第二話「zero hour」

 自分の趣味を仕事にする場合、その仕事に就くことが簡単ならば、これほど幸運なことはない。しかし、趣味を仕事にしなくてはならないのだから、これほど不幸なこともないのである。
 ――J・H・フランシス


 朝というのはなんだってこう忙しいものなのかと思ったことがある。
 先ずは起きなければならない。夏はまだいい。冬などは布団から出た途端に死んでしまうという強迫観念に襲われるのだから。次に顔を洗う。歯磨きは寝る前にしてさえいれば虫歯になることはないのでスルーだ。そして朝飯。これは一刻を争うが、かといって手当たり次第に貪れば、一刻どころではなく一日中、麻痺した味覚のまま昼飯を向かえることになる。これには色々と事情があるのだが、それは今に話すことでもないだろう。こうした後にようやく家を出る。ごみは妻が出してくれるので持つ必要はないが、男のくせに血圧が低いらしい息子は持つ必要がある。こいつを保育園という名の血気盛んな獣たちがわんさかいる檻の中に放り込むと、今度は逆方向の会社が入っている貸しビルのある駅前まで走るのだ。会社につき、タイムカードに記入し、上司先輩後輩諸氏にいつも通り挨拶をキメたら、一階のロビーで買ってきた缶コーヒーを就業開始までの五分間、じっくりとデスクで味わって、ようやく一息つけるのだ。
 これで、俺は特別なことをしているわけではないということはよくわかってもらえたと思う。つまり、朝というのは大半の人間にとって忙しいものなんだってことになる。とはいえ、そういった煩雑さがあるからこそ、朝の過ごし方というのには個人差が出るように思えるし、人それぞれに朝の思い出があるともいえるな。
「先輩、どうして朝から似合わない表情をしているんですか」
「おうっ?」
 電源を入れられてカチカチとハードディスクを鳴らし始めたパソコンに目を遣っていると、今年度から隣のデスクで仕事をすることになった後輩が恐る恐る聞いてきた。
「お前、似合わないってなんだよ。こうして俺が人生というブルーなマウンテンについてあれこれ考えているのを見て、それはないだろ」
「あれ、僕はてっきり、先輩の人生はカフェオレだと思っていたんですけど」
「む、それはそれで甘くせつなげな雰囲気があって良いかもしれんな」
「はいはい」
 素っ気無い言い方だったが、俺の冗談にまともに付き合ってくれるのは目下のところこいつしかいない。
「もう時間過ぎてますよ。先輩に頑張って原稿を上げてもらわないと、僕がさぼっているように見られるんですから」
 以前はこいつの他にも同期ながら気の置けない奴が一人いたのだが、そいつは何をどう間違えたのか、今ではアメリカのどこそこの出張所でルポライターをやっている。
「お前の美人の奥さんに供されながらお前と酒を飲むのが唯一の楽しみだったのに!」
「大事なカメラで念写でもしてオ○ってやがれ。できるもんならな」
 そんな冗談を言い合える仲間を見送るのは辛くはなかった。別れというものに昔からとんと感慨が浮かばないのはどうかと思う。そのくせ、別れてしばらく経ってから別れた相手のことを思い出して落ちつかなくなるのだから、ろくでもない性格だといえる。
「片岡の奴、元気にしてっかなぁ」
 昨日までに終えた原稿をLAN伝いに隣の相棒へと送ろうとマウスを動かしていると、思ったことが口から出たのだった。
「片岡さん?……ああ、私と入れ替わりみたいな形で渡米しちゃった、スキンヘッドと眼鏡が似合う人ですか」
「そう、そいつだ」
 似合うというより、あれはハマっていると言うのが正しい。息子が産まれて半年も経っていない頃に奴を家に初めて呼んだことがあったが、奴が視界に入った途端に息子は大泣き、妻は何事かと大慌て、片岡はというと自分の頭を手で叩きながら困り顔。
 寺の家系の一人っ子として生まれたとはいえ、頭蓋骨と髪型の趣味までそのように形作られたのは奴の不幸だが、もっとも不幸なのはその親父さんだろう。
 前線指揮官、戦線から逃走。人材補填が急務なれど、国内に余裕無し。
 そんな状況が容易にかつ滑稽に想像できる。50代後半にきて、下半身のディーゼル機関に火を入れるのはさぞ辛かろう。
「まぁ、英語がある程度できるし、独身生活も短くないから、大丈夫だとは思うけどな」
 だからこそ海外出張などという憂き目に遭っても良い人間として白羽の矢が立ったとも言える。不景気不景気といわれて久しいが、景気が良かろうと悪かろうと、海外出張に単身赴任などという形では行きたくないと思うのが正常なサラリーマンだ。
「その点、先輩がそうなったら大変ですよ。えっと、たしか料理以外は全部奥さんに任せているんでしたっけ」
「いや、料理だけでなく、他のこともやろうと思えばやれるんだけどさ」
 だらしない姉貴のおかげでそうなったなどとはとてもじゃないが言えない。条件反射に近い怒りのやり場として、俺はデスクのパソコン脇に飾ってある、俺と妻と息子、それに姉貴が家の前で撮った写真を睨み付ける。姉貴が子供の傍では煙草は咥えても吸わないあたりに写真の中から改めて救いを見出す。
「先輩ってそういうのは得意そうです」
 表情から察したらしい後輩が誉め言葉を搾り出す。こいつは姉貴に実際に会ったことは無いのだが、妻に抱えられている子供の頬をいたずらっ子のように歯を見せてにやけながら指先で突っついている姉貴の横で腕を組んで今と同じような表情をしていた俺の写真を見ていれば、大体の関係はわかるようだった。
「そう見えるか?」
「はい。――でも」
「でも?」
 首を軽く傾げて苦笑いをして、続く言葉を咀嚼しているらしい後輩に俺はその言葉を促す。
「英語ばっかりは」
「ああ。――まて、お前は俺を馬鹿にしたいのか?」
「いえ、そんなこと!」
 椅子が軋む音と素っ頓狂な声を立てて否定はしたものの、目が笑っている。もっとも、こちらとしては怒る意味で睨みを効かせたわけではなく、こういった後輩の反応をからかいたかっただけだった。
 さて、そんなことをしている暇があったら目の前の仕事に取り掛かるのが正解だろう。指を鳴らした俺を見て、後輩もわかったらしく、彼もまた仕事に集中しはじめた。
