OHNO

 懊悩している。
 射命丸文を見かけた印象は、そういったものだった。
 舌なめずり、地団駄、武者震いなどなど、文が動きを止めるときというのは普通、そういうものである。いわば行動するための布石、車でいうならクラッチを踏んだようなもの。
 それが膝を抱えて、岩場から滝壺を見つめているのである。それも精神集中しているようには見えず、滝の音が五月蝿くて堪らないといった風に歯噛みをしている。
 何か大きな異変の前触れか、はたまた文の個人的な領域の話か。いずれにしろ自分なぞが触れてもやぶへびになるだけだろう。椛はそう判断すると、久々に河童の方に出向いて酒をやりにいった。


 立ちションがしたい。
 滝壺を見つめながら、文は嘆息した。
 あんな風にドバドバドボドボと音を立てて、なんて嫌味な滝だ。目から小便が垂れるものなら、文はとっくに垂らしていただろう。
 したいならすればええやん、と自分でも関西のおっちゃん風に思うし、今までの短くない期間、そうしてきた。
 宴会の帰りに適当な所でショババババ、上空を飛んでいてブルっときたらショババババ。ショバの語源はここからだ、とか自分で信じているぐらいである。
 男子でなくては立ちションはできないなどと思うのは素人で、むしろ女性の方が慣れさえすれば上手にできる。アレが明後日の方向に曲がっているなんてことが無いから、誤爆も起こらない。
 ましてや烏天狗の場合、元が烏なものだから、糞尿を垂れることにかけては天下一品である。いやいや、別に汚らしいことではない。
 文化とは糞尿の上に成り立っているのである。きらびやかな京都においては糞尿を上手く都市の生活に役立てていたからこそ、雅やかさが花開いたのだ。徳川家康が東照大権現として江戸幕府を開いたときも、それを参考にしたから成功したといわれている。
 そこいくと烏天狗こそが天狗の中でもメジャーであり、大天狗と呼称されるのも、一理あるのである。
 いや待て、それこそが慢心だったのではないか。今の文はそんな殊勝なことを思うまでになっていた。
 例えば、欧州の貴族達は糞尿を効率的に処理せずにいたから文化的生活は退廃へと変化しがちだった。平城京が平安京へと遷都したのも、下水道の整備が平城京ではされていなかったからでもある。
 妖怪とて、いつかは文化の明かりに照らされなければならない。今その明かりは、天狗の小便を黄金色に光らせようとしているのではないか。
 とうとう香ばしい方向へ思考が飛び始めているが、どうしてこんなことになったかといえば、自業自得である。
 自分の新聞の企画で、幻想郷のトイレ事情、などというものをやろうと取材を始めてしまった。何せ人の家でトイレなんて借りたことも無い文である。溜めたことすら無い。
 あ、したい。
 しよ。
 ショババババ。
 これであるから、トイレ事情を探る内に、人間どころか他の妖怪どもの下に対する感覚まで知ってしまい、ショックを受けたのだった。
 自業自得というか、因業である。インゴー。よくもまあ「短くない期間」とやらで気付かなかったものだ。流石に人前でしたりはしなかったから、その中途半端な羞恥心がかえっていけなかったのかもしれない。
 何はともあれ、しかし、わかった以上はどうにでもなる。後はやるかやらないかだけだ。
 河童には妖怪の山の下水道計画についての話をもちかけるつもりだし、守矢神社にかけあって、地下の連中に汚物の焼却処理も頼むつもりである。
 そこまでの計画を取材明けに不眠で考えた。それが昨晩のこと。
 今朝のコーヒーは存外に美味かった。ああ、これが働く女というものだ。太陽が黄色いぜ。

 と、そこで尿意と共に気付くことがあった。

 計画が実現するまで、私はどうやって下の処理をしたらいいのだろう。

 絶望的だった。なにせ、相談すること自体が既に恥だと思えるようになっていた。知恵の実をかじってしまったアダムとイブさながらといえよう。
 身内ならええじゃないかと思いはしたが、それはややもすると、自分と同じ苦悩を押し付けることになる。そんな残酷なことができようか。いや、普段ならするのだが、まさか下のことでするのは、プライドが許さない。そういうプライドの所為で今自分が苦しんでいる、ということにまでは考えは至らない。
 そしてふと我に返ったとき、こうして滝壺を眺めていたのである。

 ドババボボボボボボボゴゴゴゴゴゴズズズズズズドドドドドドドド!

