歳末救世主伝説

 牛乳を飲むと、聖白蓮は頬が緩む。
 般若湯の無理な一気飲みをして、鼻の穴から噴き出した弟のことを思い出すのもあったが、牛乳を口に含むだけで、柔らかいものが喉を潤す。
 自分の若い頃は牛乳なんてものは知られてなかったが、と思いつつ、幻想郷ではそれなりに普及していることに、口端を綻ばせた。
 というのも、乳業を細々とやっている所が、『あまり食べるものも満足じゃないでしょう』と、牛乳を届けてくれることになったからだった。寺に牛乳を届けるのも変な話だが、元々、生臭な方だったから、毎朝毎朝、ありがたくいただいている。
 あまり牛乳を飲む習慣は無かったから、効き目は抜群で、一ヶ月で肌艶が増した気がした。侍中の一輪曰く、「汚い呑み方してるから顔にかかっただけですよ」とのことだった。
 どうもあれは、口が悪い。禅問答的には正しいのだが、そんな真面目になられても、やり場に困る。ただでさえ嫁にやれないのに、と前に言ってみたら、唾どころか拳が飛んできた。
 今度、強引に取り押さえて、鼻から牛乳を流し込んでやろうかと思っている。きっと鼻の奥から脳みそに牛乳が滲みて、少しは柔和になることだろう。
 さて、飲み終えた牛乳瓶が溜まったので、十本まとめて、朝の内に返しに行こうとしたときのことだった。こんな雑用こそ一輪の仕事だとは思うのだが、自分の代わりに写経をやって、里の寺子屋で書道まで教えて、生活を助けていたから、頼み辛かった。一本気な雲山もいるから、子どもには人気だそうである。
 まあ、それでも鼻から牛乳については、手を抜く気は無い。
『姐さんが妖怪の方をやってくれるなら、私は人間の方をやりますよ。その方が間違いが無いでしょう』
 と、以前の反省を踏まえて、色々努力してくれているが、あんまりふらふらしてると、水蜜の奴が「わーい、今は私一人だー」と、親のいなくなった家ではしゃいだ子どもみたいになって、勝手に船を飛ばすから、困るのである。
 困るのなら、白蓮が腰を落ち着けていれば良かったが、気質に合わなくって、こうしてたかが牛乳ごときで、出歩く始末だった。


「うるさいわね、さっさと渡しなさいってのよ」
「そんな、やめてよ、――やめて! きゃあ!」
 わかりやすい騒ぎが聞こえてきたのは、寺から十分ほども来た場所でのこと。
 寒くなってくると、心が荒んだ人間も増えてくる。ああ、やだやだ、だから人間なんて、と考えながら、こそっと覗き見た。
「ふはははは! 姉さん、この屋台で、冬の分まで荒稼ぎね! 」
「そうよ、穣子ちゃん! こんな貧相な女将より、私達の方がよっぽどぷりちーだものね! あはあはは!」
 こともあろうに、襲っていたのは人間ではなくて、神様だった。こちらに出てきたとき、ざっと挨拶をして回ったが、たしか、豊穣と紅葉の神の、姉妹だったか。どうも屋台の持ち主から、強引に奪い取ろうとしている様子。
 夜明け近くまで営業していたのか、商売道具が粗方載ったままのやつを、引っ張ろうとして、それに本来の持ち主が、しがみついていたのだが、足蹴にされて、振り落とされた。
 表紙に、かわいい羽根が一枚、千切れて、宙を舞った。あれは、夜雀か。
 つまりこういうことだ。神様が、妖怪をいじめているのである。神の目の届く場所に長居する方が悪いと言えばそれまでだったが、それまでで済まないのが、ここに居合わせていた。

