第二十二話「Legion:Markos」

 あれが受肉したのはつい最近のことだ。――ソロモンはそう語るが、彼ほど『最近』という言い回しが信用できない語り手も珍しい。この場合も、ここ五年のことである。
 本来、固有結界の形や性質が変わることは無い。それについてはソロモンもよくわかっていたから、固有結界そのものが形を変えたのではなく、その顕現の一端が変わったのだと考えた。では、何故そうなったのか。
 他に形の変わったものは無いか。彼は探し回ったが、そのようなものは見つからなかった。しかし、収穫が無かったわけではない。見つからなかったものとは、七年前に回収したエンハウンスの片腕であった。

 そこまでをソロモンが説明すると、黙っていた志貴がテーブルに両手を突き立て、椅子から腰を浮かせた。ソロモンは黙っていたことに詫びるでもなく、腕を組んだままの体勢で、じっと志貴を見つめる。その場にいたサンヴァルツォとゼフィールは一度だけお互いの目を合わせた。そのことから、志貴は自分だけが知らなかったことに気づいた。シエルもそうだということにも。
「元は感応者の一部だからな。保管しておこうと思ったんだ」
 そう云うソロモンに、志貴は何か言葉を口から吐きたかったが、生憎、何も出てはこなかった。件の腕を琥珀に付け直すようなことは不可能であったし、同じ利用するにしても、ソロモンのような者ならば安心できる。そういったことは、志貴にもわかった。
「ゼフィール、赤ん坊をテーブルに置け」
「良いのか」
「置くんだ」
 ソロモンの有無を云わせない態度にゼフィールは弁えたらしく、彼女にしては珍しいことだが、ソロモンの言に素直に従った。ゼフィールに抱かれていた赤ん坊の体の異常が、そうすることでよくわかった。その赤ん坊には、手足が無かった。
「最初から?」
 口に運んだコーヒーカップを卓に置いてから、サンヴァルツォは端的に述べた。彼の席からは横に向いた赤ん坊の顔がよく見えた。瞼は閉じられ、口は力無く開いていたが、たしかにそれは生きていた。頬には朱が注し、耳を澄ませば寝息も聞き取ることができる。ソロモンは興味深そうに赤ん坊の顔を覗き込んでから、サンヴァルツォに答えた。
「そうだ。それにこいつはこれまでに一度も姿形を変えていないし、食事を取ってもいない」
 化け物じゃないか。志貴の言葉に、ソロモンは志貴からゼフィールへと視線を移し、肩をすくめた。


