妖夢の災男

なんでこんなことを。

妖夢はそう思いながら、毎度のごとく主人が突発的に思いついた宴会の後始末をしていた。どこぞの某の吐瀉物は酒と肴の臭いが胃液によって何倍増しの腐臭になっているし、テンコーテンコーと乱痴気騒ぎをしていた匿名希望は障子や襖に大きな穴を穿っていった。皆が帰り、宴会の中心だった大広間に一人だけ取り残された幽々子は、別の者が中途半端に残した一升瓶の中身を次から次へと飲み干している。煙草に例えるとシケモクを漁っているようなもので、従者の目からは見るに耐えない。妖夢の場合、どちらかというと従者の目からというよりは、同じ女子だから、だったが。

もちろん、幽々子と妖夢とでは同じ性別とはいえ、女子だなんて、名前以外に「子」をつけていいのか怪しいぐらいの違いがある。従者として、尊敬すべき同姓として、その点を妖夢はよく心得ていたから、とりあえず幽々子ではなく自分について考えながら、主人が飲んでは投げ飲んでは投げしている空いた一升瓶を片付けている。そんな妖夢の背中を眺めながら、今度はどんなことを考えて鬱になっているのだろうかと幽々子が想像して楽しんでいるのは秘密である。

女子といえば、自分も女子なんですよ。

妖夢は今更のように呟いていた。男子と女子の具体的な違いは知らないし、意識したこともない。ただ、男子かくあるべし、女子かくあるべし、という愚直なまでの価値観だけは刷り込まれている。それは師匠である妖忌の影響でもあった。その割には師匠が妖夢を女子扱いしたことは無かった。それは弟子として見ていたからだとわかってはいたが、一抹の不安も心に浮かぶ。師匠が弟子として、妖夢に期待を込めたと思われる熱い視線を送っていたのが昨日のことのように思える。

自分が頼りなく、幽々子様に対してもしっかりしないのは、自分が師匠のように男ではないからなのではないか。どこかで、自分は女なのに、と思い甘えてしまっているのではないか。妖夢にはそう思えて仕方が無いときがあった。

「そんなことを気にしていたの?」

はい、幽々子様。弟子の身でありながらそのようなことを考える私を師匠は草葉の陰から見て笑っていることでしょう。ふよふよふよ。ほら、私の半身も恥ずかしさで身を震わせているではありませんか。ああ、魂魄妖夢、まだまだ修行が足りませぬ。ふよふよふよ。――

どんがらがっしゃーん!

昔懐かしい擬音を立てながら、一升瓶を両脇で四本ほど持っていた妖夢がずっこける。彼女の半身はというと驚きのあまり天井まで飛んでいき、頭らしい部位を天板にぶつけて悶絶している。

「大丈夫?」
「ゆ、ゆゆゆゆゆ幽々子様、聞いていらっしゃったのですか」
「『ゆ』は二つで十分よ」

見れば幽々子は天井から落下してきた妖夢の半身の頭らしい部位を撫でながら、すぐ傍で妖夢に向かって微笑んでいる。幽々子様なんと麗しい。微かに見える歯の白さも妖夢の目を奪いまする。酒臭いのがなんですが。

「妖夢、そこに座りなさい」

幽々子にそう言われ、妖夢は正座をし、膝の上に半身を抱いて畏まる。傍から見ているとぬいぐるみを抱いているようにも見えて可愛いわ、などと幽々子が考えて鼻血を出しかけていたのは秘密である。今日の幽々子様は酒の所為で少々ご乱心のようだ。いつものことだが。

「妖夢、あなたがそんなことを気にかける必要は無いの。あなたはいつも私に尽くしてくれているわ。頼りないのが難だけど、それは男だから女だからといったこととは関係の無いこと」

それは妖夢もよくわかっている。そもそも、そういった考え方自体が甘さなのだ。それもよく理解している。だが、それでもそう考えてしまうのだ。妖夢がもう少し精神的に成長していれば、それが思春期とかそういったものの一種で、仕方の無いことだと割り切れたのだろう。そんな妖夢に幽々子はゆっくりと語り掛ける。幽々子様、なんとお優しい。妖夢はその気遣いだけで吐瀉物のことやスッパテンコーのことなど忘れられそうです。無理ですが。

「それにね、妖忌も立派な男とはいえ危ないところがあったのよ」

それは興味深い。妖夢はそれが不敬に当たると思いながらも耳を傾けざるを得なかった。妖夢の中で妖忌はいわば目標である。光である。完璧超人である。背中に傷を負ったことなどあろうはずもない。その妖忌の危なげな部分とはどのようなものか。幽々子の言う「危ない」という意味を素直な心で違った意味に捉えた妖夢は、この後、汚されることになる。それが成長というものならば、なんとこの世は悲しいものか。この世あの世どころかここは冥界だが。

