第八幕「蟲」草。蟲達にとって、その上はなんとしっかりとした土台に感じるか。しかし、一凪の風が吹いただけで、その土台は激しく揺れ、蟲は時に滑落し、時に転落し、時に……しがみつく。風。住宅街の上を、風が通っていた。いや、正確に表現しようか。風を起こすものが住宅の屋根の上を通り抜けていた。赤、青、白、紺……屋根の色が次々と替わり、あまりの速度で色と色のグラデーションが錯覚として脳に伝わる。見たものしか信じられないのが不幸だとしたら、見たものすら信じられないことは、もっと不幸なのではないだろうか。自信の感覚すらも信じられない。それがどういった感覚なのかすら知らない。それは不幸だと言えるのではないだろうか。そして、それを不幸なことだと気づかない者こそ、正に不幸なのではないだろうか。スーツ姿の男の小脇に抱えられた黒猫は、そんなことを屋根の色が移りかわるのを眺めながら考えていた。そして、その気づかない者とは、かつての………「さて、そろそろだぞ」果て無き仮定の繰り返しを中断したのは、スーツ姿の男、エンハウンスだった。黒猫の状態であるレンが視線を下から進行方向前方に向けると、見覚えのある小高い丘の上の森が一キロメートル程先にあった。この森の中に遠野家の屋敷はあるのだ。「まるで荘園だな……ローマ人でもあるまいに」貴族階級の人間が考えることに国や文化は関係無い。土地を所有し、富を、権力を誇示する。突き詰めれば、そこに行き着くのだ。「ふむ、それではさしずめ、私は貴族を倒す義賊といったところか」レンは、彼が自分を賊だとは自覚していることを知り、少し可笑しくなった。「人間の姿になってもらえるか?その姿だとあまり人質といった感じがしないものでな」彼の跳躍力なら、あと一跳びで遠野家の敷地に降り立てるというところで足を止め、そんなことをレンに言った。彼女が彼をじっと見る。彼もそれが意味することを理解した。「わかっている。多少の怪我は仕方無いが、殺しはしないと約束する。私の目的はそんなことではないのだからね」その目的とやらまでは聞いてはいないが、彼女は納得した。自分でも何故に納得できたのだろうか。その理由を理解できたのは、ずっと後のことだった。自分では猫のときの方がじっとしている分には魔力の消費が少ないので気に入っている。魔力を使えば、その分を契約者である主から貰わなければならない。その主は、今自分が向かう場所にいる。レンはエンハウンスに向かって頷いた。エンハウンスがレンを腕から下ろす。彼女が一瞬陽炎のように揺らめいたと思うと、次の瞬間には人間の姿になっていた。「ふむ、やはりその姿の方がしっくりくる。それにしても聞きたかったんだが、君のご主人はいったいどちらなんだ?彼女か、それとも彼か」レンが両方です、と答えると、欲張りはいけないぞ、とエンハウンスが返した。片手に持っていたトランクを開けると、そこから探剣と銃を取り出した。それをそれぞれ、短剣を右手で抜けるように腰の後ろに付けた皮鞘に収め、銃を左手で抜けるように右腋のホルスターに収める。本来、銃は右手で扱うのだが、別に軍隊のように様々な銃を使う必要の無い彼はどちらかというと利き手ではない左手で用いている。何故に利き手でない方で用いるかというと、大した理由ではない。神聖なものを扱う時には利き手ではない方が良いということを、どこかで聞いたからだ。準備が整うと、レンを両腕で抱え上げ、一気に屋敷の敷地内へと跳躍した。「ふむ……来たな。マフィア崩れ」「来たわね。あの口減らず」「来ましたね。教会の敵」「遠野の屋敷に無断で入ってくるとはね」「誰が?」「……志貴様」「志貴さん、鈍すぎです」説明するまでもないだろうが、声を上げた順はソロモン、アルクェイド、シエル、秋葉、志貴、翡翠、琥珀である。「屋敷の中で迎えるには抵抗がありますので、外に出ますわよ。皆さん。琥珀と翡翠は中にいなさい」秋葉がテキパキと指示を出す。遠野家という領域内では、彼女の指示は限りなく的確であるから、志貴を始めとした面々は素直にそれに従い、足早に外の屋敷内の庭に出たのであった。「ほら、遠野君。早くしてください」「ちょっと待ってくれって」志貴が室内用の靴から外出用の靴に履き替えるのに手間取る。