 そう、目の前に仕事があればそれをやるのが大人ってもんだ。

「これが仕事ですか?」
「なんだ、珍しいな。乾君がそんなことをいうなんて。そうだよ、これが仕事だ。君の仕事だ」
 目の前には我らが『香坂出版』の所長がいて、愛用のメーカーで落とした苦そうなコーヒーの匂いの中で俺に渡す書類の最終チェックをしている。
『子連れ海外旅行。楽しく安全に過ごすためのリファレンス』
 これが先ほど俺に渡された企画書の表紙だった。それが俺のところに来たということは、これを形にしろという意味だ。要するに、子供を連れていって、なおかつ取材をしてこいということだ。
 この会社は旅行志願者に夢を現実に即した形で与えることを生業としている。旅行代理店その他から如何に広告費を集めるかが大事なわけで、たしかに、何かと騒がしい国際情勢の中で海外旅行についての企画は旅行を斡旋する業者にしてみれば応援したくなるところではあるが。――
「海外旅行なんて一度か二度、行ったきりなんですよ?」
 国内旅行なら学生の頃から暇を強引に作って(学校をサボって)工面したバイト代を使い心の糧としてきた。専門学校を終えてもなかなか仕事が決まらなかった中、知り合いからこの会社を紹介してもらい、俺も『全然興味が湧かない仕事よりはいっか』と、専門学校時代に取った資格の大半をフイにするような仕事についたりしている。そんな経緯ではあったが融通がある程度は効く上司のおかげで最低限の厚生は保たれており、若い身空で結婚なんてこともでき、それなりに楽しい共働き生活を送れている。
「君なら大丈夫だよ。それに前からよく自分のデスクで海外の観光地案内を見て『行きたいなぁ』とぼやいてたじゃないか」
「あ、聞こえてたんですか」
「このオフィスは君が思っているよりも狭いんだよ。うちのカミさんが思っているよりは広いけどね」
「また奥さんに何か言われたんですか」
 俺は所長の耳元に顔を落とすと、小声で話す。所長の奥さんはどこぞの服飾デザイナーらしく、結構な繁盛をしているらしい。それでよく所長に家計への貢献度に関しての小言を言い、その所長が今度は俺に酒の席で愚痴を言うという上流下流の関係が公私混同の上に形成されている。俺としては、結婚以前からそういう状況らしいのに、結婚の際にそれを忘れさせるどのようなロマンスがあったかが気になっているのだが、未だに教えてはくれない。今も、溜息を吐いてコーヒーに口をつけるだけだ。
「君も嫁さんに小言を言われたくなかったら、素直に行って来なさい」
「……あの、ちょっと失礼なことかもしれないんですが」
「なんだ、歯切れが悪いな。はっきり言いなさい。名誉毀損の民事裁判での請求金額ぐらいは君のことを考えてあげるから」
 裁判を起こすことだけは変わらないらしい。それでも、思ったことは直接的なこと以外では聞いておきたいので、所長の器の広さを考慮に入れてから言葉を出す。
「『お得意さん』と何かあったんですか」
 所長は書類に付けた手を止めない。聞いてしまった手前、俺は何をしてみようもない。そうした沈黙の時間が秒単位で過ぎ去る中、休憩時間にセットされていたタイマーがジリンジリンという大きな音を立てた。
「……おっと、もうお昼だな」
「はあ?」
「どうだい乾君。私とランチでも」
「はあ、でも、私は弁当持ってきてあるんで」
 所長が場所を変えて話そうとしているのはわかっていたが、弁当を無駄にするのは勿体無い。昨日の夕飯の残り物とはいえ、小市民の俺としては、材料費が無駄になることよりも食べ物そのものを粗末にすることが気になるのだ。
「愛妻弁当かね」
「違います!」
 所長は俺の逡巡を勘違いしたらしいが、とにかく聞き捨てならないので声を大にして否定する。そうであってほしくないからだ。
「冗談だ。そんなにムキにならんでもいいだろうに。あ、そうだ」
 所長は何を思いついたのか、俺の左後方五メートルの位置のデスクにいる人物に手招きをする。普段なら大声で名前を呼ぶところであるため、何事かと訝しげにデスクを立ったその人物は開口一番、可能性の最も高く、俺にとっての屈辱であることを指摘した。
「また、乾さんの尻拭いですか」
 通称、おかみさん。仕事ができるなら問題ない。化粧をするなら顔を洗え。酒を飲むなら養命酒。結婚は女を駄目にする。貞操帯は墓場まで。そんな数々の座右の銘を自他共に認めさせる最古参の従業員。それが宮元早苗(三九歳)。
「違うんだ。実は、乾君の弁当を食べてもらいたいんだ」
「――所長、私に毒を食べさせようと?」
「いや、私の息子のことで乾君に相談したいことがあってね、一緒に昼でもどうかと」
 おかみさんの暴言にまともに応対できるのは所長だけだ。別段、それは彼女にしか勤まらない仕事があるからというだけでなく、一人の人間として買っている部分があるからこそなのかもしれない。俺の場合、そういった考えよりも感情が優先されるので所長のようになどとてもできない。
「……まぁ、そういうことでしたら」
 彼女の中では精神の葛藤よりも、昼の弁当代をゼロにできることが勝ったらしい。組んだ腕に不承不承の感情が見え隠れしているものの、いつもこんな感じなので気にはならなかった。
「すいません」
「でも、愛妻弁当だったら、とてもじゃないけれど食べてあげられないわよ?」
「私も食べてもらいたくありません。命に関わりますから」
「命?」
「いえ、なんでもありません。デスクの端っこにおいてありますから、どうぞお願いします」
 嫌いだからといって殺して良いわけがないのだ。それに、彼女にはなんら罪はないじゃないか。そうだろ、神様。まぁ、その神様とやらが妻に天災的な料理の才能を与えたことを考えると、素直に信じられないところではある。
「さて、我々は行くか」
 所長がワイシャツの上にコートを羽織っただけなので、俺もスーツジャケットではなく、公私共に愛用しているオーヴァーラップの灰色のジャンバーを自分の椅子から取り上げると、所長の後に続いて事務所を出たのだった。
 
