第一幕「主殺」
 
 地中海に浮かぶ、侵略と支配と叛乱と蹂躙、そして諦めの歴史に彩られたシチリア島。その北海岸側に位置する、イタリア国シチリア州都パレルモ。そこから東へ10km程行ったところにある町パゲリーアに、その館はある。
 
 通称「怪物の館」
 
 この館は正式にはバラゴニア荘という、島の名門貴族のパラゴニア家の別荘である。1715年に設計・建築された。
 館の構造は、上から見ると扇を広げたような奇異な形をしており、様式はバロック様式である。
 バロック様式とは、16世紀のルネサンスに栄華を極めた、簡単に言うと「陰影を強調した建築様式」である。
 この館の最大の特徴は、その通称の通り、「怪物」である。館を取り巻く石造りの塀の上に悠然と並び立つ「怪物」。その姿は、生身の怪物が石によって固められているのではないかと思わせる程に生々しく、おぞましい。
 
 夏の暑い日差しが人々に光という名の矢を容赦無く降らせる中を、青年は塀の上の「怪物」を眺めながら―――バロック様式を発展させたカトリック教会の反改革運動の結果がこのようなおぞましい怪物なのだということを―――肺から汚い空気を吐き出すようにして鼻で笑った。
 バロック様式がルネサンス期に異常なまでに発展したのには、理由がある。この頃、かの名高い宗教改革運動によってカトリック・ローマ正教は窮地に追いやられていた。そこで、カトリック・ローマ正教は反改革の象徴として、バロック様式の教会その他の建造を迎合した。
 そして―――青年が笑った理由は―――その建物の中には、改革派に対する攻撃的なまでの感情が表現されているものが多々あるのである。
 改革への憤り、怒り、侮蔑、恐怖、憎しみ…それらの象徴の最たるものが「怪物」であり、バロック様式特有の陰影により、それが強調される。
 
 青年はまだ年若く、20を超えた程度であり、容姿は白い肌の中肉中背のイタリア人のそれであった。イタリア人といっても、細かく分ければノルマン系やフェニキア系などがあるのだが、時代の流れによって混血が進み、今では一般に「イタリア系」と呼ばれる。
 格好は観光客のような、上が半袖などではない青いワイシャツで、下はダークブラウンのサスペンダーで肩から吊るしたズボン。同じ色をしたスーツシャツは右手に下げられた中くらいのビジネストランクの上に掛けてある。
 特筆すべきは、彼のトランクを下げているのとは反対の手、つまり左手がバンテージというより、包帯に近い布で、指先から恐らくはワイシャツの中の肩まで巻きつけられていることである。その証拠に、右腕の袖は汗によって所々湿っているが、左腕にはそのようなことが認められない。
 その上、包帯には香のような匂いが染み付き、本来腕から放たれているであろう”死臭”を誤魔化している。
 
 そう、彼の左腕は指先から段々と腐っているのだ。
 その理由は後に記すが、彼自身はそれをむしろ誇りとしている。
 
 彼を見た者の中には、外国からのビジネスマンと思った者もいるが、地元の者の多くははその引き締められた顔と目つきから、マフィアの者と思ったようだ。左腕の包帯も、抗争か何かの産物と思ったに違いないだろう。彼がここに来るまでにいくつかの街を通ったが、夕方涼しくなってから通りに出てきた人々の流れは、明らかに彼を避けていた。
 彼はマフィアとは何の関わりも無かったのだが、あまり”人間と”関わり合いたくなかったため、それを承知でこの格好を続けていた。
 
「主(あるじ)と以前ここに来たのはいつだったか…」
その主は、青年をいつかここに連れてきて、知性あるものが何かを蔑む時に見せる優越感を表情に出しながら言ったものだ。
 
 あらゆる反発の行き着くところはすなわち屈折なのだよ
 
 青年は思う。主の言葉通りであれば、なるほど自分は屈折しているのだろう、と。
 青年はある男をとても嫌っていた。
 
 自分にできないことはないのだ。
 他人は自分の手の上で戯曲を演じているだけだ。
 そしてその脚本・演出は自分がしているのだ。
 
 そう言っては自分に自信という名の汚くて臭い石油を補給し、そして足りなくなったらそれを繰り返すような男だった。
 そもそも青年が”人間でなくなった”のも、その男が闇の中で青年の誇りと名誉を屠り、屈服させ、そして、あのおぞましい”儀式”によってなのだ。
 
 それまでの青年は自他共に誇りと名誉を己に認めていた。故郷のあのまずい水を買うために水マフィアに金を払っていたときも、誇りだけは捨てなかった。どんなに周囲が悪意に満ちていようと、彼はその全てを振り払ってきた。そして、マフィアに入り、仕事もこなし、名誉も手に入れた。
 すなわち、誇りと名誉。この二つこそが、彼の生きてきた、また生きていく意味であったのだ。この二つのためならば、彼は命を捨てても良いと信じていた。
 
 しかし!
 しかしだ、あの男は奪ったのだ。その二つを。命を捨てることすら許さずに奪い去ったのだ!
 
