第十八話「軍靴の音が聞こえる」

 そのとき私は、コーヒーが飲みたかった。不味い機内食(なんせチーズバーガーだ)とこれまた不味いコーヒーを摂ったから余計にそう思ったのかもしれないが、レオナルド・ダ・ヴィンチ空港からタクシーを拾ったところ、運ちゃんがこれからならちょうど電車に間に合うと云うので、そのままヴィテルボ行きの電車に飛び乗るはめになった。

 局長に呼び出された後、私は直ぐにICPOの資料を参照したわけだが、それからはのんびりしていられなかった。次の日の朝のテーゲル空港発のルフトハンザの航空券を電話で取り、必要な書類をデスクに置いておくように部下に頼むと、資料室の主に娘の住所を教え、自宅へ戻った。
 目前に控えていた休日に大掃除をするという私の計画は台無しになり、若い頃に妻との旅行の際によく使っていたトランクを引っ張り出す。埃が私の鼻をくすぐったが、衣類と歯磨き、それに剃刀を詰めると、シャワーを浴びた。
 着替えを終えると、愛用のコートの皺を伸ばして袖に腕を通し、内ポケットに写真が入ってることを確認する。それは先日に帰郷した娘と撮影したものだ。生前の妻が写ったものは額に入れてあるので、持ち歩くことはできない。折角だから小さい物も焼き増してもらいましょうよと云った妻の言葉を思い出して、つい苦笑いが浮かんだ。それはもう、十年以上も前のことになるのだ。

 妻の病気は肺塞栓の酷いもので、最期には心臓が駄目になった。よく喋る女性だったから、塞ぎ込むなどの前兆があればわかったはずだと医学に明るい親類に葬式の後で云われた覚えがある。しかし、私にわかるはずがなかった。私は彼女がハンカチを洗い続けてくれる限り永遠に存在し続けるものだと錯覚していた。私が早朝に仕事場へ飛び出すとき、テーブルの上にきちんと折り畳まれたハンカチさえあれば、私は何も疑わなかったし、自分は幸せなのだと信じていた。
 娘が泣きながら署に電話をかけてきたとき、私は強盗容疑の男を包囲の末に射殺に追い込んでいた。興奮しながら無線の呼び出しに応じた私は、哀れな男でしかなかった。

 翌日、局長に出立の報告を終えると、その足で空港へ向かった。電車が地下を抜けたとき、既に夕陽がヴィテルボのゴシック模様の街を黒く染め始めていた。
 フィオレンティーナ駅では、空港に着いてから連絡を取ったジャコモ・パーリア刑事が待っていてくれた。彼は決して大柄ではない私から見ても小柄の人物だったが、私が同年代だと見るや、とてもきさくに接してくれた。彼は私のためにわざわざ丸三日の予定を空けてくれたらしく、具体的なことは明日に回し、今夜は彼の家に泊まる段取りを整えてくれたとのことで、私はしばらく考え込んだが、ホテルでの手続きが面倒に思えるほど疲れていたので、彼の申し出を飲むことにした。彼の家は旧い区画の近くにあるらしく、拾ったタクシーは修道院や聖堂といった建物を横切っていく。
「ヴィテルボは初めてですか」
「いえ、大学時代、夏休みに仲間と一度だけ来た事があるんです。こちらは古くて立派な建物が多いですから。まぁ、日陰が多くて涼しそうだと私なんかは思ってたんですけどね」
「ああ、夏は一番良い時期です。仕事帰りにこう道を歩いてますとね、すうっと雲が上を通るときがあるんですよ。その前後の陽射しやら陰やらの按配といったら……もっとも、この仕事になってからは観光客相手の性質の悪い商売の相手で素直に喜べなくなりましたがね」
 疲れに任せず、意識的に目を閉じる。細い路地で熱い中にいた人々がふと上を見上げる瞬間を想像する。子供が夕食のことを思い出し、遊び疲れた足で帰れば、近所では好々爺やヤクザが一緒になってビールを煽り、食卓にはシャルドネをグラスに注いでご満悦の様子の父親と食前の祈りを促す母親。テレビではサッカーの中継が始まり、食事もそこそこに熱中する。そんな光景を懐かしいと思えない自分に、少しだけ寂しさが湧いた。
