白墨

 今年も良い年だった……かも。
 我ながらはっきりしない感慨だと思ったけれど、黄昏時らしくはあった。今日は幽々子様用のお供え……ああ、お八つなんだけど、それの買い出しの他に、年越しに必要なものを揃えてきた。
 西行寺の邸にある書架を書き写したものをそれなりの値段で引き取ってもらえたから、少し奮発して鮭の塩引きも買ってみた。幽々子様はこの手のものはあまり食べないのだけれど、店先で見かけた途端に口の中がしょっぱくなってしまって、後に退けなくなった。 写本を売る方法は里で教えてもらったことで、底本にするのには便利なのだそうな。
 まあ、別にそんなことをしなくても冥界では暮らし向きの心配が無いのだが、里で稼いだ金を里で使う方が、確かに気分は良かった。冬籠りの間はどうせ庭木をほとんどいじらないのだし、と、店の者が欲しい写本の目録も貰ってきた。
 幽々子様にはそこら辺のことも含めて、少しは私を見直してもらえるだろうか。
「あうっ!」
 考えながら飛んでいたら、先ず静電気みたいな感触があって、後ろに弾き飛ばされた。幾らか高度を落としつつも、咄嗟に体勢を立て直す。地面から二百メートルも上空でのことだったが、幸い荷物を落としたりはせずに済んだ。
 こんな所に何かあったか? ここら辺は冥界の結界があるということもあって、妖怪もあまり悪さをしないのだが。
 あ、そうだ。
 結界があった。
 普段、私がこんな風に「結界がある」と意識することは滅多に無い。私が結界に引っかかることは無いからだ。例えば巫女が飛び越えたりすると「結界があったはずなのに!」と思い出すわけである。
 つまり、これは異常事態だった。
 とはいえすぐに「異常事態だ!」となるわけでもない。私が考えも付かないことが起こらない限りは、あまり問題にならないからだ。
 考えも付かないと、斬らねばならなくなる。なるほど、そこいくと私が一番異常なのかもしれないな。
 首元に寒風が差す。あまり皮肉ったことを考えていられる時間でもなかった。
 紫様が手直ししているときにでも、たまたま行き当たってしまったのだろうか。あの方は思い出したように部屋の掃除、いやいや、模様替えをするタイプだから、年末だからとかいう根拠があるようで無いことを考えても不思議ではない。
 よく脊髄反射だなんて表現をするけれど、あの方の場合、脊髄が無い。あるのは反射だけだ。それは幽々子様も一緒で、お二人が話しているのを立ち聞きしようものなら頭が痛くなる。リフレクは一度までにしてほしい。
 とりあえず一番ありえそうな原因を頭に浮かべてから、私は上昇していった。巫女のやり方を倣うのは腹立たしいが、もう日が暮れる。今年は雪が少ないとはいえ、夜の寒さは厳しいのである。朝方なんて寒いので、ついつい押入にしまい込んだ男物の半纏を出して、着込んだりしてしまう。
 帰ったら幽々子様に事情を話して、先に風呂に入らせてもらおう。
 そう思わないとやってられないぐらい、上空は寒かった。
 半人半霊の私は体温が人間よりも低いらしいのだが、そんなこと関係ないぐらい寒かった。
 うん? そういえば今日はやたらと、寒く感じることがあった。里を歩いていたときに寒風が吹くと、手や膝をさすったりしたものだ。それを見ていた年配の方から肉まんをもらったのが嬉しかった所為で、すっかり忘れていた。
 ああ、思い出した。その年配の方は服を扱っている店の人で、やたらとオーバーニーソックスを薦められて辟易したんだった。

 暖かいよー。可愛いよー。それに、これが似合うのは君ぐらいまでなんだ。中学生以上が穿いてるのはいけないよ。見てらんない。私、少女です! って辺りが痛々しいやね。お前もう二次性徴が出てるっつーの。バスケが下手な癖にマイケルジョーダンの限定シューズを持ってる並に痛い。え、バスケがわからない? 古風なんだねえ。古風とオバニソ、新しいね! え、オバニソ? ああ、これの略称。ドロワーズをドロワと言うようなもんだ。うん? これも初めて聞いたの? ふうん……お嬢ちゃん、箱入りだな! どれどれ、おじちゃんが見繕って、サービスしてやろう。最初はオバニソに合う丈のミニを穿くのが恥ずかしいかもしれないが、短パンも入れてやろう。ちょっとぶかぶかめのに、オバニソのきゅっとした感じが堪らんのよな。知り合いに『あんなのはセックスアピールに過ぎん!』とかいって嫌がる強情者がおったんだが、モデルにさっき言った格好をさせて見せたら、コロっといきよった。これは来年くるよ。お嬢ちゃんみたいな可愛いのが街中をそんな格好で歩いてるとかもう犯罪だね。ぐへへへへへ。

