第三幕「楽しい夢」三咲町の都心部に程近く、駅からも歩いて10分という、立地、作り、部屋の間取り。それら全てが揃った立派なマンション。そこの一室で、アルクェイド・ブリュンスタッドは、クーラーが程良く効いた快適な空間のなかにあって、あまり清々しくない朝を目覚めと共に迎えた。彼女が握っていた手の中に気持ち悪い感触を感じ、手を開くと、汗が滲み出ていた。「汗……」呆けたように呟くアルクェイド。彼女が寝汗をかくということには、特別な意味がある。本来、彼女のような吸血種は寝ているときには汗をかかない。朝であれ夜であれ、寝ている間の吸血種は死んでいるかのように眠り、体の新陳代謝は停止する。体の中で活動しているのは、永遠に止まることのない心臓と、脳の最低限の部分だけ。だが例外がある。体が自身の危険を僅かでも感じた場合だ。例えば、敵がそう遠くない場所にいた場合。次に、体の傷を癒す場合である。このときばかりは、新陳代謝が人間よりもむしろ高まり、汗をかく。彼女には怪我をした覚えが無かったから、この朝の場合、前者ということになる。彼女は最初、天敵である埋葬機関に所属しているシエルが原因かとも思ったが、それはありえないことに―――その理由は後に記すが―――気がついた。また、以前のロアやネロの死徒も全て殲滅したから、それも考えられなかった。ということは、他の第三者が原因だということになる。試しに、半径一〇キロメートル内を感覚走査してみたが、何も引っかからなかった。つまり、三咲町内にはまだその第三者は入ってきていないということになる。それほどの遠距離からでも自分に寝汗をかかせる存在といえば、シエル以外の埋葬機関の者、或いは死徒であろう。それも、かなり上位の。彼女は『今日は忙しくなりそうだわ』と、それを楽しむかのように笑みを浮かべつつ、思った。布団を避け、ベッドのスプリングを軋ませつつ、ベッドから起き上がる。「良い夢はご覧になられましたか?アルクェイド様」先程のベッドのスプリングが軋んだ音で目を覚ました黒猫が、変化を解いて少女風の人型に戻ると、毎朝のあいさつを主人であるアルクェイドにした。アルクェイドの使い魔である、レンだ。レンの服装は黒一色の涼しげなワンピースであった。髪にの後ろにつけている大きなリボンとコーディネイトされており、なおかつ、彼女の色白の肌と蒼い髪が栄えるようにもなっている。以前、梅雨が始まった頃に、ロシア風のモコモコとしたコートドレスを着ていたレンを連れて歩いていたとき、志貴に「これじゃあんまりだ」と言われたのを契機に、アルクェイドが一念発起し、人間のなかでも不自然ではない格好や、どういったものが似合うかを猛勉強した。実作業に入るとき、最初は彼女の能力である空想具現化によって作ろうとも思ったのだが、それではつまらないと思い、わざわざ志貴に付き合ってもらってミシンやらその他の道具一式を買いに行ったのであった。その時、志貴が「俺にはさっぱりだから、シエルにも付き合ってもらっても良いか?」言ったのを、渋々承諾したのだが、結果としてそれは良かったと言える。
シエルは昔、自分がエレイシアだった頃に一通りの家事を覚えており、そのアドバイスや道具の選別たるや、素晴らしかったのだから。その成果が、この黒いワンピースであった。一応レンの希望も取り込み、色は黒にした。最初、この夏の厳しい日差しの中を黒い色の服で歩かせると不自然かとも思ったのだが、実際レンが着てみたのを見て、そんな不安はどこかに消し飛んでいった。レンのような顔立ちが整っていて、肌が白く、落ち着いた雰囲気の娘が着ると、暑苦しく感じるどころか、むしろ涼しさを感じたのである。そのとき、志貴とついでに―――不本意ではあったが感謝の気持ちもあり―――シエルも呼び、自分の努力の成果を披露したところの二人の感想はこうであった。「服は着る人を選ぶって本当だなぁ〜…」「どんなに下手な作りの服でも、着る人が良いと、こうまで栄えるんですねぇ〜…」誉められたのか、けなされたのか。わかり辛い感想ではあったが、自分の作った服で他人がなんらかの反応をしてくれることの楽しさを知ったアルクェイドは、以後、暇を見つけては、服のデッサンを興したりしている。空想具現化によって、自分の想った事象を現世に起こさせることに慣れていたアルクェイドのデッサンの出来たるや、シエルが見たときなど、心底「着てみたい」と思った程のものであった。