 貸しビルのある駅前通りからわき道に逸れたところの商店街の一角にその店はある。『丼一局』という名前は何か意味があるらしいのだが、所長に聞いても「親上がりで美味しいって意味だ」としか教えてくれない。この世代は自分がわかる秘密は若い人間に内緒にしたがるものらしく、学生の頃にバイトしていたところの店長もこんな感じで仕入先のことを秘密にしていた。
「おばちゃん、飯大盛りの日替わり魚介定食二人前頼むよ」
「あら、珍しいわねぇ。若い人を連れてくるなんて」
「これ、俺の部下」
 ぽんと肩を叩かれたので、店主らしい女性に挨拶をする。見たところ所長よりは年が十の位で一つ二つは差がありそうな印象を受けるものの、年季の入った闊達そうな笑顔を返され、そんな肩にかかった邪推を払ってくれる。
「あんたよりしっかりしているように見えるけどねぇ」
「おばちゃん、勘弁して」
 苦笑いして答える所長に促される形で一番奥の小上がりになっていて仕切り板で分けられている場所に行くと、座間の会話が始まった。
「あのおばちゃん、俺が以前にこっちにいたときに世話になった人でさ。未だにあんな風に俺を扱うんだ」
「以前って……。ああ、所長の地元ってこっちでしたっけ」
「そうだよ。高校出て、東京の大学行って、なんやかんやしてたら何時の間にかここで君と飯を食うような立場になってたってわけだ」
 曰く、コネを作るだけ作って奥さん拾って帰ってきた。所長にとっての上京とは、そういうものだったらしい。それなりに発展しているとはいえ、こんな地方で出版社を立ち上げるのだから、並大抵の努力では済んでいないはずで、自分が彼に引っ張られるような部分があるのも、そういった裏打ちがあってこそのように思える。
「さて、おばちゃんの手は早いからな。とっととこっちの話を済ませちまおう」
「さっきの質問に、答えるつもりはないんですよね」
 俺がセルフのお茶をいれ、所長の分を差し出しながら先ほどのことを確認する。今の時期に海外旅行の特集をするのは、一見は理にかなったことなのだが、それは通常であればの話だ。今みたいに世間に注目される事件や戦争が起こっている中では、経費の問題を考えても、馬鹿か天才のどちらかの所業としか青写真には写らないのだ。
「答えるつもりではあるんだ。ただ、それなりにオブラートには包ませてもらう。それを味わったことがないはずの奴がそれの味を知っているとなったら問題だからな」
「で、本当のところ、どうなんですか」
「君が考えているより深刻なことは無かった。これで良いかな?」
 持って回った言い回しの後に続いた言葉は、やはり持って回った言い方だった。それは、ゆで卵の殻のように一気には取れない、取ってはいけない物のようだ。
「良いです、としか答えられないですよ」
「はっはっは、そうか。うん、でもね、心配してくれているのはわかるんだが、もう少し私を信じてみてくれないかな」
「そんな大げさな。私なんてただの部下なんですよ?」
「おかみさんみたいな仕事の出来る人間ももちろん必要なんだが、君みたいなのはそれはそれで貴重なのさ」
「私みたいなのってどんなんですか」
「馬鹿、自分で考えろ」
 所長が自分から話すべきことは話したと言った風に煙草に火をつける。俺は手もとの茶を啜ると、今度は自分がすべきことを口にした。
「……わかりました。子連れとなると、他の現場の人間では無理ですし、この企画、俺がやりますよ」
「あれ?最初から拒否権なんてあげたつもりはないんだけどなぁ」
「うわ〜、そう来ますか」
「保険とかの手配は全部こっちがやってやるから、明日あたりその書類をチェックしろ。その足で向こうの出張所に旅立て」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。それじゃ、準備はいつしろってんですか」
 話が実行段階に移ると、この所長はとにかく早い。端折りすぎてどこか忘れているのではないかと心配すらするぐらいだが、今のところそういった苦情や申し立ては関係者からは出ていない。出ていないというのが、どういう意味かは色々と勘繰れるが、そういった事態に自分が巻き込まれるからには、確認ぐらいはしておきたい。
「今からだ。お前はこれから帰宅して準備をしたり家族に伝えるなりしろ。午後からは有給扱いにしておいてやるから、この書類にサインと判子してくれ」
 所長が一枚の紙をいつも持ち歩いている書類用バッグの中から取り出して机の上に置く。やたらと格式ばった文面で、こんなのは婚姻届と息子の出生届以来、書いたことがない。
「なんですか、これ」
「戦争や革命に関することでの保険請求を私は一切行いませんっていう誓約書だ」
「……取材先どこですか」
 自分でも何故に今の今まで失念していたのか。海外という看板の前に尻込みして、いったいどんな店なのかということまで気が回らなかったらしい。
「安心しろ。戦争には参加しているが国外でのことだし、革命も百年以上前に終わっている。テロとかも西海岸なら大丈夫だろ」
 そのキーワードの数々で思い出せる国といったら、一つしかない。
「アメリカ」
「ザッツライト」
「アイキャンノットスピークイングリッシュ」
「HAHAHA」
 吹き替え無しの海外通販番組を彷彿とさせるわざとらしい発音の会話は、注文の品を運んできた店主が気味悪がるものであった。


 財布や免許証などの必要なものは持ち歩いていた俺は、所長の御達しの通りに飯を終えるとそのまま家へと向かい、途中で保育園に寄って事情を説明し、昼休みに広場で走り回っていた息子を捕まえた後に家へと入った。
「まあまあ、ちょうどよかったです」
「は?ちょうどいい?」
 夫と妻が珍しく早い時間に家にいるという事態もあって、それぞれの事情を説明し合う。先ずは俺からそうしたのだが、妻の返す言葉に思わず耳を疑う。
「はい。明日から秋葉様に、姉さんだけでは手が足りないからどうしても、ということで遠野の一族会議で金土日の三日間、家を空けることになってしまったんです」
「ああ、もうそんな時期か。でも、去年まではお義姉さん――琥珀さんだけで大丈夫だったんだろ?」