 思い出しただけで胸焼けしてきた。肉まんはしばらく食べたくない。ちなみに品はといえば、部屋着にはちょうど良さそうだったので、ありがたくもらっておいた。
 だって、四割引にした上に初売りのときに使えるお年玉引換券まで付けてくれるって言われたら。
 あー、違う違う。寒い所為か、変な所で思考が回る。
 もう邸の前まで来たというのに、まだ寒い。着陸のとき、門前の石畳すら寒々と感じられたぐらいだった。
 今日は出かける前、勝手場に入ってもらうことがよくある霊に粕汁の準備をしておくように言っておいたから、風呂の前の味見ついでに、暖まるのも良いかも知れない。
 そうそう、買った食材を置かなければならないのだから、勝手場から入ろう。
 ほとんど歩きながら考えて、私は裏手に回った。
 薄暗い外に、勝手場からの炊煙がうっすらと漏れ出ている。粕汁の匂いだけで酔ってしまいそうだった。
 引き戸に手をかけると、がらりと開けた。
「ただいまー」
 ぴょっこりと、霊達がこちらを向いた。丸いのやら四角いのやら、総勢で十ぐらいいる。
 この子達にも何かご褒美をあげられれば良いのにと小さい頃には思ったものだ。霊にできることなんて、何も無いのに。
 一抹の寂しさを覚えながら、框に置いた風呂敷から買った物を出していく。
 すると、背中を一体の霊に叩かれた。
「なあに? 味見なら、すぐにでも」
 振り返りながら言って、私は驚いた。どの霊もこちらを見ていて、まるで私の背中を叩いた霊は大丈夫かと心配してるみたいだった。
 いくら私でも、言うことを聞いてくれる霊を斬ったりはしない。
 少し、ショックだった。
 が、それはそれだ。霊なんて気紛れなものだ。特に冥界にいるのはわりと好き勝手に生前を過ごしたのが多いから、尚更である。
 私の驚いた表情に、霊達も怖がった様子だった。
 とりあえずなだめようと、私の背中を叩いた子の頭を撫で……ようとした。
「ひゃっ」
 変な声が喉から出た。
 霊は、恐ろしく冷たかった。指先が触れただけで、内臓まで凍り付いたような錯覚を覚えた。
 あ、いや、当たり前だ。冷たいものだ。でも、こんなに冷たいわけがない。冷たく感じるわけがない。精々、ひんやりといったところだ。
 もう一度触って確かめようとするが、手が伸びてくれない。自分を抱くように、がたがたと震えるだけだった。
 何やってるんだろう、私は。
 思考は回るのに、体が動いてくれない。いや、体はわかっているのに、頭がわかっていないのだろうか。冷たさの理由がわからない。ただただ寒い。
 それは、怖かった。
 その怖さが、冷たい声で、地割れを起こした。
「妖夢、帰ってるの?」
「うあ、あああああああ!」
 太刀を抜き放って、ぶんぶんと振り回す。
 霊の一体が妖気にもろに当たって、吹き飛んだ。鍋がひっくり返って、また一体にひっかかった。引き戸が倒れる。倒れて、それから二つに割れる。そこから逃げようとして逃げ遅れた一体が、また斬られる。
 斬るつもりの有無は関係なく、斬れるものから斬れていく。そこにあるのは、命のやり取りとかで感じる怖さとは全く別物だった。
 ただ、ここにいるだけで怖い。
 寒い。
 祖父の布団で一緒に寝させてもらえなくなって、一人で寝るようになったときのことが、頭を過ぎる。
 わかってる。わかってるんだ。
 今、私の目の前にいるのが幽々子様だなんてこと、わかり切っているんだ。
 それが、怖い。
「ちょっと、妖……? あなた、半身は?」
「う、え、ああ?」
「しっかりなさい! 半身はどうしたの!」
 怒った幽々子様は、普通に怖かった。その普通の怖さが、僅かに理性を呼び戻した。
 涙を振り落としながら、必死に周囲を見回す。頭が框や瓶に当たったけど、気にならない。
 半身。私の……半人半霊の、半身。
 それがどこにも、いなかった。


