うずうず

 暮れない陽がある。それは普通の陽と違い、誰かを照らしたりはしない。夜となった今はその色も暗く、燃え尽きたばかりの炭を連想させる。もしかしたら、この陽は燻っているだけなのかもしれない。傍にある湖は、その様子を見守り続けるだけだった。


 十六夜咲夜は紅魔館の湖に面した側にある廊下を歩いていたが、ある窓の前で立ち止まった。その窓の内側には露が垂れており、露は窓枠の下にまで及んでいた。
 最後にワックスを塗ったのはいつだったろうか。冬が明ける頃には、窓枠が膨らんでいないか、全ての窓を確かめなければならないだろう。その前に、天気の良い日を選んでワックスを塗り直しておくのも良い。そうなると、やはり湖側から始めるべきだ。
 咲夜は窓の表面を指先でなぞりながら考えていた。彼女の視線の先には湖があり、どちらかというと窓よりも湖に焦点が合っているようだった。
 湖は墨のように黒く、どこまでも広がっているように錯覚させる。まるで向こう岸まで飲み込んでしまったのではないかという不安すら生じた。
 レミリアも今頃は湖を眺めているのか。咲夜は主のことを思い出すと、濡れた指先をエプロンで拭き、窓を離れた。
 幾つかの角と幾つかの階段、そして幾つかのドアを経ると、レミリアのプライベートルームに入ることができる。その奥には彼女の寝室へ至るドアがあった。まだ寝ているかもしれない。咲夜はノックの音を控えめにしたが、奥からはちゃんと返事があった。
「おはようございます、お嬢様」
 すっかり慣れてしまった夜の挨拶を済ませ、面を上げる。レミリアは起き抜けのままの格好で窓際の椅子に腰掛けていて、特に用事も無いのか、咲夜に関心を示さなかった。レミリアの寝間着は背中が腰の辺りまで切り裂かれたように露出し、病的に白い肌から一対の黒味がかった翼が伸びている。
 吸血鬼というともっと健康的でも良さそうなものだが、少し考えてみれば、血が必要だからこそ飲むわけであり、なるほど血の気が薄いのも道理であることに気付く。では、血を飲まない吸血鬼がいれば、丸々と太って、脂ぎっているのだろうか。咲夜は考えてみたが、血を飲まない時点で吸血鬼ではないことに思い至り、軽くはにかんだ。
「人の背中を見て笑うなんて、趣味が悪いわ」
「よくおわかりになりましたね」
 レミリアは相変わらず咲夜に背を向けている。咎められたはずの咲夜は主人との会話を楽しんでおり、レミリアもそれを知っていた。
「季節と同じよ。長く付き合っていると、ちょっとした空気の変化でわかるの」
「ああ、だからパチュリー様のような方ともお親しいわけですか」
「さあ? それはパチェに訊いてみなさい」
 病的な人物の代表格の顔が咲夜の頭に浮かんだ。正確には病的というよりも病気そのものなのだが、病的というのは彼女の嗜好によるところが大きかった。自分のためだけに図書館を用意している時点で、既に一般の価値観を凌駕している。
 つまり、訊くだけ無駄だ。咲夜は結論付けると、レミリアの傍からベッドに寄り、何事か確認し始めた。
 横の部分が少しだけめくれた掛け布団をはぐり、シーツに手を当てる。ぞっとする程の冷たさが咲夜の腕を這い登った。シーツそのものには寝汗をかいた様子は無く、皺も寄っていない。シーツの取替えに特別気にする必要は無いことがわかると、咲夜は一旦布団を元に戻し、それからレミリアの背中に向き直った。
「お食事の前に何か?」
「私は別にいいわ。フランの様子だけ一度見てきて」
「かしこまりました」
 フランドールの相手をするとなると、他の者には任せられない。咲夜はベッドの枕元にある水差しを持つと、足早に部屋を出た。
 廊下に出た所で見つけた部下に水差しを渡すと、食事の準備とシーツの取替え、それとレミリアの着替えを指示して、自分は階段へ向かう。後ろで、先程の部下が『お気を付けて』と言ったのが聞こえた。