 俺の妻である翡翠を遠野家における左翼とすれば、その姉である琥珀さんは右翼にあたる。口を挟まなければこれほど有能な家政婦もいないだろうとは妻の言であるが、以前、琥珀さんに聞いたところによれば、翡翠ちゃんこそが、だそうで、姉妹相変わらずの仲良しで大変よろしく思える。我が姉を鑑みればよりそう思える。ともあれ、そんな琥珀さんであれば、例え一人だろうと一定以上の働きは、紙をはみ出すぐらいの太鼓判で約束できる。それが今年に限って、というのは妻も同じく思ったらしい。目線を向かって左下に落とすと、着たままだった仕事着のエプロンで落ちつかない手を拭いながら説明してくれる。
「最近、姉さんの体調が突然に悪くなることがありまして、それで万が一のために私も、というのが秋葉様の本音のようです。もちろん、姉さんの手前で口には出されませんでしたけど」
「そっか。それなら、俺や正行のことは心配せず、琥珀さんと一緒に行って来いって」
「はい。そうさせてもらいます。正行さんも私の作るご飯では嫌でしょうし……」
 洗面所で手を洗っていた息子が名前を呼ばれたと思って「な〜に〜?」と子供特有の抑揚で顔と声を出す。俺が「なんでもね〜ぞ〜」と返事をすると、また洗面所の中に顔を引っ込めた。
「そんなことないぜ?」
「そうでしょうか……」
 たしかに、本来なら息子に意見を仰ぐべきところでその息子を会話に参加させようとしないのだから、説得力が無い。かといって、自分で腹を痛めて産んだ子供に「お母さんのお料理は美味しくない」などといわれたら、壊滅的に怒り出すか破滅的なまでに絶望するかのどちらかで、妻のことだから確実に後者となり、ショックの余りに寝込みかねない。これもある意味でドメスティックバイオレンスである。
「間違いないって。なんなら、今日の飯はお前さんに任せるからさ。俺と正行の舌を悦ばせてみろよ。旅行の準備は俺がするからさ」
「わかりました。久しぶりに作ってみれば、存外に上達しているものかもしれませんしね」
 はてさて、彼女の言う上達とやらがどういった方向性のものであるのか、彼女自身の考えはともかく現実化した場合のことを考えると頭が痛くなる。
 ともあれ、彼女が疑いの目を未来への希望満ち溢れるそれに切り替えてくれたのだから喜ばなければならないだろう。その彼女はといえば、正行に「今日は何を食べたいですか」などと、遠目から見ているこちらまで微笑ましくなるような母親と子供の会話を繰り広げている。ああ、俺はもしかしたらひどい男なんじゃないだろうかとすら思えてくるほどに。
「お前、酷いやっちゃなぁ」
 どうやら思ったことまで耳に聞こえるぐらい俺は感傷的になっているらしい。といった冗談は置いておくとして、すぐさま声を出した張本人を妻と子供から見えない玄関傍の階段脇まで引っ張っていく。
「聞いてたのかよ、姉貴」
「マサ坊が帰ってきたみたいだったから、いっちょ遊んでやろうかと思ったら、なんか面白そうなことを話してたんで、ついな」
 姉貴の一子が寝癖で変な方向に曲がってしまったらしい髪の毛を数本いじりながら、悪気の一片もなく解説をする。
「ったく……。話す手間も省けたから結構だけどよ。それにしても、最近は髪を縛らないんだな」
 仕事先の人間と会うらしいとき以外ではここ半年ほど髪をセットしている姿を拝んでいない。てっきり俺は正行に「しっぽ!しっぽ!」と髪を引っ張られるのが嫌になったのかと思っていたが、どうやら違うらしい。
「ここまで長くなっちまうと、ポニテにしてもあまり意味がないからさ。どうせなら下ろしてみっかなぁ、とまぁ、そういうわけだ」
「髪の毛のケアどころか体のケアもままらならない生活だもんな。俺が高校生のときより酷くなっているんじゃないか?」
 俺が夜に帰ってきて煙草を吸いながら何やら作業をしている姉貴に「早く寝ろよ」と声をかけ、朝になって様子を見てみたら、同じ体勢で作業をしていたりする。
「ま、そんだけ私にも、私がやりたいと思える仕事が回るようになったってことさ。なんだ、心配でもしてくれているのか」
 腕を組んだまま含み笑いを浮かべて、煙草臭い体を気味悪く近づけてくる。それを手でいなすと、玄関の段差から落ちそうになった姉貴が睨み返してくる。慣れないことは自分にとっても相手にとっても良くない結果に終わるのだと気づいてほしいものだ。
「そんなんじゃねえよ。ただ、俺たちが帰ってくるまで家に一人になっちまうからさ、帰ってきたら姉貴の死体が転がっているなんてのは、精神衛生上、非常によろしくない」
 そんなことを言ってみたが、かつての旧友に化け物呼ばわりされる俺のサバイバビリティの高さを上回るものを姉貴は身につけているため、心配なんぞ全然全くしていない。
「馬鹿。翡翠ちゃんの料理が人間の食べられるものになるという歴史的瞬間を見るまでは死ぬに死ねるか」
「お、一応、小姑として期待はしているんだな」
「心配が圧倒的に多いがな。私の頭はどうやら民主的ではないらしい」
「独裁政権下では心配の中にこそ期待が生まれるという典型だな」
「流石だな、弟よ」
「姉貴もな」
「「はっはっは!」」
 こんな会話が俺とできるようになったのは姉貴としても嬉しいらしい。旅行雑誌の編集者となると、意外と資料やら本を読む機会が増えたので、こういうエセインテリな話題にもついていけるのだ。それが良いか悪いかは別として、俺としては姉貴と喧嘩以外で仲良くなれたのは嬉しい。今朝のように憎しみさえ覚えることもままあるけれど。
「可愛さ余って憎さ百倍とは言いますけど、有彦さんの場合はその逆ですね」
 気づけば、妻が正行の手を引く恰好で隣に立っていた。反対の手には買い物用の籠を提げているあたり、準備は万端らしい。
「えっと、何を買ってくるとかって決めてあるのかな」
「はい。流石に何品も私では無理ですから、とりあえず、いつも通り有彦さんからもらった材料のリスト通りに買って、あとはわかる料理で必要なものを買ってこようと思います」