 そして、青年は主と彼が呼ぶ者に一振りの剣を授かったとき、それこそ正に神速とも言える速度で、その男を貫いた。
 
 
 その男は青年が主と呼ぶ者であった
 
 主はただの剣で貫いても決して死にはしなかっただろう。しかし、青年が主を貫いた剣は、ある種の者達を、完全なまでに殺す呪詛の中でも特別な呪詛を施した魔剣であった。
 
 魔剣の名はAvenger「アヴェンジャー」―――仇討。
 
 そう、青年はかつて主に屠られた誇りと名誉の仇を討ったのだ。
 主を貫いたとき。それからしばらく、青年は身震いが止まらなかった。己の誇りと名誉のためにやったこと。これこそ、正に名誉であるからだ。
 
 青年はそれらの至福の感覚を、存分に楽しんだ後己の中にしまいこんだ。
 
 そして、青年は決意した。己のかつての主と同種の―――自分がやることは最も正しいと思い込んでいる―――者達を全て死滅させる、と。
 
 その者達の総称は、死徒二十七祖。かつての主とそして…自分と同じ、吸血種の頂点に君臨する者達。
 かつての主はその中の十八位という座を占めていた。しかし、その主が滅んだ今、青年がその後を継ぐことになった。
 
 その後、青年―――エンハウンスは他の死徒にEnhance「エンハンス」と言う俗称で呼ばれている。本来この言葉は、「物事の質や価値を高める」といった意味なのだが、俗ではこれを「片刃」とも言う。
 片刃にはさらに一種の性的な意味も含まれている。死徒の多くは、長く行き過ぎたために性的趣向が歪み”両性愛者”であり、片刃とは反対の”両刃”である。
 エンハウンスもかつての主の汚いモノを何度舐めさせられたことか。
 すなわち、彼は所詮他人の引き立て役、半端者と蔑んでいるわけである。死徒の中には―――これは人間にもあることだが―――あまりに長い年月を経てしまったために知性が肥大化し、そのために他者を侮蔑する者が多々いる。エンハウンスのかつての主もこの類であったわけだ。
 もっとも、エンハウンスはそのこと自体を誇りに思っているのだが。
 また、エンハウンスが人間にかなり近い姿・能力であるということも、蔑まれる要因である。死徒の、そういった侮蔑をする輩のほとんどは人間を嫌っているというより、むしろ汚らしいものへの嫌悪感の対象としている。その理由は、彼らが”人間の輪から外れた者”だからだ。つまり、既にその”輪”から抜け出た、或いは抜け出した者は、それを出来ない、出来なかった者達を見下すのである。
 実際、死徒のほとんどは人間には無い姿・能力を有している。姿では、第五位オルトは宇宙から落ちてきた攻性生物―――つまり、地球上には存在しない生物の形―――だし、能力では、十四位のヴァン=フェムは七対の「城」と呼ばれる巨大なゴーレムを創造(想像)したりする。人間風に言うならば、正に彼らは「怪物」である。
 そんな中にあってエンハウンスは、前述した通り外見は人間と変わり無いし、死徒では当たり前の不老不死―――に限りなく近い―――以外には、運動能力が常人に比較にならないほど高いということぐらいしか能力が無い。
 
 にも関わらず、彼は先の決意を秘め、日々それを実行する準備を淡々と行なっているのだ。     
 これを屈折と言わずして、なんと言おうか。
 
 エンハウンスは再び、塀の上の「怪物」を前にして、今度は人目もはばからずに心境からか、暑さのためか、乾いた声で大きく笑った。とは言っても、周囲は既に日が落ちて暗闇に包まれて人などはいない。
 