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「それじゃ、しばらくお願い」
「はいはーい。何なら年越しのときに、お蕎麦食べに来なさいよ。藍の趣味でキツネ蕎麦だけど、貴方が来るって言えば、天ぷらも揚げてくれるんじゃないかしらね」
「気が向いたらね」
 幽々子は暗に断って、私の邸から出て行った。閑散とした玄関は、しかし亡霊が去ったのが原因だというのも、おかしな話だった。
 ……あまりおかしく思えない。
「倉廩【そうりん】実ちて則ち礼節を知り、衣食足りて則ち栄辱を知る」
「管子ですか」
 私の独り言に、玄関先まで幽々子を送っていった藍が答えた。
「あの子と私、どっちが管仲で、どっちが鮑叔かしらね」
「さあて、どうでしょう。ああいう男臭い友情は、私は苦手でしてね」
 思い付いて言っただけのことを一々持ち上げたくせに、乗りが悪い。その意図を察して、私は唇を尖らせた。
「まだ落ち着かないの?」
「一時的に式を打とうかと思ったぐらいで。やらずに済みましたがね」
 ということは、落ち着いたのだろう。
 幽々子が妖夢を担いで来たのは、私達が夕食を終えて、大分経ってからだった。
 妖夢が尋常でないのはすぐにわかった。幽々子は布団を巻いた上で妖夢を抱き抱えているのに、がたがたと震えていた。放せ放せとぶつぶつ言い続けており、藍に預けられてからも歯を鳴らしていた。
 最初は病気かと思ったが、それならば、あの状態の妖夢を運んでくる愚を犯す必要がない。半身が見当たらないのに気付いたのは、幽々子に言われてからだ。
 何があったかも聞かせてもらったが、しかし生憎と私の悪戯で済む話ではなかった。
 幽々子はさすがに聡明で、それぐらいのことはわかっていたようだったが、それでも落胆していたようだった。いくら彼女でも、あの妖夢の様子を見てショックだったろうことは、想像に難くない。
 いや、もっと辛辣に言うなら、あの子は確かに落胆したのだろう。
 感傷的な理由ではない。妖夢の不甲斐なさにだ。
 私は幽々子という亡霊を、あまり甘く見てはいないのだった。
 あまり黙っていては藍が訝しがる。私は夜着の袂を寄り合わせ、藍に向き直った。
「ご苦労様。貴方はもう寝なさい」
「はい」
 恭しく礼をして、自室へと去る。今時、片手の拳を隠す中国式の鞠躬【きっきゅう】礼をやるのもあの子ぐらいなものだ。橙なんて手をぶんぶん振って終わりである。あれはあれで可愛いけど。
 さて、これからは私の番だ。
 水差しで水を飲んでから、妖夢を寝かせている客間の前へと来た。人間と違って私らは夜目が利くので、来客でも無ければ灯りは必要無い。
 障子戸にはご丁寧に札が貼ってあり、これは陰気や障気を好む魑魅魍魎を避けるためなのだが、いささか間抜けと言える。藍自身が魔除けだからだ。
 指先を振るうと、札がぴりりと裂ける。戸に手をかける。よく掃除が行き届いている証拠か、音も無く開いた。
 可愛い寝顔だ。素直にそう思える顔で、妖夢が布団に寝ていた。
 むしろ平素より、顔色自体は良い。布団に手を忍び込ませて妖夢の手を握ってやると、やはり暖かかった。
 私は思わず妖夢の首に顔を近付け、香りを嗅いだ。
 美味しそうな香り。
 柔らかそうな首筋。鎖骨に張った皮を口の中で転がす感触が蘇る。
 目玉に舌を這わせたい。二の腕に爪を突き立て、肩甲骨の肉襦袢を剥がし、指を噛み千切り、腹を引き裂いて、五臓六腑に顔を浸したい。
 そうした衝動を他人事のようにやり過ごす。霊夢を目前にして、幾度となくやり過ごした衝動だ。
 彼女は、そして彼女も、紛れもなく……人間だった。
 半身が無いのではない。一体なのだ。
 魂魄が溶け合っている。いや、そもそも魂は外に出たとき初めて魂となり、身体に魄が残るに過ぎない。元は一対ではなく、一体なのだった。
 これはいったい、どうしたのだろう。
 人間の心は、比喩としてはあっても、死ぬまでは隙間が無い。それが堪らなく愛しい。愛しく、怖い。
 スキマが無ければ、私には何もできない。
 私は布団の隙間から手を抜き出し、部屋を出たのだった。