もちろん、口には出さずに、である。このときを境に、シエルとの仲は以前ほど殺伐としたもので無くなり、志貴がそれを喜んだのは言うまでも無い。そんなアルクェイドの処女作とも言えるワンピースを着ているレンに向かって、アルクェイドは朝のあいさつを返した。「これからよ。楽しい夢が始まるのは」目を細めて、楽しそうに言う彼女を見て、レンは嬉しそうに微笑んだのであった。「最近、レンも笑うようになったわねぇ…」「…そうでしょうか……?」寝汗の原因であろう人物を探しがてら、アルクェイドはレンと街を歩いていたとき、アルクェイドはそんなことを呟いた。「そうよぅ〜。前なんていつも『ムスゥ』っとしてて、何考えているんだかわからなかったんだから」「…すいません」レンがシュンとして下を向いてしまう。自分があまりに露骨に言ってしまったことに気がついて、アルクェイドは必死に言葉を補おうとする。「あっ、良いんだって。あれはあれで可愛かったし。でも、今の方が良いなってのは本当よ。だから、そんなに悲しそうな顔しないで。ね?」自分でも、使い魔にこんなにまで気を遣っているのが、少し信じられない部分が彼女にはあった。そんなアルクェイドの様子を見て取ったレンが前々から感じていたことを口にした。「アルクェイド様こそ……以前と変わられましたよ」「えっ…やっぱり……そう思う?」「はい」これは、以前の彼女を知っている人間であれば、きっと誰もが感じることであろう。付き合いの短い志貴でさえそう感じるのだ。ずっと長い付き合いである、シエルやレンにしてみれば、なおさらである。そして、アルクェイド自身がそれに気がついていた。「変……かな?」「はい?」「私って変かな、って聞いたの」少なくとも、アルクェイドは自分のことを変だと思っていた。永遠の命を持ち、死徒を狩るためだけに生き、それ以外の時は一〇年だろうと一〇〇年であろうと眠りつづけていた自分が、日々を楽しみ、人との付き合いを楽しみ、趣味を楽しんでいることを。「そんなことはありませんよ」レンは素直にそう答えた。「なんで…そう思うの?」「今のアルクェイド様を―――私は好きだから」その言葉を聞いてアルクェイドの歩いていた足が止まる。レンの方を向くと、彼女も足を止め、じっとアルクェイドの目をみつめていた。その表情には、何の憂いも嘘も無かった。アルクェイドが地面に膝を着いて、レンを抱く。「ア、アルクェイド様?!」レンが主人の不可解な行動に困惑している。平日の昼間のために人間が少ないとはいえ、通りかかる人が何事かと振り返る。「ありがとう…レン」そう言うと、何事も無かったかのように立ち上がるアルクェイド。その様子を見て、ほっとしたような顔をして、周りの人達が再び歩き出した。「ん……ちょっと人目についちゃったわね。もう少し早足で遠くまで行こうか」そう言って、再びスタスタと歩き出す主人を追いかけながら、レンは先程自分から離れたときの一瞬の主人の表情を思い出していた。あのとき、自分の主人は泣いていた。そこにどんな感情があったのかを考えながら…。マンションを出て歩き始めてから、一〇キロメートル以上を大分過ぎた。時間も、午後一時を過ぎていた。今のところの収穫といえば、相手の気配が増したために、それがどんな種が発するものかがわかったことぐらいであった。それは、死徒のものであると。「それにしても大分歩いたわねぇ…もうそろそろはっきりとした位置がわかっても良いはずなんだけど―――!!」彼女の中の血液の流れが急加速する。瞳の色には赤色が増し、気配がキンッとした冷たいものへと変わっていく。「レン!!家に帰って、私が張っておいた結界の中に入ってなさい!」「はい!」アルクェイドの命令を受けて、レンが黒猫に変化し、マンション方向へ爆ぜるように走って行った。それを確認すると、アルクェイドが口を開いた。「出てきなさい!!汚い血をした吸血鬼!!!」「おやおや…その“汚い血”の中にはあなた方真祖の血も混ざっているというのに冷たいですねぇ」普通の青年男性よりも一オクターブ程低い男の声が聞こえる。用いている言語はラテン語の流れを組むイタリア語であった。少々訛りが認められることから、ローマからは大分離れた場所から来たようだった。実際、道の角から姿を表した男は、紳士というよりは、マフィアのような格好をしたスーツ姿の男だった。