蟹を茹でる

 射命丸文は岩の上であぐらをかいて、紙巻き煙草の煙を吐いた。煙草でもやってないと、間が持ちそうにない。
 槍や長弓を持ったのが、五十名弱もいる。こいつらを「世話しろ」というのが、今回の上からのお達しである。
 得物はここに来るまでに長いこと家の奥に隠し持っていたはずで、それこそ執念であろう。また、なにも得物だけがすごいわけじゃない。彼らの表情たるや、死んだら死んだであの世では自分たちが偉くなれるのだと確信してるのだろう、青白い顔をしていた。
 いやいや、なんとも、呆れるしかない。
 とはいえ、このまま煙草で時間を消費するばかりだと、あの青白い顔が真っ赤になって、斬ったり突いたりしてくることだろう。それならそれで正当防衛ということで死屍累々、畑の肥料にでもして、「はい終わり」とかってことにしておいても良い。良いのだが、文にも憐憫はある。
 というのも、自分は鴉天狗。それがどうしたといえば、相手は平家の落ち武者連中、正確には、その末裔だった。

 先日、ちょっとした地震があったのだが、それで初めて発見された集落があった。
 そこが今では珍しい、自称平家の末裔の集落だと聞いて、いかにも胡散臭くて、さて取材だ、と喜び勇んだら、こうして呼び出されたわけである。上司によると「同じ山の連中同士」という理不尽な理由で、巫女だかスキマだかが押しつけて来たとのことだ。集落は、地震の際の土砂崩れで、完全に埋もれたのだった。
 さて、義経伝説の所為で、平家からは大変に恨まれている。いや、当時の平家はもちろんそんなことは知らないのだが、後世の連中が話をくっつけてしまったから、義経に剣術を教えたこっちにまで、坊主憎けりゃの精神で累が及んでいる。
 本当は鬼一法眼が教えました、とか言っても、聞いてくれないだろう。というか義経のような小僧よりも、法眼の方が文は好みであった。
 好みに走れば、間違いなくこじれる。ここは実務的な話に終始すべきだろう。
 当面の論点を確定してから、三本目の煙草に火をつけた。近頃にこっちに入ってきた煙草だが、細長いフォルム通り中身が詰まっていて、気に入っているのだった。
「えー、とりあえず、ここがどこか理解してる方、お手を挙げて」
 おう、だの、ああ、だの唸り声がそこかしこからして、手が挙がった。
 ひのふの……全体の凡そ二割ほどが、妖怪の山についての知識があるとのことだった。ちょうど女子供を除いた数である。この一箇所に彼らを集める際に、何かしらの説明があったのかもしれない。そこら辺、文はノータッチである。
 さて、後はリーダー格がいれば話は早いのだが、これといったのがいない。貧ずれば鈍す。昔、外の山にいられなくなったときのことを思い出した。あの頃は……まあ、その話は置いておいた。
 ちょうど昼も過ぎていたから、文は控えていた下っ端連中に飯を用意させた。今に手を挙げてくれた者たちには話があるが、大多数にはこのまま食事を取ってもらう。それが効率的だというのもあるが、人数を分けて少しでも危険を抑える計算も成り立っていた。
 別に平家だろうと、それこそ源氏だろうと、怖くはない。怖いのは、下手をこいたとき、よそから首を突っ込まれる可能性が常にあることだ。これはどんな組織にもあてはまることなので、殊更に悲観はしていないのだが。
 ちゃんと下っ端連中が食事を作り始めたのを確認させてから、七名を選んで、他の場所へ移る。彼らも腹は減っているはずなのだが、責任感はあるようで、文句を口にする者は無かった。
 山間の広場から渓流の方へ出てから、各々、川原の適当な岩に腰掛けてもらった。滝壺の音がかすかに聞こえる川原は疲れを和らげるようで、いかつい面々の表情に、幾分か温かみが戻っていた。
「さて、単刀直入におたずねしますが、あなた方の集落は再建できそうですか」