******


 支局の一階部分は基幹部分だけが無事で、それが崩れていた場合、犠牲者は更に増えていただろう。陽が落ちてからの救出作業は難航したが、最後に大規模な爆発があったと思われる一階部分にいた者達以外は、煙を吸い込んだり、上階に取り残されただけだった。
 間借りを終えた貸しビルの一室で、スローンは無残な姿になってしまった職場と、瓦礫から救出される部下や同僚を見遣っている。煙草は切れ、コーヒーも隊員が普段飲んでいるそれにまで格が下がった。普段であればそういったことを人一倍に気にする彼だったが、部下が心配するほどに、彼は寡黙だった。
 関係各機関に連絡を終えてから暫定的な報告書をまとめ、それを提出した。先の作戦の失敗にあっても彼は当初からの責任者であったことから一連の事件が解決するまでの間は役職はそのままということにされていたが、今回の件で、それを待たずに閑職に回されるのは必至。彼ができる支局長としての最後の仕事は、どれだけの部下を家族に会わせることができるか。それだけのはずだったが、こんなときにでも、自分には他に何かできることがあるのではないかという、誰もが持ちうる考えを、浮かべることはできたのだった。
 スローンは窓から顔を離すと、冷めてしまったコーヒーに手を付け、部屋の外にいた部下にはベントナー君を呼んでくれと言付ける。彼女が肩をいからせながら部屋に入ってきたとき、スローンは椅子に腰掛け、贈り物を眺めるように、じっと電話を眺めていた。
「ご家族のことでもお考えになってるのですか」
「いや、私は長いこと、家族と金以外では縁が無いんだ」
 ベントナーが脇に抱えた書類をスローンの手元に放り投げる。一枚目が犠牲者及び被害目録の最新版であることは、すぐにわかった。それに隠れた二枚目の端が見えたが、確認するまでもなく、それが自分のこれまでの所業をまとめたことであることは、見当がついた。
「ヘイグは見つからないのか」
「ええ、恐らくは」
 まだ、あの中にいるのだろう。乱れた頬にかかる髪を退けながら、ベントナーが答える。二人の視線は、道路を挟んで斜向かいの支局舎へと向いていた。
「先程、救急隊から作業の一時中断の報告があったよ」
「それも仕方の無いことでしょう。これ以上の犠牲者が出るような事態は避けなければなりませんから」
 ベントナーの言葉は、これまでずっと部下達が願っていたことだ。そしてスローンはその期待を裏切った。彼をこのようなことになるまで動かし続けたものとは、何だったのか。ベントナーは彼に関する調書をまとめている間、そのことが頭から離れずにいた。
 マスコミは彼を最悪の指導者として糾弾するだろうが、個人の気性だけでここまで愚かな結果にまで辿り着けるわけが無い。したり顔で語るニュースキャスターの言葉に多くの人間が納得したとしても、スローンを現実に知るベントナーには、無理だった。
 一方、スローンは上層部の手回しの良さに感動を通り越して吐き気を覚えていた。
 救急隊が引き上げた後、例のロボットが再起動し、何処かへ逃走する。そういうシナリオだ。不穏な動きを見せたSI社を政府が抱き込むための大掛かりな舞台装置の中で、スローンは行動していた。大過無く定年までのコースを進んでいただけの彼を信用せず、ヘイグなどという人間まで出してきた時点でスローンは舞台から降りる必要があったのだが、彼はそうしなかった。この事実を知っているのは、上層部とスローン、そしてSI本社重役のみ。しかし、SI社とは夕方を過ぎてから連絡が取れなくなっていた。
 これほどの事態は当方の関知することではない。そう云って責任を放り投げるはずが、これでは実行部隊であるCIAだけでなく、政府まで糾弾される。
 再起動に必要なキーは万が一のときのためにSI社と政府の双方が共同で管理していた。救急隊員に紛れた技術者によって、既にキーは入力されている。損傷の程度にもよるが、再起動までは十分も無いだろう。
「私はずっと、やるべきことを各々が成し遂げさえすれば、世の中は平和なのだと思ってきた。親が子を育て上げる限り。警察が犯罪者を取り締まる限り。そして、我が国が自由を唱え続ける限り」
「世の中は、そんなに上手くはできていません」
 ベントナーは臭いものでも嗅いだかのように顔を顰めながら云う。それにスローンが反論することはなく、彼は小刻みに頷いた。
「それを認めたくない人間が、多過ぎるのかもしれんな」
 そう云ったスローンの口ぶりと視線の投げ方は、お気に入りの生徒にテストのヒントを零した教師のそれと似ていた。ベントナーがそう感じていると、スローンが煙草を無心した。ベントナーは彼の分を差し出し、自分の分を咥えてから、それに火をつける。スローンは煙を吐き出すと、珍しく表情を綻ばせた。
 スローンは受話器を手に取ると、ある相手に電話をかける。支局舎から粉塵が上がるまで、彼は残った煙草を美味そうに吸っていた。