左手は手先が包帯で巻いてあった。もしかしたら肩まで巻いてあるのかもしれなかった。アルクェイドには覚えが無い顔であった。「日本語がわかるのね…。勉強熱心なこと」「ええ、あなたがわざわざこんな極東の地にとどまっておられるので勉強熱心にならざるおえなかったのですよ」「喋るのも上手いわね。貴方のような口の減らない人間には、日本語はさぞ便利でしょうね」「お褒めの言葉、感謝しますよ。真祖の姫」男が紳士のようにして“真祖の姫”に頭を下げる。その仕草は、真似こそしているものの、甚だ礼に欠いた様子であり、紳士と姫、双方を馬鹿にしているようでもあった。その様子を見て、アルクェイドは「ちっ」と舌打ちをしたのであった。「おやおや、はしたないですなぁ」「あなた程じゃないわよ」男が唾を自分の足元に「ペッ」と吐く。「さて、お喋りはこれくらいにしましょうか?姫」「そうね。そろそろダンスといきましょうか」かくして、華麗なる歌劇は始まったのであった。舞台が人気の無い、狭い路地という、お粗末なものなのが残念なところであろう。男―――エンハウンスにとって大事なのは、アルクェイドを倒すことではなく、“油断させること”であった。そのためには、彼女にある程度の傷を与え、しかる後に自分が撤退する必要があった。これは容易なことではない。並の死徒が一〇〇体襲い掛かっても、傷一つ負わない彼女を相手に、その傷一つを与えなければならないのであるから。アルクェイドは先手を取ろうとはしない。エンハウンスがどのような能力を持ち、どれほどの力の持ち主かを見極めるためであった。力はともかくとして、能力によっては、力のアドバンテージなど簡単に覆ってしまうからだ。良い例が、遠野志貴の“直死の魔眼”である。志貴自身は人間を極限まで鍛えた程度の力を有するのみだが、この魔眼によって相手がどんなものであろうと滅ぼせるのである。 良い意味で、志貴はアルクェイドにとっての禍根となっていた。また、エンハウンスも最初からそのつもりであった。いや、逆に言うならば、アルクェイドに先手を取られた場合、自分の能力では勝ち目が無い。すなわち、エンハウンスは「アルクェイドが自分のことを知らないこと」そのものを利用していたのである。これは、戦いの準備段階においての彼の勝利であった。その後に起こる実際の戦闘というのは、この準備段階に左右されるのである。つまり、彼はこのとき既に半分、いやそれ以上勝っていたのだ。だが、油断はできない。どれほど準備段階の勝利があるとはいえ、それを覆させられる程のことを実際の戦闘で相手から受ければ、吸血鬼の彼にとっては正に「全てが灰に帰す」のである。そして、エンハウンスは最初の行動を起こした。自分の着ていたスーツシャツを脱いで、相手に投げつける。「はったりだわね!」アルクェイドが飛んできたそれを払い除けようとする。しかし、その直前、エンハウンスがいるであろう方向から銃声がした。正確に言うのであれば、それは銃声ではなく、結界弾を発射した際の余剰エネルギーが銃後方から吹き出る、いわばマズルフラッシュの類の音だった。アルクェイドが、スーツシャツを払い除けようとするのを止め、横のコンクリート塀目掛けて、飛んだ。上に飛べば、今度は落下から着地までの間を狙われる恐れがあるからだ。塀に足を着けると、先程のスーツシャツに弾丸が命中するのが、彼女の人間離れした動体視力が捉えた。そして、そのまま、脆弱な布切れを貫通する―――はずであった。「えっ?!」言うが早いか、スーツシャツが弾丸が命中した部分へと丸まり、一つの布のボールになると、それが破裂した。布の繊維一つ一つが何百という数の硬質な針へと変化し、一斉にアルクェイドのいる塀を目掛けて突進する。咄嗟に塀を蹴り、左斜め前方の地面に飛び込むようにして針を避ける。このとき、一瞬置いてきぼりにされた右手に数十本の針が刺さってしまったが、これといったダメージはなかった。もっとも、人間がこの内の一本でも喰らえば、肩口から腕を持っていかれるほどの衝撃はあった。ちなみに、残りの針は塀を砕き、その先にあった工事現場に捨て置かれてあったクレーン車に縦横無尽にヒビをいれ、崩れさせた。アルクェイドにとって攻撃に当たったことよりも屈辱的だったのは、彼女が地面を転がったことだった。無様なことこの上ないからだ。「奇術みたいな能力の使い方をするのね。さしずめ貴方は魔術師といったところかしら?