厩の少女、馬に蹴られる

幻想郷の夜は長い。人は陽が落ちれば板戸を閉め、妖怪は人の隙を窺う。

妖怪の中には月見に洒落こむ者もあろう。宴会で騒ぐ者もいるに違いない。幻想郷の夜は長い。夜を恐れない者達にとって、これほど楽しい時間は他に無い。

――他に無いはずなのだが、西行寺邸にあっては話は別で、夕餉が終われば灯りが落とされる。西行寺幽々子にとっても月見や宴会は楽しいものだ。とはいえ、悠久に身を任せる彼女にとって、その日その日に生の実感を得る必要は無かった。そもそも、生きてはいないのだから。

花が咲いたとあれば散るまでを見、陽の高低、強弱による遷り変わりを眺めながら庭を歩く。幽々子にとっては、それで満足なのであった。

妖夢にとってもそうだ。彼女は今日も恙の無い一日を過ごせたことを嬉しく思いながら、屋敷の戸締りをしていく。

天敵にあたるものがいない冥界だが、妖夢が戸締りを欠かしたことはこれまでに一度も無い。それは先代がそうしていて、それを見て育ったからだというのもあったが、彼女自身、戸締りをしなければどこか落ち着かないのであった。

そんな妖夢を幽々子は寝酒をやりながら見る度、妖夢はこわがりだとからかう。小さい頃は無性に腹が立ったものだが、近頃ではそう云われるのが決して嫌ではなかった。

狭くはない屋敷の戸締りを終えると、置いておいた茶を飲みながら日記を書く。それは日記というよりは日報と云って良い内容で、ほとんどの日が異常無しという言葉だけで終わっている。ときには来客の名前や出かけた先の地名が書かれることもあったが、妖夢には、異常無しと書くのが楽しみになっていた。

あるとき幽々子が日記を盗み見たことがあり、そんなに異常無しばかりならば判子を作れば良いと云った。それを真に受けた妖夢は判子を彫ったのだが、変な所で凝り性が出て、やれ『し』の抜き方が気にいらないだの、字面としては『し』はいらないだの、そう思う度に彫り直したものだから、部屋の片隅には判子が積み上がった。

夜中には判子を彫るわけだが、昼間にもそのことが頭から離れず、庭木の剪定の際に落とした木を仏像に仕立てたこともあった。

「これでは凝り性ではなく彫り性だ。そんなものは穴を掘って埋めてしまえ」

幽々子の乾かぬ舌に振り回されながら、妖夢は今日も異常無しと日記につけた。

異常があったのは翌日のことである。それを見た幽々子は目を見開き、そんな彼女を見た妖夢は、今日は起き抜けがよろしいようで、と冗談を打ったものの、どうにも幽々子の様子がおかしいものだから、また夜中に置き出して変なものでも食べたのだろうかとまで考えた。そこで幽々子が震える唇を抑えて叫んだ。

「変なものでも食べたの!?」

どうやら幽々子様は重症らしい。妖夢が呆れた目付きでいると、幽々子は大慌てで手鏡を取り出し、妖夢に向ける。

鏡の向こうには、見慣れぬ黒髪の少女がいた。


******


「だから、仏像を埋めるなんて罰《バチ》が当たると云ったんですよ!」
「冥界で仏像を彫るあなたがおかしいんじゃないの。ああ、そうね、おかしいあなたがそうなるのは自明なわけね」

日が昇ったばかりだというのに、西行寺邸は大騒ぎであった。妖夢の綺麗な銀髪が黒一色となり、それはそれで可愛いものだったが、自分なりに髪の毛を自慢に思っていた妖夢にとっては今にも髪の毛をわやくちゃにしたいほどであった。

問題をややこしくしているのは、そうなった原因がわからないことよりも、幽々子が、こういうこともあるだろう、という程度の意識だということで、普段と変わらず妖夢をからかってばかり。これでは事態が上向く様子が見られるわけもなかった。

「幽々子様がおかしいのはよろしいですが、私はおかしくありません!」
「まあっ、それはどういう意味かしら」

それでも傍から見ている分には楽しげであったから、まだ良かった。ところが、妖夢が我を忘れて好き勝手に幽々子のことを云うものだから、幽々子は段々と面白くなくなってきたらしい。途中から、幽々子は一度も喋らず、妖夢の一言一句を聞き取るようになった。

三年寝太郎!

