西行寺に遊ぶ

 驚きにはいくつかの種類がある。それらを大雑把により分けると、二つにできる。一つは、歓喜。引いた潮が、気持ちの良い波飛沫を上げて迫ってくるのに似ている。
 もう一つは呆れ。今頃の秋空みたいに、一度散った雲は戻ってこない。
 即ち、こう思った場合だ。


  『これはもう駄目だ』


 わたくしこと魂魄妖夢の日課は、ご奉公させていただいている白玉楼の掃除に始まる。
 一番緊張するのはこのときだ。この界隈は何かあるとすれば夜の内というのが常識で、朝になって行き倒れを発見することも多い。 冥界と顕界との間には結界があるが、これを飛び越えた紅白の巫女の前例が出来てからは、思慮の足らない妖怪の体の半分だけがこちら側に落ちていたりもする。息がある場合は向こう側の下半身とくっつけてやると元気になったりして、たまにお礼を言われる。その前に先ず、無許可で侵入した詫びをいただきたいというのが私の本音だ。
 中国の曹魏王はまだ身分が低い頃に厳格な処罰で名を上げたというが、私の場合は幽々子様の従者に変わりが無いため、第一に頭が上がらない。とにかく、勝手に処罰しては角が立つ恐れがある。首筋を刀で優しく撫でてやり、見送るのが精々だ。
 今日はそんなことも無く、長い長い階段の下に至るまで、目立ったゴミは見当たらなかった。
 冥界の天気はほとんど変わり映えが無い。私は半ば事務的に空を睨み、一日の無事を願った。

 小間使い程度にしか役に立たない霊の類が居間に膳を運び始めるのに合わせ、私も顔を出す。そこで主である幽々子様と朝一番の挨拶を交わすことになる。
 いつの間に起きて身支度を調えているのかいつも不思議だが、朝食のときには必ずしゃんとした格好で膳を前に座っている。よくよく考えてみれば、亡霊が規則正しい生活を送っているなんて、かなり怖いのではないだろうか。私は怖い。とてもとても怖い。
 もしや私が幽々子様に対して、他人からは慇懃に見られるほどによく従うのも、主が亡霊であることを忘れるためなのかもしれない。
 雑多なことを考えながら、食事を片付けていく。私から口を開いたりはしないが、今日の幽々子様は口数が少なかった。自然、会話も弾まない。
 二言三言口にされたことをまとめてみれば、八雲の紫様がそろそろ冬眠に入られるのを憂えているらしい。
「毎年のことでしょうに」
 私のつまらなさそうな物言いが気に障られたのか、幽々子様の箸が止まる。
「紫が冬眠する理由、考えたことある?」
「熊よりは必然性が無い……ということぐらいまでは」
「必然性だけで言ったら、私はどうしてご飯を食べてるのかしら?」
「いや、それは是非に伺いたいのですが」
 幽々子様にとっては無用にとげとげしくなってしまった空気を和らげるための冗談だったらしく、さっさと紫様の話に戻してしまった。
「まあ、あの子って結構寂しがりだから。冬場に一人でいるなんて、堪えられないと思うわ。かといって雪の中を引っ張り回したら死んじゃうしね」
「幽々子様や藍様がいるじゃないですか。二本角の酔っぱらいだって」
「……式については単純につまらないのだと思うわ。それに、親友はいることが何よりよ。それとばかり付き合えるものでもないんじゃないかしらね」
 少しばかり突き放した物言いに、寂しさが混じっているように聞こえる。単に幽々子様の落ち着いた口調の所為だろうか。
 私は癖で、考えながらも茶碗の中を口の中に入れていたから、やがて綺麗に片付いてしまった。
 いつまでも座していられる身分ではない。私は控えていた霊を呼んで膳を下げさせると、居間を辞した。
 それから日が落ち始めるまで、私の頭はあの茶碗みたいに、空っぽだった。


