第五章「翡翠と秋葉」

 
 栃木県の即売会が終わり、黄金週間も終わりが近づいている。日は沈み、すでに街はネオンの輝きに満ち、通りなどを酔っぱらいが歩き回る時間帯、時計の針も、短針があと一周すれば、日付が変わる。
 都内某所、飾り気のないただ無意味に広い部屋。入り口正面の壁には、人間と同じ程度大きさと思われる年代物の柱時計が掛けられ、時を刻んでいる。部屋の中には円卓が三重に設置され、それぞれ外から、二十、十七、十と座るための席がある。
 出席者は、それぞれの割り当てられた席に座り、議題の開始を待っていた。
「お忙しいところ、皆様に集まってもらい恐縮です。では、これより会議を始めます」
 若い女性の張りのある声が薄暗い会場に響く。声の主は、少々紫色をした長い黒髪を肩まで伸ばす美しいと思われる女性だった。美しいと“思われる”というのは、その女性の格好が、紅いサングラスに、男物の黒いトレンチコート、と世間一般の女性の服装からかけ離れている服装をしているため、あまりその容姿を栄えさせなかった。もっとも、会議場自体が薄暗いので、各々の顔をしっかりと細部まで見れないのだが・・・。
 会議は踊らず始まる。各出席者の手元には数枚の書類があり、その書類にはワードプロセッサで打った非個性的だが読みやすい文字と、サイズの小さい会場内を写したと思われる画像が印刷されている。時たま出てくる人物写真には目元に黒い太線が引かれ、同じように文章の所々にはマジックで塗りつぶしたような部分があり、あまり鮮明な資料とは言えないが、出席者は塗りつぶされた部分を独自に集めた情報とつなぎ合わせ、暗黙の了解の下に会議を進めている。この程度のことができない人間はこの場にはいないらしい。
 
『栃木県の■■■で行われた即売会における、人為的暴力の突発的な発生とその対処法』
 
 書類の一番上の書かれている見出しがこれだった。会議場はその広さの割に照明の数が足りないのか少々薄暗く、各人の手元に配られている書類の文字も、人によっては見づらいが、出席している人間は暗い照明に文句も言わず、記載されている文章に目を通している。時々、ヒソヒソ、と小さな話し声が聞こえるものの、会議場は壁に掛けられている柱時計が時を刻む音をのぞけば静かであった。
「この即売会で、発生した暴力事件及び規則違反は、確認されただけで23件に上ります。未確認件数を含めますと、その数はおよそ二倍強にふくれあがります。このままでは即売会の秩序が崩壊し、先人達が作り上げてきた自由の場が崩壊してしまいす。ですが、今まで我々はこのような事態が起きることを想定していなかったわけではありません」と、外側の円卓の一角に座っている男が言う。薄暗い中、声には張りと響きがあり二十代後半のようである。
「左様・・・我々は、束縛を嫌う彼らのために、即売会における規則をできるだけ緩いものにした。しかし、今の現状を省みろ、規則は破られ放題、スタッフの制止行為にも耳を貸さず、恩を仇で返す輩が当たり前のようになっている」
 この声に、円卓の各地から賛同の声が起こる。この場にいる者のほとんどが、即売会におけるトラブルを快くは思ってはいなかった。
 今、彼らの議題になっているのは、今後即売会で発生するトラブルをどうやって処理するかであった。昔は即売会のスタッフがそれを解決していたのだが、同人業界の規模の拡大と、それにおける各分野での人員の増加、さらには帝国と同盟の二大巨頭出現と衝突、即売会内外での治安の悪化・・・・・など、上げていけばきりがない。
「同盟と帝国の二大巨頭が衝突することによって、今までの同人業界には無い種類の刺激、魅力が加わったことは事実だ。だが、だからといって、規則を破って良いことにはならない」
「我々は、この際、一気に、各地の即売会で、真っ当で、きちんと規則を守るお客様に、害をなす塵虫を、処分する機会を持ったと言ってもいいかもしれない」
「そのとおりだ。今までは自治権の侵害だと言って、こちらの干渉をはね除けてきたスタッフの奴らを突き崩すのに、いい口実ができたよ。今まで水面下で準備を進めてきたプロジェクトを、表舞台に出し、奴らに認めさせるには良い機会だと思わないかね?」
 あちこちで、即売会のスタッフに対する愚痴や文句が漏れ出す。その声はだんだんと大きくなり、もはや、柱時計の、振り子の音も聞こえなくなった。
「静粛に」と、最内の円に座るスーツを着た一人の中年の男が言う。その、鶴の一声で今まではうるさかった会議場に、再び柱時計の時を刻む音が聞こえるようになった。
「では、決を採ろうと思う」と、先ほどと同じ男が、今度は落ち着いた声で話す。
「賛成の者は、挙手を願う」
 男が言い放ったその言葉に、会議場にいた全員が立った。
「では、賛成多数により、同人即売会治安維持組織『セーフガード』の設立をここに宣言する」
 