 途端に、誰かの舌打ちが聞こえた。それが誰かはわからなかったが、心中は皆、似たようなものなのだろう。長弓を担いでいる男が、首をコキコキと軽く鳴らした。
「ありゃあ、すぐには駄目だ。上代から受け継いできた『これ』が運び出せただけでも、良かったってもんさ。そうだろう?」
 後半は仲間に向けての問いかけである。それに答えたのは、禿頭に鉢巻きを巻いた男だった。
「お前、そりゃあんまりな言いぐさだぜ。『やあやあ、なんとかしてみせようや』ぐらい言えそうなもんだ」
「強がっても仕方ない。鴉天狗は好きじゃねえが、里の連中に物珍しがられるぐらいなら、腹割って話そうじゃねえか。もし作業中にまた地震があったら、ひとたまりもないぞ」
「一応、本当に腹を割る、っていう選択肢もあるが、な」
 冗談なのだか本気なのだか、小太刀を弄んでいる者が言った。
「詰め腹は、見せ付ける相手がいてこそだろう。ナマズに見せるような腹はしちゃいねえ」
「近頃は天人崩れが地震を起こしてる、とかいう噂を聞いたぞ」
「それが本当だったら、そいつの腹を割るのが先だな」
「おう、確かにそうだ」
「まあまあ、お待ちなさい。女や子どもの先行きを決めてから、そういう話をしてくださいよ」
 話が変な方向に飛び始めたので、口を挟む。大体、そんな楽しそうなことは、後でご一緒させてもらいたい。
 さっきの場所にいたのは結構な数になる。あまり放っておくと、後が怖い。
 それにしても、今まで見つからなかった集落にしては規模が大きい。そこを突っ込んでみれば、どうも普段は散らばっていたようである。その中核となる集落が今回の地震でやられてしまったから、見舞いも兼ねて一族郎党が集まったのだった。
 ……といえば聞こえは良いが、地震の前からとっくに人里に移住していた一族から「いい加減に山を下りろ」とせっつかれている形になるそうな。それでも山を下りようとしない者に付き合っている内に、最初はキャンプ気分で久々に山でのサバイバルを楽しんでいた者達まで、疲れ果てたというわけである。
 どうも、話が怪しくなってきたように感じられた。
「えーっと、一応確認したいんですけど……その人里にいる方々は、さっきの中にどれぐらいいらっしゃるんです?」

「四十」
 指を四つ立てて、二メートルはあろうかという男が、しれっと言った。

「あなた方以外の全員じゃないですか!」
「うっせー! 男の夢ぇ、馬鹿にすんなぁ!」
「そうだ! 平家なめんな!」
 呆れた。本当に呆れた。
 文は目眩がして、新しい煙草を咥えた。えらく、湿気った味がした。


 平家の人数は激減していた。
 あれから方針を決められないままにぎゃあぎゃあと言い合いを続け、いい加減暗くなるからと広場に戻ってみれば、他の連中は飯を食うだけ食って、帰っていたのだった。七人の普段の行いが知れるというものである。
 今まで彼らの話を聞かなかったわけが、文にも理解できた。里の連中にとっては、彼らは暗黙の了解というやつなのだろう。
 もっとも、平家の末裔というのは本当らしく、武具の幾つかを拝見してみれば、裏側にある銘や生地が、確かに当時のものだった。よくぞ維持してきたものである。しかし、その執念がこういう馬鹿者を量産してきたかと思うと、やはり呆れてしまうのだった。
 一方の七人は清々したといった風情で、余った炊き出しを下っ端天狗の連中に分けてもらい、がつがつやっている。
「あなた方も、食べたら帰ってもらえます?」
「そしたら、里の連中に集落を再建させるしかなくなるな」
 無理だ。文の判断は的確で、援助するしないで人里全体を巻き込んでの喧嘩になるのが目に見える。おまけに、今は人里にいるとはいえ、かなりの武闘派が揃っていたのは自分でも確認している。帰せるわけがなかった。
「……いっそ食っちゃいますかね」
「あ?」
「いえ、何でもありません。私も夕飯にしようか、と」