 空気が冷え始め、草木の匂いにも陰りが混じる。そうした庭の中を屋敷へと向かうのが、私は好きだった。
 刻一刻と夜が迫る黄昏は、疲れと不安がない交ぜで、一種の昂奮を覚えさせるのだった。
 きっとこんな調子で、気付いたら冬になっているのだろう。それまでは毎日がこんな調子で繰り返されて。
 そんな都合の良い考えを抱きながら、門を閉めに向かう。結界がある癖に昼間は門を開けてあったりするのだから、慣例というのは歪になりがちなものらしい。
 そういう歪さがあるいは妖怪や変な人間を引き寄せるのだろうか。軽い笑みと共に門の傍に出たとき、
「ふぎゅう」
 潰れたあんまんの断末魔みたいなやる気の無い声が、門の外側から聞こえた。
 見れば、前に大騒ぎして神社で祭までやった天人様がぶっ倒れていなすった。それだけなら私も混乱しないのだけれど、
「ぷーすぴー」
 寝入った様子の紫様が、本当に天人様を潰していた。
 うつ伏せになった天人様に覆い被さる格好で、首にまで手を回し、天人様の顔も若干ながら青くなっていた。
 いやまて、実はこれは年の差カップルの情事なのではないか。ああほら昔はお寺ってそういう使い方もしたそうだし、ええっとそうそう、とりあえず、関わりたくない。
「はーい、閉店でーす」
「ま、待ちなさい!」
 門をさっさと閉めてしまおうとした私を、天人様が制止する。関わりたくない。本気で。
 でもここで扱い方を間違えると、今度は白玉楼を潰されかねない。仕方なく天人様の前で背中を曲げ、お二人を覗き込むような格好で話を聞く。
「どうされたんです?」
「この妖怪が天界まで来て鬼と飲んでたから、注意してる内に……」
 それをどうしたらこんな、冥界で潰れあんまんになるのか。まったく説明になっていないが、もう闇が濃くなり始めている。
 試しに紫様の肩を揺すってみたが、案の定、反応が無い。そのくせ天人様にかけた腕は解けそうにない。このまま放っておくのはやはり拙いので、とりあえず屋敷に上げることにした。
「自力で立てますか?」
「そ、それが完璧に潰されてるから……ちょっとでも地面から浮けばいけると思うわ」
「では、失礼して」
「お……おおおおおお? おー!」
 天人様の胴と地面の間へと半身に入ってもらい、徐々に浮かしていく。それに合わせて天人様が腕立てをしたので私も手を貸すと、上手いこと立ち上がることができた。
「ありがとう! ありがとう!!」
 天人様は私の手を取り、感謝感激。意外とこういう所は素直な方らしい。問題は素も何も全身が癖の塊である紫様だ。
 ここに至っても起きようとはせず、足はだらりと地面に伸び、首を半ば絞められている天人様も苦しそうだった。立ち上がったことで、余計にだろう。これが人間だったら、私が発見したときには死んでいたかもしれない。
「あのう、とりあえず足を持てば背負った格好になるので、楽になるかと」
「えー! こんなの背負えと言うの?」
「お気持ちはわかりますがね」
 まさかさっき潰れていたのも、ぎりぎりの状態になっても背負おうとしなかったからか。こういうのは頭を切り換えさせないとグズってばかりなので、
「じゃ、足を切り落としますか」
「わああああ! そこまでしたら可哀想よ!」
 持ち歩いている刀に手を掛けてみれば、予想以上の効果だった。私から遠ざけるように紫様の両足を持った結果、めでたく背負った格好になっている。
 ここで笑ったりすると元の黙阿弥なので、すぐに門を潜るよう急かす。私は脱げ落ちた紫様の靴を拾ってから門を閉めると、天人様を追って玄関に入った。


