「翡翠……」俺が呼んだことを、翡翠は気がつかない様子でこの部屋から出てドアを閉めた。1人になったところで、じっくり考えてみる。今日の翡翠は、何かオカシかった。いや、”今日の”というのは、正確ではないな。七夜さんが部屋に来た頃から様子が変わった、と言おうか。七夜さん…かつて”琥珀”という名前であった、翡翠の姉さん。半年前に起こった一連の事件で記憶を無くした女性。そんな姉を今度こそ幸せにしようと、翡翠は頑張ってきた。それこそ、俺や秋葉がしていた努力なんてちっぽけに思えるくらいに必死に…。その甲斐あってか、半年経った春には、七夜さんも感情を豊かに表現できるようになった。それを一番喜んでいるのも翡翠だ。その翡翠がなんで七夜さんに対してアレほどに苛立ったのか。普段、俺にさえ滅多に怒らないのに、だ。この時、遠野志貴は、その原因の大半が自分によるものだということに気がつけるほど大人ではなかったし、そういった性格でもあった。その”原因の大半”に気がつかない彼は、結果として”大半でない原因”に思考を進めるより他なかったのである。今日はずっとその原因についてじっくりと考えたかったが、そうもしていられない。ただでさえ出席日数が危ないのに、3年になり、進路に関わってくるこの時期にそうそう欠席もできない。「仕方無い。とりあえず、早いところ着替えて、飯を食って学校に行かないとな」そう自分を言い聞かせるように独り言を言って、一旦思考を停止させた。翡翠の持ってきてくれた学生服を手にとる。当たり前のようにシワが無い。俺の着る物は全て翡翠が管理している。以前は七夜さんも着替えこそ持ってこないものの、洗濯などをやってくれていたが、今は全て翡翠がやってくれている。そんな服に着替えながら、俺はここまで自分を気遣ってくれる翡翠のためにも、先程の翡翠と七夜さんのわだかまりを解いてやりたいと決心した。1階に下りて食堂に向かおうとしたところで、居間で妹の秋葉に会う。相変わらず朝だというのに機嫌が悪い。?ちょっと待て…。どうやらいつもと様子が違う。機嫌が悪いのは確かなのだが、焦燥と困惑の色が顔に浮かんでいる。「おはようございます、兄さん…」挨拶をする声にもいつもの覇気が無い。「ん、おはよう、秋葉……何かあったのか?」義理ということを知ったとはいえ、俺にとって可愛い妹であることにあるわけではない。様子のオカシイ秋葉を、心配して率直に聞いてみた。「…『何かあったのか?』って、兄さんこそご存知ないのですか?」?言っていることがよくわからない。「どういうことだ?」「ですから、兄さんの方こそ何があったのかご存知でないのかって」そこでピンッと来た。居間を見渡すと、隅の方で静かにしている翡翠が目に入った。その表情にはいつものような静かな落ち着きは無く、泣きたくても泣けない子供のような顔が代わりにあった。俺が翡翠の様子を見て取ったのを確認した秋葉が小声で話し掛けてくる。「兄さんを起こしに行ってから、ずっとあの調子なんですのよ。ですから、てっきり兄さんが何かご存知なのかと思って…」秋葉の言はモットモだった。誰だってそう考える状況だ。「…秋葉、今は何も聞かないでくれるか?これは俺が解決したいんだ」勝手なことを言っているなぁ、とは思ったが、それでも自分の言葉に嘘は無かった。秋葉はしばらく考えた様子だったが、それが終わると呆れた口調で話してきた。「はぁ…まぁ兄さんの自分勝手は今に始まったことでないですからね。わかりました。”今は”何も聞きません」やたら”今は”を強調した気がするが、その理由は次の秋葉の言葉でわかった。「その代わり、事が済んだら、ちゃぁんと私に話してくださいよ?」秋葉らしい譲歩の仕方であった。「わかった。約束するよ」秋葉に感謝しつつ、返事をする。と、「志貴さ〜ん、ご飯の支度が終わりましたから、早いとこ食べないと学校に遅れますよぉ〜!」七夜さんの元気な声が、居間のとなりにある食堂から聞こえてきた。食堂の方に振り返り、返事をする。