 その旨を口にすると、すぐにでも下っ端が用意してくれる。その姿に、七人の表情がにわかに曇った。
「もしかして、あんたって結構、偉いのかい?」
「立場としてはそうでもないんですけど、長年、居座ってますからねえ」
「おお! 俺達と似たようなもんだな!」
「い、一緒にしないでくださいよ!」
「やんややんや」
 またぎゃあぎゃあやり始めるか、といったとき、ちょんちょちょんと肩を小突く者がいた。
「あの……まだ時間がかかるようなら、私たちもここで食事を済ませてもよろしいでしょうか……」
 下っ端の一人が、もみもじとして、申し出たのだった。彼女らも考えてみれば、見回りやら何やらの合間に駆り集められているのである。
 別段、断らなければならない理由はない。どうぞ、と肩をすくめてみれば、最初からそのつもりだったのだろう、自分たちの分と思われる材料を、大鍋の中に追加した。
 その様子をじっと眺めている者がいるのに気づいて、文はそれとなく傍に寄った。
「あれは彼女たちの分ですからね?」
「あ? ああ、わかってるよ。物足りないのは本当だが」
「なら良いんですが……まさか体が目当てじゃないでしょうね」
「自分の子どもみたいな年格好されてたんじゃ、興奮しようもねえよ」
「いやあ、たまーーーーに、そういうのもいるので」
「怖い世の中だなあ」
 未だに槍を担いでいるような連中は、怖くないのだろうか。あるいは「自分以外は誰だって恐ろしいものだ」とか哲学的なことを言ってお茶を濁す場面なのだろうか。口を折ると書いて『哲』って、意味深だよなあ、と会意に喧嘩を売るようなことを考えてみたり。
 それにしても子どもがいる身とは、いやはや、恐れ入った。この馬鹿野郎という意味で。
「考えてみたら、あなた方は別に、天狗自体に恨みはないんですよね?」
「無いね」
「無いなあ」
「大体よお、鴉天狗が嫌いなのは、義経のことより連中の性根の悪さが……なあ?」
「そうそう、知ってるか、義経に剣術を教えたって言いふらしたの、鴉天狗なんだってよ」
「うへえ、さすが鴉天狗、汚い。やることが汚い」
「そもそも俺は鴉が嫌いだ」
「あなた方、私が鴉天狗だってわかってて言ってますか? 言ってますよね? 鍋で煮て良いですか?」
「煮ても食えないんじゃね?」
「げらげら」
 下手な山賊より口が悪い。伊達と酔狂だけで山に篭もっていると、こうなってしまうのだろうか。
 何が腹立たしいって、鍋の周りにいる下っ端連中までくすくすやっていることである。熱々の大根を強引に口に突っ込んではふはふさせてやりたい衝動に駆られたが、その芸はまだ幻想入りさせるには惜しかった。なお、熱湯風呂は既に幻想入りしている。
 黙らせようにも、あれでなかなか、下っ端連中も力が強い。天狗個人の能力もそうだけれど、その数の多さから、如何に下っ端といえどあなどれない。一度、ここでは言えないような性癖を下っ端相手に解消していた者がリンチの対象になったこともある。
 もちろん、それは彼女らにとって、正当な権利である。忠誠心というやつは、強要する側にこそ資質が求められるものだ。
 漠然とした思考を頭の中で繰っていたとき、文は閃いた。
 結局はおかわりの汁物を分けてもらっている彼らに向かって、鋭く言い放った。
「あなた方、一緒に生活なさい」
 一瞬、『あなた方』がどの範囲にまで及ぶか、その場にいた全員が考えた。
 やがて、悲鳴のような声が上がったのである。
「俺、おさんどんやる! おさんどん! 飯当番!」
「あ、お前ずりいぞ! つまみ食いする気だろ!」
「まあまあ、ちゃんとおやつの時間もありますから」
「うおおおおおおおお!」
 マイナスにマイナスをかけたがごとき盛り上がりっぷりに、発案者の文自身、困惑を隠せない。人力を消耗させるのが狙いだったのが、案外、このまま御山に一波乱をもたらすかもしれない。