 
新潟県某所 遠野秋葉館
 
 その館は、黒々とした森と空の色をそのまま移しこむように澄んだ湖に挟まれるように存在していた。元々は、買い手のつかなかった元農場を遠野秋葉がマネーゲームで作った資金で購入し、裏口座からの出資でこの館と風景と周りの環境を作り上げた。
 館はロマネスク建築を重視した設計で立てられており、その重い扉を開けた瞬間から、外の空間とは光の密度がまるで違う。館の中は、薄暗く、重苦しく、淫靡な雰囲気の空間だった。
 
「失礼します」
 メイド服ではなく、黒い喪服のようなスーツに身を包んだ翡翠が、一センチほどの厚みのある紙の書類をクリアケースに入れ脇に抱え、秋葉の部屋に足を踏み入れる。ロマネスク建築で建てられた建物は、入光量が少ないだけでなく、窓自体も小さく数も少ない。さらにこの部屋には照明が部屋の左右に散らばる無数の蝋燭しかなく、その炎の揺らめきにより、来は年頃の女の子が住む部屋ならば良くも悪くも、もっと生活臭のする部屋が不気味な、真っ当な人間ほど足を踏み入れたくない空間とかしていた。
 足下には、透明の分厚いガラスの板が張られている。その下には、今まで、数々のゲーム会社が手がけてきた、俗に言う『ヒロイン』のポスターが、まるで踏み絵のように乱雑に床にひかれている。ただ、その手の人間ならば気がついたのかもしてないが、硝子の下に封じられているポスターのキャラクターのほとんどが、Bが日本女子の平均を上回っていたり、もしくは手を出したら犯罪の香りが漂う幼女、だったりする。
 壁には、遠野志貴が有馬の家で生活していた頃の写真から、つい最近家を出ていく直前までの隠し撮り写真が、きれいに引き伸ばされ、額に納められ、壁のそこら中にかけられている。
 そして、入り口の真っ正面にある、執務用の机にいる人物、遠野財閥会長であり遠野家当主、そして全国同人ショップ統帥――――遠野秋葉。
「翡翠、なにか・・・面白いお話でもあるの?」
 翡翠にクリアケースより出された紙の書類を手渡され、デスクトップパソコンやペン立て、様々な機器のコンソールなどがおかれた執務用のデスクで書類に目を等し決済を済ませてゆく。その仕事ぶりは素早く正確で、書類に書かれている文章のの要点をしっかりと読み、求められている回答を書き連ねていく。若くして財閥全体を恐怖政治によって統括・支配しているだけのことはある。
――――遠野秋葉の名を知る帝国や同盟の人間は、彼女のことを『来訪者』と呼んで忌み嫌っている。
「はい、姉さんから面白い情報が送られてきました。吸血姫と思われる外人が先日、帝国と同盟の衝突のあった栃木県の即売会会場の独立勢力スペースで、見かけられたそうです」
「・・・・不確定情報なのね。それで、今回琥珀がよこした情報の中には、兄さんに関係したものは?」
 秋葉はあくまで冷静に切り返す、それがこの二年間の不毛な争いの結果で得たものの一つだった。秋葉は思った。大切な者以外にたいした感情なんて必要ない、相手がほしいときに演じればいい、相手の望むように。