******


 トップ会談の際に使用し、焼却処理予定だったものを回収した書類。ソロモンはその条件を相手に飲ませると、電話を切った。ダイニングで子供達とテレビを見ていた有彦がミーティングルームに飛び込んでくるまでには、シエルを除いた一同に説明が終わっていた。
「シエル君には志貴君が説明しておくんだ。ケネスもそちらの班に行ってくれ。サンは私と来るんだ」
「俺は?」
 何時の間に顔を出したのか、ゼフィールが興味津々といった面持ちでソロモンに問う。貴様は永久に私と同伴だ。ソロモンの答えに、ゼフィールは後悔やら何やらをごちゃまぜにした表情になる。
 志貴は遅れてミーティングルームにやってきたシエルに事情を説明すると、有彦に留守番と子供達のことを頼み、ケネスと三人でSpiderに乗り込んだ。
 休暇は終わりぬ。志貴はそう呟き、セルを回した。給油メータはFを示す。有彦との取材からの帰りがけに、ガスは詰めておいて正解だった。この二日の間に調子を見た限りでは、ようやく替えのパーツが馴染んだようであった。
「ホイールが小さいな」
「このくらいだとキチっとするんですよ」
 助手席に座ったケネスと会話をしていると、娘に泣き付かれていたシエルがようやく後部座席に乗り込んだ。
「何度目になるかはわかりませんけどもう一度云います。買い換えろとは云いません。でも、この後部座席、窮屈過ぎますよ」
「シエルはケツがでかいからなぁ」
「そうなのか」
「ええ、そりゃもう」
 シエルが怒りだす前に、志貴は車を発進させた。支局舎へは向かわず、ハイウェイへと続く十九号線に出ると、それまでもたついていた道が開けた。事前の打ち合わせ通り、北へ北へと車を走らせていく。ケネスが無線を使い、ソロモンと連絡を取ると、彼は現在、急行したリーチ社《リーチ・エア・アンビュランス社。救急医療事業等で有名》のヘリに乗っているとのことだった。夜空と街の賑わいでヘリを確認することはできなかったが、空の目があることに、不思議と安心感が湧いてくる。
『例のガニマタを発見した。奴はマーケット通りから西へ進路を向けた。この調子だと、そちらがゴールデンゲートパークを出た辺りで合流するはずだ。何がどうなってるのかは知らんが、かなりの速度だ。出し抜かれるなよ!』
「だそうだが、どうするね、志貴君?」
「キチっとやらせてもらいますよ」
 志貴は熟練の域に達した抜きと入りによってクラッチを繋げていく。ソロモンの推測通り、公園を抜けた直後に異変が起こった。前方に見えたハイウェイまであと三マイルを示す標識を鈷型が薙ぎ倒す。街路にいた市民は悲鳴を上げ、近くにいたらしいパトカーがサイレンを鳴らすが、そんなものは意に介さず、鈷型はその巨体の下部に取り込んだ数台のピックアップトラックによって、走行を続けていた。その後方になんとか車体を滑り込ませた志貴は、次々と跳ね飛ばされていく看板や車を見てなお、アクセルを緩めることは無かった。
 そうしていると、ケネスには幾つか気づくことがあった。鈷型の形状全体に、大なり小なりの変化が起きている。特に変化が著しいのは、ピックアップトラック数台の上に取り付いている円筒状の胴体部で、その中央付近がフットボールの球のように膨張していた。火炉の内圧に耐えるために内側からの圧力には多少のゆとりを持たせてあるはずだが、それだけでこれほどの変化を見せるわけもない。
 また、高速度によって上半身がふらつく度、姿勢制御のためにガスのようなものが高圧で吹き出てもいる。ボイラーを自己修復したのか。しかし、そんなことは先ず不可能である。マニピュレータや足の所々で有機的な筋肉が認められるが、それは脚部の一部に使用した人工筋肉だ。それを制御し、さらに自己増殖すら可能にするなぞ、まともな科学者が見たら卒倒モノである。
「日本製は丈夫だなぁ。あんな乗り方したら、こいつなんてすぐにヘバっちゃうよ」
「だから買い替えろと!」
「それを云うな!」
 愚痴は多いが、それぞれがお互いに為すべきことを為していた。志貴は後方へとちょっかいを出してくる鈷型のマニピュレータの先端をかわしつつ、追いたてて行く。ケネスは逐次にソロモンと連絡を取り、シエルは車体から身を乗り出した。
「何をする気だ!?」
「後ろから攻めてばかりじゃ、相手に嫌われちゃいますから」