 フランドールがいる地下室に向かう道は限られている。そこは元々、屋内に井戸や下水を設置する際に作られた物置であるため、地下に下りるための入り口は狭く、位置も建物の奥に当たる。その入り口がある小さな部屋には交代制で詰めているメイドがおり、咲夜はそのメイドに地下へのドアにかかった鍵を開けさせ、ランプを受け取った。
 ドアの先は直ぐに階段である。このドアは元々あったものではなく、レミリアが取り付けさせたものだ。それはフランドールのためというよりも、誰かが不用意に足を踏み入れないようにするためだった。
 中は縦穴構造になっており、中心を大きな柱が貫いている。柱の中は空洞であり、井戸になっている。つまり、断面を上から見れば二重丸の形になる。柱と壁の間に階段が続き、十回ほど円を描くと湖の底よりも深い場所に足を着くことができる。
 スクエアトウのパンプスだけが石造りの中で音を立てる。咲夜は白い靴下が汚れないよう気を遣いながらも、慣れた足の運びでヘコミを避けていく。ここには昼も夜も無く、季節も無い。長い付き合いというものも無いだろう。レミリアとフランドールの姉妹を繋いでいるものは、ただ血縁だけだった。
 幾何学的に入り組んだ地下を進み、フランドールの部屋の前に立つと、ドアを叩いた。中から、ころころとした少女らしい声で返事があった。咲夜は幾分か引き攣っていた口元を緩めて、ドアノブを捻った。
「おはようございます、妹様」
 フランドールは机の上の手を止めないまま、挨拶を返した。機嫌は悪くないらしい。咲夜は失礼しますと言い沿えてベッドや部屋の様子を確認し、それを一通り終えると、余っている椅子をフランドールの傍に持っていって腰掛けた。
「今日はいつ頃に起きましたか」
「んー」
 フランドールが咲夜に背中を向けたままで考え込む。彼女の翼はレミリアと違って、翼らしい翼ではない。もっとも、吸血鬼の翼らしい翼というものを咲夜は知らないから、枝に成った果実のように色とりどりの羽が翼を彩っていても、気にしたことはなかった。
「五時ぐらいかな」
「随分早くに起きたのですね」
「昨日から取り掛かったのが終わってないんだ」
 言われて、咲夜が中腰になってフランドールの手元を覗いた。何個かあるオブジェの下には紙が敷かれていて、そこに描かれた無数の円や三角形が、ときに重なり、ときに線で繋がれている。所々には丸く小さな字で注釈があって、一際大きな文字はそれが何かの図解であることを示していた。
「それは?」
「言ってもわかんないだろうから、言わない」
「まぁ、そうでしょうけど……」
 フランドールはなかなかに勉強家で、パチュリーが家庭教師を始めた頃はその独学っぷりを矯正するのに苦労したらしい。今でもその傾向は変わっておらず、それどころか基盤となる知識が増えたために却って悪化している。
 咲夜が唇を窄めていると、フランドールが唐突に振り返った。
「咲夜もわかることなら話しても良いよ」
「と、言われましても」
 半強制的に地下室に押し込められている相手とできる話なんて、そうあるものではない。咲夜が低く唸っている様をフランドールは楽しんでいたが、その咲夜は思い出したことを口にした。
「館の傍に湖があることはご存知ですよね」
「うん、一応」
 館に住んでいる者同士の会話とも思えないが、他に話題が無かった。
「私はなんとなく見ていただけなんですが、レミリア様も寝室からご覧になっていたみたいで……」
 それだけの話だったから、言葉が続かなかった。話し始めればどうにかなるだろうと思ったものの、やはりつまらない。どう誤魔化したものかと咲夜が困っていると、意外にもフランドールに反応があった。
「ふうん、いつもつまらなさそうにしてるのにねぇ」
「そうなんですか?」
 どうも変だ。フランドールよりも咲夜が、レミリアと接する機会を多く持っている。それはこの場にいる二人とも知っていることだから、どちらからということもなく笑いが起こった。
「まぁ、つまらなさそうだっていうのは本当だよ。まったく、私をこんなつまらない所に押し込めている癖に」
 フランドールの眉根が寄る。やはり、姉のことを快く思ってはいないらしい。
「そう言わないでください」
「咲夜が気にすることじゃないよ」
 確かに姉妹の問題ではある。しかし、レミリアが滅多にフランドールと会おうとしない以上、咲夜が気にしないわけにもいかないのも事実だった。フランドールがそうだと手を叩かなければ、咲夜は再び唸り始めていたに違いない。
「私も食事は上で取るよ。ね、良いでしょ?」
「それは構いませんが」
 近頃はフランドールが勝手に地下室を出るようなことさえしなければ、レミリアは大目に見るようになっている。咲夜は部屋にある時計に目を遣った。地下に下りてから、もう二十分近く経ってしまっている。
「それでしたら、そろそろ行きませんと」
「わかった」
「でも、まだ終わっていないのでは?」
 机を見ながら言う。フランドールはああと思い出したように呟いた。
「いいのいいの。つまらないから」
「そうですか」
 咲夜は嬉しさに顔を綻ばせていた。