「なんていうのかしらね、可愛いものに目が無かったのよ」

ふむ。妖夢は閉じた瞼の裏に師匠を見る。言われてみれば、師匠は庭に迷い込んだ栗鼠や野鳥を愛でていることがあった。それは修羅の道を究めた男故の余裕だ、愛情だ。庭木の枝の剪定の際に、鳥の巣があったからといって後回しにすることも一再ではなかった。結局はそのままにしてしまって、幽々子に面目無さそうに頭を下げていたこともある。あの後は決まってこう言ったものだ。妖夢、幽々子様はお優しい。だからこそ私たちをお叱りになる。それを忘れてはならんぞ。

「だからね、――であるあなたを、女――させて、こんなにまで愛して、育てたのよ。だから、男だの女だの、そんなのは妖忌のあなたに対する愛の前では……」

おっと、魂魄妖夢、自分としたことが師匠の懐かしい面影に目どころか心の耳まで奪われていたようだ。――みょん?

「幽々子様、今、なんと仰いましたか」
「だから、妖忌の愛の前では白羽の輝きも霞むわよ、って」
「いえいえ、そこではありません。もう少し前です、前」
「うふふ、もう、大事なところなんだからしっかり聞いてなきゃ駄目でしょう? これからまとめるから、ちゃあんと聞いてなさい」

幽々子の微笑みが今日はやけに怖く感じる。いつも怖いが、今日のは怖いというより、もっとこう、根源的な恐怖とでも言おうか。自分の存在意義を否定される言葉を放たれる前兆のような。ああ、魂魄妖夢、このようなことで主人の微笑みを邪推するとは。

「つまり、男の子であるあなたを女装させて育てた妖忌って危険よね、というお話よ」

西行寺邸は静かである。昨夜の宴会も嘘のように小鳥は囀り、雪を被った庭石が太陽の光を柔らかく反射している。玉砂利は歩く者もいないというのにお互いの身をすり合わせて音を立て……。

「だだだだだだぢぢぢぢぢぢぢづづづづづづでででででででででどどどどどどどどどーーーーーーん!」
「桃太郎伝説!?」

余りのことに思考を放棄した脳みそがありえない言語を妖夢の口から発する。どうでもいいがあの術って具体的にどんなことをする術だったんだろうか。そんな理不尽なものに閻魔大王がしこたまダメージを食らっている姿は今思い出しても悲しいものがある。それはいいとして、錯乱した妖夢が主人の前だというのに楼観剣と白楼剣を振り回し、彼女の半身は先ほどの比ではない速度で部屋中を跳ね回っている。あまりの惨状にさしもの幽々子も手が出せない。

「ちょっと妖夢、なんでそんなに驚くのよ!?」

そこで幽々子は気づいた。妖夢に聞かせるにはまだ早すぎたのだ。もっと機が熟すのを待つべきだった。もし、もし妖夢が股間に○○があってもそれが男の証だとわからないほどの幼さだったらこんなに驚いても仕方ないではないか。そんな幽々子の葛藤を知ってか知らずか、妖夢はなおも暴れまわる。

ふと、跳ね回っていた妖夢の半身が彼女の頭に当たると、双方の動きが止まる。どこぞでは襖が力尽きて倒れたり、掛け軸が落下したり、欠けた壷が転がったりしているのだが、それどころではない。幽々子がようやく事態を把握し、妖夢を落ち着かせようと手を伸ばしたところで、妖夢が叫んだ。

「近寄らないでください!」

今度は幽々子の動きが止まる。しかし、彼女はこのとき何が何でも妖夢の肩を掴んで、諭すべきだったのだ。だが、もう遅い。妖夢は二振りの愛刀を鞘に収めると、そのまま物凄い勢いで西行寺邸の外へ向かって飛んでいってしまった。

「師匠の馬鹿ぁあああああああああ!」
「妖夢ぅうううううううううううう!」

空しい遠吠えが冥界に木霊する。それを聞きつけて、愛用の酒を持ってくるといって一度帰って戻ってきた紫が、また何かやったのかしらと西行寺邸へ続く階段を登る足を止めた。その真上を見慣れた緑色のベストを着込んだ少女がかっ飛んで行く。面白そうだったので、彼女は妖夢が飛んでいった方向へ行ってみることにした。


******


「師匠は変態師匠は変態師匠は変態、私も変態私も変態私も変態……」

ぶつぶつと怪しい独り言を繰り返す妖夢。彼女の心は今、とてつもなく傷ついていた。尊敬していた師匠が自分の孫を女装させて熱い視線を注ぐ変態だったということを知らされ、妖夢自信は女装をしてそれと知らずこれまで生きてきたということ。妖夢に罪は無いとは言え、紅魔館がある湖の辺で体育座りをすることを誰が止めろと言えるだろう。普段ならちょっかいを出してきそうな中国も氷精も、遠目ながら妖夢に気づいてはいたが声をかけられずにいた。それは気を遣っているからではなく「厄介ごとに巻き込まれる気がする」という実に自分本位なものであったが、誰がそれを非難できよう。

