蕎麦寿

上白沢慧音は外套の袂に両手を突っ込みながら暗い夜道を独り歩いていた。今日も里のために夜回りを終えたばかり。小腹は空き、それを揶揄するように夜風が巻いている。小さな橋に差し掛かる手前で、慧音は足を止める。暖かい湯気が辺りを包んでいた。

『源五郎』。一筆でそう書かれた暖簾を掲げているのは引き車式の蕎麦屋台である。

五穀豊穣の五穀に含まれない、いわゆる嗜好品。それが蕎麦だ。

それを細く、長く切ったものをソバ切りと云、ぐらぐらに煮立った湯の中に突っ込み、茹で上げた後は好みにもよるが水で締め、厚削りの甘汁につけて食す。たったそれだけの料理でしかないのだが、これがなかなか止められない。薀蓄や縁起の多さでは一二を争うことからも、どれだけ人に愛される食かわかるというものだ。

「おう、店主、かけを一杯だ」
「お勤めご苦労さんです」

慧音は木から切り出して粗を取っただけの長椅子に腰掛けると、懐から煙筒を取り出し、先に煙葉を詰めて火をつける。先日、良い葉が手に入ったと里の者にもらったものだが、滅多にやらない慧音にもそれなりに満足できるものがあった。ここのところ、出歩くときは必ず持ち歩いている。

煙を盛大に吐き出すと、傍らから咳があがった。慧音はさして驚いた風もなく、ゆっくりと咳の聞こえた方向に視線を遣す。彼女は自分以外の客のことなどとっくに気づいていたのだった。

「ちょっとあんた、周りを見てから吸いなさいよ」
「おや、誰かと思えば地に足がついていないことで有名な霊夢じゃないか」
「有名にしたのはあんたでしょうに」
「そうだったかな」

とぼけてはいるが、誤魔化す気もあまり無い。巫女なんていう珍しいものが未だ幻想郷にいるとわかったからには、上手く里のために利用したくなるもので、今では老若男女、頭のネジが緩んだ巫女のことを知らぬ者は里にはいなくなっていた。

悪びれた様子も無く煙を吐く慧音を見限ったのか、霊夢は勝手に愚痴をやり始める。店主は少しばかり悪気を出して、蕎麦を鍋に入れるのを遅らせることにした。この稼業は仕込みさえ終わってしまえば、基本的に暇なのである。しかしそこは悪人になり切れず、熱燗を客に供してみたりもする。霊夢は『勝手に出したんだからお金は払わないからね』と云って手をつけ始めた。

「ったく、おかげでこんな時間にまで呼びつけられて、水子の供養よ」
「水子? 水子なら坊主の出番だろう」

水子の供養は一般的に仏教職にある者の勤めとされている。霊夢は猪口の二杯目を空けてから続けた。

「坊主なんて外にしかいないじゃない。それに金には煩いし、ハゲだし、足は遅いし……誰も好き好んで呼ばないわよ。ねぇ、私のかけまだぁ!?」
「それで神職の端くれが討ち入りか。ご苦労なことだ。よし店主、こいつに揚げをやってくれ」

いないから仕方ないという按配でぐだぐだになっていたところに、巫女がいるという話が聞こえたものだから、里の者も気にするようになったのだろう。慧音はそう結論づけると、蕎麦が出される頃合を見計らって煙筒の火を落とした。

「それにしても水子ねぇ……店主、何か聞いているか」

蕎麦が出されてからは一心不乱に食べている霊夢を他所に、慧音は店主に目を合わせる。店主は甘汁を一滴も残さない慧音の食べっぷりを誉めてから、無精髭が伸ばされたままの顎に手を遣った。

「おめでたって話を聞いたのは最近じゃ竜《たつ》さんの所だけですから」

そうなんだろうなぁ、と区切った店主から慧音が霊夢に目を移すと、最後に残した揚げを嬉しそうに頬張っていた。新しく詰めた葉に火をつけると、煙を霊夢の方に吐いてやるが、彼女は別に気にした風もなく、甘汁を飲み干していく。何よりも食べることが優先されるらしかった。

「しかし珍しい話ではないとはいえ、気の毒なことだ。あれはまだ子が無いだろう?」
「ですね。明日にでも酒でも持って行きますよ」
「頼む。私が顔を出すと、向こうも気を遣うからな」