 念の為に聞いてみたが、俺が仕事帰りに行っても特売品などは売り切れてしまうため、朝に広告からリストアップしたものを妻に暇を見つけて買ってきてもらっており、また、もともと物事について深く観察するタイプなので、買い物に関しては下手な主婦より優秀だ。荷物の多くなるときなどは、姉貴に俺と兼用の車を出してもらってもいるようで、小姑との関係は良好らしい。その点、会社が近いというのは便利が良い。俺が車を出すときといえば、日用品の買い物以外の外出、つまりは服を買いに行ったり観光に行くときぐらいだ。
「俺もついていければ良いんだろうけど、準備があるしな。夕飯前には終わらせたいし」
「準備って何をするんだ?」
 姉貴が何事かと口を挟む。翡翠の手を離して姉貴の足にしがみついてじゃれている正行をあやしながらであったので、いつもよりは柔らかい表情だ。そのいつもが酷いのでなんとも複雑な心境ではある。
「パスポートと着替え用の服だろ。それに仕事用具一式とそれから……」
「なんなら、私がやっといてやるよ。お前たちが帰ってきたら、足りないものを詰めれば良い。そうすれば、翡翠ちゃんの分も私がやっちゃえるだろ?この馬鹿だと女物の下着とかの扱いはわからんだろうしな」
 男でそれが上手いのは、主夫かランジェリー関連の仕事をしている者だけのように思える。ああ、もう一種類あった。下着を集めるのが趣味の変態とかな。あまり想像したくない光景であるため、すぐに頭を切り替える。
「本当にできんのかよ?」
「おいおい、お前が役に立たなかった頃、私がどうやってお前を育てたと思っているんだ」
「そうだけどよぉ、車の運転だって十年しなければ素人より酷くなるってもんだぜ」
「ふん、人間とか女ってやつをやめた覚えはないさ」
 親父とお袋が早くに死んでから一所懸命に自分と俺を育てた姉貴の言葉は、久しぶりに恰好良いと思えるものであった。たかだか荷物を入れるだけの作業のために使う割には。
 そんな姉貴に正行がいってきますと手を振るのを横目で見つつ、律儀に角度誤差無しのお辞儀を近所のおばさんたちにしている翡翠を両者の合間に入りあれこれと聞こうとするおばさんに対して先手を打つ。それなりに頑張っているつもりだが、トータルでは正行の歩みが速い有様だ。
「本当にねぇ、あんなワルぶってたあっちゃんにこんな気立ての良いお嫁さんが来てくれるなんて、あたしゃ仏様に説教したいぐらいだよぉ」
「ねぇねぇ、遠野の人が一ヶ月に一度、旦那の教育に来るって本当?」
「まーちゃんがあっちゃんに似ないか私は心配で心配で」
 しかも会う人会う人、俺たちがここを通るのを知っていたのではないかというぐらいにタイミング良く出てきて、準備をしておいたらしい世間話から立った角をぶつけてくる。
「お父さん、お母さん、早く行こうよ!」
 ――あいつが原因か。あんなに元気そうに走る息子を見るのは久々で、それは近所の人が窓越しに見てもわかるぐらいだ。そりゃあんた、近所の話題という臭いに敏感な猛禽類がご相伴に預かろうと思っても不思議でないというものだろ。
「ちょっと、恥ずかしいですね」
 翡翠がスカートの裾でも気にするような素振りで俯きながら、ちらちらとこちらに目線を配る。仕事用の服以外ではよくする仕草ではあるが、大分改善された昨今にあっては珍しいものだ。ふとしたときにはやはり長年染みついた仕草が出てきてしまうものらしい。
「何を言っているんだ。自分の子供に恥をかかされるのなんて、これからいくらでもあることだぜ。これは所長の請け売りだけどさ」
「……なるほど」
 あらぬ方向を見つめた後にちらりと俺を見た瞬間、彼女の口から答えが出た。それがどういう意味なのか勘繰らない俺ではない。
「なんで俺を見るんだよ。あ、そういやあのとき所長も似たような目で俺を……」
 あの、まるで辞書で言葉を調べた後にその実例でも見たときのような、新鮮な驚きを手のひらに掴んだ人間のする満足かつ愉悦に浸った目。それが人間に適用される様を人は得てして『馬鹿にする』という。
「ほら、正行さんが待ってますよ」
「おい、こら、ちゃんと答えろってば。なぁ!」
 翡翠はこちらの言葉は聞こうともせず、正行の手を引いていつものように呑気そうに歩いていく。正行がふとこちらを見たとき、俺は思わず「お前もか」と呟き、翡翠がそれに対して「お父様は繊細なのですよ」とコメントし、『繊細なお父さん』が落ち込む姿を息子は感心した様子で見守ったのだった。

 危うく人間不信に陥りそうだったが、楽しげに歩く母と息子の様子に憧憬を覚えることでなんとか持ちなおし、ちょうど良い頃合にスーパーにつくのだった。ここは先ほど所長と行った食堂のある商店街よりも住宅地に近いそれに位置していて、目を凝らせば見知った顔もある。駐車場が狭いため、大半の客が徒歩らしい。俺たちはそんな人たちの邪魔にならないよう、生鮮品大安売りと看板が掲げられた道沿いのオープンコーナーの片隅で品物を眺めるようにしながら会話をする。
「ここに就職した奴が仲間にいたっけなぁ」
「そうだったんですか」
 久々に来るとそんなことを思い出してしまう。以前に何度か来たことがあるのだが、そのときは会えなかった。他の仲間に聞いたところでは、特売日などは他の支店にヘルプとして出ているほどの働き者らしく、俺が行くときといえば特売日なので、結果として会えなかったらしい。
「デート資金で必要な金を稼ぐためにここでバイトしていたんだけどよ、それでやけに熱心に働くもんだから人事の人に勘違いされてな。高校卒業と同時に就職ぅ〜!というわけだ。それ以来、会っていないんだけどさ」
 はてさて、デート資金とやらは有意義な結果を出せたのだろうか。
「楽しそうな方ですね」
「だよなぁ。このエピソードに奴の全てが現れていると俺も思う」
「それ、誉めてます?」
「さぁ、どっちだろ。俺にもよくわかんねぇや」
 退屈でごねはじめた正行のこともあって、俺は会話を切り上げると、三人で店内へと入っていった。
 三時前ということもあって、陽が当たっている内に買い物に出た客で店内は混み合っていた。とはいっても、どこぞのライブ会場のような熱気というものとは無縁であるからして、はぐれるような心配はない。