「はぁ〜い、わかりました。今いただきま〜す!」秋葉の方にもう一度振り返る。「じゃ、秋葉。そういうことだから」「はい、わかりました。それでは私もそろそろ学校に行きますね」そう言って、秋葉が玄関へと向かっていく。本来なら、秋葉は俺よりも遠い学校に通っているのだから、もっと早く出ないといけないのだが、翡翠の様子が心配で今まで残ってくれていたのだと、直感的にわかった。「秋葉!」「なんです、兄さん?」秋葉が怪訝な顔をして振り返る。「ありがとう」本当に心からの感謝の言葉を言う。「っ……い、いいんですよ、別に。それでは私は急ぎますからっ!」誰が見たって焦った顔をして、再び玄関の方へ向かっていく秋葉。その足取りは先程の数倍は速かった。「ありがとう」もう一度小声で秋葉に礼を言うと、俺はずっと部屋の隅にいた翡翠を気にしつつも、食堂へ向かっていった。「いただきます」食堂に入り、席に着くとすぐに七夜さんが用意してくれた料理を食べ始める。献立は、俺が和食党だということを知っている七夜さんが作った、ご飯、キャベツと油揚げの味噌汁、それに季節の魚を焼いたものだ。何の変哲もない料理だが、七夜さんが作ると本当に美味い。しかし、今はじっくりと味わっている余裕は無い。現在7時40分過ぎ。余裕を持つのであれば、もう屋敷を出ていなければいけない時間だ。焼き魚を肴にご飯を食べ、数回咀嚼した後に味噌汁で流し込むという動作を、間に漬物を食べるということを挟みつつ、繰り返す。その動きは完成された機械そのものだろう。モグッモグッ、ズズ〜〜、ごくん、モグモグ、ズズ〜、ごくんっ、バリバリ、モグモグ……その様子を見ていた七夜さんが言うには、「志貴さんは食べっぷりが良いというより、単に無神経なだけですねぇ〜」だそうだ。ちょっと傷つく。しかし、そうもしていられない。俺は食事が終わると「ごちそうさま」と席から立ち上がりながら言い、足早…というかほとんど走って玄関へと向かった。玄関には既に翡翠が俺の鞄を持って待っていた。しかし、やはりというか、その表情にはいつものような明るさが無い。明るい、と言っても、別にニカニカと笑顔でいるのではない。雰囲気全体が「ぱぁ」っと明るく感じるのだ。その明るさが今日は全く無い。「翡翠……あのさ―――」「志貴様。今は呑気に話している余裕はありません。もう8時を過ぎています」話題を振ろうとした俺の言葉を遮って翡翠が言う。確かに、もう時間が無い。「―――わかった。それじゃぁいって来ます」「はい、いってらっしゃいませ」俺も話題を振るのを諦めて、学校へと急ぐことにした。「ぜぇ、はぁ、ぜぇ、はぁ…なんとか、間に、合った…」屋敷を出た後、坂道を走り降り、住宅街を抜けて、いつもの通学路をバテない程度の速度で走り続け、なんとかチャイムがなる前に教室に入ることができた。今日が土曜日ということもあってか、クラス内の雰囲気は明るい。朝から、放課後へ想いをはせているのだろう。俺は今日は早めに帰って、例の翡翠と七夜さんのことについて考えなければ。「よう、遠野。最近のお前は元気だなぁ」親友の乾有彦が皮肉混じりに声を掛けてきた。「以前のお前は遅刻しそうになっても、そこまで必死になって来なかっただろう?いやぁ、人間の進歩というのは素晴らしいな」そういう有彦はいつも遅刻しても平気な顔をしているのだが。「はぁ、はぁ…う、うるせぇ。こっちは、お前、みたいに、気楽じゃ、ない、んだよ」怒った口調で言ってみたが、ここまで息を切らせていては、迫力もクソもあったものではない。「ははは、悪かった悪かった。まぁとりあえず席に着いてゆっくり休め。どうせ1時間目は古文だ。寝たいだけ寝れるぞ」古文の教師である渡辺は、自分の作品に対する考え方だけで時限のほとんどを潰してくれる。おかげで俺や有彦のような不真面目生徒には違った意味で人気があるのだ。「ああ、わかった。…サンキュな」有彦のさりげない心遣いに感謝をする。