「しかし、そうか、こちらの大学だったんですね」
「ええ、まぁ。その所為ですよ、私に白羽の矢が立ったのは」
「親父がよく云っていましたよ。上司には余計なことを云うな、云ったら余計なことをさせられる、って」
「警察なんてのはただでさえ余計なことばかりしますしね」
「全くですよ」
 私はほっとした。パーリアという刑事は、行き詰ったであろう捜査に対する執着心を持ちながらも、仕事に対する不満を必要以上に隠さない人物なのだとわかったからだ。彼となら何らかの成果を近いうちに出せるだろう。そう思ってからパーリアの自宅に着くまでに、彼の父親は軍人だったこと、息子と娘が一人ずついて、今は二人とも大学の寮にいることを聞き、自分は娘が一人いると云った。妻のことを話すと、パーリアは残念なことですと云うと同時に、こちらにいる間、奥さんに寂しい思いをさせずに済んだと冗談めかした。その夜はパーリア夫人が用意してくれたパスタとベッドのおかげで、ぐっすりと眠ることができた。

 翌朝、夫人に一宿一飯の礼をした後、彼女より十も歳が上だということが新たに判明した彼女の夫と共に、車で十五分程の市街にあるヴィテルボの県警察本部へと向かった。パーリアは六年ほど前から殺人捜査を専門にここで奮闘しているらしい。建物は外見こそ近代的な鉄筋コンクリートであったが、ロビーは大理石で、調度品なども入り口の脇に飾られていた。
 それからパーリアの上司に顔合わせをした後、彼のオフィスで現在の状況について彼に説明してもらうことになった。私の持ち合わせている情報は全てICPOに資料として提出してあったし(当然、パーリアもそれを熟読している)、それから進展らしい進展も無かったから、卓には二つの事件の書類が揃っていた。私はその片方を読みながら、パーリアの言葉に耳を傾ける。
「事件は十月最後の週末のことです。この街にある環境保護団体のオフィスで、そこの支部長だったカンナバーロ氏の不審な死体が発見されました」
「不審な死体、というのは、ここに書いてある通り、狙撃された死体、ということですか」
「それだけではありません。被害者はどうやら、彼が執務机の前に座るのを待って、狙撃されたようなのです」
「しかし、それで不審と云うのは、おかしいんじゃないかな。この資料にある、現場である執務室の間取りからすると、窓際の執務机を狙うのが一番簡単でしょう?」
「それがそうでもないのです。狙撃が可能な全ての建物からの狙撃自体の難度、また逃走経路も駅までの距離や車が通行可能な道の当時の渋滞状況などを考慮した結果、被害者の職場よりも、通勤や帰宅の途中、或いは自宅において狙撃またはそれに準じた殺害方法が選択されて然るべき、ということになったのです」
「検問にも引っかからなかったようですね」
「そうなのです。今でも県外へ通じる道全てに人手を割いていますがね。国境や空港等に関してはカラビニエリに任せてあります」
「なるほど、でしたら、こちらでは現在は近隣に潜伏しているという前提で捜査を行っているわけですか」
「ええ、犯人だけではなく、殺害に使用した銃器の発見も急いでいます。プロであれば、銃を持ち歩くリスクは最小限に抑えるために使用後は捨てるなどの処分をするはずですから。しかし、一ヶ月以上が経過した今でも、発見されていません」
「こちらのそういった銃器を扱っている連中にも当たりは無し?」
「事件発生から一週間以内には少なくとも届け出をしてある商人には全て確認しました。現在は組織的な犯罪に関わっていると思われる商人などに当たりをつけていますが、これはなかなか難しい。なんせ、どの組織も、うちじゃない、やるとしたら別の組織だ、そんな調子ですから、時間をかけて確認をしても外れ、という具合なんですよ」