 それはそれで……面白そうだ。
 危険思想というよりは破滅主義的なことを、文はひとりごちた。


 あれから一ヶ月、御山は平穏無事であった。異分子との結合をきっかけにした一斉蜂起が起きるでもなく、危険視した上層部からの圧力が……なんてドラマがあるでもなく、革命には熟成までの期間が必要なのであるとかいう知ったかもできない、そんな平穏さである。鴉がカアカア鳴くのをしみじみ聞ける程度の平和といえよう。
 平家の七人の起床は、日の出より少し早い頃。鴉天狗はともかく、下っ端の過半を占める白狼天狗は、朝に強くない。夜が遅いともいう。そんな彼女らが寝ている間に、七人の一日は始まるのだった。
 先ずは自分たちが寄宿している廃寺の、離れの掃除から。煎餅布団を畳み、古くなって踏む度にへこむ畳の埃を払い、板の間を拭き上げる。これらを半刻の間に一挙にやってしまう。生活と自尊自立の両立というタイトロープを少人数で達成してきた彼らの能力は、非常に高かった。
 最低限の掃除が終わる頃にはちょうど太陽が頭を出し始めて、母屋に備え付けられた勝手場から味噌汁の匂いがしてくる。
 ここでようやく鼻の利く連中が起き始める。寝間着姿は極小で、夜番のときの格好のままだったり、下着だったり。しかし父性本能を備えている七人にとっては、だらしないなあ、程度の感想である。
 広間にぞろぞろやってきた連中がどてどて腰掛け始めると、おさんどんの開始となる。
「ああ、ほら、ブラウスが汚れるだろ。首に布巾かけろ、布巾」
「あうあう」
「しっかりしろ! 漬け物を鼻に突っ込んでるぞ!」
「ふがふが」
 こういうみっともない朝食も片付き始めた頃、ようやく当人達の目がさえてくる。以前は朝飯と昼飯が一緒だったものだ。
 なお、平家の連中も一緒に飯を食っている。天狗の中にはしっかりした(寝間着をちゃんと着けて寝る)者もいるため、そうした子らはおかずを分けてくれたりする。とても紳士とは言えない連中だが、恋をしない相手の方が付き合いやすいのだろう。
 質素ながらも賑やかな食事を終えると、着替えを済ませてから、天狗が持ち場へ出かけていく。その際、特に見張りの任務に就く者に、平家から一人か二人が付いていく。いざというときは見張りにも動員がかかるため、留守役を兼ねるためだ。
 また、見張り番はその役に関わる権限を一手に引き受けているため、付き合いも広い。よって、上司に当たる鴉天狗の他、河童などの山やその近辺に住む妖怪らの相手をする必要もある。
 暇つぶしにかけては右に出る者の無い彼らである。将棋の相手からあやとりまで、幅は広い。
 他の大半は畑へ出かける。天狗も結構な人数が出張り、さながら屯田だ。小作人に当たる者がいない以上、この方法は限りなくベストに近い。
 平家の者の何人かが自分の集落で作っていた稲穂や麦を大切に保管していたため、近頃はその作付けでにわかに忙しくなっている。
「こいつはコシイタイっていう品種で、カカアの実家からもらってきたものを更に改良したものだ。トチクルイってのもあったが、霜には弱くってなあ。まあ、味は良かったが」
 山奥の高地に住み続けなくてはならなかった平家の人間にとって、稲作は夢の結晶と言って良い。外の世界では人類全体の農業技術の向上などによって高地での稲作が実現されたが、ここでは執念の分量が肥料には多かった。
 田植えの間隔、水の分量、温度管理……熟練だけではどうにもならない労力を、どうにかしてきたのである。虚仮の一念というやつだが、ややもすると苔生していただろう。
 さて、とりあえず今年は様子見だが、棚田の一つを分けているのだから天狗側の期待度も相当だった。普段なら野菜類をちょろまかすだけの鴉天狗までしげしげと視察している。
 昼食はそれぞれが出先で簡単に済ませるわけだが、非番の者もいる。