「さて、これでリストにあったものは全て買い終えたわけだが、これからが本番だな」
「はい、頑張ります」
 そうだ、頑張ってもらわねば困る。……まてよ、気負った所為で失敗しているという可能性もある。何かにつけて気合を入れる彼女の性格を考えると、それは十分にありうることだ。適度に気概を削ぐぐらいが調度良いのやもしれぬ。
「で、作れるものってあったっけ?」
「……有彦さん、酷いですよ」
「酷いものを作られないためには、俺も鬼になるぜ」
「厳しいですね」
「ほら、他人事じゃないんだから、冗談なんか言っている場合じゃないぞ」
 失敗した場合は冗談で済まない。体調最悪の状態での長距離飛行は辛すぎる。
「それじゃ、向こうに行ったらお魚なんてあまり食べられないでしょうから、魚料理で」
 妥当な線ではある。俺が小さい頃、よく姉貴に「肉ばかり食ってると馬鹿になんぞ」と言われたものだが、最近では魚が一週間食卓に並ばないとどうにも落ちつかないようになっている。姉貴がそう言っていた理由は「魚が肉よりも安いし調理が簡単」という非常にわかりやすいものだったらしい。
「――よもや魚を食べても馬鹿になるとは」
 姉貴がぽつりとこぼした言葉を俺は忘れない。
「うーん、それじゃ煮物だな。焼き物じゃ料理にしては簡単過ぎるし、蒸すとなると危ない。刺身なんて論外だしな」
 職員やパートのおばちゃんたちが魚を捌く姿をガラス窓越しに臨みながら、生鮮食品用のクーラーボックスに並べられたブリやカマスなどのパックを難しい顔で取っ替え引っ替えしていた翡翠の手が止まる。
「ちょっと待ってください。危ないってなんですか」
 さらっと流せば良いものをわざわざ突っ込むあたり、律儀と言っておこうか。
「ボイラーが爆発するとどうなるか知っているか?」
「え?あ、はい。この間のニュースで放送してました」
 翡翠が突然に出てきたボイラーなんて単語に、少しだけ慌てる。それでも、ちゃんと家庭用のボイラーのことを言っているわけではないことはわかったらしい。あれもあれで爆発すればそれなりの事態というやつになるが。
「ああ、工場が吹っ飛んだやつな。で、ボイラーの原理は?」
「えっと、えっと、……お湯を沸かして、どうにかするんですよね」
「うん、まぁ、そうだな。つまり、蒸し器はボイラーともいえるわけだ」
「はあ」
 自分でも無茶と思える論法なだけに、聞いている側も生返事になってしまう。しかし、反応が面白いので止めてあげようとも思わない。
「ましてや、ここには蒸し器をボイラーにしてしまう特殊な技能を身につけた人材がいる。こいつを危ないと言わずなんと言うか」
「やっぱり、酷いです」
 上唇を下唇よりも前に出して拗ねて見せる。ここらが笑って済ませられる限界だろう。俺は意識的に顔の表情を明るくすると、それに注意を引かせる。
「すまん、ちょっとからかいすぎた。でも、煮魚ってのはOKなんだろ?」
「多分、できると思います」
 神妙な表情は相変わらずではあったが、機嫌は直してくれたらしい。再び、パックの列に目を落としては口元に手を当る恰好で視線を泳がせている。
「細かい調味は俺がしてあげるからさ。言われた通りに作るだけだからつまらないとは思うけど、一つでもしっかりとしたものが作れるようになれば、後はなんとかなるもんだ。今が我慢のしどきさな」
「そうですね。いつもそういって余計なことをしては失敗していますから」
「……そうだったのか」
 唖然とした、というのはこういうことを言うのだろう。一瞬、当たり前のことのように言われた言葉を言葉と思えなかったくらいだ。
「はい。でも、他にもっと原因があるだろうと思って」
「十中八九、間違い無くそれが原因だ」
 要因は他に沢山あるだろう。しかし、原因をなんとかしなくては、要因をどうこうしても、付け焼刃の雛型を作るだけだ。
「そうだったんですか」
 先ほどの俺の表情を鏡に写すとこんな感じだったのだろう。ただ、俺との最大の違いは、それが自分のことで驚いているのかどうか、だ。しかし、俺の口からしっかりしてくれなんて言葉を出すのもおこがましいといえるので、話題を今日のメニューに戻す。
「味付けの勉強ってことを考えるとなぁ。――タラとかどうだ?白身だから多少やっちまってもなんとかなるぞ」
「多少の失敗もしませんよ」
「多少の失敗するから勉強になるんだろうに」
「そういうものですか?」
「だってよ、失敗しないように作ってたら、いつ失敗するのかびくびくして作らなくちゃいけないだろう?」
「――たしかに」
 思い当たることがあるのだろう。そんなことでは料理をしていてもつまらない。面白いとか面白くないとか関係無いという奴もいるが、毎日のことなのだから少しでも面白いに越したことはないと俺は思う。
「そら、最初っから失敗しようと思って失敗したら問題だけどよ、失敗しないようにするってのとは別だ」
「姉さんの場合だと、それを良いことに好き勝手しているんですけどね」
 お互い、杓子行儀に笑い合ったが、じきに溜息がそれを覆い隠す。
「独立独歩も行くとこまで行くと、はた迷惑だな……」
「はい……」
 良いオチがついたと言えなくもないので、タラの切り身を籠に入っている他の食材の上に落ちつかせる。
「ところで、正行さんはどうしました?いつもなら、私が選んでいると退屈で手を引っ張るんですけど」
「ああ、今日はおとなしいぞ。まるで年寄りみたいだぜ。なあ、正行――い?」
 振り向くとそこには実際、年寄りがいた。八十歳を過ぎたぐらいの婆さんで、買い物篭を腕にひっかけた体勢のままにこにこしている。
「あんちゃん、男前だねぇ。わしゃあ、若い人に手を取ってもらったのなんて、女学生時代以来じゃよぉ〜」
 随分と年季の入った乙女心である。嫁入り道具の中から若い時分に着た着物を取り出すときの年寄りってのはこういう心境らしい。つまり、若い男に手を取ってもらった喜びよりも、そういうことをしていた頃の自分を思い出して悦に浸るのだ。
「……婆さん、お褒めの言葉は嬉しいが、ここにいたはずのガキんちょはどうした」
