第十六話「懐中憧憬」

 事件から夜明けまでの流れは激流のごとき速さだと関係者のほとんどが思っていた。しかし、それは意外と緩慢なものだった。それというのも、遠野側の不安や喧騒は秋葉の号令により彼女らが泊まっている別棟に封じ込められることになり、管理人姉弟が住んでいる本棟では怪我をした弟を姉が看ていて、それをアルクェイドとナルバレックが、片や退屈そうに、片や忘れていた風呂に入るなどして過ごしていたからだった。基本的に、遠野側の一部の人間と管理人姉弟以外、こういった場には慣れている。ただ、アルクェイドやナルバレックと違い、遠野側には社会に事件として取り沙汰されるということそのものが不安となっていた。ナルバレックもその点では同情を禁じえないはずだが、彼女にしてみれば一国の、それも地方警察の網なぞ、あってないようなものだ。その地方警察が到着したのは、午前二時半頃に近隣の別荘地に駐在している警官が確認に来てから五時間後、つまりは夜が明けてしばらくした頃だった。
 この宿がある場所は道こそ立派なものが通っているものの、便が良いとは決していえない場所にある。片道だけで二時間を越すというのだから、非常事態(警察にしてみれば通常業務の範疇だが)とはいえ準備もせずに飛んでくるというわけにはいかなかった。年末にあたって他の課から回されてきた案件の処理に追われ、緊急の要員以外の者の召集に多少の時間を要したこともある。結局、妥当な数として、捜査一課から警部と警部補の二名、警備課から八名、そして機鑑から六名が召集され、計十六名、車両四台という編成になった。この内の大半は初動捜査を終えると署に戻り各部署の勤務に戻ることになるが、それに含まれないだろうことが長年の経験により――そのような経験ばかりで頭が痛くなるが、了解していた千名《せんな》刑事は、四十を越えて久しく髪の毛が伸ばされていない剃髪頭をぺしぺしと景気づけに叩いて、車を降りた。
 愛用の丸い縁の眼鏡のレンズが曇る。やはり山は相当寒い。他の車などから降りてきた若そうな警備任務の者の何名かは、寒さに出鼻を挫かれた様子だった。その中に見えた班長は何度も顔を合わせたことのある男で、予想通り、不機嫌そうに短くなった煙草を吸いながら、不甲斐ない部下の襟を強引に締めなおした。
「まだ三度ぐらいだろう。あれじゃ渇を入れられたって仕方ない」
「きっと千名さんの頭を見て寒くなったんじゃないですかね」
「お前の冗談はいつ聞いても温まらねぇやな」
「それじゃ、早いところ入りましょう。中はそれなりでしょうし」
 二年ばかり前から自分と現場を回るようになった岡崎が率先して目の前の宿の中に入ろうとしたところで、ついてくるだろうと思っていた千名が足を止めた。彼を置いていくわけにはいかない岡崎が声をかけると、千名は宿の前庭に駐車した車の列を眺めながら答えた。
「車が一台多いな。来るときにはあんなのいなかったろう」
「ああ、あれは公安(課)のだそうで」
 二人の視線の先には、署の駐車場では見かけたことのない白塗りの乗用車が駐車している。車内に人影が無いところから察するに、既に宿の中に入っているのだろう。
「そんな話、聞いてないぞ」
「車中であれだけ眠ってれば、無線も耳に入らないでしょうよ。書類自体は出発までに整っているが最終確認は車中で、って課長も言ってたじゃないですか」
「俺は昨日検挙《あげ》た奴の報告書やらなんやらで出発まで何もできんかったよ」
 それを聞いた岡崎は苦笑いを浮かべる。彼も似たようなものだったのだ。しかし、千名が先日生まれた孫娘が風邪を引いたと聞いて、ただでさえ少ない自由になる時間を割いて、市内にある息子夫婦の家に様子を見に行っていたことを知っていた岡崎はこれといったことは口にせず、千名が喋りだすか動き出すのを待っていた。通常、現場についたらすぐにでも確認作業に入るところだが、千名が饒舌になるのはこういうとき以外にはないために、警部のことをそれなりに尊敬している警部補は、ここぞとばかりに彼のペースに合わせる。県警との合同捜査の際でもそれは変わらなかったから、彼らと仕事をすることになる大半の者はそれを心得ていて、それぞれの仕事にさっさと取り掛かる。先ほど、千名と岡崎が揶揄していた警備の者たちも、とうに宿の中に入り、然るべき位置に就いていた。
「したって、公安が何だ。赤軍がここに泊まってるわけじゃねぇんだろ」
「またそういうことを……まあ、何でも、大使館絡みらしいですよ」
「フランス人でも泊まってるのかい?」
「大使館とくればそれですか。いや、別に構わないんですけど、外れです。ドイツとイタリア両国からの要請で要人見分とかで来なった方を送ってくる手はずになってまして、恐らくその車でしょう」
「その要人ってのは関係者なのかい」
「近隣に駐在していた巡査長からの報告だと、そのようです」
 岡崎が腋に挟んでいた資料の中から、巡査長の名前を確認する。そうしてみて、彼が以前、岡崎がいた交通課で運転指導教官役を務めていたことを思い出した。どうやら、年齢を気にして、第一線を退いたらしい。送別会らしいものを開いたという話を聞いた覚えもあった。岡崎はそのとき既に県警管区内の別の署、つまりは現在の任地に配属されていたため、参加はできなかったが、親しくした覚えも無かったので、そのことすら忘れていたのだった。前庭をよく確認してみれば、岡崎たちが駐車した場所から更に奥まった場所に警察車両とわかる配色の軽自動車が駐車してあって、それが巡査長のものだとわかる。千名は珍しく落ち着きの無い岡崎を見遣りながら何か考えていたようだが、それを誤魔化すように、岡崎が自分に目を合わせたところで、茶を濁した。