 昼の食卓は豪勢だった。
 昼から肉だなんて、藍ったら奮発したものだ。まあ、折角だから早めに調理してくれと言ってあったから、その通りにしたのだろう。
 蒸しただけなのがまた、香りに癖があって堪らない。私はこっそりと酒を注いで、呷った。
 どうせ藍は厨房である。
「駄目ですよ、昼間っから」
「あら、妖夢。おはよう」
「さっきからここにいましたよ」
 冗談の通じない奴だと言って、私は酒を呷った。どうやっても飲むつもりだったのだけれども。
 妖夢には本当のことを言わない。私はそう決めて、昨日は床についていた。

 貴方は人間です。今日から里で暮らしてください。ああ、そうそう。妖怪とは極力会わないように。

 そんなことを私に言えと? それこそ冗談じゃない。言うのは幽々子からにさせたかった。それまでは、たまにこの子が泊まっていたときと同じようにするつもりだった。
 ただし、妖夢も昼前に起きてきたから、いつもと違ってしまっている。
 私も私で、朝方に一度、起きていた。藍に起こされたからだ。
「さあ、折角の鳥肉よ。貴方も食べなさいな」
 これを見付けた藍が、どうしようかと私を起こした。それは口実で、妖夢のことを気にしたに違いないのは明白だったが、私は鳥のことだけ告げて寝直した。それを藍は、私に任せておけという意味に取ったらしい。どことなく安心したようにため息を吐いていたのを覚えている。
「雁なんて、よく獲れましたよね」
「え? ああ、そうね」
 雁。藍もそう言っていたっけ。二人とも料理に心得があるから、そこら辺には鋭いものがあるのだろう。
 そう言えば、藍はどこでどう獲ったのだろう。朝っぱらから……。
 まあ、料理のことは私が頭を捻っても仕方がない。
「ようし、私が取り分けてあげるわ。妖夢は御客様よ」
「いやいや、とんでもない。ご厄介になってる身です」
「そう。ならお願い」
「……」
 何か言いたそうな目で見られたが、自分でやると言ったのだからやらせる。
 やってやりかけ、言うだけ言って、やらせてみて、見捨ててやらねば、人は動かず。これが私の教育方針。
「ところで、体調はどう?」
 取り分けてもらった鳥肉を食べつつ、訊ねる。
「何度も言いましたけど、寒いです。寒気とは違うので、風邪じゃないとは思いますけど……」
 言い澱んで、明後日の方向を見る。多分、半身を探したのだろう。
 半身がいない以上、寒いのは当たり前なのだ。人間と霊とでは、体温が十度以上も違う。もし病気でこれほどの体温が一度に変化したら、頭か身体が馬鹿になる。妖夢がそうならずに済んだのは、自然と身体が適応していったからだ。
 要するに彼女の身体にとっては、その程度で収まる変化なわけだ。
 ただし、冥界にはいられないだろう。とてもではないが、あそこは普通の人間がいて良い場所じゃない。霊夢らでさえ、酒でも飲んでいないと長居はしたくないはずだ。
 妖夢自身の能力は普通の人間と呼べるほど弱ってはいないはずだが、なまじ見知った場所なだけに、ちょっとしたことで戸惑う可能性がある。それで刀を振り回そうものなら、実際に昨晩はそれをやったと聞いたが、危なっかしくて仕方ない。
「柚子をかけると美味しいですよ」
「ああ、そうね。うん」
 何だかんだで私も悩んでいるらしい。
 現実、一抹の希望を捨てられずにいた。
「これを食べたら、少し出かけてくるわ。貴方も連れて行きたいのだけれど……」
「え、遠慮しておきます。ちょっと、恥ずかしいですから」
 妖夢には私の服を着せてある。昔よく着ていたもので、よく似合っているのに。
「だってこれ、オバニソだし……」
 オバニソの何が悪いのか気になったが、あえて伏しておいた。若い子のセンスにケチを付けるとボロが出るというわけじゃない。絶対に違う。
 何にしても、妖夢が外に出たがらないのは承知の上で誘ったに過ぎない。
 お茶を一杯飲んで、締めに入る。
 正直な所、彼女がここに住みたいと言い出したとしても別に構わない、とさえ思っている。私が食欲だけで人を殺すことは有り得ないし、藍も橙もそうだ。他に食べるものはいくらでもある。ただ食事の選択肢の中に人が含まれており、その点は人間と似たようなものだ。
「出かけたければいつでも一人で出かけて良いのだからね」
 そう言い残して、私は目当ての人物の所へと、スキマに入り込んだ。
 スキマが閉じかけたとき、食卓がひっくり返る音がした。
 何だろう。足が痺れてるのに気付かずに、立ち上がろうとしたのだろうか。
 しかし振り返ろうとして、首が回らなかった。
 首に、鋼の塊が突き通っていた。