「ひゅほぉひぃいいいいいえええおおおおおおおおおこほおおおお!!」
「え、なになに!? なにこの音!?」
 興奮の余り、白蓮の口が、変な息の吸い方をした。咽ない辺り、慣れている様子で、慌てていた姉妹も、じきに白蓮に気付いた。
「お、新しく来た人じゃないの。どう? うちらの屋台で一杯やってかない?」
「ああ、それ良いわね、そうしなさいよ、ねえ」
 ――ぷち、という小さな音が、辺りに浸透した。
 堪忍袋の緒が切れる音というのは、聞こえるものなのか。
 いや、そうではない。
 切れたのは、白蓮の胸元を結んでいる、服の紐だった。
 最初の一本の次に、また一本。
 それ自体よりも姉妹の、夜雀の目を奪ったのは、白蓮の体だった。
 胸が、いや、胸の筋肉が、肩が、みるみる膨張していく。
 ぶち、ぶちぶちぶちいいぃ!
 全ての紐が切れたとき、そこには元の二倍近くも大きくなった、白蓮がいた。
 拳を握るだけで、空気中の原子が粉々になりそうだった。そしてその拳で、近くにあった木を殴ってみれば、あまりに強力過ぎて、折れるどころか、真ん中が、消えた。
「これは魔法ではない。――私の、妖怪の怒りよ!」
「ひぃいいいいいいいいいいいいぃ!」
「ブッ、ポウ、ソウ!!」
 チャー、シュー、メンみたいな調子で、腕を振るうと、風が巻き上がり、草が刈られ、その草が姉妹に殺到して、服のあらゆる箇所を切り刻んだ。数字でいうなら、秒速は八十メートルを突破していた。周辺の被害も甚大であった。
 服どころか、自分達まで浮き上がって、空中で体をぶつけ合って、最後には屋台の下敷きになった。
 惨めな姿になった姉妹に、白蓮は近寄った。
 二人は目を回してしまったから、怖がりもせず、泡を吹いていた。
 それを確認して、白蓮は息をゆっくりと吐いていく。すると今度は、みるみる内に体が縮まって、服がちょっと傷んだだけの少女が、残ったのだった。
「さ、もう大丈夫よ!」
 と、夜雀を見たが、彼女は風で薙ぎ倒された木に、潰されていた。


「で、私がこれを直すんですか?」
 車輪やら屋根やらが外れた屋台を見て、一輪は歎息した。水蜜は修理仕事が得意だから、手伝ってもらえば良いのだが、仕事が増えるのは嬉しくない。現に今、喋りながら、既に白蓮の服を修繕している始末である。
 大体、牛乳の空き瓶を届けに行った人が、どうして夜雀と屋台を持って帰ってくるのか、まったく理解できなかった。
「いやあ、あれよ、あれ、あれあれ、あれ」
「ボケましたか?」
「違うわよ! 興奮してるだけよ! ――私がパトローネになって屋台をやらせれば、一輪の仕事も減るでしょう!」
「いやいや、それ説明になってないですよ。牛乳との関係が全く不明ですよ」
「馬鹿ね! 乳牛に屋台を引かせれば、この夜雀の労力も減るじゃないの! 牛さんも運動して、きっと美味しい牛乳を出してくれるわ」
「いやいやいやいやいや、そういうのは乳牛じゃなくて水牛でしょ、あるいは馬でしょ、おかしいでしょ。あなた、馬で旅したことあるでしょ? でも乳牛で旅したことないでしょ? 同じ乳の出るのでも、山羊は聞いたことありますけど、乳牛で物引っ張るなんてアホのやることですよ」
「長々と言っておいて結局はアホって言いたいだけなのね?」
「はい」
 言うはやすし、西川きよし。
 叱るだけ叱って、多少は溜飲が下がった。
 手早く、修繕し終えた服を白蓮に渡してやると、小さい声で、ありがとう、と聞こえた。
「……夜雀の様子を見てきます。目が覚めたら、呼びますから」
「うん」
 まったく、と肩をいからせて、部屋を辞す。廊下を歩きながら、まったく、腹立たしいことの根本を伝えていないことに、自分の甘さを自覚する。
「私だって、――牛乳飲みたかったのに」
 それを言えば、胸の大きさをネタにされるに、違いなかった。