「偉ぶった奴じゃなきゃいいんだがな。あと、そいつが犯人って線も出来れば無しにしてもらいたい。厄介だからな」
「そんな都合で犯人が変わるのはサスペンスだけですよ」
「その言い方は変だぜ。あれっていうのはよ、わざと厄介にしてるんだろう?」
「最近はそうでもないみたいですよ。カミさんと読んだり見たりしてますけど」
 そういえば。岡崎は一昨日、年末は仕事と特番が重なるから録画が大変だ、と妻が食事中に愚痴っていたことを思い出す。彼の妻は看護士長になってから多忙だった。岡崎が録画されたサスペンス番組を家に帰ってから極力見ようと努め始めたのはその頃で、泊り込みの際には妻から渡された付箋が何枚か貼られている文庫を持って仕事に出かけてもいる。彼らの間には子供が無かったから、彼なりの妻との話題作りの一環としての所作だった。千名にしてみればそういった夫婦間のやり取りは奇妙ながら面白くも思えて、やれ今度はどんな話だ、やれなんだと岡崎が休憩時間に文庫を読んでいるとちょっかいを出していた。今もそれについて何か冗談を言おうと思ったが、流石にそろそろ話を詰める必要があると感じ、玄関に向かって歩き始めた。
「ま、犯人がいるから犯罪が起きるってのは古今東西変わらないんだ。気楽に行こうやな」
「ですかねぇ。なんだか随分の大所帯みたいですし、こりゃ十分厄介ですよ」
 玄関の表側には遠野御一行様と書かれた垂れ幕が下がっている。見たところ手書きらしく、紙も和紙であったから、ここの管理人には書道の心得があるらしいことがわかる。それが捜査の役に立つとは思えなかったが、千名はやけに険しい顔をしてその垂れ幕を眺めている。岡崎がどうかしたのかと声をかける前に、千名が玄関に入った。
「したって、駐在の報告してきたのをまとめたやつ、ざっと読んだが、ま、凶器に関しては包丁が刺さってたんだからよ、指紋と掌紋、それに念のため犯人の体液の検出だわな、それから遺体を県警に送って、後はじっくりって感じだろうよ。その場で解決するわけじゃねぇんだ。かといって取りこぼしがあったら問題だわな。状況証拠だけで引っ張れるような奴がいれば話は早いんだが」
「そんな怪しい人がいるんなら楽なんですけどねぇ」
「関係者のリスト、貸してくれ」
「かなり大雑把ですよ、これ」
「構わんよ」
 どうやら宿の中は土足で動いて構わないらしく、スリッパはどこかと探していた千名の肩を叩いて、岡崎が件のリストを千名に渡す。管理人が詰めているという厨房へと案内してくれる警備の人間の言葉を聞き流しながら、千名は黙々とリストを確認していった。
「このアルカロイドとかナルシストとかってのは?」
「なんですかそれ……って、ああ、アルクェイドさんとナルバレックさん、ですね。珍しい名前なんですぐに覚えちゃいましたよ」
「そのどっちが例の要人だ?」
「どうもナルバレックさんのことらしいですね。ただ、どういう関係の方なのか、本当にその方なのか……そこらへんがどうも」
「まあいい、どんな人間だろうと、要は犯行が可能だったかそうでなかったかだけが重要だ」

 厨房に入ると、三十歳手前だろうと思われる女性が頭に巻いた日本手拭を外しながら応対する。岡崎はするりと千名の前に出た。
「あなたが管理人の戸羽――えっと、蕗さん、でよろしいですか」
 岡崎の質問に相手の女性が肯定の意を述べると、刑事二人が簡単な自己紹介を済ませる。
「外は寒かったでしょう?」
「はあ、まあ」
「昨夜作った豚汁が残ってるんですけど、食べますか? 先ほど、警備の方にはお分けしたところなんですよ」
「いや、しかし……」
 どうでも良いことを聞かれて、岡崎が怪訝な表情を浮かべるが、相手は気にしない。こういうとき、岡崎の経験からすると大概は早期の事件解決を懇願されるか、不機嫌そうに追い払われてさっさと現場検証に行くかであった。それは事件にあたっての不安がそうさせるものだから岡崎はそれが自然なものだと思っていて、それだけに変に思えたのだった。ましてや、この女性……蕗はこの宿の責任者である。よほど警察を信頼しているのか、はたまた大したことではないと思っているのか、岡崎にはよくわからなかった。
「構わんだろう。ちょうど朝飯も食ったか食ってないかって腹持ちなんだ。いただこうじゃないか。食いながらで失礼かもしれませんが、その間に簡単な質問を幾つかさせてもらいます。よろしいですかね」
「ええ、もちろんです。ちょっと作りすぎちゃって、困ってたんですよ」
 そういって大きめの茶碗に業務用の特大鍋から豚汁をよそっている蕗を見ながら、岡崎はこの人には犯行は無理だなぁ、と予断ながらも間違いないと思われる感想を持ったのだった。
「おい」
「なんです」
 岡崎が食卓の椅子に座り、これから聞くべきことを頭の中で考えていると、隣の椅子に座った千名に肘で小突かれる。さきほどのやり取りでどこかまずいところがあったのだろうか。続く言葉は彼にとって意外なものだった。
「見覚えがある。お前、しばらく黙ってろ」
「――わかりました」
 細かいことを聞き質そうと思ったが、直ぐに蕗が二人分の茶碗を置いて、向かいの椅子に座ってしまった。