その後、さんざっぱらご相伴に与っておいて『竜の所に水子が出ただなんて洒落にもならないわね』とぼやいた霊夢を慧音と店主が袋叩きにしたりと一悶着はあったが、その晩はさしたる事件も無く、慧音は帰宅後、昼間に干しておいた布団でぐっすりと眠ることができた。家の外では簀巻きにされた霊夢が軒下に吊るされていたが、慧音にしてみればてるてる坊主みたいな感覚であった。


******


翌日、慧音は布団を畳むと、土間の勝手口を開けた。外は折角の立夏だというのに雨が降っていた。

「役立たずめが。おい、起きろ、朝だ!」

吊るされた霊夢の頬を平手で叩くと、じきに目覚める。その目は人を殺すことなどなんとも思っていないかのごとくどんよりと濁っていた。

「降ろせー、降ろせー!」
「元気の良いことだ。それなら朝飯も喉に通るな」
「え、ご馳走してくれるの!?」
「その代わり、今日は私に付いて来い。昨日の騒ぎで起きてきた者達に謝らなければならん」

それを聞いて霊夢は露骨に不満を表情に出したが、それは無視して霊夢を吊るしている紐を解く。直後、鈍い音と共に霊夢が泥濘に突っ伏した。

「ああ、すまんすまん、うっかりしていた」
「わざとでしょ、今のわざとでしょ!?」
「いやぁ、そんなことはないぞ?」

そう云いながら楽しそうに簀巻きを解くと、すっぽんぽんの霊夢を担いで水風呂に放り入れてから、食事の用意を始めた。風呂場からは冷たいだの着替えはどこだのと喧しい声が響いてきたが、気にせずに塩に漬けておいた山菜で味噌汁を作る。昨日に蕎麦屋の店主から分けてもらったあんちゃん《作者注・残り物のこと》に鰹節と醤油をかけ、それらを食卓に置いたところで、畳んでおいた巫女服を見つけて着替えた霊夢が顔を出した。

「随分と時間がかかったな」
「おかげさまで髪がどろどろだったから洗うのに苦労したわよ」
「後で風呂も掃除しておけよ」

いつもならそんなことを命じられて黙っている霊夢ではなかったが、食卓に並べられたほかほかご飯(白米100%)とおかずを見てしまった以上、その誘惑に抗うことは甚だ難しい。ちくしょう、良い生活しやがって。そう毒づくのが精一杯だった。貧しさに負けた、いえ、慧音に負けた。そんな私は枯れすすき。

「実労働時間の多さじゃあんたなんかの倍はあるのに……なんで……うぐ……美味いなぁ」
「ははは、そんなに美味いか、どうだ、おかわりもあるぞ」
「……おかわり」
「そうこなくてはな。いやはや、誰かと食べる飯は美味いものだな」

霊夢が涙と慣れない白米に喉を詰まらせながらも慧音を上回る速さで飯を平らげていると、玄関で慧音を呼ぶ声がした。半ら食べ終えていた慧音が霊夢に後片付けを命じてから席を立つと、霊夢はここぞとばかりに慧音が残したおかずに手をつける。腐っても鯛とは彼女のことである。

霊夢がそんなことをしていると、じきに慧音が血相を変えて戻ってきた。霊夢はしまったと思ったが、もう遅い。恐る恐る慧音の顔を見てみると、彼女は激憤と表現して良いくらい、顔を赤くしていた。

「お前、何をやった!?」

どうやら、飯のことではないらしかった。


******


その日、里では鯉のぼりが暴れていた。それは小高い山の上に建てられた慧音の家から、よく見え、駆け込んできた蕎麦屋の店主に云われた方角を見たときには、鯉のぼりよろしく口をあんぐりと開けてしまった。

慧音がその様子を描写した絵を後々のために残しているが、それは異様というよりギャグでしかない。なんせ間抜けな目をした二丈にもなる大きさの鯉のぼりが家々を破壊し、井戸からは水が噴き出て、人々が逃げ回っているのだから、シュールレアリズムの極致である。

