第七幕「覚知」己がどのようにして生き、どのようにして考え、どのようにして信じているか。これらを認識したときに、初めて充実した人生を生きることができる。夜が明けた……。夜、人間はときに、まるで太陽が休んでいるかのように錯覚をするが、既知の通りそれは所詮錯覚なのである。目に見えない場所でも太陽は輝き続けているのだから。目に見えている部分でのみのことを信じようとすれば、この世の中はなんと狭く感じるだろうか。それは今、眠ることなくソファに座っている二人の人物を見れば、自ずと感じることだろう。現にこの内の一人に遠野志貴が出会ったとき、己の可能性を再認識したのだから。「お茶をお淹れしましょうか?」先程起きた琥珀が、ソファに座っている二人、アルクェイドとソロモンの話が秘匿性を呈しなくなった頃合を見計らって、居間に入って来ていた。「それではお願いします」ソロモンがソファに預けていた背中を持ち上げて答えた。ソロモンは自分が寝ないで良い理由を「普段から不規則な仕事をやっているから慣れている」という風に説明してある。もっとも、琥珀は遠野家の血筋から来る能力などについての知識があり、そういった者が発する独特の気配を知っていた。そのため、ソロモンはもとよりアルクェイドやシエルのことも、表の世界の人間ではないということを感じ取っていた。だが、別に彼女は詮索する気もなかったし、何より志貴の役に立てれば十分であった。「…ああ、じゃあ私の分もお願いできるかしら」アルクェイドがソロモンとは対象的にソファに背中を預けたまま言う。ソロモン程に割り切れてはいないのだ。「はい、わかりました。少々お待ちになってくださいね」そう言うと、琥珀が台所の方へと、空になったティーポットを片手に持って向かっていった。それを見送ったソロモンが、口を開いた。「ずいぶんと疲弊しているな。真祖の姫」「生憎と私はあなたみたいに神経が針金で出来ていないのよ」疲れているので、口調がかなり乱暴になっている。自然と皮肉が出る程に。それを聞いたソロモンは、針金とはよくいったものだな、と思う。針金は硬いように見えて、捻り続ければ切れるのだから。捻られる側としては、捻られた分だけ元に戻らなければ切られてしまうのだからそれ相応の反撃をするのは当然である。「冗談を言う余裕はまだあるようですな。貴女は貴重な戦力だ。まだ疲れてもらっては困るのですよ」「アナタに言われなくたってわかってるわよ!……ごめんなさい。ちょっと気が立ってるわね」アルクェイドが首を左右に振って気を落ち着ける。ソロモンは、その様子を感慨深げに眺めていた。「貴方は…いや、シエル君もだが…変わられたよ。自分の記憶を疑いたくなるほどにね」そう、と素っ気無くアルクェイドが視線を逸らす。「ふむ……何があったかは知りませんがね」ソロモンがそこで一端口を噤む。アルクェイドが言葉の続きが気になって視線を自分に戻すのを待った。「少なくとも、前よりは魅力的になられたと私は思いますよ」窓から差し込む光の所為か、それとも実際に頬が赤くなったのか、アルクェイドの顔には血の巡りの後が伺えた。「できれば、もう少し元気のあるときにお目にかかりたかったですがね」この言葉を聞いた彼女は、その時は殺してあげるわよ、と皮肉で返したのであった。「はい、お待たせしましたぁ〜」殺伐とした雰囲気を救ったのは、例のごとく琥珀であった。さて、姉の琥珀が、故意になのか知らずの内にかはわからないが、針金が切れるのを止めていたころ、妹の翡翠は自分の針金を自分でねじ切ってしまわないようにしている最中であった。「志貴様、寝所の整えが終わりましたので、どうぞお入りください」志貴の部屋でいわゆるベッドメイキングを終えた翡翠が、部屋の外で待っていた志貴に告げた。彼の傍らにはシエルが廊下を所在無さ気に見回していた。