 見覚えがある。千名はそう言った。それは取りも直さず、何かの事件の関係者だったということだろう。そしてそれは、ここ二年のことではありえない。岡崎は抜群のとまではいかないが、刑事としての自覚に足る記憶力を有していたから、自分が岡崎と事件現場に出るようになってからの関係者の顔は、意識して顔を見れば名前を思い出せる。蕗の顔を改めて見直す。第一印象こそ頼り気の無いものであったが、目と鼻、それに口は小さな顔の中で綺麗に収まっており、顎周りはしっかりしている。皮膚は健康的というよりは弾力があるように見受けられるし、眉は根が太く先は鋭い。机の上に行儀良く重ねて置かれた両手はごつごつとしているのが見て取れる。それは工場働きの人間のように削れたり焼けたりしたからなったのではなく、何かこう、手自体を鍛えようとしてできたようなものなのだと、不自然な傷やくぼみが無いことから察した。
 蕗の手先に落としていた目線を再び顔のあたりに上げると、彼女と目が合う。岡崎は、それでは、と口に出してから、両手を合わせた後に豚汁に口をつけた。
「この豚汁、白味噌ですな」
「ええ、こちらでは赤味噌が良いという方が多いんですけど、ちょっと事情があって、甘めにしてあるんです。それでも塩辛いらしいんですけどね」
「いやいや、この按配、手慣れていないとできない。うちの婆さんなんて、逆立ちしても出せない味ですよ。しかもあれだけの量でしょう?」
 千名が喋っている間、岡崎はそれがどうしたといった具合に黙々と豚汁を食べていたが、なるほど、たしかに季節や年ごとに旨味が変わる地場の野菜と折り合いをつける味付けは難しいのだろう。妻が作りおきした豚汁なんて、毎回のように味が変わる始末で、その度にカレーと同じで置いておくだけで美味くなる、というよくわからない言い訳を岡崎は聞いている。千名はああ見えてなかなか、実家が寺だったらしく薄味で育ったためか、味に敏感だということを何度か本人に聞いた覚えがある。
「何が仰りたいのか……」
「いえね、以前、これと似た、いや、同じと言いましょう。豚汁をご馳走になったことがありましてな。あれはたしか、道場の事件のときでしたか。あれからずっと気になっていたんですよ。あなたがどうなったのか、と」
「あ、ああ……」
 途端、蕗の顔色が変わる。瞼は開ききり、顎が緩む。すぐにその表情は元に戻ったが、さきほどまでの落ち着きと余裕は無い。一方、千名は興奮しているようだった。見ればとっくに豚汁は無くなっていて、彼にとっては食事としての意味はそれに無かったことが岡崎にはわかった。岡崎は咄嗟に、傍に控えていた警備の人間にこの場から下がるよう目配せをすると、彼はそれに従い、慌てて厨房を出て行く。
「思い出されましたか。あの事件はねぇ、悲惨でした。関わった人間のことごとくが、精神的、社会的に不都合が出る有様でね。捜査本部は異例の早さで解散。新聞社もさっさと手を引っ込めた。まぁ、刑事事件の大半は申し訳程度に三面記事に一度載ったっきり、ほとんどの事件は忘れられてしまうもんですがね。誰も警察の広報なんぞ目は通さないし、ITだなんだっつっても、誰も警察の情報を覗こうとしない。どれだけ情報の手段が充実しようと、関心の無い事柄は無かったこととして扱われるんです。でもね、現場の人間として、関係者を放っておくなんて、できやしません。しかし……あの頃、馬鹿みたいな数の転属命令が出ましてな。未だに私はあの頃の仲間に顔を合わせてませんよ。そしてあなたはその間に、いなくなった。いや、いなくならざるをえなかった。他の関係者の居所はわかっているが、あなたがどこに行ったのか、それだけがわからなかった。書類による確認も禁じられていた」
「落ち着いてくださいよ、千名さん。それは本件には関係の無いことでしょう?」
 流石に見ていられなくなった岡崎が千名を止めようと、席を立ち彼の前に片手を置いて蕗との間に体を割り込ませる。そのとき、千名が両手で机を叩いた。
「馬鹿を言うな! あいつらがここにいて、彼女までもがここにいて、関係の無いわけがないだろう」
「これは尋問ではありません、善意の捜査協力なんです! これ以上、コトを荒立てるのは、私も不本意ですが、それは千名さん次第ですよ」
 岡崎は完全に虚を突かれ、焦っていた。あの千名が怒る? 職務上、苛立ちから部下や仲間に当たる者は少なくないが、千名に限ってそれは今まで一度も無かった。無かったはずだ。千名はバツが悪そうな顔をすると、現場を見てくるといって、席を立った。岡崎は千名について行くべきところを、あえて厨房に残った。今、千名に何を問い質しても収穫は無いだろう。これから事件の捜査をするにあたって、千名が何を考え、何を想定して動くのか。それを知っておかなくては、補佐の仕様がない。彼は一連の出来事にうろたえている蕗に大きく頭を下げると、再び席について、残った自分の豚汁に手をつけ始める。蕗はその様子を、何故といった目で見ていたが、彼が食べ終わるのを待って、緑茶をすすめた。
「あなたは何も知らないのですか」
 岡崎はゆっくりと頷く。知らないことだらけだ。千名が言ったあの事件とやらも、豚汁のことも、何故に目の前の女性が苦しげに話さなくてはならないのかということも。
「私から説明できることはあの方が全て知っています。いえ、私より詳しいはずです。あの方は何か勘違いをされています。どうか、それをわからせてあげてください。私には何もできませんから」