 そう、人などはいない
 
「楽しそうだな。エンハンス」
その声が聞こえたと同時に、暗闇というにはあまりにも暗過ぎる闇が周囲を覆ったと思うと、その闇から染み出すようにして男が現れた。
 咄嗟にエンハウンスが左手をトランクにかけているスーツシャツの中に滑り込ませる。「おっと、今回は埋葬機関のメレム・ソロモンではなく、死徒のメレム・ソロモンとしてでもなく、同志として君の前に参上したのだよ。エンハンス」
 男―――死徒第二十位、埋葬機関の五。メレム・ソロモン―――は、登場の仕方こそ不躾ではあったが、その話し方と物腰は柔らかく、格好も何かの会食の帰りなのかと思わせる程に高級なスーツであった。
 しかし、そのようなことだけではエンハウンスは警戒を解かない。スーツシャツの中に隠してあるモノも、いつでも取り出せるように左手をスーツシャツの中に滑り込ませたままだ。
「むぅ…人間に近いと他人を疑り深くなるようだな。しかしだ、君とて、その左手を下手に腐らせたくはないだろう?」
「…わかった。ここに来た詳しい理由と要件を聞かせてもらおうか」
確かに、彼にとって、それは重要なことであった。ソロモンの言う通り、有用なあらばともかく、無用にこれ以上左手を腐らせるべきではないのだ。
「うむ。物分りがいいな、エンハンス。だが、できればそれを君の足元に置いてもらえないだろうか?それは致命傷にならないとはいえ、傷を塞ぐのに時間はかかる。それに、君と私が正々堂々と戦った場合、君に勝ち目がほとんど無いことぐらいわかっているはずだ。ここはお互い、互いの手駒を全て見せ合おうじゃないか」
そう言うと、ソロモンは周囲の”闇”を消した。月明かりがそれと同時に射し始める。固有結界を解いたのだ。
 固有結界とは、それを使用するものの意図した空間をその内部に作り出すことで、戦いを有利にするためのものだ。
 それを解いたということは、彼は瞬時に彼の首を跳ねるなどということができなくなったということだ。逆に言うならば、この結界をソロモンが周囲に張った時点で、勝敗は決していたのだ。それをあえて解いたということは、彼は本当にエンハウンスと話をしに来ただけという証拠にもなった。
 それに気づいたのだろうか。エンハウンスは、スーツシャツの中のモノを、足元に置いた。月明かりによって、そのモノの陰影がはっきりとしたものになる。
 
 銃。それも、現代に使われているオートマチックやリボルバーのようなものではなく、古式銃の収集家が集めて棚に飾っているような類の、単装銃に装飾が施されたものだ。それに加えて、装飾もキラキラと光を反射するようなものではなく、銃身にびっしりと文字が刻まれている。
 その銃には一種の神聖さすらも感じられ、死徒であるエンハウンスには、あまり似つかわしくなかった。
 
「聖装砲典か…そのような物を死徒である君が使えば、その左手が腐るのも道理と言うものだ。それに、いくら私が珍しい物が好きだと言っても、その銃弾はできれば一生戴きたくはないものだ」
茶化す言葉に、嘘は見受けられない。事実、この銃弾を喰らって身動きがとれなくなったところを、アベンジャーでトドメを刺された同志を、彼は一度目の当たりにしているのだ。
「安心しろ、ソロモン。これは銃弾を発射するのではない。私の結界そのものを弾丸として発射するのだ。それによって相手を私の思うと通りの状態にすることができる、というわけだ」
銃を見下ろすソロモンを下から覗き込むようにして見返しながら喋るエンハウンス。その目には自信という名の陽炎が揺らめいていた。
「ほう…そのようなカラクリだとは予想はしていたが…。それにしても、そのようなことをペラペラと私に喋っても良いのかね?」
「知っていても、直接的な方法―――弾丸結界そのものを避けるか弾くかしない限り、防げはしないのだ。なにせ、弾丸そのものが結界だからな。貴様のような輩がいくら自分に有利な結界を張ろうとも、弾丸に間接的には干渉できん」
これはつまり、先程のソロモンの結界内でも、使えたということだ。しかし―――
「しかし、それではオカシイではないか。ならば何故、そう素直に放典を置いたのだ?」
死徒にとって、理解できない行動というものほど、苛立つものはない。彼らは、全てを理解していると思い込んでいるのだから。
「ふん…そうだな……貴様が苛立つ姿を見たかった…と言いたいところだが、正直なところ、貴様がわざわざ私のような”片刃”に何を言いに来たのか興味が湧いたのさ」
左手に下げてあったトランクを地面に置いて、それににかけてあったスーツシャツを着ながら、皮肉混じりで答えるエンハウンス。それは、己の余裕を誇示するかのようにも見える。
 この男の現世での仕事を考えれば当然か、とソロモンは納得する。マフィアにとって、舐められるというのは、百害あって一利無しであるからだ。
「まぁ、良い。君が私の話を聞く気になったというのは、確かなのだからな」
今まで苛立っていたことを隠すかのようにしている自分が、少々情けなく思いつつ、ソロモンは、やはりこの男は所詮人間の輪から抜けれないでいるのだと、自身の有利を心に刻み直した。
 
 ただの会話でさえ、死徒同士の場合、このように腹の探りあいとなる。それに加えて、周囲にはとてつもない力場が生まれるため、常人ならば近寄っただけで発狂しかねない。 エンハウンスの場合は、特にそうだ。彼は特に他の死徒に注意をしなければ、いつ殺されるかわかったものではないのだから。
 