 食事は一階の食堂で行われることになった。そう決めたのは咲夜であり、そこでは縦に大きく穿たれた六つの窓から湖をよく眺めることができた。この窓の上側はアーチを描いており、ゴシック調の内装と相俟って、この館を造った者のゆとりを感じさせる。
 本来はそれぞれの自室で用意される食事の場所の変更は急なことではあったが、準備が整えられるまでに時間はあまり必要ではなかった。食堂に限らず、館にある部屋はいつでも使えるように掃除が行われていたし、何より、食堂は厨房から当然近かった。
 咲夜は給仕を残して全てのメイドを食堂から出すと、お待たせしましたとレミリアに告げた。レミリアは目を閉じたまま頷くと、細目を開けて下座の席にいるフランドールを見た。その傍らにいつの間にか咲夜が移動していて、フランドールの首にナプキンを巻いてやっている。それが終わるとフランドールは早速スープを飲み始め、レミリアと目が合っても、邪魔をするなと言わんばかりに睨み返した。
「咲夜」
「はい、なんでございましょう」
 声がかかるのをわかっていたらしい咲夜は、既にレミリアの横にいた。
「私にもナプキン」
「失礼しました。ただいま」
 別に咲夜が失念していたわけではなく、いつもはレミリアが自分でしている。咲夜が手早くレミリアにナプキンを付けている様を、フランドールはパンを千切りながら眺めていた。目付きは相変わらず悪く、一方のレミリアはフランドールを見ようとしない。それは主菜の皿が机に置かれるまで続いた。
 主菜は塩漬けのタラを酒に浸してから蒸したもので、あまり手が込んでいない。その代わり、上にかけるソースについては厨房を任されているものがこれでもかと技術と経験を詰め込み、それは咲夜が皿を机に置いてからかける手はずになっていた。
「咲夜ぁ、私の多めにね」
 フランドールの言葉に咲夜が返事をしていると、まだソースをかけていないレミリアの皿に手が付けられた。
「お嬢様?」
「私はこのままで良いわ」
「しかし、いつもは……」
「今日はいつもと違うの」
 子供っぽい物言いだったが、見た目は子供なので問題は無い。咲夜はフランドールを連れてきたことは失敗だったかしらと憂いていたが、この上フランドールの機嫌を損ねては元も子もない。赤いソースをたっぷりとかけ終えると、フランドールに差し出した。
「咲夜」
「はい?」
 今日はレミリアの注文が多い。いつもなら無言で食事が始まり、無言で食事が終わる。勝手が違うために咲夜は右往左往することが増え、食後の紅茶の用意は誰かに代わってもらいたい気持ちになっていた。
「何よこれ、味が薄いじゃない」
 無茶苦茶である。そもそも、この料理はソースをかけることが前提にある料理だ。しかもそのソースを気に入っているのは、誰あろうレミリアだった。
「ですからソースを」
「素材の味を引き出すのがコックでしょう?」
「一理ありますが、今日はソースで我慢してください」
「まったく、よくコックに言っておきなさい」
 レミリアが渋々といった具合に咲夜に皿を渡す。咲夜がソースをかけ終えてレミリアに返すと、ぱくぱくと食べ始めた。