「何もできないなんて、そんなことありませんよ。あんな美味しい豚汁はそうそう食べられません。それで十分です」
 岡崎が蕗に期待した答えを彼は教えてもらえなかったが、かといって千名を追いかけようとも思えなかった。どんな状況にあろうと、あの刑事の現場における洞察力と効率の良さは疑いようが無い。先ほどはそれが悪い方向に出ただけのことなのだ。だから、彼の千名に対する信頼は揺るがない。岡崎は頭を照れくさそうにかくと、これから自分がとるべき行動のために蕗に質問をした。
「資料によると、弟さんが怪我をなさってますね」
「今はナルバレックさんの部屋で寝ていますけど、目は覚めています。怪我も大したことはありません」
「彼に事件のときのことをお訊きしたいので、案内していただけませんか」
「あちらには今こちらの棟で寝泊りしている方が全員いますので、ちょうど良いかと思います。でも、遠野の方々はよろしいのですか?」
「そちらは込み入った話になりますので、後回しにします。先に確実なところから手をつけたいので」
「そんなことまで私に言って良いんですか」
「別に構いませんよ。あれだけの恥をあなたにお見せしたんだ。これくらい正直になってもお咎めは無いでしょう」
 それを聞いた蕗は、二人分の茶碗と自分と岡崎が飲み終えた湯飲みを流し台に入れた桶に放り込んだ。
「それでは行きましょうか」
「お願いします」
 厨房は玄関から右に行き、階段を通り過ぎた場所にある。蕗によると他に一階には、玄関の隣にある受付兼事務室と管理人姉弟の部屋があり、それらの部屋は内部から直に行き来ができるとのことだった。それらについては後ほど確認することになる。階段を上ると、大分間隔を空けて客室のドアが二つあり、一番奥のドアは物置のものらしい。建物の大きさを考えると、客室はかなりの大きさだろうことがわかった。手前のドアが件の客室のものらしく、その前に立った蕗がノックすると、中からドアが開けられた。

「なんだ、姉か」
「話を聞きたいと、こちらの刑事さんが」
 ドアを開けたのはアルクェイドだった。蕗が彼女と岡崎のことをお互いに紹介すると、アルクェイドが不機嫌な顔をして腕を組み、岡崎を見遣った。
「またなの?」
「またというのはどういうことですか」
「まあ、とにかく入ってよ」
 岡崎がアルクェイドに強引に手を引かれて室内に入るのを、蕗が追いかける。中では、ベッドに秀也がいて、ナルバレックはその傍の椅子に腰掛け、それにもう一人、背広を着た外国人らしい男性が窓枠に腰掛けていた。ナルバレックは秀也に先ほど教えてもらった花札を使って彼の相手をしていて、背広の男性はというと風の調子を見るように、それとなく外を気にしていた。
 ここでもまた蕗が皆の紹介をそれぞれにし終えると、ナルバレックが自分の椅子をすすめてくれたので、彼女はそれに座った。背広の男性は名をトマシュ・マティセクと言い、蕗の紹介の後、自分が公安に連れられてきた人物であり、事前に資料に書いた要人はナルバレック本人に間違いないこと、そして自分も刑事であることを岡崎に説明した。岡崎は最初、マティセクの英語に戸惑いはしたが、直ぐに調子を合わせることができた。彼が三十歳を越える前に警部補にまでなれたのも、彼が大卒であり、かつ様々な資料に精通することが可能なだけの能力があったからだった。また、マティセク自身、得意としているドイツ語ではなく英語を選び、なおかつわかりやすいように変な言い回しを避けてくれていた。それに多少なら日本語も理解できるらしいことも、紹介のときに彼は述べていた。
「合同捜査の必要は無いのですね」
「ええ、こちらの事件自体に関わる気はありませんし、そういった命令も受けてはいません。私はあくまで、ナルバレックさんがこちらに居るということが今回のことで判明したため、出向いただけなのですよ。それに関しては公安の方も了承済みですし、その証拠に、彼らは既に帰りました」
「よく言う。私をダシにしただけだろう、お前は」
 ナルバレックが岡崎とマティセクの会話に割って入る。その言葉はイタリア語であったから、岡崎は理解できない。しかしそうでなくても彼は下手に口を出さなかった。公安が認めたということは、マティセクにはある程度の自由な裁量権が認められているということだ。公安の気に障るようなことがあれば、警備部引いては警備局とのコネも使えなくなる。一地方公務員である彼が仕事を共にする機会が多い警備部はまだしも警備局のコネを使うことになる可能性はほとんど無いのだが、コネはあるに越したことはないし、予想外の出世の機会を棒に振ることもあり得る。そこまで複雑に考えたからではなかったが、少なくとも岡崎は二人の会話を個人的なものとして片付けることにした。実際、この事件との関連性は無いであろうし、彼にとって今回の事件は先の厨房での一件で重要といって良いものになっていて、余計なことに首を突っ込もうという気はさらさら無くなっていたのである。
「危険人物として、無線機と私が抑えた資料を証拠に公安に身柄を差し出しても良かったんですがね。良い顔はされないでしょうけど」
「やろうとも思っていないことを脅迫の材料にするな。あれに気づいた点についてだけは褒めてやるがね」