 秋葉にとって、財閥を完全に自分のものにするのは簡単だった。どんな人間でも他人には知られたくないことの一つや二つくらいある。後は、その証拠を押さえさらに自分に従うことの見返りを目の前でちらつかせてやればいい。年をとり高い地位にいる者ほど、体面や、地位に固執する。そんな大人達を十二年前から、最愛の人『志貴』のいなくなった遠野家で秋葉は見続けていた。将来の『兄と妹の背徳で爛れた洋館暮らし〜24時間繋がりっぱなし〜』を実現するために、こつこつと準備をした。味方は誰もなかった。あの昔から一緒にいる使用人の姉妹さえも、いつ泥棒猫になるか分かったものじゃない、と言う理由で味方には引き込まず、ひたすら、機が熟すのを待った――――それに反して躯はいっこうに熟さなかったが――――そして十年、敵が増えただけで、事態は変わらずじまい、色々と策を巡らせてみたものの、どのような方法でも必ず一人は自分の思惑を防ぐために存在する。
 やがて、秋葉にとって、(一方的な思いこみの)運命の人である遠野志貴は、この騒々しい生活に耐えきれなくなり、一匹の愛猫をつれて姿を消した。それを前後して秋葉の周りにいた人間もほとんど姿を消している。
 そして今、秋葉は心を多少許せる使用人の一人であり、幼なじみであり、“敵”である姉妹の片割れ、翡翠とともにこの館で様々な雑務に励んでいる。志貴が失踪してから、本家の屋敷は空き家になっている。
「正確に教えてくれないかしら。その不確定情報を、より真実に近づけるには、情報が必要よ」
「はい、まず先日栃木県の某即売会会場で久方ぶりに、帝国と同盟の大規模な衝突がありました。この件は間諜の方から詳しい報告が入っておりますので、後に回させていただきます、よろしいでしょうか?」
 そこでいったん区切り、上司たる秋葉の確認をとる。プライベートとビジネスの区別ははっきりしなければならない。
「いいわよ、続けて」
 秋葉が促すと、翡翠が続けて翡翠は左手に持った書類に再び目を落とした。
「その即売会中立スペースの一角に、新規で申し込んできたサークルがありました。サークル名を『十六夜』。これと同じ名のサークルを過去三年のサークルデータベースから検索してみましたが、ヒットは36件、しかし送られてきた構成員の特徴や、主な活動の地域としていた場所、活発だった時期なども検索条件に入れましたら、ヒットはゼロです」
「主に出していた本のジャンルは?」
 秋葉の言葉に翡翠が書類をめくる腕を止め、視線を秋葉に合わせる。視線に宿る意志の強さは互角。
「今回得られた情報には売っていた本までは記載されていませんでした。もう少し時間をかければ洗い出すことができますが、私の独断ですでに調査をしております」
「そう、その件はあなたの判断が正しいわ。それで調査の結果は?」
 翡翠の独断を、あえて叱責せず逆に賞す。二年前の秋葉ならばこうは行かなかっただろう。人は、大切なものを失ったとき様々な行動をとる。失った痛みに耐えようとするもの、代わりになるものを見付けようと足掻くもの、そして、失ったものを取り戻すために、例え畜生道に落ちてもかまわないとさえ思うもの。人ぞれぞれである。そして、どれを選んだとしても、人は変わる。
「はい、今のところ解っていることは、売り出された本がコピー本であり、部数は30、ジャンルは、恋愛ゲームのパロディ、ページ数は20Pです。一部あたりの価格は500円、売れた部数は21部、売り上げは10500円、コピー本一冊あたりにかかった経費が200円前後程度だったと想定いたしますと、全部で6000円ほどのコピー費がかかり、それを売り上げから差し引いた結果、純益は4500円ほどだろうと推測されます。そして現在、本を買った人物を洗っておりますが、ある程度正確な情報が来るには、一ヶ月ほどかかるかと・・・」