 住処の廃寺で読書をしたり、長風呂をしたり、とにかく惰眠を貪ったり。休日と呼べるほど大層なことをするわけではないが、自分で好きに時間を使えるというだけで、ストレスは大分解消される。
 稽古も好きな者は好きで、飽きもせずやっていたりしたが、そうでない者も多い。そんな者も、平家流の弓術には刺激されたらしく、木の杭と藁だけで作った簡素な的をいくつも作って、矢を放っていた。弾幕ごっこが主流となってから弓術は廃れているとはいえ、妖怪と本気でやる可能性もある以上、興味は常にあったのだった。
 弓術の利点は、近いなら近いで、遠いなら遠いで、長所があることだろう。その間合いの感覚が、やがて剣術という、至近での命のやり取りへと昇華されていった。
 さても一番盛り上がるのは狩りを兼ねた訓練で、平家の一人を先発させて、散会。猪などを追い込みつつ、腕前を検分することになる。一度なぞ鹿の首を矢の威力だけで跳ね、鹿の悲鳴が聞こえないものだから、奇妙な沈黙が辺りを包んだものだった。
「やはり武士は弓だ。刀でチャンチャンバラバラより、品が良いだろう」
 適度に挑発的な台詞も、狩りには向いていた。
 そんな興奮の最中にあっても、おやつの時間は守る。干菓子程度しかないが、ほのかな甘みだけで頬がほころぶ。一人はそのままうとうとしてしまって、やれやれと負ぶって帰らなければならなくなる。
 日中はこのようにドタバタと過ぎるのだが、夜半は静かなものだ。夜番の者のために竈や風呂を焚き直す以外の音といえば、鳥の鳴き声ぐらいなものである。
 勝手場の明かりは夜でも落とされないため、読書好きも集まってくる。酒を飲むためだけに集まっている者も多く、ついつい、世間話が口から零れたりもした。
 その様子を勝手口の外から窺って、文は煙草を咥えた。
「向こう三十年ぐらいは安泰そうですね……まあ、これはこれで記事にしますか」
 でもなあ、と思うところではある。
 独立した記事としては弱いのだ。精々、地震の続報として、これこれこういうことになりました、と触れるのが関の山。『めでたしめでたし』や『どんとはらい』が文末に付くような記事は、文々。新聞には似合わない。
 ネタを無駄にするぐらいは。そう思っての苦渋の決断である。何より、いい加減、一緒に酒が飲みたくなってきた。
 一歩を踏み出したとき、キーンという上空の風切音は、聞こえていなかった。
「こんばん……わあああああああぁーーーーーーーーーー!」
 驚かせたのではない。驚いたのだ。
 自分がついさっきまで立っていた場所に、大きな塊が降ってきたのである。文は勝手口に転がっていた。もし決断が遅れていたら、死にはしないでも、二日ぐらいは寝たきりになっていただろう。
 力自慢の誰かが岩でも投げたか、と頭の中で犯人を推理し始めたとき、唸り声が落下物のあった場所から聞こえてきた。
「うーん、狙いが外れた?」
 落下物は要石の一種だったようで、天人の比那名居天子が陰から出てきた。法力でもって明かりを灯してみれば、天人はさすがに丈夫で、擦り傷一つ見受けられなかった。
「あ、そこにいた! 何で避けるのよ!」
「ど、どういう謂われですか!」
「天界から要石をさす練習よ。できるようになったら、楽じゃないの。鬼が岩を投げるのを見て閃いたってわけ」
 かといって最初から岩だけ落としても思い通りにいかないので、こつを掴むために自分も一緒に落ちてきたらしい。
「それって地震より危ないのでは……」
「馬鹿ねえ、地震は面での被害、私の方法は点の被害。どちらを採るかなんて目に見えてるじゃない」
 天の被害の間違いだろう。言っても伝わりづらいので黙っておく。
「何でも良いですけど、夜には止めてくださいません? ほら、そこら中で殺気立って……あ」
 文が振り返ると、一ヶ月前のことが思い出された。勝手口から出てきた連中の目が据わっている。