 ナルバレックがそれとなく板張りの壁の一角を見遣る。そこには昨夜に彼女が使っていた無線機や端末一式がすっぽりと入るスペースが板の裏に隠されていて、よくよく確認しないと余人にはわからないほど綺麗な装丁で誤魔化されている。それを部屋に入ってきて五分以内に見つけたマティセクは、ナルバレックなりに評価できる人物だった。これで俗っぽい刑事らしいカマをかける癖さえ無ければ完璧だろうとすら彼女は思っている。マティセク自身、それは理解しているようで、苦笑いを忘れない。それでも彼がそういったカマをかけるのは、刑事としての自分に誇りを持っているからだった。
「しかし、計算外でしたよ。あなたは事態を把握していると思っていたものでね。私は余計な入れ知恵をしてしまったことになる」
「その入れ知恵でどのような結果になろうと、一般の人間には関係の無い話だ」
「私もこれ以上、余計な世界のことを知りたいとも思いません。私は私の仕事を完遂するだけです」
「それすら私にとってはプラスになる。お前が願っている結果が出れば、奴らも不用意なことはできんだろう」
「それは先方次第でしょうな。あなたも気をつけることです」
「お互い様というやつだな。どうやら思っていた以上に、この業界は狭いらしい」
「そのくせ、気を抜けば下の地獄に落とされる」
「精々、下を見て綱渡りの綱から落ちないようにするんだな」
 刑事としての本分を弁えている限り、この男は大丈夫だろう。ナルバレックはそう結論を出すと、自分のテーブルに置いてあったコーヒーに手を伸ばしてそれを飲み始めた。既にマティセクのことは興味の対象外になっている。そのマティセクは話の区切りを認めて、自分が羽織ってきたコートと衣服や資料などが入ったナイロン張りのアタッシュケースを持ち直すと、秀也と何事か笑い話をしているアルクェイドに歩み寄った。
「それではアルクェイドさん、よろしくお願いします」
「妹に会うのに付き添えば良いんでしょ?」
「ええ」
「良いよ。レンもそこにいるみたいだし」
 部屋を出ようとした二人に、蕗が声をかける。何事かと振り向いたマティセクに、蕗はこう申し出た。
「良かったら、コートとお荷物はお預かりします」
「お願いします。アタッシュケースの鍵は私が持っていますから、紛失にだけ気を遣ってくださいね」
 蕗の他にもマティセクの日本語がそれなりのものだということに何らかの感慨を覚えた者はあったが、直ぐにその理由がわかることになる。マティセクが蕗に渡したコートを見て、何かに気づいたらしく、失礼、と言ってからコートの内ポケットに収まっていた写真を取り出した。その写真は、そういったものを撮るための撮影所で一緒に写っている、マティセクと娘のシャーリーンがいた。マティセクは照れくさいのか、必要以上に背筋を正していて、シャーリーンはその傍の椅子に腰掛けている。彼女の手には母親の遺影が飾られた小さな額縁が乗せられていた。
「こちらの方はお子さんですか」
 遺影についてはあえて無視して、蕗はマティセクに聞いてみた。彼はとりあえず頷くと、頭の中でどのように日本語で答えたものかを、口をもごもごさせて確認してから、声を出す。
「この写真は、娘がイタリアの大学の寮に入る前に、知り合いの写真屋で撮ってもらったものです。娘はどうやら日本に関心があるらしくて。それで私も、年甲斐も無く勉強した次第です。学生の頃にも日本の勉強はしました。留学していた日本人の友人もいましたから。彼はよくシャワーの使い勝手が悪いと言ってましたよ」
「折角勉強したんですから、今度はご一緒に来たらいかがですか」
「それは良いかもしれません。考えておきますよ。しかし、その前に仕事を片付けなくては」
「お引き留めして申し訳ありませんでした」
「いえいえ」
 大事そうに写真を背広の内ポケットに入れてあった手帳に挟むと、待たせてすみませんとアルクェイドに告げてから、二人は部屋を出て行った。出入り口のドアが閉められると、岡崎はほっとしたようだ。
「やれやれ、やっと私の用件に入れるなぁ。アルクェイドさんには後で聞きなおさないと」
「あの女は気が乗らんと常識事でも平気ですっぽかすからな。気楽にやった方が良いだろう」
「そう言ってくださる方に限って私を困らせてるんですよねぇ」
「それは違う。見たところお前さんは自分を困らせる相手に好感を抱くタイプだ。今だって、あれだけ好き勝手にして部屋を出て行った奴を止めもしなかったろう? 刑事としてそれはどうなんだ、うん?」
「どうなんでしょうねぇ。それを確かめるためにも、質問に入りたいのですが」
 岡崎はナルバレックと秀也、それに蕗に順々に目を配らせると、言質を取ることができた。本来なら先ずは一人ずつ証言を取るべきだが、駐在が報告してきた内容によればここにいる三人の証言は互いのそれを補完し合えるような形になるはずだ。そう考えると、一人だけ部屋に篭っていたらしいアルクェイドが出て行ったのは都合が良かったのかもしれない。岡崎がそう考えていると、質問をするまでもなく、ナルバレックが自分がわかる範囲だがと前置きをしてから、事件当時のことを説明し始めた。大体に関しては報告書から考えていたことと大差無く確認だけに終わったが、一点だけ、頭を悩ますことがあった。
「蕗さんが悲鳴を上げたときの『齟齬』というのは、具体的にはどのようなものでしたか」
「それがわかっていれば、こんな回りくどい言い方はせんよ」
「……蕗さんはどうなんです? 悲鳴を上げたのは蕗さんでしょう?」
「そう言われても……私は悲鳴を上げただけですし」
「そうですよねぇ。悲鳴を上げるときにあれこれ考えないのは当たり前ですから」
 当たり前。その言葉を耳にして、秀也が当たり前のことを口にした。