 秋葉の叱責を覚悟で実情を述べた翡翠に、秋葉は、――――志貴が見たら、“こんなの秋葉じゃネぇ、ニセモノだ、ニセモノ”と叫ぶほどに――――おおらかな表情で、言葉を、その形のよい小さな口から紡ぎ出す。
「ま、仕方がないわ。急いでガセネタつかまされるよりもよっぽど良いもの。でも、情報は正確さと同じくらい、速さも重要なのよ。まぁ、うちの財閥の情報部の人間なんて、他の企業が袖の下ちらつかせれば、すぐに鞍替えするくせに、私たちがきちんと払っている給料分の仕事もしないような人間ばっかりなんだから・・・いっぺん、部長か誰かの首を、見せしめのために撥ねてみようかしら・・・もちろん物理的にね、そうすれば、まじめに仕事に取り組むことになるでしょうけど・・・翡翠、あなたはどう思う?」
 少々、悦楽と狂気の入り交じった――――それ以外の感情も微々だが、混じっている――――混沌とした表情で、秋葉の言葉は綴られていく。それは、楽曲のような、優雅さを持ちながら、狂詩曲のような激しさを聞く者に連想させる。
 それを見る翡翠も、落ち着いたものでいつものようにポーカーフェイスを顔に張り付けたまま、次の書類を渡し報告を続けた。
「栃木県の即売会のほうですが、帝国が勝ちました」
「・・・・なら、同盟の方はどうなったの?まさかこの間みたいにズルズルと落ち込んで、対抗策を打ち出す前に即売会が終わったって言わないわよね?」
「いえ、同盟もサンドバックにばかりはなりたくはなかったようです。開始からほんの一時間程度ですが、同盟が場を支配しました」
「どうやって?」
 眉をひそめて問いただす。翡翠は、秋葉のそんな仕草にも心を動かされた様子は全くなく、淡々と言葉を重ねていく。
「詳しい報告は、間諜のものをご覧に分かりますが、同盟は3つの連合サークルの参加サークルの目玉商品を使い帝国陣営への客の流入を妨げるようにしました」
「へぇ、相変わらず狡いまねをするものね・・・・ん、まって、これは確か、何年か前に、同盟領へ大挙進入をした帝国軍に対して使われた戦法と全く同じじゃない。鴉でも同じようなトラップには、引っかかりにくくなるっていうのに、進歩のない奴ら・・・」
 秋葉は呆れたように言った。
「この作戦により、開始一時間ほど同盟は優位を保ちました」
「たしか、帝国の総司令官はあの『二つ影』千堂上級大将だったわね?」
 秋葉は笑った。今の秋葉よりも一歳年上の千堂和樹がこれほど見事に、難局を、しかもたった一時間で乗り切ったのだ。同盟の阿呆共にはいい薬だろう。完璧だ!これに勝るものはない!などと常日頃から口にしている者ほど、それが崩れ去ったときのなんと脆いことか。秋葉が十七歳にして財閥の実権を握ったとき、父の代から仕えていた重役共は、若すぎるなどと言って騒ぎ立てた。
「この危機を千堂上級大将はいかにして切り抜けたか、秋葉様にはおわかりですか?」
 翡翠の声は、相変わらず平静そのものだったが、どこかクイズの答えを要求するような部分があった。秋葉はそのように感じたことに、多少驚きを感じるが表情には出さず答えた。
「敵の売りである作品の相対的な価値を下げるしかないじゃないの、それも、こちらが作戦を実行した結果、押し寄せてきた客の数に疲弊しないように、一つ一つ潰していくのがベストね」
「ご明察です」
 翡翠は、自分の上司に軽く頭を下げる。
 秋葉は、翡翠のその仕草を適当に受け流し、話を進めさせた。
「実際、千堂上級大将がとった方法は宣伝と流言です。これにより、蒸し暑い中冊数制限の厳しい本を求めて、疲弊しきっていた客の大半が列を離脱。帝国側に走ります」