 好きにしてくれ。さじを投げた志貴に見送られて、シエルは車から飛び出した。あらゆる構造物――信号、ビル、道路などを蹴りつけながら、戦闘服の内側に隠した黒鍵によって側面から鈷型を刺激する。黒鍵が鈷型の横腹を抉るたび、鈷型は電極となるマニピュレータをシエルへと伸ばすが、彼女はそれすらも足場に、驚異的な脚力で速度を維持していく。
 鉄甲作用を利かせる投げ方によって、黒鍵は速度以上の威力を相手に与えているはずだ。それが一本、二本と次々に突き刺さるというのに、その都度に鈷型は身を奮わせ、己の存在感を増していく。
 シエルが攻撃の見切りをつけて車に戻ると、既に速度計は百マイルを越えてい、そのままハイウェイへと突入していく。その先は、ゴールデンゲートブリッジである。
『よくやった』
 無線から漏れるソロモンの言葉に、シエルは云い知れぬ不安を覚えた。このまま橋に出れば、ソロモンの作戦通りだ。遊び気の無い作戦と、自分達の力を信じ切った連携によって、後はソロモンが幕を下ろすだけ。しかし、ソロモンにしては脚本が整い過ぎている。彼は彼だけが納得さえすれば、観客のことなど考えない性質なのに。
 シエルと同じようなことを、ソロモンと行動を共にしているサンヴァルツォも考えていた。
 霧の晴れた夜の海面に、柔らかさを感じさせる朱色の橋を見るに至っては、この作戦がどれほど大げさなものであるかがよくわかった。長さもさることながら、橋を吊るす橋脚は二百三十メートルにもなる。ソロモンがこの場所を採用した理由は、周囲への被害を考える必要が無く、階層構造ではないために鈷型の長所を殺すこと、そして最大のポイントは、海風によって鈷型の環境に対する演算を容易にさせないというものだった。
 作戦自体に穴は無いのだが。サンヴァルツォは考えつつも、橋の北側に当たる部分でソロモンと共にヘリを降りた。
「人と人とを繋ぐのが橋である。――そんな格言があるそうだ」
「それで?」
「今なら私もそれを信じられる」
 訝しがるサンヴァルツォを尻目に、ソロモンは一キロ先まで来ている鈷型を見遣る。無数の黒鍵によって針鼠のようになりながらも、鈷型は健在である。向こうもソロモン達に気づいたようだった。
 来たか。ソロモンの呟きをサンヴァルツォは誤解した。鈷型のことを云ったと思ったのだ。しかし、それはすぐに誤解だと知れた。上空に月が見える。そしてそれを背中に、ロズィーアンが翼を羽ばたかせていた。
 彼女が羽ばたく度、風が音を巻く。それは彼女の翼そのものが吼えているようにも感ぜられたが、彼女がソロモン達の前に降りてくるに従って、それは比喩ではないことがわかった。
 ロズィーアンの翼には、無数の人の顔の皮が誂えられている。彼女はこれといった特殊な能力を持たない死徒ではあったが、生物の肉体を思い通りにするのだけは好きであったし、得意でもあった。何も着ていない体のあちこちには異常が見られ、骨盤は大きく横に張り、手足は針金のように細い。三つある乳房の内の一つは大きく、残り二つは極端に小さい。首には骨が浮き、鎖骨などは露出していた。部分部分では猟奇的な趣味以外を感じることはできなかったが、全体としてはよくまとまり、長く美しい黒髪が、見る者を嘲笑う。彼女はソロモンに面と向かうと、喉の調子を確かめてから声を出した。
「満月ならもっと素敵な体を見せられたのに。あなた、メレム・ソロモンでしょ? 会うのは初めてね。でも握手なんてしないから」
「これだから世間知らずは嫌いなんだ」
 そう云う割には、ソロモンは嬉しそうに口元を吊り上げる。
「なんでも取り込むという点では、あれもあなたも、似たようなものね」
「見境が無いのは貴様のような発情した雌猿だけで充分だ」
 待ち人とは彼女のことなのだろうか。いや、違う。ソロモンがどれほど信用できるにせよ、彼も死徒だ。自分の目的を遮るようなことが無い限りは、死徒を葬ることを良しとはしない。わざわざこのような舞台を整えてまで彼が呼び出したい存在とは何か。サンヴァルツォには一人しか思いつかなかった。
「あれを作らせたのは貴様か」
「ヒントは与えたけど、それを採用したのはこいつよ」
 どれだったかしらね。ロズィーアンはそう云って、両翼の顔の皮を一つ一つ見分していくが、じきにどうでもよくなったようだ。科学とそれに関わる人々から受けた絶望を魔術的技法の希望へと変えた男は、やはり今も絶望しているのだろうか。鈷型だけが男の顔を見つけた。

 BLAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!!!

 湾内に鈷型の動力音とも軋みとも、そして悲鳴とも取れる音が響いた。吊り橋のワイヤーは揺れ、海面には僅かながら波が起こった。ジェット機が頭のすぐ上を通過したようなもので、志貴達は思わず耳を押さえたが、ソロモンとロズィーアンだけは平然と鈷型を見遣る。
 鈷型は下半身に取り付けたピックアップトラックを走行したまま排除する。本体脚部は慣性によって着地の際に橋に爪跡を残したが、人工筋肉とそれを制御する、二基となったバイオコンピュータにより、あらゆる衝撃を逃がしきった。
 ピックアップトラックはソロモンやロズィーアンの立つ地点へと真っ直ぐに向かっていく。ソロモンは動かない。彼よりも橋の中央側にいたロズィーアンだけが、腹立たしそうに体を振り向かせた。
 計五台の暴走車を、ロズィーアンは受け止めようともせずに体にぶつけさせた。しかし、それはそう見えるだけだ。実際には彼女は正確に暴走車のバランスを崩す点を指先によって突き、あらぬ方向へと吹き飛ばす。車輪が唸りを上げ、車体からは火が噴いた。その内の二台は空中で爆散し、残りの三台はパーツをばら撒きながら海面へと落ちていく。吊り橋のワイヤーはその直撃を受けたが、鋼鉄の繊維によって出来たそれは、びくともしなかった。
「猫は家で飼うものね。外に出すと、悪戯ばかり」
「動物を飼うという感覚自体がおかしいのさ」
 そうだろ、ケネス。ソロモンが見上げた橋脚の上には、シエルに担がれたケネスと、鈷型がいた。ワイヤーに伸縮自在のマニピュレータを絡め、あそこまで上ったのだろう。鈷型をやり過ごした志貴は、ロズィーアンの脇を掠めて、ソロモン達に合流した。
「俺の出番ってもう終わり?」
「仕事は自分で見つけるものだよ、志貴君」
 志貴はロズィーアンのことが気がかりだったが、彼女も、そしてソロモンも鈷型を見上げていた。サンヴァルツォだけがいつでも動けるよう、周囲の陰影の濃さなどを把握していた。
 上空では橋の左右に伸びるワイヤーの間を、風に扇がれながら跳躍しているシエルの姿が見えた。彼女がなけなしの黒鍵を一斉に投げつけると、それまでに軌道計算及び経験を終えた鈷型がマニピュレータによって黒鍵を打ち払う。九本ある主要なマニピュレータの内、四本が犠牲となった。残ったものが橋脚に取り付き、一部を変質させていく。
「橋すら取り込む気か!」
 ケネスが苛立ちを顕わに、シエルの背中から鈷型へと飛び込んだ。それを見た志貴は車を急発進させた。バックラッシュが心配されたが、気にしている場合ではない。
 シエルはケネスが飛び出した反動で態勢を崩したが、空中で体を捻ることによって一定方向に加速し、ワイヤーを掴み、遠心力によって鈷型へと突撃した。ワイヤーの繊維で片手には深い傷がつき、偽装済戦闘服の裾が破れる。
「セブン!」
 聖装砲典を呼び出すと、それを鈷型に突き付ける。鈷型はケネスではなく、シエルこそが驚異であると認識していた。二基ある内の一基がケネスの存在を訴えかけても、今更間に合うものではない。そもそも、聖装砲典はブラフだ。対異端抹殺用に特化された兵装が機械の化け物に通用するわけがない。