 私はパーリアに断ってから、滅多に吸わない煙草に火をつけた。開けられた窓へ向かって、煙が流れて行く。
 初動捜査に関して、パーリアに落ち度は無かったと私は思う。狙撃という犯行の手段から組織の匂いを嗅ぎつけてみせたのだから、勘と経験のどちらかは水準を上回っていると考えて良いだろう。
 私が呼ばれることになったのは、資料を見たところ、現場から発見された弾丸の種類が一致したためのようだ。狙撃には充分な準備が必要なのだが、三ヶ月足らずの間に欧州内で二件の狙撃事件が発生し、使用された弾丸の種類が一致したとなれば、事件の関連性を見出す根拠としては充分とは云えないが的外れではない。ましてや、事件に進展が見られないとなれば、僅かな情報から糸口を掴もうとするのは仕方の無いことだ。イタリアの警察組織、特にカラビニエリは狙撃事件に関して非常にナイーブな点が認められるのだが、それも影響しているのだろう。そこで私はカラビニエリというフレーズにあることを思い立った。
「資料によれば、事件発生から、かなり早い段階でカラビニエリが動いていますが、これはどういうことですか」
「どういう、とは?」
「あなたが何らかの伝手をカラビニエリに持っているとしても、基本的には別の組織だ。刑事捜査に割ける人員やそれに際しての判断基準も違う。国と国とを股にかける犯罪者と決まったわけではない犯人を追い詰めるにしては、少々、動きが機敏過ぎるように思えるのです」
「ふむう……」
 パーリアは答えるでもなく、自分の顎から頬の間を何度か手の平で擦る。その仕草は、考えているというよりは逡巡しているように、私には見えた。
「ねえ、パーリアさん。あなたは私を呼ぼうとしたときにもきっと同じようにしたんでしょう? それでもあなたは私を呼んだ。私は今の所、何も閃いてはいないし、有益な情報も持ち合わせていない。それでもあなたが事件を解決したいと望むなら、私はできる限りのことはしたいと思っている。私は昔ほど刑事という仕事に熱心にはなれないが、誇りは捨てちゃいない。だから、あなたは迷う必要なんてこれっぽっちも無いんですよ」
 パーリアは斜めに向けた顔からも真っ直ぐに私の目を見つめ返しながら、じっと話を聞いていた。彼は大きく溜息を吐くと、顔を擦っていた手を止め、頬にパンと打ち付けた。
「カラビニエリは表面的にはこちらに歩調を合わせ、協力するということになっています。しかし、それは実際に捜査に当たる者達以外へ向けての体裁を整えているだけのこと」
「つまり、彼らは独自に動いている?」
「お察しになられた通りです。私があなたに協力をお願いできたのも、そちらの内務省へと書類を通して、ようやく実現できたことなのです。幸い、この動きは黙認された……私も最初は、我が国の軍と一部の環境保護団体には特別な繋がりがありますから、それに関連した動きだと思っていたのです。しかし、本来は我々国家警察の捜査に任されて然るべき所に、私服のカラビニエリの人間が先回りしているのです。また、それに関する報告も全て不問に伏せられました。これは些か異常であると云うべきでしょうな」
「それでは捜査自体が難しいですね。縄張りを荒らされているようなものです」
「ですから私は……ああ、御本人にこのようなことを云うのはできれば避けたかったところですが……私の捜査自体に今までよりも公的な価値を付加しようと思ったのです。つまり、それは」
 彼が決定的な言葉を用いる前に、私は口を挟んだ。これ以上、彼を試すような真似はしたくなかった。