緊急時なのだから別に室内用のままでも構わないのだが、志貴は秋葉にこういった普段からのことをとやかく言われていたので、履き替えなくては気がすまなかった。シエルが玄関を出たところで志貴を待っており、他の面子は既に戦闘態勢を整えていた。ちなみに、彼らは最も安全な背中を付き合わせる陣形はとっていない。理由は簡単だ。「邪魔」アルクェイドはそれを簡潔に言った。眼下に数人の姿を確認した。一人足りないが、最初に狙うべき人物を眼球が捉えた。向こうはこちらに気がついていない。もちろん、こちらがそうなるように行動しているのもあるが。ホルスターから銃を取り出し、しっかりと狙いをつけて結界弾を発射した。これが当たれば、事は成る。当たらなければ……言うべくもない。彼の決意の強さを表すかのような轟音を発てて、マズルフラッシュが光った。同時に、左手がジュクリと疼き、激痛が脳へと伝わった…。彼女の耳に、乾いたというよりは地響きのような音ははたして伝わっただろうか。まぁ、そんなことは問題ではない。例え聞こえていたとしても、次の瞬間の激痛によって忘れてしまったであろうから。「シエル!」彼女を貫通した、結界弾の余剰エネルギーが志貴の足元を焦がして、ようやく彼は声を出すことができた。ようやく履き替えた靴で、彼は目の前の彼女に駆け寄った。倒れこんでくる彼女を受け止めて、彼は気づいた。弾が貫通したはずの心臓の辺りの血が止まっていたからだ。普通なら、即死のはずだ。何より、もっとも死に敏感である自分が、無情ではあるが、冷静に彼女の死を感じた。それにも関わらず、目の前の彼女の心臓は動き、現に自分に向かって何かを言っている。「あの…遠野君、もう立てますから」一瞬、何を馬鹿なことを言っているのかと思った。自分で立てるわけがない。そもそも、生きているだけで変なのだ。と考えている傍から、彼女は二本の足でいつものように背筋を不用意なまでにピンとさせて立っている。志貴にはもう訳が分からなかった。シエルが撃たれたという時点で既に混乱の極みであったのに、それに拍車をかける事態が現在進行形で書きつけられているのである。それもかなり乱暴な文章で、だ。もっとも、文章を書く側が必ずしも読み手のことを考えてくれるとは限らず、それを期待することこそ無益なのであるから、読み手としてはこの文章を限りなく正確に読解するよう努力しなければならない。つまるところ、これを事態が起こった瞬時の内に行なうことを判断力、洞察力などというのである。では志貴にこれをおこなうだけの余裕があったであろうか。当然、無かった。というわけで、無茶な読解は置いておくことになったのである。シエルが無事。今はそれで十分であるということにしたのであった。シエルが撃たれた直後、志貴が状況を判断しようとしていた頃、既にアルクェイド達三人はエンハウンスの気配を完全に捉え終え、獣地味た反応速度でアルクェイドが気配の発進元である森の木の一本目掛けて正に突進した。その一秒後にはその木は根元から倒れており、その巻き添えを受けた回りの数十本の木も盛大に倒れ、それを見た秋葉が髪を赤く染め上げるという風に状況が推移した。「あの男は口が減らないばかりか、身体まで減らないわね!」アルクェイドが身体についた木の枝やら葉っぱやらを鬱陶しそうに払いながら言う。要するに、察知したエンハウンスの気配は強力な残留思念で、本体は既に別地点に移動していたのである。一方、その思念の糸を伝っていち早くエンハウンスを捉えたソロモンが行動を起こす。「行けっ、パウロ!」ソロモンが腕を前方に掲げ叫ぶと同時に右後方に闇の渦が巻き起こり、そこから通常の種類の三倍の大きさはあろう犬が飛び出した。この犬は使い魔の中でも四大魔獣と云われる中の一頭である。聖職者である彼が使い魔を用いているのはオカシイことではあるが、魔術を使って作ったのは彼ではなく、彼曰く、自身の手で封じている、であるので、緊急時に使役することぐらいは許容範囲であるといえよう。事実のところは、彼の「人の輪の中では行なえない贖罪」の一貫であるのだが、ここでは割愛させていただく。使い魔の名前がパウロである理由も、そこから推察できるであろうと思われる。