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 八雲紫の首が机の上に落ちてきたのは、ちょうど遅い昼食にしようかと、片付け始めたときだった。
 取り立てて大きな音もたたなかった所為で、「あらこんなオブジェあったかしら」と思ってしまったぐらいだ。そのまま無視してやるつもりだったのだけれど、生首に話しかけられて放っておくほど、私も人でなしではない。
「はいはい、ちゃんと生ゴミの日に出してあげますからね。粗大ゴミじゃなくて」
「そんなに悠長にしていられないのですわ」
「じゃあシュレッダーにかけましょう」
「想像しただけで痛々しい……」
 生首がよく言う。
「元に戻るなら戻るで、早く身体を元に戻しなさい」
「それができないのですわ。ほら、よく断面を見てくださいな」
 大変に嬉しくない勧めだったが、見るな聞くなと言われることが多い仕事柄、見てくれと言われるのはやぶさかではない。それも普段は私を毛嫌いしている紫から、だ。悪い気分ではない。飯は美味く食べられそうにないが。
「斉の孫ピン【月賓】の例に習って、八雲棄市と名を改めたらどうです」
「ピンが足切りで、棄市は打ち首ですわね」
「そういうこと」
 よいしょと首を持ち上げつつ、何気なく会話を交わす。
 哀しいかな、これとは話が合う。気が合わないだけなのだ。妖怪と気が合っても嬉しくはないので良いのだが、複雑ではある。ああ、別に残念なんかじゃないですよ。

 さて……あらら。
 断面を見てみれば、真っ黒に焦げ付いていた。

「これは……妖怪退治用のものでやられたんですね。戻るにしても、うーん、すぐには無理そうで。これほどの業物、私の思い当たる範囲では」
 言いかけて、思い至った。浄玻璃の鏡を使うまでもない。
 その原因が、恐らくは私にあったからだ。
「魂魄の小娘は、懲りてないようですね」
「色々言いたいことがあるのですけれど、とりあえずは逆さにするのを止めてもらえないでしょうかしらね」
 覗き込むのではなく首をひっくり返して断面を露わにしたのが気に食わないらしい。
「私の頭を貴方より低い位置にはしたくありません。何でしたら鉢植えに生けましょうか」
「文句は言いませんからせめて元の場所に置いてくださいまし」
「よろしい」
 これは楽しいですねえ。SとかMとかの魂が次に来たら、地獄に落とす前に少しは真面目に言い分を聞いてあげましょう。落とすのは確定ですけどねえ。
「とりあえず説明はしますが、我々の間には温度差があることを理解することです」
「温度差しか無さそうですこと」
「ま、ぶっちゃけその通り」

 事のはじまりはどこかと問われれば、それは魂魄の娘と私が出会ったときからだ。
 あの人間だか霊だかはっきりしない、そもそも半人半霊としての自覚すら薄い、あの娘。ここ数年、特にここ一年は、注意して見ていた。
 これぐらいは良いだろう。この方が良いに決まってる。そういう考えを基盤にして、私の説教を蔑ろにしてきた。
 普通ならば地獄行きを言い渡すときまで待ってやった所だが、冥界に関わる、それも半人半霊であるという事情も鑑み、白黒はっきり、人ということにしておいた。霊にしてしまう、すぐ転生の手続きなどもしなくてはならないし、どうやら本人も人間の方が性分に合っていそうだったので、勝手に決めさせてもらった。
 そう、勝手は承知している。しかし私は道理に基づいて判断している。彼女とは全く違う。