「”混沌”は知っているな?―――そう、第十位ネロ・カオスだ」
ネロ・カオスはその名の通り”混沌”の能力を持つ。というより、彼自身が”混沌”の群れである。彼の体には六百六十六の生物の命が宿り、その一つ一つを、彼自身も意図して現出させることができないほどである。それゆえに、彼自身の精神も、混沌へと傾きつつあった。
 エンハウンスにとって、学者肌が強く、あまり死徒同志の繋がりを持たないネロは目下のところ、優先目標ではなかった。
 何より、エンハウンスの能力では、彼の六百六十六の命を全て、或いはネロの命を殺しきれるかどうか、疑わしかった。それほどまでに、ネロというのは、危険な存在でもあった。
 
「そのネロ・カオスが極東の地、日本で滅ぼされた。誰にだと思うね?埋葬機関などなら、私も納得がいく。私の知り合いにも、それが可能とおぼしき”弓”という者がいるからな。しかし……」
ソロモンの伝えたことは、エンハウンスにとって、既に十分驚きであった。しかし、彼は次の言葉で、より驚愕することになる。
 
「しかし…彼を滅ぼしたのは……人間だ」
言っているソロモン自身も、まだ状況を納得し切っていないようだった。自分自身でも納得するためにか、言葉をぽつりぽつりと口にしている。
 
 一方、これを聞いたエンハウンスも、最初こそ驚いたのだが、段々と違う感情が彼の淀んだ感情の泉から、湧き立ってきた。そしてそれは噴水となって、噴出した。
「く……くくくく…は、はははははは、はぁーーーっはっはっはっは!!」
腐っている左手を、地面に何度もハンマーのように振り下ろしながら、彼は膝を地面に着けて笑いつづけた。下に向けていた顔をソロモンへと向ける。一瞬、ソロモンはその表情に見惚れてしまった。
 それほどに、エンハウンスの表情は、恍惚とした笑いを浮かべていた。色白の顔に赤みがほのかに浮かび、目には涙が溜まっている。
「―――!!これほど愉快なことがあるか?なぁ、ソロモンよ!!」
まがりなりにも死徒である自分でさえできなかったことを―――かつて自分が何も出来ずに誇りと名誉を捨てざるを得なかったことを―――その頃の自分と同じ人間がやったということ。悲しみと喜びが混ざり合い、狂気にまでエンハウンスを高めている。
 
「……ふぅっ…それほど愉快か。ならば、その者を見てみたい、いや、その者に会ってみたいとは思わんか?エンハンス」
ソロモンはエンハウンスに感じたものをようやく振り払うと、普段の、何かを企んでいる表情へと戻った。既に、ふてぶてしさとも、威厳とも取れる雰囲気が再び彼を取り巻いていた。
「ああ…そうだな。最初から俺をそうさせることがお前の目的だったんだろう?ならば、その策に乗ってやる変わりに、約束通り、その理由を教えてもらおうか?」
エンハウンスも、既に正気に戻り、汚れてしまったズボンをパンパンと叩いている。
「私は契約というものは、それなりの誇りをもって行っている。約束通り、教えてやろう。先程話した埋葬機関の私の後輩の”弓”が、どうやらその人物と親しいようなのだよ。そこで、だ。後輩思いの私としては、”弓”がどのような様子か見てきてもらいたいのだよ」エンハウンスの、自分で行けば良いだろうという表情を見て取ったソロモンは更に続けた。「私は彼女に嫌われていてね。”人”の想いとは、かくもはかないものだな。エンハンス」冗談で誤魔化すソロモン。彼の真意は当然別のところにあったのだが、ロアを滅ぼした人物と”弓”になんらかの接触を行なってもらいたいのは間違っていない。
「…まぁいいさ。お前の腹の中など覗いても、出てくるのは汚らしいクソだけだろうからな」
エンハウンスがそう言うと、ソロモンは―――言動そのものにか、それともエンハウンスにかわからない―――笑い、そして自身の後方に現れた闇の中へと消えていった。
 
 しばらく、エンハウンスは昼間と違って月が優しくなでるようにして当てる月光を浴びながら、シチリアの夜の風を受けていた。
 そして、足元の聖装砲典とトランクを拾うと、「怪物の館」を後にした。
 
 
 翌日―――
「おい、この怪物の象、昨日よりも顔が歪んでないか?」
「あっ、こっちもだぞ!」
そんな声が、怪物の館の周りを飛び交っていた。過去、死徒が戯れと称して、この館の主人に”石化させた怪物”を与えてやった。後に、その主人はあらゆる混沌と破壊と劣情のみに快楽を委ね、そして死んでいった。
 
 その怪物達が恐怖のあまりに石化されているのも構わずに顔を歪ませたことを、昨夜の二人すら気づいてはいなかった。
 
 
 
  第一幕「主殺」完
 
 初稿・2001年8月17日
第二幕へ

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