「同盟はここ数ヶ月、地元だからといって宣伝をしていなかったようね。人気サークルと言っても並んでいたのは、日和見主義の連中ばかりじゃないの」
 即売会の報告が始まる直前に渡された報告書を見ながら、秋葉は言った。
「流言をある程度蒔いた帝国は第六サークルをターゲットに絞った同人誌を発売、クォリティは互角でしたが、一人あたりの制限が十冊と多く、徒党を組んでいない人間は、ほとんどが流言に任されてこの場から離脱していきました。さらに、第六サークルにとってはトドメになるような事件が発生しました。錯乱した司令官が、幕僚の一人に暴力行為に及んだそうです」
「災難ね。その幕僚も、残された人間達も」
「その後の混乱で第六サークル司令部は機能が完全に麻痺し、その事件を目撃した客からは悪しき流言が広まっていきます。結果、第六サークル周辺には人が近寄らなくなり、売り上げは、ほとんどないと・・・」
 翡翠の言葉には嘲笑めいた響きがあったが、秋葉は咎めようともしなかった。即売会での暴力事件、完全平和主義の異端児達が作り上げた表現の楽園、それが楽園の住人達によって破壊されていく。歴史上よくある光景だ。支配者の圧政に耐えかねた人間が、支配者を倒しよりよい国家、組織、理を作ったとしても、何十年何百年先には、同じ事を繰り返し、押さえつけていた者達に倒される。人間の歴史は、同族殺しの歴史でもあった。
「第四サークルも、午前終了間際には、壊滅的な打撃を受け司令部は勢力回復を断念、終了まで惰性で行動します」
「三つの連合サークルのうち二つまでがやられて、その上相手の方が客の支持を受けている中で、大半の司令官は敗北を受け入れるわ。でも、第二サークルは何とか痛み分けまで戦況を持ち直した。それだけでなく、それ以上は無理だと判断して現状維持を最優先にしたわ。同盟の第二サークルの司令官は誰なの?」
「最初は深山中将でしたが、午前が終了したところで、過労で倒れたそうです」
「と言うことは後任は副司令官なの?」
「それが・・・副司令官及び司令部の六割以上ののメンバーが、なかなか来ない昼食に腹を立てて外食に向かったそうです。しかも司令に事後承諾で外に出たそうです」
 その言葉を聞いたとき、秋葉は怒り半分、呆れ半分だった。上に立つものがそのような怠慢を行うとは! だが、この事から一つの推測が成り立つ。同盟内部での腐敗が急速に進んでいると言うことだ。これをいかに利用するか、秋葉が思案し始めていたところで、翡翠の声が意識を現実に引き戻す。
「秋葉様報告がまだ終わっておりませんが、本日はここまでにいたしますか?」
 控えめな翡翠の声、自分が主人の思慮を妨げてしまったことを知っているからである。だが、秋葉はこの程度のことでは叱責をしたりしない。思慮を妨げられたことに関しての怒りはあるものの、優先すべき事柄を知っていた。
「いえ、続けてちょうだい」
 静かなすんだ声、翡翠は報告を続ける。
「深山中将は、救護班の担架の上で無断外出した全員を更迭、指揮権を残っていた者の中では一番高い階級にあった折原准将に委譲します」
「折原・・・・?どこかで聞いた名ね?」
「同人業界とは関係のないルートから入った情報ですが、データベースにありました。お耳に入れますか?」
 暫く考えた後、秋葉はうなずいた。
「今から数年前になりますが、関東のある街で、人々の中からある特定の人物の記憶だけが、抜け落ちるという怪現象が起きました。調査を進めると、その街を中心に、十数年にわたって神隠し的な事件が発生しています」