「悲鳴は二回、か」
「シュウヤ、何と言った」
「いや、ですから、二回だなぁ、って」
「ああ、そうか、うん、なるほどな。それならそう思うか」
 ナルバレックはどうしてその数式が解けたのかを納得するように一人で頷く。相変わらず答えは連立方程式よろしく幾つもあって、この場合はどれが当てはまるのかがわからなかったが、少なくとも方程式だけはできたのだった。岡崎が彼女の奇妙な言行について問い質そうとしたとき、彼女は語り始める。
「悲鳴を上げたのはどっちだったんだろうな」
「どっち? 半狂乱で蕗さんに襲い掛かった被害者が――ややこしいな――マッカラムさんが悲鳴を上げたって言うんですか?」
「そのときのことじゃない。最初の悲鳴のときの話だ」
「つまり、悲鳴を上げたのは琥珀さんだったか、はたまたマッカラムさんだったか、と」
「それだけじゃないんだが、それによっては、少なくとも悲鳴が上がった時点では誰が被害者の側にいたか、というのが変わってくる」
 蕗が悲鳴を上げたとき、彼女のそれはたしかに彼女とわかる悲鳴だった。それはナルバレックが悲鳴を上げた人物について見当がついていたからでもあり、蕗がそれほど混乱していなかったからでもある。一方、最初の悲鳴のときはどうか。自分は何の感慨も浮かばず、ただそれが悲鳴だというだけで部屋を飛び出していたではないか。これは捜査上、何の証拠にも根拠にもならないし、こじつけでしかなかったが、疑いを持つという一点にだけは貢献した。
「それについては事件のときに悲鳴を聞いた方にしかわからないですね。でも、男性と女性の声でしょう? どちらが悲鳴を出したかなんて、わかりそうなもんじゃないですか」
「そこがそれだけじゃないと言った理由だ。お前さんはまだあの棟には行ってないからわからんかもしれんが、あの建物は廊下が長い癖にコンクリート作りなもんだから、よく響いたみたいでな。他の連中に聞いてみても、どこから悲鳴が聞こえたんだかさっぱりわからんのだ。実際、奴らは部屋から顔を出すだけで、どこに向かうべきかわかっていなかったからな。幸い、私はこちらの棟から耳にしたからある程度の場所はわかったが、正確な位置まではわからん。もしかしたらあの悲鳴自体、何かの擬装かもしれん。それに、私はああいった悲鳴は聞き慣れているのだが……腕を千切られたりしたときのような低音の悲鳴ならまだしも、脳みそを生きたまま吸われるときのような高音だと男女の違いなんてほとんどわからん。質実剛健な男性がひょろっちい声で泣き喚いたこともあるし、眉目秀麗な女性が死に際に最悪のバスを垂れ流したこともある」
 岡崎は少しだけナルバレックの語った状況を想像してみたが、すぐに止めた。思えば事件捜査にあたる刑事は事件が起こってから被害者に顔を合わせてばかりで、事件の瞬間の出来事がどれだけ悲惨なものだったのか、一般的な常識からはみ出して目にすることは無いに等しい。だからこそ事件捜査は捜査足りうる。自分が見聞きしていないことを明かそうとすること、そしてそれを一般が理解できるところまで事件という暗がりから引っ張り出すこと、そのどちらかが欠けても、捜査は捜査足りえない。頭の中で納得するだけなら関係者や探偵、小説家、果ては加害者や被害者でもできることだ。彼はそういったことを瞬間に混ぜっ返してみたが、埒も開かないことだとすると、話の切り口を変えることにした。
「後の部分は見聞きした方はほとんどいないと思うので保留にするとして……そうなんですか、秀也さん」
「あちらの棟は、祖父が生前、相続税対策として事前に拡張工事をしたときのものなんです。谷に近いこともあって、地盤と土台の相性を調査の上でああいう作りにしたそうです」
「お孫さんへ少しでも多くかつ効率良く財産を形にして残そうとした結果、いや、それだと相続じゃなくて譲渡になるのか――事件がややこしくなる可能性が生まれてるわけですな」
「元々は姉の夫に譲渡するつもりでしたことなんですけどね」
「旦那さん? ご結婚なされてたんですか」
 岡崎の素朴な質問に秀也が不思議そうな顔をしたが、彼が深く考える前に、彼の姉がさっぱりと言い切った。
「別れました。もう五年以上も前になります」
「失礼しました。この件からは建物の成り立ちしかわかりませんから、これくらいにしておきます」
「それじゃ、お茶でも入れてきますね。あちらの棟は部屋の中以外は外から風が吹き込んでしまいますから、暖まっておいた方が良いでしょう」
「すいません、気を遣っていただいて」
「悪いんだが私はコーヒーにしてくれ。緑茶だと、またあの馬鹿のことを思い出す」
 苦笑いしながら出て行く蕗を見送ると、岡崎は思い立つことがあった。その場の自然な判断として片付けられることではあったが、何かにつけて姉の様子に気を配っていた秀也を見ていると、どうにも口が開く。
「ところで気になったことをお聞きしてもよろしいですか、秀也さん」
「どうぞ」
「何故、そのような状況で、蕗さん一人をこちらの棟に残したんですか? アルクェイドさんがいたとはいえ、実質、単独行動だったわけでしょう? 部屋に篭っていたアルクェイドさんはともかく、どこに危険が潜んでいるのかわからないのに」
「それは私も気になっていたんだ。大したことではないと私も踏んだからこそああいった行動を採ったのだが、シュウヤにしてみれば大事な姉だ。不自然じゃないか」