 ケネスが一撃目の蹴りを鈷型前面に取り付けられたメインカメラに炸裂したときには、シエルは武装を解除していた。いつでもケネスを連れてこの場を去ることができるように。
 橋脚に設置されたマニピュレータの内の一本が解け、ケネスに向かう。それも計算済みだ。ケネスは片腕でマニピュレータの横側に取り付くと、間髪入れずに反動で飛び出す。これによって、ケネスの空中での軌道が上にずれた。
 二つ目の蹴りが上方の脚部の根元を抉る。鈷型はバランスを崩したが、ケネスの片足にも罅が入った。最後に、ケネスが両足を宙に投げ出し、どちらかで蹴りを放とうとする。鈷型が間合いを読み取り、ガスを噴出させて避けようとしたが、それが決定打となる。
 三つ目。両足の間にこそ、死地があった。ガスによって姿勢を制御しようとした勢いを利用し、上脚部の一本を挟みこんだ。ケネスは全身の筋肉を柔軟に捻り、脚部の人工筋肉を根元から引き千切る。人工筋肉の欠点はその脆弱性にあるということは、軍用試験の際に学んでいた。
「後は頼む!」
 ケネスはもぎ取った脚部をシエルに渡すと、そのまま落下して行く。シエルは彼を助けようとしたが、彼が死を覚悟していたことは彼女にもわかっていた。運が良ければ生き残れる。それを誰よりも知っているのは、彼だったのだろう。
 シエルは上部のバランスを取っていた脚を失ってガスによる姿勢制御に手一杯だった鈷型へ、大振りの脚部を叩き突け、更に胴体部を蹴り付ける。大きくバランスを崩し、下方へ落下しようとした鈷型に、シエルは手に持った脚部を投げつけた。
 胴体部に脚部が深く突き刺さる。内部へと侵入した異物は取り込まれたボイラーを強かに傷つけ、二基あるコンピュータの内の一基を破壊した。ソロモンは友よさらばと呟いたが、誰かの耳に聞こえることは無かった。
 鈷型の胴体が一気に膨れ上がる。ボイラー室からの圧力が限界に達していた。シエルは勝利の確信を得ると、下方に目を向ける。そこでは、後部座席でケネスを受け止めた志貴が手を振っていた。
「乗り心地はどうですか」
「やっぱりきついな」
 志貴は笑いながら、鈷型が落下してくる前にソロモン達のいる方向へ車を走らせる。シエルが助手席に器用に飛び降りると、橋脚で爆発が起こった。
「汚い花火。もっと綺麗だと思ってたのに」
 ロズィーアンが呆れ顔で云う。それが彼女の最期の言葉になった。
 ソロモンとサンヴァルツォが飛び退くのと同時に橋のワイヤーの一本が切れた。それは爆発によるものだと志貴は思い、急いで橋を走り抜ける。彼の頭の上を、ワイヤーが掠めていく。その先端が、ロズィーアンの腹部を貫いた。
 避けたはずなのに。ロズィーアンが心中で毒づく。しかし、大した問題ではない。これぐらいの傷、問題であるはずもない。問題なんて。

 my name is...

 鎖を。

 my name is...

 足枷と。

 my name is...

 叫び。

 ...for we are many

 翼の顔たちが叫べば叫ぶほど、ワイヤーが先端から解れ、次々とロズィーアンの背中に突き刺さっていく。彼女が悲鳴を上げる前に、彼女は彼女でなくなった。火の球が落ちて来る。その中で、猫は嬉しそうに喉を鳴らした。