なんだろ?」
志貴の台詞に、有彦が今度こそまともな合いの手を入れる。
「普段なら酒ぐらい―――」
「駄目」
「でも―――」
「駄目」
志貴の頑固さに、ついぞ蒼香も折れた。しぶしぶ、コークの代わりのオレンジジュースを注文する。
「あと一年の辛抱だよ」
「ははっ、遠野もすっかり年上の彼氏って感じだな」
「うるせぇ、このカラス頭」
志貴が有彦の首の後ろから手を回して顎を固める。
「うわ、止めろよ。折角、黒い頭に似合う髪形にしたんだからよ」
その様子は蒼香から見ると、本当に楽しそうだったのだが、有彦にしてみると切実だった。
「それにしても、こんな大騒ぎになるとは思わなかった」
志貴が蒼香の残したコークを喉に入れる。酔い覚ましには炭酸が心地よかった。
「仕方ないだろ?私が誘った知り合いが電話した先の店主が盆で客が流れちまって、渡りに船とばかりに即興のイベントにしちゃったんだから。私も言い出した手前で、普段世話にもなってるから、断れなくてさ」
蒼香が出されたオレンジジュースに入っている氷をストローで突つきまわす。暖色のある音が後ろから聞こえてくる音楽に飲み込まれた。最後の山が終わり、次のバンドに移るというときで、十分ほどは静かになる。
「遠野はこういう馬鹿騒ぎは苦手だもんな」
「え、そうだった?」蒼香が珍しく眠たそうな眼を見開く。「だとしたら、悪かったな」
志貴が沸いて出た話題に慌てて修正を入れようとする。どうにも、有彦は勝手に人を話の種にするところがあるようで、志貴も久々にそれを実感していた。
「いや、苦手だけど、嫌いってわけじゃないんだ。ほら、体育の授業で見学してるからといって、運動が嫌いとは言えないだろ」
「そうだよ、こいつ、昔っから貧血とか理由に体育見学してたくせに、恐ろしいぐらい運動神経良いんだぜ?詐欺だよ、詐欺。以前あった吸血鬼騒動もこいつが原因じゃないかと俺は思ってるんだ」有彦は志貴の例えに冗談を加えたつもりだったのだが、それを聞いた志貴が表情を変えた。蒼香からはよく見えなかったが、志貴の眼は彼が無意識の内に青味を増していた。「どうかしたか?」
「いや、気分が悪くなっただけだよ。ちょっと外に行ってくる」
志貴は勘定をポケットから出してテーブルに置くと、混み合う人を掻き分けて外に出ていった。
「流石に犯人呼ばわりはまずかったかな?」
「いや―――ごめん、私は志貴が気になるから」
「ああ、行ってやんな」
志貴と同じように勘定を払うと、蒼香も外に出ていった。
「女房役を取られちまったな」
 
 志貴はスタジオがあるビルの前を走る街路にある、街灯が申し訳程度に灯りを照らしているベンチで蒼香の前では吸わないようにしている煙草をふかしていた。夏の夜は気味が悪いくらいに真っ暗ではあったが、その先に何があるのかと観ていると、自然と心が安らいでいった。先ほどまでいた場所はビルの地下なので、流石にここまではあの爆音も聞こえてはこない。人通りも無く、幽霊が行列をなしていてもおかしくないほどだ。だが、行列の代わりに道に見えたのは、世界のヒビだった。心がざわつくと、眼鏡越しにでもこうして線が見えるようになってきていた。眼を閉じて大きく煙草の煙を吸いこむ。再び眼を開けると、線は消えて無くなっていた。まるで古い八ミリフィルムの映像に走るノイズのようなそれは、油断すると、こちらの都合はお構いなしに走り回るのだった。
「志貴」
「ああ、蒼香か」
志貴は煙草を足元に放り投げると、スニーカーの底で火をねじ消した。ゴムの心地よい感触が足の裏を摘む。
「気分は?」
「ああ、もう良くなったよ」
「ならいいけど」
蒼香には背もたれが固く感じられた。意識はしていなかったが、何故か緊張しているのか。
「たまに、俺が怖いと思うこと、あるだろう?」
躊躇はしたが、言ってしまうことにした。
「ああ、ある。志貴は隠し事が多すぎるんだ」
「時期が来たら、全部、話せると思う」
「その時期って、いつになるんだ」
志貴はしばらく口を休めた。どう言っていいものか、本人にも理解しきれていない。
「俺が死ぬ前」
「そんな安っぽい冗談を聞くためにお前さんと付き合ってるわけじゃないんだ」
「ごめん。でも、必ず話すから」
「うん……」
蒼香の視界が揺らぐ。抱き寄せられたのだと彼女が気づいたときには、既に唇が合わさっていた。志貴の首筋に手をやると、嘘のように熱かった。この熱が、自分を彼に引き寄せたのかもしれない。そんな取り留めの無いことを思っていると、何もかも信じられるような気さえするのだった。
 
 
「兄さんはまだ帰ってこないの!?」
「秋葉様、もう陽が昇ります」
「志貴さんは今日はお帰りになられないと思いますけどねぇ」
「ちょっと琥珀、それどういう意味!?」
「姉さん、それは内緒ということに……」
「ああ、もう!話さないと二人ともクビよ、クビ!」
「そんな殺生な」
「姉さん、目薬の入れ物が見えてますよ」
夏の夜は短い。こうしてまた、誰のお構いも無く一日が始まるのだった。夏の昼は長い。熱い日中には夜が恋しく思えるだろう。しかし、その夜も前述したようにすぐ終わる。蜜月と同じように。
 
 
  終幕
 
 
2003/8/8初稿

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