「ありがとう翡翠……もう一度だけ聞くけど、本当に一つしかベッドが用意できなかったのかい?」志貴は未だにシエルと一つのベッドで寝ることを気にしていた。行為自体にはなんら問題は無いのだが、それが周囲に与える影響というものを考えると、気にしない方がおかしいともいえる。その志貴の憂いを知っていても、翡翠にはどうしようもなく、事実のみを告げる。「はい、申し訳ありませんが……客間のベッドを待避所から持ってくるという手もあることにはあるのですが…」翡翠が自分の体に目を落とし、次に視線をシエル、志貴の順で移動させた。それがどういう意味を示しているかは、志貴にはすぐにわかった。「ん…そうだね、翡翠の力じゃとても動かせないし、シエルはお客様だから頼むわけにもいかない。それに、俺も疲れているから頼むわけにもいかない、ということだね。琥珀さんはアルクェイドとソロモンさんの接客があるし、秋葉なんて熟睡してるしな」最後の秋葉についての節だけ、苦笑混じりであったのは、兄である彼だけに許された特権だったであろう。志貴に自分が言わんとしていることを正確に説明されたので、翡翠は改めて自分の惨めなまでのプライドを責めた。「いや、翡翠。こっちこそ無理だとわかっているのに、我が侭なんて言ってごめん。シエルも…いいね?」志貴が目線を目の前の翡翠から傍らのシエルに移す。「はい、仕方ありませんね。まぁ、秋葉さんとアルクェイドにだけ黙っていていただければ、私は問題は無いです」それを聞いた志貴が、そういうことだから、と翡翠に言って、軽く手の平で彼女の肩を叩いた。「……それでは、私は普段の仕事に戻りますので」そう言って翡翠が2階の階段へと向かっていった。「遠野君……客間が使えないなんていうのが嘘だって見抜いているんでしょう?」志貴の部屋でシエルがカーテンを閉めた後に服を脱ぎながら志貴に聞いた。彼女が服を脱いでいるのは、寝巻きなど持って来ていないためだ。つまり、彼女は下着姿で寝て、服がシワにならないようにしているのであった。一方、質問をされた志貴は一足先に下着姿でベッドに入り込み、上体だけを起こした格好になっている。彼には寝巻きがあるのだが、シエルに合わせて彼も下着にしたのであった。もっとも、別の恋人同士ならではの理由もあるのではあるが。「うん…あの子のことを考えるとね…とても自分がそれを見抜いているなんて言えないよ」カーテンの生地の繊維の間から漏れるほのかな光が志貴の顔をゆらゆらと照らしている。彼の感情がその顔の上でうつろっているようにシエルには思えた。「あの子、というのは琥珀さんのことですか?それとも翡翠さん?」質問を続けるシエルに、両方だよ、と志貴は優しく答えた。「琥珀さんがあんなに楽しそうに日常を演出している。翡翠はあんなにも必死に琥珀さんの演出を生かそうとする。それを邪魔するなんてことは俺にはできないよ…」それが悲しいことだとは思わないのか、というシエル。「彼女達がその悲しいこととやらに満足しているなら、それでいいんだよ…」遠野君は本当に優しいんですね、とシエルが布団の中の志貴へと身体を預け、二人はぐちゃぐちゃとした情欲の沼へと沈んでいった。翡翠がロビーにある大時計を見やると、時間は午前六時になろうとしていた。彼女は掃除する手を休めて、姉のいる台所へとアルクェイドとソロモンがいる居間を通らずに向かった。予想通りに台所で朝食の準備をしている姉を発見すると、翡翠は伝えるべきことを伝えた。「姉さん、そろそろ秋葉様を起こす時間です」学校がある日は秋葉はいつも五時前には起床する。休日はこの場合のように六時には起床する。生活のリズムを崩さない、彼女らしい起床時間であった。「ああ、翡翠ちゃん。今日は秋葉様にはもうしばらく眠っていてもらいましょう。話がややこしくなりますから」とても使用人とは思えない理由ではあるが、翡翠も納得できないわけではなかった。