「私のこちらへの派遣に際して整えられた書類の末尾にはこうありました。『国際的な要人暗殺及びテロ防止のためにも伊国家警察との合同捜査は重要である』。公的な書類にそのようなことをわざわざ付け加えたということ自体が状況を物語っていますね。あなたは私を戸口の突っかえ棒にしたんだ」
「結果的には、いえ、私の本心がそうだったのでしょう、私はあなたを利用してまで、事件を解決したかったんですよ」
「それは個人的な感情から、ですか」
「いえ、それは断じて違います。一市民が仕事のために机に座ったところで頭が吹き飛んだのです。どんな事情があろうと、そんな個人を冒涜するような真似は許せません。ただ、それだけなのです」
「それだけで充分ではありませんか。刑事としてそれ以上に必要なことなんて、ほとんどありません」
「では、協力していただけるのですか」
「最初からそのつもりでした。いえ、今ではそれ以上にやる気が出てきましたよ。さあ、捜査に出かけましょう。もう邪魔が入る事はあまり無いでしょうから」
 私の言葉を受けて、パーリアは満面の笑顔を顔に浮かべる。彼は出かける前に最高のコーヒーを淹れましょうと云って、わざわざ外国から取り寄せているらしい豆で言葉どおりの最高のものを私に出してくれた。


 一時間もしない内に、私たち二人は事件があった建物に到着していた。警察のそれとは違い、古めかしい石作りの建物は陰鬱に見えなくもなかったが、内部はよく手入れが行き届いていて、さながら片田舎の郷土史資料館のようであった。この建物は三階立てで、一階に銀行の支店があり、その上は全て件の環境保護団体の名義で部屋が埋まっていた。
 受付の女性を相手に捜査で来たことを伝えると、彼女は備え付けられた電話の内線をどこぞへと繋げた後、新しく来た支部長のルスティケリが捜査について話を聞きたがっていると話した。パーリアがどうしましょうかと私に振ってきたので、会える内に会っておきましょうと私は答えた。
 ルスティケリの執務室は三階にあった。彼は五十を過ぎた外見に似合わず、きびきびとよく動き、部屋に招いた私たちのために出す紅茶も自分で用意してくれた。面長の顔に窮屈そうに細い目が収まっていて、支部長というよりはどこかの少年サッカーチームのコーチのようであった。
「基本的に我々のような幹部は人手不足でしてね。こうした接客も自分でするんですよ」
「それでは、カンナバーロ氏の件では随分とご苦労をなされたのではないですか」
 ルスティケリは私の質問に記憶を刺激されたらしく、顎に手を遣ってしばらく考え込むと、そうでもなかったなぁ、と独り言のように呟いた。
「事件があった頃は別段、大きな訴訟を抱えたり、大きな動きも無かったですから……大きな動きか、そうだな、カンナバーロ君が殺されたこと自体が一番大変なことでしたよ」
「彼とは面識が?」
「もちろんありましたよ。定例の会議などでも顔を合わせていましたし、彼とは徴兵された先で一緒だったんです。彼はそのまま軍に残ったんですけど、六年ぐらい前に辞めたとかで私に連絡してきたんです。ほら、この国はコネが無いと辛いでしょ、再就職は。だから私も、喜んでここと付き合いのある会社を紹介したんです。じきにその会社から出向する形でこの団体に本格的に関わるようになりまして……優秀でしたよ、彼は。そちらのパーリア刑事とは彼の葬式でお会いしましたよね、覚えていらっしゃいますか」
 パーリアは供された紅茶を飲みながら、頷いた。彼はカップをソーサーに置くと、私に説明するために口を開いた。
「先程に受付でルスティケリさんが新しく支部長になったと聞いて、驚いたぐらいですよ。あなたはアメリカの西海岸にある団体との調整に忙しいとあのときに仰りになっていたから」
「だから、人手が足りないんですよ。幸い、あちらでちょうど代行できる人物が見つかったので任せることができましたけど……あと一週間でも早くカンナバーロ君が死んでいたら、私はどうしたら良いかわからなかったと思います」