 ああ、天人と地震についての知識は、見事に共有されているようだ。
 文本人は気づいていたかどうか怪しいが、天子からしてみると、文の醜悪な笑顔こそ気味が悪かった。能の翁面のような、といえばわかるだろうか。皺が寄って、直視するに堪えない。
 その文が、すすっと体をずらした。
 ヒュッ。
 文の顔の横を、矢が趨り抜ける。見事に天子の額を直撃した鏃は、しかし砕けた。面の皮は特に厚いらしい。
「な、何で人間が! 危ないじゃない!」
 お前が言うな、と口にするまでもなく、今度は明後日の方向から矢が飛んできた。他の者も嗅ぎ付けたのである。
 反射的に天子が応射すれば、木が五本ほども吹き飛び、隠れていた数人が地面に落ちた。
 その正体は白狼天狗であった。ここに至り、ようやく周囲が敵だらけだということに、天子が気付く。
 数十本単位の矢が四方八方から殺到し始める。その数はどんどんと増えていき、文が視認できた最高の数で、八十九本だった。おまけに一本一本が首ごと吹き飛ばす威力の、自機狙い。呼吸の合間に口の奧まで狙ってくる精密さである。大量の兵士による斉射では実現しない、戦争ではなく殺傷に特化された弓術。弾幕ごっこでどうこうできる質のものではなかった。
 手加減無用。こうなれば山の一角ごと吹き飛ばすまで。
 天子が緋想の剣を地面に突き刺そうとしたとき、狙い澄まして横合いから飛び出した矢が、見事に剣の柄を手元から弾いた。同時に、零れた剣をぱくりと咥えた白狼天狗は、そのまま走り去る。
 機先を制せられた者の哀れな末路が、そこに具現していた。
 つまり、天子は呆然としていた。
 周囲は完全に固められ、二名の天狗が率先して脇を固めた。夜中ということもあって、皆の目には怪しい光が灯っていた。


 天人による熱湯コマーシャル(ギャラ無し)で大盛り上がりしてから三日後。
 平家の七人は珍しく、日中から一同に会していた。
 熱湯コマーシャル中、期せずして天人から「もう地震が起きないようにするから!」という声が上がり、集落の再建の見込みが立ったのである。お祭り騒ぎの会場に来ていた守矢神社の連中も再建の際の神事を請け負ったから、これ以上は望むべくもなかった。
 これから七人は、集落のあった場所へと戻るのだった。今頃は先発した天子が、地盤を固め終えた頃だろう。
 今この場には、教師との別れを惜しむような表情で下っ端天狗が集まっており、文だけは楽しそうに面々を撮影していた。
「あー、いい顔ですね。もうちょっと俯いて! そうそう、このハンカチも持ってください……うほっ、鼻血出そう!」
 そんな彼女は無視して、代表者同士で、挨拶を交わし合う。
「まあ、たまに米の様子でも見に来させてもらう。家族サービスも兼ねれば、上々だろうしな。妖怪の山に観光に来られるなんて、俺らぐらいなもんだろう」
「わかりました。それはそれで嬉しいのですが、もし人手がいるようだったら、いつでも言ってくださいね」
「そいつは焼きが回るってもんだ。遠慮させてもらうよ」
「煮ても焼いても食えないけどな!」
 冗談が横から飛んできて、空気が和らぐ。一人、文だけがげらげら笑いまくっていたので、正直うざったかった。
 彼女が笑い終えた頃には七人は山を下り始めており、後を追おうとして、他の天狗に止められる珍事まで発生した。
「ちぇっ、皆さん、けちんぼですね。肉は骨まで味わうもんですよ」
 鶏肋の故事は彼女の頭にインプットされていない。
 何はともあれ、これでそれなりの記事は書けそうである。煙草でも吸おうと思ってポケットに手を突っ込んだが、出てきたのは一枚の丸められた紙だった。
 開いてみると、「煙草の吸い過ぎ」と書かれていた。
「あやややや、私もお世話の対象だったんですかね」
 たまには生活を見直そうか。そういう考えを天狗が抱くことこそ記事に値するのだが、文は気付かなかった。