居間にはアルクェイドと素性の知れない男。ましてや志貴とシエルが一緒の部屋に寝ているなどと知れようものなら、行き場のない秋葉の怒りは行き場を強引に見つけて叩きつけるのであろうから。しかし、いつかは起こさないといけない。そのことを翡翠は姉に告げた。「ん〜、確かにそうなんですけどね〜…。さて、困りましたね。私としては志貴様やシエル様にはもう少しお楽しみ…じゃなかった。もう少し休んでいただきたいですし、アルクェイドさんとソロモンさんのお話も聞きたいですし……」全て個人的な理由なのはこの際どうでもいいことである。要するに、時間的に計算すれば、後三時間以上は秋葉には寝ていてもらわないと困るわけである。しかし、そうもいかないのも確かである。そこで翡翠が珍しく提案をした。「では姉さん、いっそのこと秋葉様を起こしましょう。いつ起きてくるかわからないでいられるよりは、話がややこしくならないと思いますが?」確かに、突然起きて下にいるアルクェイド達に会うよりは、事情を十分説明してから会った方が良い。琥珀は了解した。問題は、志貴とシエルのことである。「アルクェイドさんには志貴様とシエルさんは別々の部屋で寝ているという風に話してありますから、それに合わせれば良いと思います。志貴さんやシエルさんも状況は十分承知していらっしゃいますから、私と翡翠ちゃんが口裏を合わせていれば問題無いですね。あら、意外と簡単なことでしたね」琥珀が思考に行き詰まったのは、秋葉が起きてきてはいけない、という前提の下に思考を進めたからであった。そこで、翡翠が前提そのものを変えたので、思考がすんなりと進んだというわけである。姉さんは思考そのものを発展させるのは上手だけれど、思考そのものを転換するのは苦手だったんです、というのは、後に志貴が琥珀と翡翠の過去を知った時に翡翠から聞いたことであるが、それはまた別の話である。「それじゃあ早速秋葉様を起こしてきますね。食事は志貴さんとシエルさんが起きてからにしますから、アルクェイドさんとソロモンさんにはそのように伝えておいてください」姉のその言葉に翡翠が頷き、二人がそれぞれ別の方向へと向かっていった。「要するに…何か大事件があってアルクェイドさんとシエルさんとその付き添いの方がみえていらっしゃるのね?」琥珀に起こされた秋葉が、寝巻きから普段着に着替えながら琥珀から聞いた話を口に出して確認した。「はい。それで、志貴さんとシエルさんはお疲れでしたので、それぞれ別の部屋で休んでもらっています」それぞれ別の部屋で、という部分を強調して話す琥珀。しかし、あからさまに感じさせないのが彼女の器量である。「わかったわ……。それじゃあ私もとりあえず居間にいるお二人に挨拶しないとね…。どうやら兄さんが一枚噛んでいらっしゃるように私には感じられるし」何気ない秋葉の言葉の中には、この事件の真意の一端があった。着替えを終えた秋葉が、長い黒髪をなびかせて颯爽と部屋から出て行く。琥珀はその二歩後ろをついて行った。「や、どうも始めまして。いやはや、このお屋敷には美人しかいないようですな」秋葉に挨拶されたソロモンがソファから立ち上がって挨拶をし、いつものように冗談を口にしている。「冗談はさておき、いったい何が起こっているのか教えていただけないでしょうか、ソロモンさん。兄の身辺に何が起こっているのか知る権利は私にはあると思いますが?」冗談は切り返されるだけだな、以後自重しよう、とソロモンは心底思った。ソロモンは目線をソファに座っているアルクェイドに落とした。事情を話すには、先ず自分はおろかアルクェイドやシエルの素性まで話さなくてはならないので、確認を取ったのだ。シエルに関しては、ソロモンが決定する権利があった。「いいわよ、話しても。ちょうどいい機会だしね。