「ああ、いっそ」
「いっそ、どうするのかしら?」

驚いたのは声をかけられた妖夢ではなく、声をかけた紫だった。振り向いた妖夢の顔はにへらと力なく笑いを浮かべ、今にも立ち上がり、私、自由になります、とかいって湖に飛び込まんばかりではないか。これがいつも文句たらたらの表情をしながらも主人のために庭をかけずりまわり、誰かのゲロを片付けていた者の顔だろうか。顔だろう。とはいえ知らない仲でもない。放っておけなくなった紫が手を伸ばすと、幽々子のときと同じく、妖夢は必死になって叫んだ。

「近寄らないでください!」

大声を出されて更にびっくりした紫だったが、それでもと妖夢の肩に手をかける。すると妖夢は、途端に泣き出したのだった。

「うぇえええん!」
「ああ、よしよし、なんだかわからないけど、よしよし」

紫が自分の胸元に縋りついて泣き喚く情緒不安定極まりない状態の妖夢から、事の次第を途切れ途切れながらも聞き出すこと三十分余り。さしもの紫も、いつものように眠たさ故の不機嫌に任せて「テメェのけじめぐらいテメェでつけろ」などと言ったりできなくなっていた。いつも言わないが。

「――そっかぁ、大変ねぇ。私たち妖怪だと男女だのなんだのなんて(どうせ食べちゃうから)あまり気にしないけど」
「私、どうしたら良いんですか?」
「そうね、いっそ」
「い、いっそ?」

恐る恐るといった様子の妖夢である。ここで「いっそ死んじゃえば?」などと言われようものなら、なけなしの生きた半身を湖の底に沈めること請け合いである。ふよふよふよ。とっくに死んでいる半身がこっちの水は甘いよとばかりに体を奮わせて精一杯アピール。待てやコラ。

「男になっちゃえば?」

紫の言葉に、妖夢は目を丸くする。元より、幽々子によるとこの体は男のものらしいのだから、当たり前といえば当たり前の提案である。しかしながら、そのような建設的な意見なんて、つい先ぞにこれまでの人生の大半を否定したばかりの妖夢にはとても思いつかないものだった。

「服ならスキマを探せばあるはずだし」
「本当ですか?」
「嘘を言っても仕方ないでしょう」

急に素直になった妖夢に微笑ましく応対しながら、スキマから取り出した黒っぽい服を着せていく。それは外の世界の某私立○×小学校の男子用の制服であり、一部の女性には大人気のものだったりしたが、なんら気にしてはいけない。我々が気にせずとも、他の人物が気にしてくれる。その人物は門番からの報告によって、我も忘れて現在こちらに向かって高速で接近中。

「最後に帽子を被せて、っと……ほら、出来た♪」
「わあ……」

途中から小難しいことや大事なことを忘れて楽しんでいた両名が唸る。妖夢は自分の見慣れない姿を湖面に映して確認すると、これはこれで良いかも、などと現金なことを考えていた。上半身を大きめのボタンで前が合わされた黒いジャケットが包み、首元には蝶ネクタイが白いブラウスの襟を整えている。下半身は季節柄流石に短パンでこそないが、ジャケットの大きさの割に細めの黒いズボンで、全体の危なっかしさをアピールしている。頭には黄色いリボンが巻かれたツマミが広い柄無しの黒い帽子が乗っていて、これならどこからどう見ても立派な小学生である。立派な?

「喜んでくれて何よりなんだけど……妖夢、さっき着替えさせていて気づいたことが――あら?」

紫の言葉をあどけない顔を振り向かせて聞いていた妖夢が、突如、消え去った。なんだ、神隠しか!? 紫が自分のことを棚に上げて驚いていると、足元には一枚の紙切れが落ちているではないか。これは読まねば嘘だろう、と書かれた内容を大声で読み上げる紫であった。

『探さないでください。by 十六夜 咲夜』

「……見なかったことにしましょう。その方が面白そうだし」

そう言って拾い上げた紙切れをスキマに放り込む。これぞ本当の紙隠し。ぎゃふん。そう紫が思ったかどうかは定かではないが、彼女は腹が空いたので藍と橙が待っているだろう迷い家へ足を向けたのだった。


後日、幽々子は「妖夢=男」発言がいつもの冗談であったことを妖夢に知られ、二度と女性として顔向けできないほどに妖夢にいびられたことを知っているのは紫だけである。