 誰に向けてだかわからない述懐をしている場合ではない。速やかに重要参考人から事情聴取をしなくては逃亡犯がアクロバティックな逃走劇を演出しかねない。
「ああ、そのぼんずならわしにあんたの手を繋がせた後にどっか行きよったよ」
「あの野郎ぉ〜……」
 狭いスーパーとはいえ、昨今は物騒だ。俺が一番物騒だという噂もあるが、それは置いておいて、流れが引き始めた人の中に進もうとしたとき、振りかえると、翡翠が婆さんにお辞儀と謝辞をしていた。
「本当に申し訳ありません」
「いやいや、良いんじゃよぉ。ところで、あれは旦那かね」
 どういう展開なのか掴め切れずに振りかえった姿勢のまま硬直している俺に婆さんが顎を指す。
「はい」
「ああいうのはいざってときに役に立たないから、気をつけるんじゃよ」
 なんてことをいうんだ、婆さん。年寄りってのはためになることを言うが、余計なことも吹き込んでくれるから有難迷惑である。
「わかりました」
「わかりました。――じゃない!婆さん、迷惑かけたな。じゃっ!」
 正行が迷惑をかけた人に先ず謝るべきだ、という、母親らしいシーケンスが出来あがっている翡翠の手を引っ張って、走らない程度に逃亡犯の足取りを追い始める。
「若いの、またな」
「おう!」
 あまりあってほしくない機会だが、縁は大事にしろと言うではないか。そういう美談の一つにでもしないことには、息子に逃げられたことに対しての面目が立たない。俺の中だけではあるが、これは大事なことだ。……多分。
「さっきの方、どこかでお見かけした覚えが……」
「今はそれどころじゃないだろ。とりあえず、買い物は済んでいるんだし、お前さんは会計を済ませたら入り口のところのベンチで待っていてくれ」
「わかりました。私もお役には立てそうにありませんから」
 何がまずいかといえば、特売の卵が三パックほど籠の中に入っていることだ。お互い三日間も家を留守にするってのに、特売となると買ってしまうあたり、すっかり所帯染みている。でもなぁ、L玉一パックで九八円は買っちゃうよなぁ……。
「まぁ、俺が油断したのがまずかったわけだし」
「向こうに行く前に予行練習ができると思えば、良いのでは?」
「向こうに行ってもこういうことになるのは勘弁だけどな」
「まったくです」
 流石に見知らぬ土地に行ってまでこういうことをしでかしてくれるほど厚顔無恥には育てたつもりは無いのだが、最近じゃ、保育園から帰ってくると自分から遠野家に出向いては、『暇な人間』に構ってもらっているからなぁ。
「琥珀さんなら、ル○ン並みの縄抜け術ぐらい教えてそうだ」
 あー、やだやだ。琥珀さんの能力よりも母親の礼儀を学んでもらいたいものだが。まぁ、必要だと思えば自分から覚えるだろう。この論法だと、琥珀さんの能力が必要だと思っていることになる。なんだか疑心暗鬼になってきた。肝心の息子も見つからないし。ったく、お菓子売り場にもいないなんて可愛げの無い野郎だ。
「後でとっちめてやる!」
「おいおい、穏やかじゃないなぁ」
 各コーナーを繋ぐ中央の通路で憤っていると、後ろから口を挟まれた。聞き覚えのある声だったので、首だけをくるりと後ろへ回す。
「よ、久しぶり」
「田辺かっ?」
「ああ。どうだい、すっかり痩せちまったろう」
 たしかにひとまわり肉が落ちたようだが、太い眉毛といい、細い目といい、いやらしい口元といい、間違い無く、先ほど話していたここに就職した仲間の田辺だった。
「まぁ、あとちょっとで上がれるから、積もる話はそれからにしようぜ。携帯の番号、変わってないんだろう?連絡するから出て来いよ」
「そうしたいのは山々ってやつなんだが、今ちょっと悪戯小僧を探していてな」
「その悪戯小僧ってのは、こいつか」
 田辺の後ろからひょっこり顔を出した正行が、俺の顔を見つけた途端に足にしがみついてくる。どうやら、いざ一人になったは良いものの、心細かったらしい。
「この馬鹿。逃げた後のこと考えておかないようじゃ、逃亡犯としては二流だぞ」
「うん……」
「ちゃんと母ちゃんに謝れよ。心配してたんだからな」
 今度は声に出さず、人形みたいにかっくりと首を縦に動かすのを見届けると、短く刈り揃えた髪の毛越しに頭をわしゃわしゃと撫でてやる。そんな様子を珍しいものでも見たとばかりににやにやと眺めていた田辺が間を見て口を出す。
「なんだ、母親と知り合いなのか?今さっき、うろうろしているのを見つけたからよ、迷子の担当に押し付けようと思ってたところなんだ」
 一昔前なら放っておいても関係者が勝手に見つけてコトは済んだだろうが、万が一誘拐沙汰にでもなれば店の評判が落ちかねない昨今、こういったことは面倒ながらも店側で処理するらしいことをごにょごにょと付け足していたので、適当なところで口を挟む。
「いや、俺の股間の主ではない息子」
 口の挟み方はもう少し考えておけば良かったかもしれない。出来の悪いジョークに愛想笑いをしてから、田辺は正行に目を配ってから、俺に視線を戻す。
「――お前の子供か」
「公衆猥褻にならない言い方ではそうなるな」
 そういう言い方を最初からしろよと目で揶揄はしたが、すぐに俺に関する記憶をまさぐりはじめて目線があらぬ方向に固定される。
「美人の奥さんと結婚したとは前田から聞いていたけど……。まさかこんな子供まで作っていたとは知らなかったぜ」
「お前が全然連絡をくれないからだろう」
「あのなぁ、そういうことは普通、お前から連絡するものだ」
「いやぁ、結婚式もしなかったから、連絡する機会逃しちゃってな」
 新婚旅行すら、所長に取材のネタにされ、そんな調子で仕事は前倒しの将棋倒しで、危うく俺が屏風倒しになるほどの忙しさだ。
「ふうん。ま、いいや。俺、仕事に戻るからさ」
 仕事に関しては似たような境遇なのか、田辺も察したらしく、適当なところで話を切り上げる。
「手間かけさせて悪かったな」
「気にすんなよ。じゃ、また後でな」
 昔と変わらず、去り際に口元を吊り上げる癖は相変わらずで、二つ先の角を曲がっていく姿はデジャヴュすら覚えた。自分でその感慨を持て余すと、溜息を一つ吐く。