 そこまで言って翡翠は一区切りおいた。手に持っている報告書に書かれている内容を、頭が拒絶する。話がこんがらがって内容がグチャグチャだった。秋葉は、翡翠が落ち着くまで待って、話を続けさせた。
「事件の特徴は、先程も述べたとおり、神隠しに遭う人物の記憶が、知人・友人・恋人・両親などから抹消されるという点にあります。シエル様が所属している組織経由で手に入れた情報によりますと・・・」
 シエルという名が出たとたん、秋葉の表情が引きつるが、翡翠は無視をして進めた。
「・・・どうやら、つながりが希薄な者ほど記憶が抹消されるのが早く、深くなるようです。そして神隠しにあって帰ってきた人間は、日本ではただ一人、折原浩平という名の男です。現在もこの現象については様々な機関が原因解明を行っておりますが、未だ手がかりはつかめていないようです。ただ、被害者は自我が形成される段階で、目の前の現実に絶望し孤絶する傾向があるというのが、この報告書のまとめです」
「と言うことは、折原准将はその神隠しからの帰還者だといことなのね・・・翡翠、その現象についてできる限り詳しく調べてちょうだい。琥珀だけではなくフリーダムを使っていいわよ」
 翡翠は少々驚いた。秋葉が、正確にはとても問題があるが有能な諜報員の姉の琥珀と『フリーダム』の二人を一つの事柄を調べ上げるのに使うのは、きわめて珍しい事だった。
――――コードネーム『フリーダム』 旅行好きな大学一回生乾有彦のことである。調べることに興味がわくかどうかで仕事の精度が多少変わるものの、秋葉から見ればおおむね許容範囲でしっかりと報酬分の仕事はするし、守秘義務は心得ていて、精神的にタフで心理戦にも強いので仕事のムラを査定に入れてもお釣りが来る。有彦自身は旅行ついでの暇つぶし兼小遣い稼ぎ程度にしか思っていないのだが・・・。
「では、早速姉さんとフリーダムに連絡を取っておきます。調査内容は、神隠しの一件と折原浩平の身辺及び経歴でよろしいですか?」
 暫く考えたあと秋葉は一つの項目を調査内容に加えた。
「同盟内部における折原浩平のデータを集めるように、必要経費はこちらで持ちます・・・あとフリーダムに一言言っておいて、食費は一日五千円までと!」
「了解しました秋葉様。では、報告を続けますが、よろしいでしょうか?」
「ええ」
 秋葉は椅子に深く腰をかけ直すと、再び翡翠が目を通しているものと同じ内容の書類に目を向けた。
「指揮権を受け継いだ折原准将は、午後一番に、スタッフと会合を持ちました。話の内容は特定できませんがその後起こった現象から推測するに、午後から売り出す本の交通整理を頼みに行ったのだと思われます」
 そこからは、書類に印刷されている画像の通りだった。第二サークルに所属する全サークルが、とっておいた限定本や、コピー本、ペーパーなどを一斉に配り始めた。それにより帝国陣営に集中していた客は第二サークルに殺到する。その勢いをスタッフがうまく殺し、交通整理によって帝国と同盟との間に細い輪を作った。この時点で帝国、同盟ともに少数だが休む暇もなく来る客のために、消耗戦となり、この事態を挽回するために力を蓄える時間を消失。以後、このまま時間が過ぎ即売会は終了する。
 翡翠の報告を聞き終えた秋葉は少々驚いていた。これほどの術を考え出すほどの人材を自分は忘れていたのだろうか、早々にこちらの陣営に引き込んでおいた方がいいいのでは無かろうか、と。