刈り揃えられた芝の野芝をパウロが地面ごとえぐりながら蹴り、爆ぜた。そして目の前のスーツ姿の男を、彼が抱えている少女ごと噛み千切ろうと・・・・・・「待って、その子がレンよ!」アルクェイドの悲痛な声を聞いたソロモンが慌ててパウロに停止命令をするが、既に地面から足は離れており、噛む事は防げても、その勢いを殺すことは不可能であった。しかし、パウロが目標に衝突する前に、なんとかソロモンがパウロの目の前に先程と同じような闇の渦を出現させ、その中に回避させることに成功した。ただ、自分から離れた位置にパウロ程の力を持った使い魔を保有できる程の空間への穴を作り出すのには、かなりの精神力を消費してしまった。彼の首筋を汗が伝った。「ふぅ、やれやれ、アンタ達はせっかちでいけない」抱えていたレンを地面に下ろしながら、エンハウンスが三人に向けて言う。そこにようやく志貴が出てきた。「ふざけるな!先にシエルを狙撃したのは貴方でしょうが」そのシエルは自分の身体の状態を不思議がりながらも、三人の方に合流している。「シエル君……大丈夫、なのかね?」彼女が撃たれて、志貴の次に焦っていたのはソロモンである。彼は彼女が不死身だった頃と同じように考えていたために、彼女が攻撃されることの危険性を理解できていなかったのである。「はい、全く違和感が無くて、逆にそれが違和感になっているくらいですよ」穴の空いた戦闘用修道服を不思議そうに眺めながらシエルが言った。「ヤツだって何の意味も無く左手を犠牲にしたりしないはずだ…。何か意味があるはずだ。注意してくれ」志貴と対峙しているエンハウンスを横目で見ながら、ソロモンがシエルに言った。「わかりました。すいません、私が不注意だったばかりに……」シエルのその言についてはソロモンは何も言わなかった。慰めても仕方が無いからだ。今は、志貴とエンハウンスの方が気にもなっていた。「まったく、冗談じゃない!目の前で自分の女が撃たれるなんてな!」志貴が言葉を選ばない程に怒っている。これで魔眼を開放すれば、それこそ、とてつもない威圧を相手に与えるに違いない。「ふむ、人質をとられた状態で犯人を怒らせるような物言いをするとは…それほど彼女が大事だということか」エンハウンスが目線をシエルに流す。その余裕が志貴には余計に気に食わなかったが、かといってレンが人質にとられていることを再確認した。「……いったい何がしたいんだ!?貴方は」これが精一杯の彼の感情の譲歩であった。「私はね、君と話しがしたいんだ。ただ…それだけだ」その答えは一同にとって意外であった。これだけ手の込んだことをやっておいて、志貴と会話がしたいだけとは。「それも、特殊な状況でね」なるほど、現在は十分特殊な状況であるといえよう。しかし…「しかし、それも貴方がレンちゃんをこっちに渡してからの話だ」志貴が冷静さを取り戻し、慎重に交渉を進める。「良いでしょう。わかりました」エンハウンスのあまりに素直な回答に、一同は驚いた。当然である。自分の切り札をみすみす相手に渡すというのだから。ここで秋葉があることに気づいた。レンは元から切り札ではないのではないか。それとも、切り札ではなくなったのではないか。つまり、事態が推移することによって切り札が切り札ではなくなり、ただの札が切り札になったのではないか、ということだ。これに秋葉が気づいたのは、日頃からの学友との麻雀によって培われたものであることは、彼女はとても言えない。それはさておき、ではどうするべきか?悩むべくもない。相手の切り札はあっては困るが、かといって切り札をもぎ取るチャンスを無視することもないのだ。秋葉は兄に近寄り、その旨を伝えた。志貴はそれに頷くと、両手を広げてレンを迎えたのであった。それと同時にソロモンとシエルがエンハウンスの両脇を固める。「まさか、これで終わりではないだろうな」「もちろん、違うさ」ソロモンの皮肉混じりの問いにエンハウンスが返す。そしてシエルに視線を移すと、もう一度口を開いた。「彼女の心臓が無事に動いているのは何故だかわかるかね」この一言で全員がその意味に気づくと同時に、形勢が既に決定的なまでにエンハウンスに傾いていることを再認識したのであった。第八幕・完初稿2001/9/27