 鬼と飲んでいた紫様。天人様に注意されて、実は酒が弱いからだと難癖を付ける。天人様はそこで、天界の酒は味わうもので、がぶ飲みするものじゃないと返した。
 そこまでは良かったのだが、それじゃ地上の酒を飲み比べたことがあるのかときたから、天人様も興味を示し、一緒に地上に降りてしまったらしい。この時点で伊吹の鬼は里に出るのを嫌がって、脱落。
 飲み歩くだけ飲み歩いて、とりあえず白玉楼で一眠りするかと紫様に乗せられた結果、天人様がちんたらやっていたのだろう、じきに紫様が道中にも関わらず眠り始めてしまったそうな。
「天人様、お可哀想に」
「貴方って、良い従者ね……」
 あんたはあんたでも、可哀想なのはあんたの頭だよ! とは言わずにおいて、ありがたく褒められておく。
 先に夕飯を済ましてあった幽々子様は私の夕飯から奪ったおむすびを食べながら説明を聞いていたが、今は紫様の寝顔にご飯粒を付けるという芸術的作業に耽っている。
 おむすびは天人様も摘んでいるため、追加で小間使いにおむすびを作らせなければならなかった。お通夜の晩みたく、大量のおむすびが盆に並べられている。これは多分、私達は先に寝させてもらいますから宣言も兼ねているのだろう。
 そこまでするなら、味噌汁も温め直してくれると嬉しかったのに。
「一息吐いたばかりのところを恐縮ですが、これからどうなされるおつもりで?」
「とりあえずは寝転がらせてもらえれば、何とかなると思うわ」
「そうですねえ、明日になれば起きましょうし」
 ご飯粒が小鼻やほっぺに付いた、紫様を眺める。天人様は顔も見たくないのか、やけ食いしていた。
 すると、
「起きないわよ?」
「は?」
 幽々子様が作業の手を止めて、呟く。
「だってこれ、冬眠だもん。春までこのまーんま!」
「げえっ!」
 あまりのことに私は、手に取っていたおむすびを落としてしまった。
 天人様はというと急速に、顔を青くしていた。ああ、喉にご飯を詰まらせたとかなら、この方も幸せだっただろうに。そのままドロップアウトできるという点で。
「す、すると、その芸術を爆破解体するかのごときお戯れは」
「もっちろん! 嫌がらせよ?」
 私は冷えた味噌汁を飲みながら、なんとか平静を保つよう努める。
 自分を放っておいて一緒に飲んでいた相手でもある天人様にも多少の恨みがあるようで、ご飯粒の被害は天人様の長くて美しい髪にまで及んでいる。
 見なかったことにして、さしあたりはどうするか。天人様は思考を放棄してしまった様子で、無表情かつ機械的に、おむすびを口に押し込んでいる。少し……怖い。
 案外、私に思考を任せてしまおうという魂胆ではないか。もっとも、そこまで考える余裕があったらこんなことにはなってない、か。
 具の梅干しの種を口中で転がしながら、良策のために頭を捻る。
 せめて、あのがっちり組まれた腕さえどうにかなれば。私が問題の部分を睨んでいると、天人様がぶんぶんと顔を振った。斬ろうとしているのがばれたらしい。一応、危険の香りはわかるようだ。
 妖怪なんだから斬ったって、くっつくか生えてくるかするだろうに。しかし私としても後々のことを考えると、あまり短絡なことはしたくない。
 逆に、天人様の首を落としたら色々すっきりするんじゃないかしら。
 ついつい、最大級に危険な思考の粒子を撒き散らしてしまう。
 今度は首が回転でもするんじゃないか、と唾を飲んだときだった。
 真っ直ぐな光が、居間に落ちた。
 一瞬は天井が落ちただけのように思えたが、違う。居間の中心からは極太の電流がほとばしり、この場に人間がいたならば瞬時に焼け死んでいただろう。
 私達にしても服などは危なかったのだが、光が落ちた瞬間には幽々子様が扇子状の霊力を広げたため、大事には至らなかった。被害といえば物理的なもの。居間の天井が落ち、畳が焼け焦げ、部屋中におむすびが飛散したくらいだ。ふざけんなと私は言いたい。
 小間使いなどの霊が眠りを妨げられたのは、この際は無視する。
「総領娘様ぁっ!」
 はた迷惑な騒動の中心部から、声が聞こえる。しかし当の天人様は終始ぼけっとしていたので反応が無かった。
「あなた方、総領娘様に何をしたのです!」
「その総領娘様にまとわりついているものに先ずは注目してくださいよ」
 あれはたしか、天人様の尻拭い……もとい世話やら何やらでそこら中をふらついている、竜宮の使いだ。派手な服、というかほとんど衣装だが、それの飾りの間やら先から、電流が絶え間なく走っている。
 口ではああ言ったが、私達でさえちゃんとした説明をされないとわからなかったことが一目でわかるわけもない。竜宮の使いは「むむむ」と神妙に言うだけ。一応、場の空気から私達が悪いわけではないことは察してくれたようで、その点は僥倖と言える。
「お、そうだ。その電流で紫様を強引に起こせませんか?」
「これ、寝てるんですか? うーん、血管が焼けて体中から血が噴き出るだけですよ」
「……却下で」
 妖怪に血管は無いはずだが、想像しただけで気が萎えた。大体、その電気は天人様にも流れるわけで、いずれにしろ駄目だった。
 斬った方がまだましである。
 ここは『斬ればわかる』の精神で、やはり斬ってしまおうか。刀に手を遣るか遣るまいか。手を宙で遊ばせていると、
「おっと、こうしてはいられません」
 竜宮の使いが、手を叩いた。
「今の雷を嚆矢【こうし】に、他の竜宮の使いが突入することに」
「もう何が来たって驚きませんけど」
「馬鹿言っちゃいけませんよ! 我々竜宮組は竜神会傘下の実働部隊、危険に見合うだけの運営資金は潤沢で、衣装まで作れるぐらいなんですよ! こんな屋敷、嵐の中のボートみたいなもんです!」
 ああ、あれはやっぱり衣装だったんだとか、他にも色々言いたかったが、言って解決するなら、そもそも紫様は起きている。
 言葉は無力だ!
 私は大きな溜息を吐いてから、居間の出口を向いた。
「妖夢はどうする気なのかしら?」
「世の中、思考が呆れることばかりなので、体だけでも動かしてきます」
「そう。味噌汁、温め直させておくわ」
 少しだけやる気を出して、私は屋敷の外にまで出た。
 空一杯に、雷光が蠢いていた。