「ありゃ竜さんの家のですぜ……三代前から大事にしてたってんで、よく自慢してやしたよ」
「そういうわけだ。申し開きはあるか?」

霊夢は慧音に詰問されながらも、食卓からくすねてきた漬け物を齧っていた。はて、何かおかしなことをしたかいな、と他人事のように考えていると、じきに思い当たることがあった。

「やっぱり、餅は餅屋って本当なのよね」
「だから、何をしたと訊いている!」
「ああ、わかったわかったってば。ほらそこの親父、商売道具を人様に向けない!」

鼻先に突きつけられた蕎麦打ち棒に流石に危機感を覚えたのか、霊夢は漬け物を齧るのを止めて話した。昨晩にそれで痛い一撃をもらったばかりであった。

霊夢が語るところによると、自分が水子の供養に駆けつけたときの竜宅は酷い有様だった。土間には血溜まりができてい、夫は泣き喚く妻を落ち着かせようと殴る蹴るの大騒ぎ。三軒の家から応援が駆けつけてその場は収まり、ようやく供養という段になったところで、霊夢は気づいた。

水子の供養ってどうやんの。

「アホか!」
「とりあえず奉ったんだけど、拙かった?」
「いや待て。本当に奉っただけか? それならばこんな大事になるはずがない」
「ああ、そう云えば、窓からあの大きな鯉のぼりが見えたから『あー、あんな大きな鯉のぼりにでもなったらこの子も浮かばれるだろう』なんて思って……」

そこまで聞いたところで慧音が頭を抱えてしまった。竜の家は代々、用水路などを作る工作の家柄である。竜と云う名も、父から子へと代々継がれている名前であったから、その家系だけで相当の謂れがある。更にそこに来て立夏、つまりは端午の節句だが、そんな日の巡りと霊夢のあほすけの所為で水子が鯉のぼりに同化したのだろう。

「慧音様、頭を上げてくだせぇ。あれをなんとかできるのは慧音様だけでしょうに」
「しかし、鯉のぼりを退治しただなんて歴史は見た事も聞いた事も無い……大体、そんなことを仕出かすアホは歴史上一人もおらん!」
「あら、それじゃ私は歴史に名を残せるわけだ」
「できることなら無かったことにしてやりたいがな!」
「できないの?」
「奉ってしまった以上、あれは神だ! そんなものを簡単に無かったことにできるわけがない!」
「あー、わかったわかった、わかったから大きな声を出さないでよ。これだから優等生は土壇場で役に立たないのよねぇ」

慧音が霊夢の頬に殴りかかろうとしたとき、彼女は霊夢の閃きに満ちた表情を見た。慧音に続こうと棒を振りかぶった店主を、彼女が手で抑える。その様子に満足したのか、霊夢は見栄を切った。

「蕎麦を打つのよ!」

霊夢の脳天を棒がかち割った瞬間だった。


******


「おい、本当にこれで良いんだろうな」
「やってみなくちゃわかんないわよ。他に方法も思いつかないし」
「……だそうだ。皆、色々と思う所はあるだろうが、それは失敗した後に存分にこいつで晴らしてくれ。私は奴を引き付ける」

慧音が云うと、集結した里の者全員が渋々作業に戻る。現在、里の中心では総出で蕎麦が打たれてい、その傍らでは頭のおかしいことこの上無い巫女が祝詞を唱えていて、異様さに拍車がかかっていた。

「えー、次は打ち粉を――」

指示は全て蕎麦屋が行っているが、彼が霊夢に教えられたのは『とにかく蕎麦を打て』ということだけだったので、本人も何がなにやら、わけもわからず里の者を相手に蕎麦打ちを教示している。もっとも、この里の者全員がそれなりに蕎麦打ちの心得はあるので(昔は田舎ではそれが当たり前)、実際の所、蕎麦屋は音頭を取っているだけであった。

「出来た!?」
「へぇ、まぁ、後は甘汁に突っ込むだけでさぁ」
「よし、全員、整列!」

場の雰囲気とは恐ろしいもので、渋々やっていた連中も霊夢の号令を受けて整列する。慧音は空中で必死に鯉のぼりを弾幕で引き付けつつも、地上の様子の怪しさに疑念を抱かずにはいられなかった。