「翡翠、琥珀とフリーダムに集めるデーターの追加よ。折原浩平という人間の身辺を徹底的に洗ってちょうだい。特に人間関係を重点的にって」
「はい、分かりました。では、最後の報告に入ります。四十七人委員は、同人即売会治安維持組織『セーフガ−ド』の設立を決議しました」
 その報告を聞いた秋葉の、二つの目が大きく開く。
「それは誤報じゃないわよね?」
「はい、裏はちゃんととれています。四十七人委員は来週の日曜日付けで正式に発表し、八月から全国配備される予定です」
 その言葉を聞いた秋葉が眉をひそめた。四十七人委員、正式名称『同人誌即売会主催者委員会』は四十七の都道府県から一名ずつ選ばれた代表による話し合いの場だ。帝国・同盟成立前は、即売会に関することのほとんどがここで決定されていたが、今は表向きは簡単な治安維持活動やスタッフ人事、開催日時のことを決定する程度の権限しか持っておらず、秋葉さえも、独自の治安維持組織設立の話を聞かなければ、道ばたに落ちている小石程度にしか思わなかっただろう。
 だが、道ばたに落ちている小石は、その巨躯のほとんどを地中に埋めていて、地上に出ている部分だけでは動かすことすら不可能だということは秋葉も知っていた。四十七人委員を構成されるメンバーのほとんどが、出るところに出ればかなりの権力を持つ人物ばかりであり、その資金力も、遠野財閥を敵に回しても、蟻にかまれた程度にしか感じないような化け物揃いである。
 そんな彼らが、今回ついに動き出した。
「八月から配備って事は、まだ準備も出来ていないって事じゃないの、何考えているの」
 焦りがないわけではない。だが、四十七人委員を敵に回して勝ち目がないのは秋葉は充分分かっていた。『セーフガード』とやらの権限がどれほどのものかは今入っている情報では分からない。だが内容次第では、同人部門の縮小、最悪は全面撤退をしなければいけなくなるかもしれない。
 幸い、セーフガードの準備はほとんど出来ていないようだ。全国規模での治安維持組織となれば準備に半年はかかるだろうが、設立が決議されたという情報が入るまでは、全くなんの動きもなかった。四十七人委員の情報管制が完璧だとしても、各即売会のスタッフに潜り込ませてある間諜からも、新たな治安維持組織が設立されるという噂話は全く入ってこなかった。
 秋葉は一端心を落ち着かせる。そして再び考え始めた。
(セーフガードに関する情報は全く入ってこなかった・・・なのに設立が決議された・・・四十七人委員の一部の暴走?・・・それなら、納得がいくけど、それではあまりにも簡単すぎる。何か裏があるのかしら・・・)
 秋葉は、両手を顔の前にくんで思慮にふった。
 時計が三分を刻んだころ、デスクの一角におかれ、省エネモードになっていたデスクトップパソコンが、メールを受信したランプを点灯させ、画面を表示させた。
 すぐさまキーボードを操作し、メールの内容を確認した秋葉は、右手に置かれているコンソールを操作し天井から六十インチのスクリーンと投影機を下ろし、ローソクを燭台ごと床と天井内部に収納した。部屋には投影機とパソコンのディスプレイの光、機械の稼働音と秋葉の操作するキーボードとコンソールのタッチ音のみが響く。
「翡翠、これをどう思う?」
 秋葉がそう言った後、スクリーンには多少ピンぼけしているが充分読める鮮明さで箇条書きの文が現れる。
「セーフガードの規約だそうよ」
 