「偉そうなご高説だけれど、最後にちゃっかり自己弁護を入れる辺り、流石ですわ」
「貴方のような妖怪に難癖をつけられないための処世というものですよ」
 私は自分が正しいと思えるだけの根拠は用意してある。魂魄の娘に、人の世で暮らす根拠は無かった。だから人にしてやったまでだ。
「しかしこれでは、妖怪狩りにでも目覚めてしまうかもしれませんねえ」
「憂えるぐらいなら、全部元通りにしなさい」
「無理ですよ。白黒はっきりさせたら、白は白です。黒は黒。元には戻せません」
「このすかぽんたん……!」
「懐かしい響きです。死語ばかり使ってると、老けが進みますよ。それに私が原因でも、貴方のこれは貴方の無」
 言いかけて、やっぱり止めた。こんな奴に注意してやる気は起きない。勘違いされたら困る。
 私は眉根を寄せて続く言葉を待っている紫を振りかぶり、スキマのありそうな本棚目掛けて、投げた。


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「きゃああああああああああ! おかーさーーーーーーーーーーーん!」
「誰があんたの母親よ!」
「ぷぴぃいい!」
 ありああああありえない。美味しそうな桃を見付けて食べようとしたら、生首に変わっていいいいいたたたた。
 これはきっと私のサイコな面が見せる幻覚に違いない。
 うん、天子ちゃん普通とは違うもんね! そうよそうそう、天人なのよ。
 ひっひっふー。ひっひっふー。
 おんぎゃー!
 おめでとー! 立派なメス豚よ!
 脳内分娩終了。混乱という胎児は外に出たわ。
「で、そんな格好でどうしたの?」
「知り合いの医者を教えてあげたいところだけど、まあいいわ。仔細を聞きたい?」
「聞かなくてもわかるわ。私が貴方を好きなように調理できるということをね」
「良いから言うことを聞け、この豚」
「……はい」


   >>>>>>

 来るな。触るな。声をかけるな。
 布団の中の手にそっと触れたとき、うっすらと見た、あの瑞々しい目。あのときは、怖くて。ただ怖くて何もできなかった。
 食事が終わって、あの背中を見たとき。
 振り向いてほしくない。振り向くんじゃないか。
 そう思ったら、太刀が鞘を滑っていた。
 怖い。妖怪が怖い。八雲紫という大妖そのものの存在が、そしてそれが間近にいるということが。
 それが、どうして。
 どうして怖かったんだ!

 雪の無い雪原地は、荒涼としていた。生え残っているススキを斬り払う都度、顔にカスが付いた。ソックスは所々が破け、ひっかき傷がじんじんと痛む。転がるようにして山間を駆ける内、ここに辿り着いていた。
 ここはどこだ。どこに行けば良い。つい昨日まで、来年のことを考えていられたのに。今は飛ぶことも考えられずにいた。
「惨めなイノシシ、見付けたわ」
「う、あああ? ああ!」
 誰の声かも判別できなかったが、異変は察知できた。半ば反射的に足を止めたとき、眼前の、いや周囲の土が、地盤ごと盛り上がった。
 緋想の剣の作用に相違ない。
 私は尻餅を突きかけ、しかし前方へと堪え、剣を地面に突き立てて支えとした。
「来るな! 斬るぞ、斬ってしまうぞ!」
「いらっしゃいませ。ただいま、お冷やをお持ちします」
 声の方向を見上げれば、二十メートルは盛り上がった地面の上で、天人が得物を手に立っていた。
「……何?」
「私にはそう聞こえるのよ」
 言って、言い終わらない内に、来た。
 地面を転がり落ちるように、そして石も一緒に、降り注いでくる。避ければ避けただけ撃ってくるだろう。平素の私ならそれをこなす忍耐はあったが、今は無理だった。
 左の肩に顔ぐらいの大きさの石が当たるのにも構わず、突っ込んだのだった。
 驚愕と歓喜が入り交じった、引きつった顔。そこ目掛けて、躊躇無く楼観剣を突き出す。
 紫様すら斬ったこの太刀に、斬れぬものなど、有り得ない。
 ずぶ、と独特の感触と共に、肉に突き入る。
 だが些か、しかし決定的に、早過ぎた。手応えも近く、長く続いた。間合いの読み違いをするほど、やわな鍛え方はしていない。
 そして、私の手首に、口の中を貫かれたままの紫様の頭が、噛み付いた。
 唾液が染みて。私は叫んだ。
「ゆ、ゆゆゆうゆゆうゆうゆゆゆああああああああああああああああああああ!」
「痛くするわよ!」
 とん、と軽く、自分の芯に剛直な物が突き刺さる。
 初めてなのにそれとわかる、決定的な衝撃。直後に、身体の内側がめくれて、外側に出そうな錯覚を覚えた。
 怖い。暖かい。寒い。冷たい。愛しい。心地良い。気持ち悪い。吐き気がする。
「よし!」
「ご苦労様。後は、私が」
 紫様の声が聞こえる。