「構え!」

老若男女、蕎麦を盛った丼を持ち、見上げる先には鯉のぼり。

「実食!」

ずぞずばずびずばずぞぞぞぞぞぞもももぞぞぞずずりずばずびずぼずぱずぴずぴぞもももぞぞぞずずりずばずびずぞずばずびずばずぞぞぞぞぞぞもももぞぞぞもももぞぞぞずずりずばずびずぱずぴずぴぞもももぞぞぞずずももぞぞぞもももぞぞぞずずりずばずぞぞぞずずりずばずびずぼずぱずぞぞずずりずばずびずぱずぴずぴばずびずばずぞぞぞぞぞぞもももぞぞぞずずりずばずびずぼずぱずぴずぴぞもももぞぞぞずずりずばずびずぞずばずびずばずぞぞぞぞぞぞもももぞぞぞもずずりずばずびずぼずぱずぴずぴぞもももぞぞぞずずりずばずびずぞずばずびずばずぞぞぞぞぞぞもももぞぞぞもももぞぞぞずずりずばずびずずぴずぴぞもももぞぞぞずずももぞぞぞもももぞぞぞずずりずばずぞぞぞずずりずばずびずぼずぱずぞぞずずりずばずびずぱずぴずぴばずびずばずぞぞりずばずびずぱずぴずぴぞもももぞぞぞずずももぞぞぞもももぞぞぞずずりずばずぞぞぞずずりずばずびずぼずぱずぞぞずずりずばずびずぱずぴずぴばずびずばずぞぞぞぞぞぞもももぞぞぞずずりずばずびずぼずぱずぴずぴぞもももぞぞぞずずりずばずびずぞずばずびずばずぞぞぞぞぞぞもももぞぞぞもずずりずばずびずぼずぱずぴずぴぞもももぞぞぞずずりずばずびずぞずばずびずばずぞぞぞぞぞぞもももぞぞぞもももぞずばずびずばずぞぞぞぞぞぞもももぞぞぞずずりずばずびずぼずぱずぴずぴぞもももぞぞぞずずりずばずびずぞずばずびずばずぞぞぞぞぞぞもももぞぞぞもももぞぞぞずずりずばずびずぱずぴずぴぞもももぞぞぞずずももぞぞぞもももぞぞぞずずりずばずぞぞぞ。

蕎麦を啜る音が盛大に木霊する。ある証言によるとそれは山の向こうまで聞こえるほどだったらしいが、証人が小骨になってしまった現在では確かめる術は無い。

特に良い食いっぷりなのが霊夢で、一杯を終えると二杯目、二杯目を終えると三杯目と、わんこ蕎麦のごとく啜り続ける。その次に凄いのが今や鯉のぼりとなった息子の父親こと竜で、涙と鼻水を垂れ流しながら「くう、七味が目に染みるぜ!」と叫びながら啜っている。七味は善光寺に限るね。

そんな様子を半ば呆れながら上空から眺めていた慧音であったが、じきに鯉のぼりの異変に気づいた。鯉のぼりは動きを止め、つぶらな(間抜けな)瞳で地上の人々を見下ろしている。慧音はそっと鯉のぼりの横に近づいた。

「あれだけの者がお前の元気な姿を見るのを楽しみにしていたんだ」

そっと首の辺りを撫でながら、そう呟く。霊夢は蕎麦に込められた長寿の願いを大規模な形で実現させたのだ。慧音はそれに気づき、哀れな水子のために涙を流した。

「山に行くが良い。お前に似合う、綺麗な川があるから」

鯉のぼりは慧音に顔を擦りつけ、彼女の濡れた目元を拭うと、山へと飛び去っていった。後には、間抜けな蕎麦を啜る音だけが残ったのだった。


******


「爾来、端午の節句には里で蕎麦を打ち、食べる習慣ができたのだ」
「ほう、それは初耳だな。それで、霊夢はその後にどうしたんだ?」
「あれを思いついた理由が『食い収めになるかもしれないから蕎麦をたらふく食いたかった』というものだったのでな、里の者総出で蕎麦粉で丸めて、川に流した」
「ああ、それで私が蕎麦を食おうと云うと怯えるわけだな」

慧音と魔理沙の愉快な笑い声が響く。里では、子供達が元気に走り回っていた。