「不安ではなかったのですか」
「は?」
 私の唐突な質問に、ルスティケリだけではなくパーリアも目を丸くしていた。だが、パーリアはじきに目を伏せ、何事か理解したように二回ほど頷いて見せた。
「もしこの団体自体に恨みを持つ者の犯行だったとしたら、次にあなたが狙われてもおかしくないでしょう? なのにあなたはカンナバーロ氏の死を残念そうに語ってはみても、ご自分のことについては心配している様子が私には見受けられない。まるで、ちょっと手違いがあって、そのために出張してきた程度の心持ちのようだ」
「ああ、ああ、それはですね、ほら、窓をご覧になってくださいよ」
 ルスティケリはゆっくりと立ち上がると、窓際に立って窓をこんこんと叩いた。私とパーリアもそれに倣って窓をよく確認してみた。パーリアが感心したように呟く。
「防弾ガラス、それも三重になってますね」
「これなら榴弾砲でも使わない限りは無理でしょう? しかし、そんなものは警察が持ち込ませたりはしない。そうでしょう、パーリア刑事」
 そう云われてはパーリアも頷くしかない。それを見たルスティケリは満足したのか、先程に座っていた応接用の椅子にではなく、執務机の椅子に腰掛けた。
「まったく、物騒な時代になったものです。おちおち窓を開けて仕事もできないんですから。刑事さん達には頑張ってもらわないと」


「マティセクさん、どう思います?」
 ルスティケリの部屋を辞した後、我々は事件があった部屋に来ていた。これといった目新しい発見も無い中、パーリアが先程のことについて質問をしたので、窓の外を確認していた私は彼に振り向いた。
「あのルスティケリ氏は、やはり自分のことしか考えていない人だと思いますよ。カンナバーロが死んだ一連の流れについて不安を覚えていないのかと聞いたのに、わざわざ防弾ガラスを見せ付けるんですからね。もっとも、あれくらいでなければ環境保護団体なんてのは勤まらんのかもしれませんが」
「彼はカンナバーロ氏が死ぬことを知っていた……!?」
「いや、そこまで推理するのはちょいと飛躍し過ぎですな。この世の中、怪しい人間なんてその気になれば幾らでも見つけられますよ。例えばいつも窓の外を眺めながら酒を飲むのが好きな人がいて、隣人が覗かれているように感じるという具合にね」
「私だったら、そんなことができる人がいたら羨ましがるけどなぁ」
「それはほら、あなたが善良だからですよ」
「そうですかねぇ」
 私は苦笑いをしながら、被害者が座っていた椅子に腰掛けてみた。厚手の皮が張られたそれはとても座り心地が良く、血で塗らすには勿体無いものであった。私はざっと机の上を見渡し、そこで思い出した。
「遺体が発見されたとき、この机にはどんな書類がありましたか」
「ちょっと待ってください。ええっと」
 彼は持ち歩いていた捜査書類が入ったアタッシュケースを開くと、そこから報告書の予備を取り出したのだった。
「全て決済書のようですね……あ、一つだけ寄付金に関するものがありますね」
「それだ! もしかしてその書類にはサインがされていなかったんじゃないですか!?」
 パーリアは慌てて仕事用の携帯電話を取り出すと、本部に電話をかけた。五分ほどの沈黙の後、彼が驚いたように顔を上げた。
「たしかに書類にはサインがされていませんでした……!」
「やった! これで弾丸以外の共通点が見つかった!」
 私は歓喜をなんとか抑えながら、パーリアに説明した。ドイツでの事件でも似たような寄付金に関する書類があったこと、そしてそれもサインがされていなかったこと。彼は必死にメモを取り終えると、顔を上げた。
「しかし、書類自体に怪しい点は認められませんでした。それはそちらでのときも同じだったのでしょう?」