「さ〜て、悪戯坊主。母ちゃんにところに行くぞ」
 といって入り口のベンチまで行くと、息子は俺の手を放して母親に駆けて行った。
「やっぱ母親が良いのかなぁ」
 帰り道でついそんなことが口を突いて出た。薄い層を重ね着した空が赤いインナーを腹から見せては雲にからかわれている。
 はしゃいだ分だけ疲れたのか、俺の背中で寝息を立てている息子に落ちつかなさを覚えるのも、先ほどの一件があったからかもしれない。
「そんなことありませんよ。お屋敷にこの子が来ると、夕方には『今日もお父さん遅いの?』って聞いてきますから」
 そう言って母親を困らせては、琥珀さんにあやされては誤魔化されるという流れが基本らしい。よくよく考えてみれば、この背中で寝ている我が二世は両手に花という環境を既に五歳にして手に入れているのか。もっとも、その片手は母親なのだから、別段、問題は無いだろう。そう思わないとやっていられない。
「んじゃ、この週末は久々にこいつといられることになるわけだ」
「そうですよ。向こうでもお仕事にかまけたら、正行さんに嫌われちゃうんですから」
 俺が本当に嫌われたくない相手が誰かをわかって言っているのだろうか。口に出して聞いたら赤面は必至ではあるから、咳払いで我慢しておく。
「こいつとシスコの夕焼けを見るのも悪くない、か……」
「シスコ……。サンフランシスコのことですか?」
「ああ、そうだよ。あそこらへんは観光地が多いんだ。治安も日本よりは悪いけど、アメリカだと比較的良い部類だし」
 そういえば、アメリカだとは伝えてはあったが、どことは言っていなかった。その時点でどこかと疑問に思わなかったあたり、興味が身の回りで完結している彼女らしいとも言えそうではある。
「そこはたしか……、志貴様がいらっしゃる場所だったと私は記憶しています」
「ああ、そういやそうか」
 結婚した頃こそ、会って何か言ってやろうと思っていたものだが、仕事と子育てでそれどころではなくなり、同時に、思い出すことも少なくなっていた。奴と最後に会った卒業式から七年近くの時間が既に流れている。記憶が薄れるのは当然ではあったが、それを許容したいとは思えず、途端に、会いたいという想いがこみ上げてくる。自分にこんな感情は似合わないとは思いつつも。
「速達でしたらまだ間に合うでしょうから、明日、朝一番でお手紙を出しておきます」
「ああ、頼むよ。俺たちが出発するのは、早くても明日の夜以降になるはずだからさ」
「わかりました。それでは、今日の内に一筆したためてくださいね」
「え、俺が書くの?」
 おぶった体勢で急に首を捻ったものだから、少しだけ筋が突っ張ってしまう。大丈夫ですかと気遣う彼女の手を制して、大したことはないことを教えると、安心したのか話を続ける。
「お手紙ですが……。私は余ったスペースに書かせていただきますから」
「それでいいのか?そっちこそ、実際に会えないんだから、もっと書けば良いのに」
「でしたら、志貴様にお会いしたときにお渡ししていただけるよう、別に書いておきます」
「わかった」
「はい。ではお願いします」
 二人の呼吸に合わせたかのように、正行が一際大きな寝息を立てた。つい笑ってしまったが、それは翡翠も同じだったらしい。シスコの夕焼けを見れば、きっとこの情景を思い出すことだろう。遠野にとっておきの夕焼けが見れる場所を教えてもらおうと思う俺だった。


「――で、結局、翡翠の料理ってどうなったんだ?」
 空港まで迎えに来た遠野が車を運転しながら聞いた話の感想をひとまとめにする。会ったときこそ随分と慌てた様子だったが、今ではすっかり落ちついていた。
「食える代物にはなった」
 自信たっぷりとは言えないが、俺も相応に頑張ったので結果だけはきっちり言っておく。
「へぇ。翡翠、頑張ったんだなぁ」
 生返事であるからして、恐らくは何らかのオチがつくのだと予想はできているらしい。翡翠のわかりやすさといったら、ある程度顔を合わせている人間ならばわからないのがおかしいぐらいなものなのだから。
「でもよ、食えたは良いが、今度は胃に来てな。こうして昼間から胃薬のお世話になっているわけだ」
 単純に白身に当たったと考えられなくもないが、煮込みにしてまで当たるなんてことは先ずあり得ない。しかし、翡翠の所為とはっきり言えるわけでもなく、なんとも歯がゆい思いをしながら、ざらざらとした胃に液状薬品を流し込む。同じ物を食った息子は何故か平気だったが、慣れない長旅で疲れたのか俺に抱えられて、あのときと同じような寝息を立てている。
「大変だな、お前も」
 息子を眺める俺に向けてか、それとも翡翠の料理についてか。遠野は何か勘繰ったようだが、この程度のものは二人の間ではジャブにもならない。
「そういうお前はどうなんだよ。見ない内に随分と良いものを乗りまわすようになったみたいだが」
「いや、これには色々と深いわけがあってさ。あれ?翡翠から聞いていないのか」
「うーん、イタリアに行ってたときの話は妙に誤魔化されててよ、いまいちよくわかんねぇんだ。『志貴様はお元気でした』、『志貴様のタキシード姿は素敵でした』。そればっかでさ」
 遠野はしばらく、考えたような、とぼけたような、判別つかない顔をしていたが、信号待ちの状態になってそれを打ち切った。
「俺の仕事にも関わってくることだからあまり詳しくは話せないんだけど……。この車な、同僚の形見なんだよ。こっちに来てから足回りやエンジンに大分手を入れたから、ほとんど別物になっちゃってるけど」
「そっか」
「ああ」
 お互い、こういうことは、昔っから、突っ込んで聞いたりはしない。相手が話すべきだと思えば話してくるし、そういった面では十分に信頼できる相手でもあるからだ。
「さてと、先ずはお前の会社の出張所だったか?」
「おう、住所はこれだ」
「ああ、ここか」
 遠野に住所の書かれた紙切れを渡すと、目をしばたたかせて確認する。どうやら知っている場所らしい
「知ってるのか?」
「まぁな。んじゃ行くぞ」
 こうして、俺たちの週末は始まった。