白痴!

304号室!

そこで幽々子が口元を隠していた扇子を手から落とし、妖夢が口を止めた。微笑が人を殺すこともあるのだろう。妖夢はそう思ったが、既に遅すぎた。

「何を云うとんじゃ、このくそジャリがぁ! おのれがこの界隈で顔利かせられるんも、うっとこのおかげぇ云うことわぁっとるんじゃろうなぁ、あァン!? そんなに云うならなぁ、ジャリならジャリらしく、ボウズにでもしとけや! ほら、出せ! 出せぇ! うちが剃ったるから頭出せやぁああああっ! そしたらそこにおる球っころとおそろいじゃ! がははははははっ! どや、おかしいやろ、おかしいやろ? おかしいなら笑えやぁ!!」

どこから取り出したか、剃刀を片手にずいずいと寄って来る幽々子に、妖夢は恐怖した。自分がこわがりになったのは間違いなくこの方のこういう面の所為だ。今更ながらに思い返しながら、妖夢は必死に逃げた。顔が歪むのはおかしいからではない。

そこら辺にある壷やら掛け軸やら、果ては床から剥がした畳までをも幽々子に投げつけるが、彼女はその都度に剃刀で真っ二つにする。いったいどんな剃刀なのか、いや、それ以前にあんなもので剃られたら、耳や鼻は落とされ、頭をくりぬかれてしまう。

涙で前が見えなくなりながらも、なんとか屋敷から飛び出すことに成功した。幽々子は追って来ない。彼女は縁側で嬉しそうに手を振っているが、後ろ手に隠された剃刀が鈍く光るのが見えた。

妖夢が幽々子に背を向けると、途端に罵声が飛んでくる。妖夢は両手で耳を押さえながら、飛び去っていった。

「あらあら、あんなに必死になっちゃって。でもこれで、昼間からお酒が飲めるわ」

西行寺幽々子に慈悲は無かった。


******


「それで私のところに来た、と」

上白沢慧音は逃げ込んできた妖夢に事の次第を聞き終えると、鼻水を垂れ流して泣きべそをかいている妖夢に三杯目の茶を勧めた。よほど怖い目にあったのだろうと思い、大して親しくもないのにこうして家に上げたわけだが、なるほど、話を聞いて納得がいった。

慧音は垂れた前髪をたくし上げると、そのままの姿勢でしばらく考え込む。その間、茶と鼻水を啜る音が居間に響いていた。気まずさを覚えた慧音は、とりあえずは考えるのを止めて、妖夢が落ち着くのを待ってから、口を開いた。

「もしかしたら、幽々子はお前を怖がらせて、髪の毛を元に戻そうとしたのかもしれんな」
「それじゃ白髪になっちゃいますよ」
「ああ、お前は銀髪だったか」

元から冗談のつもりで云ったことだが、普段から冗談は苦手だったため、どうにも具合がよろしくない。いっそ地雷でも踏ませればと思ったが、それでも白髪になってしまう。人間……まぁ、この場合は半人だが、それというのはなかなか漫画のようにはいかないらしい。

「それにしても、何故に私の所なんだ? 霊夢や魔理沙の所へ駆け込めば良かったじゃないか。もし罰が原因なら霊夢などはうってつけだし、魔理沙だったら薬などに詳しいからなんとかなったかもしれない。なんだったら、あの紫とかいう妖怪のところへ行けば良かったんじゃないか」
「その前にさんざんにからかわれて、こっちがどうにかなっちゃいますよ」

ありうる。慧音は腕を組んで唸った。それに、仏像の罰なら霊夢には専門外。魔理沙の薬にしても、下手をすれば地雷を踏んだどころの騒ぎでは済まない。紫は――霊夢などから聞き及んでいる限りでは論外である。