 
                セーフガード規則
 セーフガード(以下甲)は、相手(以下、乙)が、即売会スタッフの定めた規定を破ったとき(未遂も含める)、会場内に設置されている取調室まで連行する権限を有す。
 
 甲は、乙が命令に従わなかったとき又は逃走しようとした場合、支給されている武器での鎮圧、又は捕獲を行う権限を有す。
 甲は、乙がいかなる勢力に所属していようとも、規定を破った際には、連行し、その胸を直属の上司及び乙所属勢力に通達する義務を有す
 
 武力制裁の際、実行者は、甲の定めた装備品を着用することが義務づけられる。
 
 甲人員は、甲の任務時には、社会的地位および身分を、隠匿する義務を有す。
 
 甲は甲の任務外で、乙の報復を受けた際、自己調達した武器での報復を加えることが可能であり、後遺症が残らない程度の報復までなら法に咎められることはない。
 
 甲人員は、定められた勤務地以外で、甲から支給された装備品及び備品を使用してはならない。
 
 甲は、常に、如何なる時も中立でなければならない。
 
 甲は、私情、私怨、感情にながされた判断をせずに、第三者的な判断をしなければならない。
 
10
 甲は、甲不適合だと判断された場合は、一切の社会的身分及び人間的権利を剥奪される。
 
 これらは即売会を皆に楽しんでもらうために作られた規約である。即売会準備会の規則を破らない限り、セーフガードは皆様の行為に一切干渉しない。そのことをよく考えて即売会を楽しんでほしい。
 
 
 秋葉はスクリーンに映された内容にカミソリのように鋭い視線を投げかける。今までの即売会でスタッフが持っていた治安維持の権限を大幅に強化したなどというものではなく、有する権限の次元が違っている。委員会はこれほどの権限を有し、実行する人間をどうやって選ぶつもりだろうか・・・。
 全国規模で毎月、下手をすれば毎週行われる即売会にデリケートなメイドロボを大量投入するのはコストパフォーマンスが悪すぎる。さらに、現在、市販されているメイドロボには戦闘用というものがほとんどない、メイドロボというのはあくまで人間の補佐であり、人の代わりに家事をすることは出来ても、戦闘行為をするのは設計思想が違うために難しいと思われる。
 市販されている量産型メイドロボで、戦闘用に一番向いているのはHM−13セリオだが、それでも戦闘をこなすようになるには、かなりの機構の変更を行わねばならない。委員会のメンバーにそこまで出資するだけの道楽がいるとは考えられない。となれば人間だろう。だが、選定の基準をどうするのか・・・・
 思考が袋小路になりかけていたときに、翡翠が今日は切り上げてはどうかと秋葉に向かって言って来た。
 秋葉はその意見を受け容れて、思考を一端、現実に引き戻す。
 今は不確定な要素が多すぎる。そして手に持っておりカードの絵柄も、分からないものがあった。パズルを組み立てる際、完成した景色がなんであるか知っていれば、手に持ったピースを何処にはめるか見当がつきやすくなる。秋葉は、そのことを体験からわきまえている。
 策を練るにしても所々欠けた情報で練った策は、水分の多いコンクリートのように崩れやすく、いつ崩れて自分所に降ってくるとも限らない。計算違いの効力しか発揮しないような策を焦って練るならば、明日、整理された情報とクリアな状態の頭で考えた方がよほどいいだろうと思い、秋葉は今日は睡眠をとることにした。
 この眠りが冷めたら、策を練るための情報の整理を行わなければならない。今は自分にとって、プラスになるかマイナスになるかすら分からない要素が多すぎる。少しでもプラスを増やしたい、そして計算できない要素は必ず排除しなければいけない。
 だが、秋葉は今だけは夢の中の住人になりたかった。コンソールを操作し、部屋を翡翠が入った状態に戻したあと、ゆっくりと部屋を出ていった。
 一人部屋に残った翡翠は、すべての機器の状態を確認したあと、同じように部屋を出ていった。そして、部屋に残ったのは静寂と、暗闇の中、はっきりと見えるポスターと写真の無数の目だった。