 食事が終わった。それは、長く苦しい戦いの時間であった。咲夜は厨房の奥にある冷蔵室を閉め切って大声を出すと、何事も無かったかのように出てきて紅茶の支度を始めた。その姿を、コックや給仕は恐々と見守っていた。
「あの、メイド長」
 疲れていらっしゃるようですから、代わりましょうか。その言葉ですらコックの口からは簡単に出てこない。コックは戦法を変えることにした。
「……今日の三時のおやつは焼きプリンです」
 もし高速度カメラがあれば、咲夜の空気が一瞬にして柔らかくなっていった様を感動と共にフィルムに残すことができただろう。コックの後ろに控えていた全員の心中で、よくやったコックという歓声が起こっていた。
 この焼きプリンがどうしてメイド長の好物なのか、未だに判明していない。そもそも本当に好きなのかどうかさえ本人の口から明かされていない。嬉しそうな顔をして、黙々と食う。愛しそうに口に含み、舌で何度も転がして味わうのだ。一度、余ってしまったと嘘を吐いて食べさせてみたところ、仕方無いわねぇと言いつつ、六個も平らげた。
 例えばこれが地方色溢れるものだったらメイド長の謎めいた出生や過去について推察できようというものだが、なんせ焼きプリンである。かき混ぜて冷やしてバーナートーチで焼いただけの、憎いアイツでしかない。コックとしても、精々が門番とかのおやつにと差し入れる目的で片手間に作るような代物である。
 そんな焼きプリンが厨房の救世主となった数分後、咲夜は鼻歌混じりに食堂で紅茶をカップに注いでいた。しかし、その折角の気分も重い沈黙に徐々に削がれていく。姉妹は一度も会話を交えていなかった。
 こうなれば無理にどうにかしようとせず、流れに任せて有耶無耶にするしかない。咲夜は幸せが待つ三時に向けての方針を決定し、二人に茶を供した。
「血はどうしましょう?」
 このときばかりは、姉妹二人から入れるように指示があった。幸先の良いスタートである。咲夜はクリープを入れる要領で紅茶の入ったカップに血を垂らす。比重がしっかりしている良質の血液は一度だけカップの中に靄を作ると、下に沈む。それをスプーンでかき混ぜ、渦が止む前に二人に差し出した。
 地下室には調理用の設備が無いため、暖かいままの紅茶を普段フランドールは飲むことができない。冷たい紅茶に入れた血はカップの内側にこびり付くことが多く、こういうときでもないと美味しく飲むことはできなかった。
 だというのに、フランドールは暖かい紅茶に綺麗な渦が出来ているのが興味深いのか、かき混ぜるばかりでなかなか飲もうとしない。かちゃかちゃというスプーンとカップが当たる音はレミリアにとって煩わしいはずだったが、彼女は紅茶を飲みながら黒く静かな湖を眺めるだけだ。そして、咲夜に言った。
「なんだか疲れたから、寝直すわ」
 咲夜はほっとした反面、何か残念な気がしてならなかった。


 咲夜は寝直すというレミリアを寝室まで送っていた。フランドールのことも気がかりだったが、それはいつものことなので、今はレミリアを優先させることにしたのだった。
 レミリアからは何事か叱責があるということもなく、咲夜は無聊な気持ちを持て余しながら廊下を歩いていた。
 すると、ある場所で咲夜がレミリアを追い越してしまった。小さな身長のために、彼女が立ち止まったことに気付くのが遅れたのだった。
「誰よ、こんなところにラクガキしたのは」
 レミリアが指差した先には、先程に咲夜が指を這わせた窓があった。咲夜がそのことを明かすと、レミリアは腕を組んで窓に向き合ってしまった。
 間の悪さに咲夜は一足先にレミリアの寝室に向かうことにした。レミリアにはシーツを取り替えるのだと説明したが、どうにも言い訳がましかった。実際、言い訳の類だったが、それを否定するかのように咲夜はベッドを完璧に整えた。寝直すだけにしては過剰なセッティングだったが、咲夜は満足だった。
 そこまでしてもレミリアは寝室に来ず、きっとあそこからまた湖を眺めているのだろうと咲夜は思った。ふと、レミリアの座っていた椅子が目に留まった。
 レミリアがまだ来なさそうなことを確認してから、咲夜はその椅子に座ってみた。咲夜には椅子が少々低く感じられたが、それもまた一興。少女が絵本の姫君の真似事でもするようにして、頬杖を突いて湖が広がる外を見遣った。
 湖が渦巻いていることに気付いたのは、そのときになってだった。