それも、半人前のね」腰に片手をあてて、先程と同じ場所にいる男に向かって話し掛ける。彼女の目には未だに殺気が煌々と光っている。「半人前―――ですか?それは結構。完璧な魔術師など、人を楽しませることぐらいしかできませんからな」スーツの下に隠してあった、右腕腋の下のホルスターに銃をしまいながら、男が言う。「本当に口が減らないわね……今度こそ開けないようにしてやるわ」「おやおや…それができますかな?“今の貴方”に」何を言っているのだろうかと考えるより前に、答えが出た。自分の右半身が動かない。それが答えであった。「………この針ね?」忌々しげに右手に刺さった数十本の針を見やる。しかし、顔の右半分もあまり動いてはくれないので、目のみで見るのには苦労した。「そうです。流石は真祖の姫。その針は、先程私が結界弾を撃ち込んだスーツシャツを元に生成したのです。今貴方に刺さっている針からは、私の思念が絶え間なく流れ込んでいますから、早くそれを抜かないと、手遅れになりますよ。逆に言えば、抜きさえすれば、思念の流入も無くなり、体の不自由も解けます。もっとも―――抜くことができればの話ですがね」楽しそうに、にやにやと上目遣いで喋るエンハウンス。言われるまでもなく、アルクェイドは先程から針を抜く努力をしていたが、一向に抜ける気配は無かった。「ふぅ…仕方無いわね―――えいっ!!」おもむろに左手を構えると、一気に―――右腕を切った。というより、強引に千切った。「ほうっ!真祖というのは、そのような器用なことができるのですか。まるで、人形ですな」エンハウンスが両手を広げて、大げさに驚いた風に見せる。「ふん……逃げるのなら今の内よ。確かにさっきよりは弱ったけど、貴方を殺すくらい、その気になれば何十回でもできるだけの余力はあるんだからね」実際、右腕を失ってから体の自由はほとんど効くようになっている。「ふむ…それではここはお言葉に甘えますか。私も、貴方を殺すことが目的というわけではありませんから。これはいわば、事故みたいなものです」エンハウンスがあっさりと引き下がったのを見て、アルクェイドが半ば驚いた調子で聞いた。「事故?」「そう、事故です。その事故で貴方は右腕を失った。まぁもっとも、その右腕もじきに再生するのでしょうがね」アルクェイドが、大きな溜息をついた。「呆れた…。まぁ良いわ。今はそれで納得してあげる」「そうですか。賠償金の請求はしないので?」「本当に口が減らないわね……気が変わらない内にとっととどっかに行ってちょうだい。ただ―――」エンハウンスが、去ろうとしていた体を振り返させる。「ただ?」「今度会ったら、賠償金を取り立ててやるんだから!」アルクェイドがそう怒鳴ると、エンハウンスはふっ、と笑ってから、消えた。「示談に持ち込んでみせますよ」アルクェイドは、エンハウンスの減らない口を聞いた気がした。「―――と、いうわけなのよ。わかった?二人共」公園のベンチで、志貴が買って来たジュースを飲みながらのアルクェイドの回想が終わった。ちなみに、三人のベンチでの位置は、アルクェイドが真中で、その両脇に志貴とシエルがそれぞれ座っていた。全員、ジュースを飲んでいる。当然、お題は志貴持ちであった。「「長い!!」」志貴とシエルの挟撃に、アルクェイドは「きゃっ!」という、女性らしい反応を見せた。「もう少しまとめて話せよ!」「もう少し要点を整理して、わかりやすく話してくださいよ!」更なる追撃に、アルクェイドが少々不機嫌になる。「なによ〜。二人が私の話しを聞くっていうから、話したのに〜」アルクェイドの言はもっともであった。「……悪かった」「……すいません」とりあえず、二人共質問があったため、この場は素直に引き下がった。「ところで、アルクェイド。疑問があるんだよ」まず、志貴が質問をした。「何?」「お前、袖ごと服をぶった切ったんだろ?じゃぁ、なんでその服には袖があるんだ?」実際、志貴のいる、アルクェイドから見て右側からは、空しく垂れる袖がはっきりと見えた。「ああ〜。流石に、片腕が無い上に袖が無いと目立つからね。空想具現化で、とりあえず袖だけ直したのよ。腕の復元は、せめて夜にならないと無理ね」アルクェイドが眩しそうに太陽を見つめる。それを聞いて、志貴も得心した。なんだかんだ言っても、こいつは夜の方が強いのだ。にも関わらず、こいつはわざわざ昼間に出歩いて、危険な目にあっている。