もっとも、妹の方もどちらかというと人間ではない側だから、意外とすんなり受け容れてくれたりして」アルクェイドの皮肉を聞いた秋葉がギョっとした表情をする。「あら、気づいていないとでも思っていたの?そこにいる翡翠や琥珀にしたってね。私だって伊達に四〇〇年以上も生きてないわよ」最後の言葉は彼女なりの冗談かと秋葉や使用人姉妹は思ったが、後に続くソロモンの二時間近くにも及ぶ一通りの説明を聞いて、冗談ではなかったと彼女は気づくことになる。これらによって、三時間程度とはいえ、志貴とシエルはまとまった睡眠をとることができた。起床後に居間に来た二人が、琥珀に言われるままに食堂に向かい、そこで秋葉を始めとした全員で食事の席についた。「えっ、ということは、全部話しちゃったのか!?」驚く志貴を尻目に、シエルはというと、それはそれで手間が省けたと思っている。「ええ、もう根掘り葉掘りね。溜まったものは最後まで出さないと気持ちが悪いからね」アルクェイドのこの言葉を聞いて、シエルが呑んでいた味噌汁で咽た。志貴も箸で摘んでいた漬物を食卓の上に落とした。二人にとっては生々しすぎる発言であったからだ。それを見ていたソロモンが全てを見透かしたように口元を歪ませて笑いを堪えている。秋葉の味噌汁のお椀が例のごとく急激な温度変化によって割れ、琥珀がそれを笑いながら片付けて装い直し、翡翠が目まぐるしい場の空気の変化に戸惑っている。要するに、これで全員が志貴とシエルが何をやっていたか知ったということである。結局、琥珀の計画には良くも悪くもオチがつくのであった。その後、食事中は誰が発しているのかわからない程の念がごちゃまぜの状態で宙に漂い、それが沈静化したのは、食後の居間でのお茶会であった。「で、結局は相手の出方を見るしかないっていう状況には変わらないんだよなぁ」志貴が場の雰囲気が落ち着いているのを見計らって話題を振った。それにソロモンが乗った。「まぁ、そう長くは待たなくて済むと私は思う。ヤツはいわば発射されたばかりのロケットみたいなものだ。発射から宇宙に到達するまで矢継ぎ早に段階を切り替える」その発射ボタンを押したのはそもそも彼であったのだが、その管制を怠ったのはいわば職務怠慢である。「その道連れがレンってわけね…はぁ、そのロケットにちゃんとポッドがついてるのを願うばかりだわ」アルクェイドも疲弊しきっているため、心にもない冗談を言うようになってきた。「ポッドはついているだろうさ。目的さえ達すれば道連れは必要無いからね」それに比べて、この男の淡白さは大したものである。その白い肌からして、刺身にでもしたらさぞ美味いことであろう。もっとも、それを食べる者がいるとも思えないが。「どうだ?美味いか?」とある廃墟ビルで男が毛並みの良い黒猫に朝ゴハンの白身魚の刺身をあげていた。傍から見れば、ホームレスが餌をやっているようにも思えるかもしれないが、男の立派な格好を見ればそうではないと思い直すだろう。黒猫はというと、十切れほどの刺身を一つずつ加えて、クチャクチャとゆっくり咀嚼して食べている。「ふむ……すまんな、こんなところにまで連れてきて。すまないついでなんだが、もう少し付き合ってもらえるかい?」黒猫も最初こそ警戒心を露わにしていたが、この男が手荒なことをしないことと、男自身に既視感を覚えたため、逃げ出そうなどと考えなくなり、むしろ最後までこの男が何をするのか見届けたいと思うようになっていた。黒猫がジッと自分を見つめたあとに再び刺身を食べだしたのを見て、男はそれを了解の意だと受け取った。「ありがとう……さて、それを食べたら行くぞ。君のご主人のところ、というより、彼女がいる場所にいる人物に会いにな」それが誰を指すのか、黒猫……レンにはなんとなくわかったのであった。そう、なんとなく、ではあるが、それは正しかった。第七章・完初稿2001/9/22