 湖の渦は巨大だった。まるで湖の底そのものが蠢いているのではないかと思う程に、力強い。その渦の中心部の上空に、二つの影がある。レミリアとフランドールだった。
 二人は一緒にいるわけではなく、中心部に近い位置にいるフランドールからある程度の距離を取って、レミリアが腕を組んでいた。
「どう、面白いでしょう!」
「馬鹿なことをするわね。そのままじゃ渦から出られないわよ」
 吸血鬼は流れる水を渡ることはできない。レミリアは十字架やにんにくと同じように、自身の威厳に対する絶対の信頼でもって、潜在的な恐怖を克服している。しかし、フランドールはそうではない。楽しんではいるものの、渦の中心から動くことはできなくなっていた。
「どうせ渦を作るだけだもん。しばらくすれば勝手に止むよ」
 しかし、渦は一向に止む気配が無い。レミリアは最初こそフランドールが力を行使し続けているものだと考えていたが、じきにそうではないことに気付く。渦自身が、渦を作り出すためのエネルギーを生み出し始めていた。
 幻想郷にあるものは外の世界と同じようなものも、決して同じではいられない。それはこの湖も同じことだった。
「いいから早く館に戻りなさい。こんな勝手を許した覚えは無いのよ」
「ふふん、私がいつまでも思い通りになると思っているからこういうことになるんだ。馬鹿はそっちだよ」
 フランドールの言葉は強がりの色が多分にあったが、反面、彼女の力が強大なのも事実だった。レミリアは認めたくないことだが、妹には威厳も何もかもぶち壊す力がある。それを恐ろしいと思ったことは無い。ただ、――
 レミリアが強攻策に出るかどうか逡巡している間に、渦は黒さを増していた。渦の中心になればなるほどそれは濃くなり、黒は黒を求め、全てを黒くしようと企み始める。
 黒が昇る。中心部に固まったそれが、一挙に天へと昇る柱を造り上げていく。黒い水の奔流が竜巻となり、フランドールの身体を飲み込んだ。それは一瞬。レミリアは目の前を通り過ぎた竜巻の衝撃を呆然と身体で受け止めた。

 そうだ、自分は不安だったんだ。不自然なぐらい冷静に、レミリアは思った。

 たった一人の妹が何もかも壊してしまう姿を見ていると、たまらなく不安になった。それはレミリアが物心付いた頃から変わらない気持ちだった。
 フランドールは両親が与えてくれた玩具も、家具も、使用人すらも壊しまくった。彼女にもし罪があるのだとすれば、それは無垢というものにあったのかもしれない。しかし、無垢は最上の美徳だ。いつかは失われるからこその美徳だ。フランドールからその無垢すら失われてしまったら、どうなるのだろう。
 いつしか両親はいなくなり、いつしかレミリアは当主となり、そしてフランドールは地下室に追いやられた。
 自分が自信を、威厳を求め続けたのは、不安の象徴であるフランドールがいたからこそだった。
 血縁しか無いのではない。血縁だけで十分だった。自分と妹が姉妹であるという事実が、何よりもレミリアをレミリアとして形作っていた。

 では、不安とは何だろう。愛だろうか。それとも優しさだろうか。違うなとレミリアは思う。願いだった。妹は妹のままでいてほしいという、そんな願いだった。


「お嬢様、ご無事ですか」
「咲夜?」
 いつの間にか、隣に咲夜がいた。狂喜で失神したフランドールを抱えている。咲夜が時間を止めてフランドールを助けたのは、ぎりぎりのタイミングでのことだった。もしレミリアが寝室で湖を眺めている姿を咲夜が見ていなければ、あのまま気付かずにいたかもしれなかった。
 レミリアにしても、咲夜が窓にらくがきをしていなければ、フランドールが湖の上にいることに気付くことはできなかった。何かに気をかけている状況では、運命を正しく見ることもできない。
「まったく、食後の急な運動はお体に障りますよ」
「はは、そう……みたい」
 力の抜けたレミリアを咲夜が咄嗟に身体を支える。危うくフランドールを落としかけたが、なんとか腋の下に手が引っ掛かっている。長くはいられないだろう。咲夜は慎重に飛びながら、未だに立ち昇っていた竜巻に背を向けた。


  ******

 朝日を浴びて、竜巻はようやく砕けた。それを待っていたのか、渦はゆっくりと動きを緩め、最後にはいつも通りの姿に戻った。
 一晩中、何事かと見守っていた紅魔館中のメイド達は、館に何か被害が及んでいないかと忙しく館中を駆け回っている。そんな中、肝心のメイド長はコックが作ってくれた焼きプリンを食堂で食べていた。
「悪かったわね、三時にって話だったのに」
「いえ、とんでもない」
 傍に控えていたコックが首をぶんぶんと振る。結い上げられた髪は何本かが乱れ始めていたが、彼女はあまり気にしていないようだった。
 すっかり穏やかになった湖を見て、咲夜はレミリアとフランドールのことを思い出していた。今、二人はレミリアのベッドで一緒に寝ている。そのことを考えると、つい笑顔になった。
「やっぱり、お好きなんですね」
 焼きプリンを口に含んだまま微笑むメイド長を見て、コックが確信する。
「何のこと?」
 焼きプリンの謎だけは、永久にわからなさそうだった。