「まるで殺人自体は大したことではないような言い方ですね」
「大したことないだろう?」
「はあ……まあ、構わんですが、結局のところ、どうなんですか、秀也さん」
 一々ナルバレックを相手にしていると、自分の頭がどうにかなりそうになる。岡崎も大分慣れてきたのか、話半分に彼女の言葉を聞くことに決めた。少なくとも事件に関係の無さそうなことについては。
「姉は空手の有段者なんです。道場の師範も姉がやっていたぐらいですから」
「ちょっと待ってください。なんだかややこしくなってきた。えっと、その道場はご両親から引き継いだものですか?」
「いえ、違います。道場は姉の夫だった方の家筋のものです。姉の夫は道場こそ引き継いだものの、自分には武道の心得が足りないから、と大学を出てからも活躍していた姉を嫁にもらったんです」
「その道場は現在、どうなっていますか」
「ご存じない!?」
 矢庭に叫んだ秀也に、岡崎だけでなくナルバレックも目を丸くしている。その中にあって一番驚いているのは秀也であって、彼は短か目に切りそろえた頭を気まずそうに撫で付けていた。
「しまったなぁ……いや、こういうことを言ったら悪く取られるかもしれませんけど、できれば話したくなかったなぁ。まさか警察の方があの事件を知らないとは思っていませんでしたから」
「いや、こちらこそすいませんです。私、元々は県警本部にいたもので、その事件自体は知っているかもしれませんが、どこでどのように起こったか、といった点までは知らないのですよ」
 思えば、そういった自分だったからこそ現在の職場で千名の補佐に当たるようになったのかと今更のように思い出す彼ではあったが、そんなことを言えば彼を今の場所に追いやった面々が声を囃《はや》して喜びそうな気がしたので、すぐに忘れることにした。つまらない失敗だった。それで十分ではないか。妻にもそう言われた。だから彼は秀也の言葉を聞き逃さないよう、耳を傾けた。秀也はドアの外を気にするような素振りを見せてから、唾を飲んだ。ナルバレックは退屈そうに愛用のサングラスを拭いている。
「数年前の連続通り魔殺人事件ですよ」
「それなら当然知ってますよ。というか、今に中学生ぐらいの子供でも覚えているんじゃないかな。でも、空手道場と通り魔?」
「直接的には関わっていないんですが、被害者の中に、門下生がいたんです」
「かなりの数の方が被害に遭われましたからね。そういった方がいても不思議ではないか」
 一般人の手前、具体的な数字を口に出すことは無かったが、その数字は当時報道されたものより確実に多い。それは別件として片付けられたものが少なからずあるからであり、岡崎の記憶に未だ強烈な閃きが起こらないのも、その別件に関連していると思われた。
「その子は高校生の女子だったんですけどね。姉が随分と可愛がっていたんです。その子自身、本人は謙遜してましたが高校生レベルではかなりのものだったと、手伝いみたいなことをしていた私でも覚えているくらいですよ」
 秀也は思い出す。自分は大学在籍中に手伝いという形で道場に通っていた。武道については全くわからなかったし、自分が内心で志していた料理の道にも関係が無かった。しかし、姉やその姉が可愛がる門下生などのために、出来る限りのことをしようと心に思いながら大鍋に火をかけていた。昨夜にアルクェイドたちに供した豚汁も、その頃に覚えたものだった。
 翻って、岡崎は冷静に話を聞いていた。度を越して感情移入をすることは許されない。今は、その道場がどうなったか、そしてそれに関連したことを明らかにすべきだ。
「たしかに道場としては痛手ですな。しかし、それで道場がどうなるというわけでもないでしょう。冷たい言い方かもしれませんけど、それなりの人数の生徒さんから月謝さえ入れば、立ち行かないなんてことにはならないはずですが」
「それがなったんですよ」
「それはまたなんで」
「姉が立ち行かなくなっちゃったんです」
「ああ」
 我ながら間抜けだなと岡崎が考えながら事情を把握した。経済性だの社会的問題だの、そんなもの、個人の我儘には敵うものじゃない。それは決して悪い意味ではなくて、だからこそ人間はときに思い切ったことをできる。だから人は経済的な余裕や人目を度外視で人を愛して結婚や不倫をするし、子供を作ろうともする。ただ、刑事としての彼は悪い結果になったそれらの『思い切ったこと』に相対することが多い。これもそうなのだろうか。
「姉はその子が中学生になったかならないくらいのときから目をかけていました。時折、その妹さんもお姉さんと一緒に遊びに来ていたくらいで。しかもその妹さんまで」
 秀也が言い淀んだが、それは問題ではなかった。今、岡崎の頭の中では電光石火のごとく記憶が走り回っていて、それを彼は必死で捕まえると、ああ、と唸っていた。
「思い出しましたか?」
「ええ、ええ! 事件中、最も悲惨な出来事として管区内ではもちきりでしたよ。それまでと違って死体が出ませんでしたから一般には混乱を広げないように通り魔事件とは関係が無いということにしたと思いますけど、現場の人間によると通り魔の仕業に間違いないって話でしたね。その――姉妹連続失踪事件」
 興奮している自分を必死で抑え、最終的に一般に知れ渡ることになった事件名を口にする。今となっては一般の人間で覚えている者は数える程度だろう。その話題が口にされることも無い。姉が先か妹が先か、それすらも曖昧だ。秀也もそれを弁えているのか、苦笑もほどほどに、話を続けた。