「これはしばらく、ペンペン草も生えませんね」
「春までに、嫌になるくらい生えるわよ」
 度重なる落雷と流れ弾の爆撃によって、庭の一角の二十アール程は更地と化していた。
 私がいち早く飛び出したために屋敷の方には何カ所か穴が空いただけで済み、責任の一端を感じたとかいう殊勝な精神を持つ伊吹の鬼が、修繕を手伝ってくれている。
 私は梅干しの種を縁側の向こうに飛ばすと、幽々子様と違ってまだ食っていた隣の天人様を見た。その背中に、紫様はいない。
 実は騒動を収めたのは、私の剣戟ではなく、閻魔様だった。そりゃまあ、地獄の隣にあるような場所でビカビカやっていたのである。怒りにも来る。
 その際に紫様はあっさり目覚め、さっさとスキマに隠れたのだという。私はそのとき竜宮の使い相手に『雷の軌道を逸らし、かつ相殺させながら闘う』という、自然を相手にすることに武人の本懐を見たと、しゃにむに剣を振るっていた。まだまだ、私も未熟らしい。
「あ、妖夢。ご飯粒付いてるわよ」
「……すみません」
 本当に未熟らしい。
 私は誤魔化しがてら、皮肉っぽいことを口走ってしまった。
「まったく、紫様もごめんの一言ぐらいあっても良さそうなもんですがね。幽々子様まで騙すなんて」
「あそこまで本気の狸寝入りを見せてもらったから、私は良いんだけど。からかえるじゃない?」
「そう仰るなら構いませんがね……天人様は良いんですか?」
 当然、聞いているだろうと思い、話を振る。しかしこちらを向いた天人様は、おむすびを口一杯に頬張って、もきゅもきゅやっていた。秋晴れのごとく良い笑顔である。
 微妙に皮肉ったことを考えて勝手に笑っていると、幽々子様が私の肩を叩かれ、耳打ちした。
「妖夢、あれ……」
「あ……れ?」
 促された方を見ると、天人様の横顔に付いたご飯粒を、スキマから出た手がこまめに、こそこそと取っていた。
「……気付いてませんよね? あれ」
「そういうことにしておいた方が、美しいわねえ」
 言いつつ、渋そうな顔をしてお茶を啜る幽々子様でした。


「あーもうっ! 紫様、寝ながらご飯粒なんて摘んで! いやらしい!」
「ち、違うのよ藍! あ、お布団持ってかないでー!」
 そういうやり取りがあったとかいう話を聞いたのは、ペンペン草が庭に生えた頃のこと。