 耳というよりは直に脳みそを揺さぶる音が、ひっきりなしに聞こえる。
 いっそあの中でもみくちゃにされながら下半身を解放したら、どれだけ素敵だろうか。考えただけで栓が緩みそうである。
 闘争とは力の解放、力みなくして解放のカタルシスはありえない。どっかの漫画でもそう言っていた。
 今、解放したら……ドロドロにとけてしまいそうである。
 ちなみに、現在の状態でも十分に文は危険な領域に達している。
 体力的な問題が要因の最たるもので、彼女、というか妖怪だが、その身体強度はほとんど精神の解放によって成り立っている。常に燃えているものには誰も近づけないようなものだ。今の文は小学生とかに「遊んでー!」と下半身にタックルを食らっただけ、悟空のパンチを食らったピッコロ大魔王みたいなことになる。
 妖怪にあっぱらぱーが多いのは、そういった事態に陥らないための生存本能がなせる技なのだ。多分。

 強引に寝てしまえば何とかなるのかもしれないが、生憎と年度末で、天魔やら何やらとの飲み会が毎夜ある。きっと彼女らは今夜も酒を飲んではそこら辺でジョバンジョバンするのだろう。ふふ、哀れなものだ。そんな風に愉悦を覚えることでささやかな気休めにしていることこそ、哀れであるが。
 大体、自分もその場にはいるはずなのである。いなくてはならない。立場とは、そういうものだ。
 頭を過ぎるのは取材をした面々である。彼女らにトイレを借りれば万事解決する。和式便所、洋式便所、果ては尿瓶やおまるの類まで、千差万別の処理をしていた。
 ああ、しまった。それらを体験する企画にしておけば良かった。
 が、その試みは成功しなかったろう。あいつらがそんなことにトイレを使わせてくれるわけがないのである。見せるだけならまだしも(それにしたって交渉の末である)、使うだなんてとてもとても。
 そもそも、人を利用しようっていう魂胆が、いやらしい。
 ようやくそういう所にまで頭が回るようになってきた文である。
 ここは初心に返って、まあそんなものがあった覚えも無いのだが、とにかくまっさらな気持ちで、滝に打たれて修養でもすべきなのではないか。
 マイナスをプラスに変える、積極策といえる。
 文はゆらりと立ち上がった。前進こそが自分の本懐である。壁にぶち当たって染みになるなら、それも本望である。それが血か黄金色の水かは別として……。

 滝壺へとジャンプする。
 その瞬間、がっしと足首を掴まれた。

 ドバシャアアアンッ!

 頭から落ちた。まだ浅瀬だったので岩やらなにやらにぶつかり、体は水にとっぷり浸かった。
「何やってんですか! いくら天狗様でも、危ないですよ!」
 河城にとりが、椛に頼まれて文の様子を見に来たのだった。
 にとりは滝壺の怖さを知っている。あのドドドドドとなっている表面よりも、その下こそが危険なのだ。巻き込まれると、そのまま浮いてこれないことだってある。
 が、なにやら恐ろしそうなのは、天狗様の方だった。
 ぐったりとしている風なのに、表情は恍惚としている。力なく傾げた首を直しもせず、喉を震わせ始める。
「ククク……ハハハハハハ、フハーーッハッハッハ!」
「へ?」
「過激にファイヤーーーーー!」

 ドカン、と、滝壺が爆ぜた。その中に黄金色の自機狙い弾が混ざっていたことを知る者は、皆無である。