それが、酷く可笑しく感じられて、志貴は思わず笑ってしまった。「むぅ?志貴ぃ〜、なんで笑ってるの?」アルクェイドが困惑する傍らで、志貴とは反対側のシエルも、同じことを考えたらしく笑っていた。「あっ!シエルまで!!」アルクェイドは子供のように頬を膨らませて不機嫌を周囲にアピールすると、ジュースをあおった。「では、今度は私の質問です」今度はシエルだ。「何よ?」「何故、その場で死徒を殺さなかったんですか?貴方自身、『今の状態でも殺せる』ようなことを言っているじゃないですか」志貴よりも、現実的なことを聞くあたりが、シエルらしかった。「知りたい?あのね〜―――」ふむふむ、と言った様子でアルクェイドの続く言葉を待つ志貴とシエル。「―――正直言って、そんな余力は無かったのよ。死徒の思念を体から追い出すのに、意外と力を必要としたから。そいつの思念ったら、やたら執念深くて、ネチネチしていて、本当に大変だったのよ」さらっと簡単に言うアルクェイド。「「はぁ?!」」志貴とシエルが同じ反応をする。「ちょっと待て!ってことは―――はったりが通じなかった場合はどうする気だったんだよ?」志貴が怒声混じりに問いただす。「えっ、そこまでは考えてなかったよ」志貴は、そのアルクェイドの無責任な考え方に、無性に腹が立った。「このっ―――!!」『馬鹿野郎!! 』と言うと同時に、平手打ちをしようとしたが、それは叶わなかった。パンッ!!志貴が平手を振るう前に、空気が弾けた。シエルがアルクェイドに平手打ちを食らわしたのだ。「「なっ―――?!」」アルクェイドが、そして志貴が驚く。「なんて無責任なことをするんですか!貴方は!?」シエルも志貴と同じことを考えていたのだ。もっとも、志貴のは単純な苛立ちではあったが、シエルは少し違っていた。彼女にとって、アルクェイドは昔のようなただの敵ではなく、一種感慨深い思考の対象となっていたのだ。陳腐な言い方をすれば、これを友情だと言えなくもないが、それとも少し違う。ただ、はっきりと言えるのは、アルクェイドのことを想って、平手を振るったということだ。現に、シエルの表情には怒りと悲しみが共生していた。「……まぁまぁ、シエルも落ち着けって。アルクェイドも反省しているみたいだし」志貴が分不相応だと感じながらも、シエルを諌める。いつもであれば、こういった役はシエルが行なっていたからだ。そのため、この仲裁はあまり上手くいったとは言えなかった。その後五分間程の間、三人の間にはジュースをすする音しか無かったのだから。「……その死徒は、最近に死徒二十七祖の十八位の座についた、エンハウンス、通称エンハンスソード(片刃)でしょう。左腕が腐っていることが、何よりの証拠です」シエルが、重々しくかつ唐突に話を元に戻した。「左腕が腐っている詳しい原因はわかるのか?」志貴も、沈黙を抜けるチャンスに喜んで飛びついた。「いえ、詳しいところまでは……。とにかく、情報が少ないですので。交戦記録も全くありませんし」「そうか……」志貴には、何故かエンハウンスの左腕が気になっていた。これがどういった感情から来るものかはわからなかった。単純な好奇心か、それとも別の何かか―――「とにかく、今日は一旦それぞれ家に帰ろう。さっきのこともあるけど、落ち着かないことには対策を立てようにも立てられないよ」アルクェイドの方を気にしつつ、話す志貴。そのアルクェイドは、意気消沈とまではいかないが、平静さを欠いているのは確かだった。更に志貴は続けた。「それに、俺が見た男の様子や、アルクェイドの話からすると、その―――エンハウンスは直ぐに何かをしてくるというわけじゃなさそうだしな」「そうね……わかった。とりあえず、腕も直さなきゃいけないから、私は帰る」「では私もエンハウンスについて調べてみたいですから、帰ります」「よし、決まりだな」三人の意見が一致したところで、先ずアルクェイドがマンション方面へと、跳躍して立ち去った。次に、シエルが「今日は食事をご馳走できなくてすいませんでした」と言ってから立ち去った。志貴は、シエルとアルクェイドの間に感じたものや、エンハウンスのことで頭を酷使しながら、住宅地の坂の上にある、遠野の屋敷へと帰っていった。「今日の夢はあまり楽しくなさそうだ」長い坂を登りながら、志貴は独り言を呟いた。第三幕「楽しい夢」・完初稿・2001/8/22