「姉はそれまで、弟の私から言うのもなんですけど、順風満帆な人生ってやつでしたからね、まあ、どんなに苦労をしていてもあんなことがあれば心の芯が折れちゃうと思うんですが……姉の場合、良くも悪くも状況が重なったんです」
「良くも悪くも? 悪いことばかりじゃなかったんですか」
「どこかで良いことがあれば、悪いことがあった人間は移り気するでしょう?」
 そういうものかな、と岡崎が顎を引いて頭を捻る。そういうものかもしれない。彼がそう結論付けるのと並行して、秀也は続ける。
「悪いことというのは、いわずもがな先にお話したことが一番大きいです。他に、姉は自分の夫との仲が上手くいっていなかったんです。あの人は……ああ、夫だった方のことです――元々道場に関心が無かったようですが、道場を任せた妻のことにも関心が続かなかったようなんです。未だにね、大きい家には変な方がいるんです。そういう家だからこそ許される人格っていうんですかね。色恋沙汰は人それぞれの自由ですけど、責任の取り方は一緒だと私は思うんですよ。でも、その人はそういった考えも無かった。更に言えば、姉が同性愛者なんじゃないかとすら疑ってたんです。邪推もそこまでいくと小説家にでもなれるんじゃないかってぐらいですよ。彼が真剣な顔をして私にそのことを問い質してきたときには、呆れましたよ。姉が道場を閉めてまで被害に遭った子のことを悲しんでいるのに、それをどう勘違いすればそうなるっていうんですか!」
「落ち着いてください……って、ああ、今日はこんなのばっかりだ」
 そうは言ってみてもまだ二回目なのだが、彼はもう五十回ぐらい同じ状況に立たされたような気分だった。困惑している彼をどう思ったのかはわからないが、秀也は眉間に皺を寄せながら深い溜息を吐くと、口のあたりを掌で擦った。
「その元夫の方のことはもういいですから、こちらの宿を任されるようになるまでを話してください」
「それが良いことなんですけどね。多分、それまでこちらを管理していた父方の祖父が申し出てくれなければ、私は好きにできましたけど、姉はそうはいかなかったんじゃないかな。空手一筋でしたから。結局、姉は一ヵ月ぐらい考えてから祖父に返事をして、それと同時に離婚届を夫に渡したんです。道場はその夫だった方が土地ごと売り払って、今じゃ更地ですよ。その土地は地元の会社が買い取って、公共事業用に高く転売したような話も友人から聞いたなぁ」
 ナルバレックはそれらの事柄を耳ざとく、刑事以上に注意深く聞いていたのだが、口は挟まない。どこから取り出したのか、二つ目のサングラスを丹念に拭き、いや磨き上げんばかりに布を滑らせていた。
「それからは今回の件まで何事も無かった。そうですね?」
「はい。私が知っていることはそれぐらいですけど……事件には関係ないでしょう? 長々とすいませんでした」
「食いついたのは私ですから、気になさらないでください。けど、参ったなぁ……あの事件の捜査本部には千名さんもいたはずだし……ああなるのも当然か」
「なんだ、内輪もめでもあるのか」
 ようやく口を挟めそうな段になって、ナルバレックが嬉々としてサングラスをしまう。ここ最近は人と話す機会が少なくなっていたためか、彼女が意識している以上に口は軽くなっていた。 
「あなた、こういう話が好きそうですねぇ。今で黙ってたっていうのに」
「いや、職業病だから気にするな」
「どんな職業なのかが気になりますな」
「それを聞いたら今の話以上に後悔するぞ」
 それは多分本当だろう。人をからかうためだけに物騒な話をしているのではなく、そういったことを口にしてもなお余裕を保てる自信が彼女を彼女として作り上げている。岡崎は警察手帳を大儀そうに背広の懐中にしまいこむ。
「これからのことになりますが、秀也さんにはこのまま養生していただくとして、ナルバレックさんは捜査協力をお願いできますか。見たところ、あなたが一番、関係者としては使い勝手が良い」
「それは公安が認めたからか?」
「いえ、ただの勘と経験によります」
「その根拠の客観性が欠落したところが良い。私もこの件が長引くと困るんでな、手伝おうじゃないか」
 そう言われてから、岡崎がナルバレックと秀也の顔を順々に見遣り、大きく溜息を吐いた。それからしばらくもしない内に蕗が四人分の湯飲みとコップを乗せたお盆を持って、部屋に戻ってきた。秀也は気まずそうにしていたが、姉は別にどうしたということもなく、彼に湯飲みを渡すと、各々に飲み物を行き渡らせた。
「それでは、お茶をいただいてから、現場を確認しがてら遠野の方々にお会いすることにしますか。先ほどの悲鳴の件は推測しかできませんが、マッカラムさんと同室にいた琥珀さんの証言次第では、疑いようもあるでしょう。蕗さんは普段の仕事をしていて構いません。ただ、外に出るときや長時間一人になるようなことがあれば警備の者に付き添ってもらってください」
 蕗が岡崎の言葉に頷くと、岡崎は湯飲みに口をつけた。ナルバレックは首を鳴らしながら窓際に行くと、煙草を取り出した。
「私は煙草を吸わせてもらうが、お前さんはどうする」
「結婚してからは一挿しも口にしてません」
「それは結構なことだ」
 嬉しそうに煙草に火を点けたナルバレックを岡崎が見る。彼女はきっと事件解決まで、そして事件が解決したときにも、こうして煙草を美味そうに吸っているに違いない。彼はそう考えてから、湯飲みを大きく傾けた。