「いえ、変な名前が書類に書いてありましたよ」
「それこそ変だな……私が調べたものにはそんなものは無かったですよ。その書類は、持ってきてありますか」
「ええ、あります」
「それじゃ、署に戻って比較してみましょう」
 見た所、パーリアも興奮を抑えている様子だった。先程に頬を叩いたとき以上に、顔の肌は赤みをさしている。私達は急いで署へと戻った。


 書類は見つからなかった。というより、署には既に無かった。私達が戻ってくるまでに、カラビニエリ側から資料の提出要求と同時に担当官が来たらしい。パーリアは普段の彼からは想像もできない形相で部下を叱責したが、私が間に入ってなんとか収まったのだった。私はパーリアに飲み物を頼むと、彼は肩をいからせながら捜査一課のドアから出て行ったのだった。
「君の上司は熱心なだけなんだ、わかるね」
「ええ、それはもちろん。だから余計に驚きましたよ。あんな怖い顔で怒られたのは、私が徴兵を拒否して親父に殴られたとき以来です。まぁ、じきに徴兵制が無くなるから、こんな間抜けな話で笑える奴もいなくなるんでしょうがねぇ」
「それは嫌な事を思い出させてしまったな。それで、予備の書類や走り書きの類も残っていないのかい」
「こう見えても私は記憶力にだけは自信があるんですよ。おかげで警部の顔も忘れられないでしょうけど」
「それじゃ、この名前に見覚えは?」
 私はメモしておいた件の名前を見せた。しかし、パーリアの部下は頭を振ったのだった。
「なんですか、こりゃ。本当にイタリア人の名前ですか。スオーノだかシオノーだかわかりませんが、こんな名前は例の書類どころか、生まれてこの方、見た事もありませんよ」
「そうか、それじゃ君は賢い選択をしたよ。あの書類は引き渡しても問題は無かった、いや、むしろ君の上司の立場を危うくせずに済んだのさ」
「そうなんですか?」
「ああ」
 彼はほっとしたように息を吐くと、戻ってきた上司に重ねて謝罪した。私が彼の横からパーリアに頷くと、彼もそれなりに察したらしく、部下の肩を叩いたのだった。


 それから三日程は、私が持ってきた書類とパーリアの部下が覚えていた限りの情報を元に寄付の要請をしてきた者の目星をつけるために奔走したが、収穫は無かった。私も古巣に連絡を取って手当たり次第に調べさせ、スイス銀行に同名で口座を開いている者がいるということがわかったが、それまでだった。それ以上の情報の提供は銀行側に止められたためだ。
 私はパーリアの自宅で夕食を終えると、夫人が供してくれたレモンティを飲みながら、こみ上げてきた眠気を発散していた。
「この手の人探しは我々程度の権限では辛いですなぁ」
「念の為に本国の内務省の知り合いにも確認を頼みましたが、難しいと思います。最近はテロやらなんやらで情報の通り道が絞られてしまっているんですよ」
「ああ、そうだ、知り合いと云えば、金の流れに敏感な方が一人だけいますよ」
「香具師やビジネスマンじゃ役に立ちませんよ?」
「いえ、そういう方ではないのです。私の親父の知り合いらしくて、その縁で何度か裏金などの捜査協力を、まぁ非公式なんですが、頼んだことがあるんですよ。その仕事ぶりといったら、金のなる木でも見つけてしまいそうなぐらいでしてね」
「その方は今どこに?」
「ずっとローマにいます。一時期、連絡ができなくなっていたんですが、ここ二年ぐらいは問題無いですね」
「会えますか」
「それでしたら、明日一番に連絡してみますよ」
 彼がそう云って、飲み終えたカップを片付けた。正直な所、私はその人物にあまり期待はしていなかったのだが、それは裏切られた。二日後の昼前、初対面の私に薄い陰を湛えた表情で挨拶をした彼の顔を私は後々にも思い出す。彼はこう云った。サンヴァルツォと申します、と。