 その声は暗くなる世界の中で、とても明瞭に、私の輪郭を浮かび上がらせてくれた気がした。


 布団で目覚めて、私は泣いた。宙にふよふよと、私の片割れが浮かんでいたから。
 それを待っていたかのように、あるいはその足音で私が覚醒したのか判然とはしないけれど、紫様が室内に入ってきた。
「おはよう。もう昼だけどね。ああ、これ一度人に言ってみたかったのよ。気分良いわあ」
「貴方だってさっき起きたんでしょうに」
 横合いから、天人様が出て来た。というか、ほとんど紫様にひっつくみたいな感じで、まとわりついている。
 微笑ましく見えるのは、ここが暖かいからだろうか。
「さて、妖夢」
 紫様は私の傍に座って、事のあらましを話してくれた。
 閻魔様については、私は不思議と、何も思わなかった。今回は紫様と天人様が全部やってしまったので、私は訳もわからず走っていただけだけれど、人間として生きていけなかったかといえば、そうでもないような気がしている。
 一番肝心などうやって私を元に戻したかについては、どうやら天人様のお手柄らしい。曰く、「奥歯ガタガタ言わせんぞ」作戦だそうで、おかげさまで元気になることができた……と思う。
 緋想の剣を私に突き刺した状態で、もし魂魄が引き剥がせたら、後は紫様の首から上だけで良かったそうな。
「駄目だったら、まあ死ぬだけだわね。というより、半分殺したのに等しいわけだけれど」
「おかげで、半分は生きてることがよくわかりましたよ」
「ふうん、そういう口が利けるなら、もう大丈夫かしらね」
 ねえ、妖夢。ここがどこかわかる。
 その言葉を聞いてからしばらくして、私はまた泣いていた。
 私の手入れした庭木が、開かれた障子戸の向こうに見えたからだ。
 私はやっぱり、ここで生きながら死んでいたいのだと、斬られてわかった。


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「やっぱりわからないものね」
「はあ?」
 何が、とは藍は言わず、露骨に不快そうな声を出す。おせちを作り置きながらのことだったので、間が悪かったらしい。この忙しいのに何をぼうっとしているのかと思えばといった具合のことをぐでぐで言い始めたから、無視して話題を切り出す。
「今回の一件で、色々な立場を試算してみたんだけど……幽々子だけさっぱりわからないのよね」
「あの御方だけは別格ですからねえ。偉いとか大物だとか、そういう範疇じゃないでしょう。冥界の亡霊なんて」
「まあ、あの天人よりはマシだとは思うんだけど」
「あれは、うん、存在がではなく、育ち方を間違ってますから。うちの橙とは大違いですよ」
「そうねえ、橙とは大違いよねえ。橙とは」
 かまぼこを摘み食いしながら、嫌味を言ってやる。
 寒い勝手場に立ちこめる炊煙の匂い。これが私は、好きだった。
 今頃は西行寺邸も似たような状況だろう。
 主に首の、骨を折った甲斐もあったかな。
「来年も良い年だと良いわねえ」
「毎年言ってますね、それ」
「そんな嫌そうに言うなら料理手伝ってあげなーい」
「味見は手伝いじゃありませんよ! んもう、蕎麦も打たないといけないってのに……」
 ま、向こうはもう少し穏やかに過ごしているかもしれないわね。
 私は昆布巻きの味見もしながら、天人に一箱ぐらいはお裾分けしてやろうかと考え始めていた。
 藍が最初からそのつもりで大量に作っていたと知ったのは、翌年のことだ。