「あなたなら人間のことに関しては詳しいし、それに……」

喉を詰まらせる妖夢に、慧音は顎を向けた。いいから云ってみろということである。妖夢は茶を飲んでから、思ったことを口にした。

「体の変化については、よくよく体験していらっしゃるかなぁ、と」
「……どうやらまた肝試しがしたいらしいな」
「ひいぃいいいいっ!」
「冗談だ」

それくらいで一々に怒るほど慧音も短い時間を生きてはいない。しかし、それほど怖がらなくても、と思ってしまう。なんだか自分が化け物にでもなるみたいな怖がり様だ。事実、幻想郷中を探しても、あそこまで化け物らしい姿の化け物も数える程度だろうが。

「髪の毛の変化か。普通、髪の毛というのは変化するものだがな。そうだ、お前は髪の毛はちゃんと伸びるのか」
「はあ、基本的には」
「白髪が生えたことや脱毛したことはあるか」
「あってもおかしくはなさそうですけど、今の所は無いですね」
「これまでにこういうことはあったのか」
「いえ」

そこまで訊ねて、慧音の頭から質問の項目が尽きた。妖夢から得られる情報は、他に無いだろう。慧音はこれまでに蓄積した歴史から色々と思い当たりそうなものを探してみたが、収穫は無かった。そのことを妖夢に告げると、彼女は肩を落とす。余程、自分の髪が気にいっていたのだろう。慧音は居た堪れなくなって、とにかく何か話を聞かせてやろうと思った。

「私やお前がそうだが、妖怪というのはだな、歴史から溢《あぶ》れたものなんだ。平将門などが良い例だろうな。彼は人の歴史に名を残しているが、亡霊伝説などでは妖怪のような扱いをされる。では、そんな伝説が歴史になると思うか」
「ならないんじゃないですか。だって、そんなのは人の歴史には関係が無い」

妖夢の応えに満足した慧音は、お互いの茶を注ぎ足した。そうしながら、慧音はもう一度、妖夢の髪の毛を見遣った。とても艶があって、初対面の者などはよほど黒髪の維持に気を遣っているのだろうと考えてもおかしくない。慧音はそういったことを頭の中でまとめてから、話を続けた。

「そうだ。歴史を作れるのは人間だけなんだ。だから、後世の人間に関係の無い事柄は、あくまでも伝説やいかがわしい本などに記録を残すに留まる。歴史に残ったとしても、後世の人間は歴史の本筋から外して考える。世の中にはそういう事柄を好んで楽しむ輩も数多くいるが、そういった者達にしても、まさか自分達の本筋の歴史と混同したりはしない。利用しようということはあるかもしれないがな」
「でも、それじゃおかしいですよ。だって、あなたは歴史を喰うし、作りもするのでしょう?」
「私の場合は、歴史そのものを妖怪染みたものだと人が考えた結果だ。人がいてこそ妖怪がいて、歴史がある。その大前提は崩れない」
「なんだかややこしいです」
「まぁ、これは与太話だ。私自身、自分がどうして存在しているかということを考えたことがあるからな。しかし、人間の中には私や他の妖怪が成立した過程に違った見解を持っている者もいるかもしれないんだ」

ふむ。茶を飲みながら話に聞き入っている妖夢を見て、慧音はほっとしていた。この子は激しいところもあるが、平生の心根は真っ直ぐなことがよくわかったからだ。これならば上手くいくかもしれない。話をまとめにかかることにした。

「だからな。自分なんてものは、それぞれの、種々の見解によって全く違ったものになるということだよ。それは現実逃避や他人を否定することとは違う。自分や相手をどう読み解き、認識し、生きていくか。そういうものなんだ。たしかにお前は髪の毛がそんな風になってしまって困惑しているかもしれないが、別に腕が落ちたり目が潰れたりしたわけじゃない。お前が食ってかからなければ、幽々子だってお前のその綺麗な黒髪を褒めてくれたかもしれないじゃないか。なんでも、自分の見解だけで決めてはいけないよ」

そこで慧音の話は終わりだった。途中、早口になることもあったが、後半はゆっくりと、自分でも確かめるようにして、言葉を紡いだ。しかし、話を聞き終えた妖夢はどこか困ったような顔をしている。具合がよくなかったのだろうか。そうではない。妖夢の目は、自分だけにではなく、他人にも向いていた。その証拠に、彼女はどこかそわそわしていて、目を向ける先には出入り口があった。

