古い一着

 ナムサーンナムサーン、クッキンストーーーップ!

 一輪が聞いてくれないんデース、心の耳で聞いてくれないんデース!

 OH! ナムサーン!

「あの……昼食の準備の邪魔なんですけど」
 実際にしているのはほとんど雲山だけど、と頭の中でごちて、勝手場に立っていた雲居一輪は、廊下の方に振り返った。
 そこにいた聖白蓮は、午前の仕事である写経を終え、解放感そのままに、オペラ歌手みたいな謡い方でもって、何事か騒いでいた。
 一輪にしてみると、折角に白蓮の封印が解けたので、数少ない得意料理の味噌汁でも昼飯に添えようと努力しているのだが、その気持ちの対象は、全く気にしていない様子だった。なお雲山は炊飯と煮物の、つまりは味噌汁以外の全ての、担当だった。
 白蓮は框から土間に下りるつもりは無いようで、手を後ろに回して、ころころと話しかけてきた。
「昼食なんてマックで良いじゃない。ねえ、出かけましょうよお、ねえったら」
「私はモスの方が、――そうじゃなくて、もう作ってるんですから。我慢してくださいよ」
「私お腹減ってないもの。一輪が食べたら良いのだわ」
「何が悲しくて自分で作ったご飯を冷や飯にしてから食わないといけないんですか。勿体無いですよ。罰が当たりますよ」
「プフーー! 今どき、罰なんて誰も信じてないわよ」
「信じましょうよ! あなた信じさせる側の人でしょ」
「心当たりはあるわね」
「当たり前のことを上手く言ったつもりにならないでくださいよ」
「むむむー、私、禅宗じゃないしなあ」
 一輪が折れそうにないことを悟ったらしい白蓮は、急に肩を落とすと、スカートの裾を翻して、ぷいっと、廊下を歩いていった。
「あっ―ー」
 本当に、いらないのだろうか。お玉の先から、つゆが垂れた。
 傍らの雲山が、『あの方はもう人間じゃないから仕方ない。気にするな。近所の奴にでも食わせてやろう』と言い出した。
 実際問題、船の中をふらついていた水蜜は亡霊で、飯を食わなくて良い。任されていた船も、今や寺となってしまって暇なものだから、今頃はどこぞをふらついていることだろう。他の連中も似たり寄ったりで、白蓮が復活しても、かえって目的意識が薄れてしまったようだった。
 それでも船を寺の形に落ち着かせるまでは楽しかったのだが、一輪も近頃は、家事以外は写経の手伝いぐらいしかすることがない。寺というのはこれで書き物が多いので、やろうと思えばいくらでもやれるのだが、一輪も一輪でまともな尼僧ではないため、ただの向上心だけで、そこまではやらなかった。
 もちろん、白蓮自身は救済者たらんとしていて、相変わらずだった。案外、他の連中もそれぞれに白蓮のために活動しているのかもしれない。一輪は直接の弟子、役職では尚書や待中、秘書に当たるため、その限りではないのだが。
 例えばの話、一輪が今の状態で他の仕事に手を付けた場合、白蓮の負担が増えるだけで、それでは意味が無い。もっと弟子の数が増えてくれば、また話は違ってくるだろうが、一抹の不安はある。
 姐さんと、いつまで一緒にいられるだろう、と。一度の別れが、未だに心に刺さっていた。


 雲山に鍋やらお盆やらを持たせて、広場で妖怪相手に仕出しをしつつの昼食を終えても、一輪はその場に留まっていた。
 手頃な岩に腰掛けて、木々の上を掠める鳥を眺めたりしている。あの空に、船が浮かんだときの昂揚感が思い出される。
 とにかく、あの船を守るのだ。そんな使命感に突き動かされて、気付けば雲山と、暴れていたものだった。
 それだというのに、船と一緒に自分の気持ちまで、土が付いたようだった。
 雲山はさっきから、傍の小川で、鍋を洗っていた。彼はどう思っているのだろう。昔から何も言わずとも手伝ってくれるので、考えたことも無かった。背中を眺めながら、自分もいっそ、彼みたいに雲になりたい、などと思い始めた頃。
 ぐい、と、腕をやにわに引っ張られた。
「きゃうっ!」
 いきなりのことで、岩から滑り落ちる。尻を打ったので擦っていると、相手がまた腕を引いた。
「ご飯が終わったのなら、出かけるわよ」
 白蓮は簡単に、一輪を地面から引っこ抜いた。そのまま大地を蹴って、空に浮かぶ。雲山が、鍋を岩陰に置いて、すぐに追いかけてきた。
「ど、どこに行くんですか?」
「里よ」
 抵抗はできないながらも、必死で一輪は嘆願した。
「や、やめてください! 私、さっきので服が汚れちゃって」
「いつも似たようなものじゃないの」
「――えっ」
 思いがけず、指摘されて、胸が痛んだ。
 いつも来ている僧衣は、白蓮に弟子入りしたときから、ずっと着ているものだ。もちろんちゃんと洗濯はしているし、法力で加工もしているから、清潔ではある。それでも薄汚れてきた感は否めなかったが、せめて白蓮の封印を解くまでは、と大切に着続けてきた。
 でも、そんなのは、やっぱり本人からすると、汚いだけの服なのだ。今更のようにその事実を突きつけられて、力が抜けてしまった。
「まったくもう、里の職人に、採寸を頼んでるんだから」
「……ああ、お召し物、変えられるんですか? でしたら、私などは置いて―ー」
「馬鹿言わないの! あなたの服作ってもらうのに、私だけ行っても意味ないでしょ」
 耳がキンとして、よく意味が飲み込めなかった。
「ふっふーん、封印中に色々とお勉強したんだから。やっぱりこれからはファッションよ、ファッション。妖怪だろうと尼だろうと、センスを磨くことで、より自分の精神を昂揚させていくのだわ。で、やっぱり最初はあなたの服から、って思ったのよね。もう、その服、着なくても良いんだから」
 どたばたしている内に、遅れちゃって。ごめんなさいね。
 そんなようなことを、言っていたようだった。
 気持ちがふわふわしてきて、ようやく白蓮の目を見ることができた。
「わ、私、じゃあこの服、下着に仕立て直して、着続けることにします」
「ああ、良いんじゃない? きっと似合うわ。あなたもそう思うでしょう?」
 傍らにいた雲山は、急に照れたように赤くなって、明後日の方向を向いてしまった。