「私はどうしたら良いんでしょうか」

妖夢の言葉に慧音は笑顔を見せた。優しげに閉じられた目は、瞼の裏に何を見たのだろうか。彼女は最後に、具体的な方法を示してやることにした。

慧音は湯飲みを置くと立ち上がり、箪笥の棚を開けた。その中からある衣装を取り出すと、それを妖夢に見せる。最初は訝しがっていたが、慧音が二言三言、口にすると、表情が綻んだのだった。


******


幽々子が縁側で一升瓶を空けていると、遠くの景色に見覚えのある姿を認めた。彼女はすぐに一升瓶と杯を片付ける。その間、彼女は妖夢が戻ったことの嬉しさと、自分の所に戻ってくるしかない彼女に愛しさを覚えていた。

先程のことはやりすぎた。この前の宴会で紫と人間の脅し方について盛り上がったのだが、妖夢にはキツ過ぎたかもしれないと思うようになっていた。妖夢には、というより、あれで小便をちびらせない人間がいたらそれはそれで恐ろしい。幽々子の人間の基準が霊夢などにあるのが、何よりの問題なのかもしれなかった。

玄関の開く音が勝手場まで聞こえた。律儀な妖夢らしい。たまにはそれに付き合ってやろう。幽々子はそう思って、玄関に向かったのだが、そこで今朝と同じような表情になった。

「妖夢、よね?」
「はい、妖夢です」

今朝以来になる妖夢の格好は様変わりなどというものではなかった。頭には白布を被せ、髪の毛がどうなったかどころか口元以外は全く窺うことができない。服も彼女にしては厚着で、黒味のかかった紫が着物を彩っていた。それは尼の格好である。

「ねぇ、これは何の戯れなの? 教えてよ」
「お教えするのは結構ですが、残念ながら、これは戯れではございません。実は、幽々子様にはお別れを告げに参ったのでございます」

お別れ。幽々子はその言葉の意味を考えるよりも、先ずはこの場を制すことにした。妖夢ごときに後れを取るようでは、主従の関係としてはまずいし、何より、幽々子が面白くなかった。

「冗談は後で聞くから。ね、髪の毛はどうしたの」

今日の晩御飯のことでも訊くように、幽々子はすすいと妖夢に近づこうとしたが、妖夢の手を突き出されてしまった。

「髪の毛は剃りました。これから修行する身にあっては、髪の毛などは俗世の未練にしかなりませぬ」
「俗世ねぇ……ここは元々、浮世なのに。でも、本当に、剃っちゃったの?」
「はい、こちらがその証です」

妖夢は突き出した手を懐に突っ込むと、あるものを取り出した。それは黒髪の束だった。それを見て幽々子は、ようやく顔を蒼ざめたのだった。震える手で髪の毛の束を受け取ると、愛しそうにそれを胸元で抱き締めた。

「ねぇ、どうして、こんな……私に愛想が尽きたからなの? さっきのことは謝るわ、だから、お別れだなんて云わないで」
「いえ。あの後、途方に暮れていた私に、あの埋めてしまった仏様が現れたのです。そしてこう仰った。お前は自分を知る機会を得た。これからは世のためにその機会を生かせ。――」
「へ、変な宗教に誑かされたのね! いいわ、私がとっちめてやるから案内しなさい!」
「それはできません。仏へと至る道は険しく、私には案内など、とてもとても……」

ゆっくりと首を振る妖夢に、幽々子は跪いた。顔は地面に向けられ、涙が床を濡らす。それは哀しみからではない。悔しさからだ。妖忌から預けられた妖夢を導けず、仏などというものに奪われた屈辱は、彼女の自尊心を傷つけていた。

「幽々子様は、そんなに私に居てほしいのですか」
「当然よ!」

そこで妖夢は頭の布を取り払った。黒々とした髪の毛は、剃られずに彼女の頭に未だあった。幽々子に渡した髪の毛の束は、慧音が里の男衆から村祭のときにもらったものである。

未だ顔を上げず、泣き止みもしない幽々子に妖夢が声をかけようとしたとき、幽々子が叫んだ。

「あなたがいなくなったら、誰が庭の手入れをするのよ!」

幽々子の顎に妖夢の蹴りが炸裂した瞬間であった。妖夢の髪の毛は、半年後にはすっかり元の通りに生え変わっていたという。