おせっかいと感じない程度の相手への気遣いが、俺が有彦を気に入っている理由の一つだ。こいつがいなかったら、俺の学校生活は非常に殺伐としたものになっていただろう。「なんだぁ?気持ち悪いヤツだなぁ。さっきまで恨み言を言っていたクセによぅ」有彦が気持ち悪がっているのを意に介さずに自分の席に着いた。ちなみに俺の席は3年になった今も有彦の隣の一番後ろの席である。担任が同じため、俺の体のことを一番知っている有彦を隣にしたのだろう。もっとも、今となっては貧血などで体調が悪くなることなど皆無となっているが。「それにしてもお前、本当に元気になったよなぁ」有彦が感心したように言う。自分自身でも驚いているのだ。長年、俺の体調不良に関わってきた有彦にとっては、本当に驚くべきことなのだろう。「やっぱり、人間、愛する人ができると違うもんなんだなぁ」「ぶはっ!!!…がっ、はっ、ごほっ…」この阿呆が突然とんでもないことを言い出すものだから、不意に咳き込んでしまった。「お、おい、大丈夫かよ?」大丈夫でなくした張本人が大真面目に心配してくる。「あのなぁ…いきなりそんなこと言い出したら、相手が驚くに決まってるだろうが」「悪かったよ。でもよぉ、本当のことなんだから良いじゃねぇか。実際、お前が元気になたのは彼女―――翡翠ちゃんだっけか?―――と付き合い始めてからだろうが」何故こいつは色恋沙汰になるとこんなに嬉しそうに話をするのだろうか?「うっ…まぁ確かにそうなんだが……」俺が元気になった理由は有彦の言ったことも間違ってはいないのだが、それほどロマンチシズムに溢れたものではない。翡翠、というより、翡翠と七夜さんの姉妹には特殊な能力がある。「感応者」俺の親父―――もっとも義理であったのだが―――は生前に二人のことをそう手記に残していた。体液の交換―――要するに性的交渉による契約によって、その相手に自分の精気とでも言うべきものを分け与える能力。俺もこれのおかげで一命を取り留めたことがある。しかし、断言したいことは、俺は決してその能力が目当てで翡翠を抱いたというわけではない、ということだ。親父のように、七夜さんを能力だけを目当てに陵辱した親父―――いや、もう他人だし、死んだ人間だ―――遠野槙久などとは、決して違う。違うんだ。「というわけで、今日はお前の家に行くぞ」……はい?何を言っているんだろうか。こいつは。「すまん、よく聞いてなかった」一応もう一度聞いてみる。「だから、『というわけで、今日はお前の家に行くぞ』って言ったんだよ」有彦がしれっとした顔で言う。ああ、良かった。俺の耳は大丈夫だ…ってそういう問題ではない。「『というわけで』ってどういうわけだ?」何の理由立てになってないことを突っ込む。「あのなぁ…いいか?お前に彼女がいる。それも可愛い。しかもお前が元気になっている。これだけの理由があったら、当然、翡翠ちゃんの顔を見たくなるだろうが」訂正。こいつの中では理由として成り立つようだ。「『見たくなる』って、この間翡翠とは会っただろう?」つい1ヶ月程前のことだ。春休みにこいつは「暇だ」と言って突然押しかけ、そのまま3日間程ウチに泊まっていったのだ。実はウチに来た理由が、自分の姉と喧嘩したこと、だというのがわかったのは、ほんの2週間前である。「あんなのは自己紹介だけだろう?3日間のほとんどは、お前が『この部屋からは出さんぞ』とか言ってお前の部屋にいたんだからな。全然、翡翠ちゃんや他の方々と親しくなっていないだろう」その”他の方々”が本命のように思えるのは気の所為だろうか?「親しくならんでいい!!」こいつの毒牙から家族を守る。そう決心した。が……「うるさいっ!!俺は単純にお前が元気になったのが嬉しいんだよ!そのお礼を翡翠ちゃんにしたいんだよ!!」今までに無いくらいの真面目な顔をして言う有彦。俺の決心はこうして、約3秒で崩れた。「あ、有彦……」あまりに突然に真面目なことを言われたものだから、うろたえてしまう。「もういい、それ以上言うな。とにかく、今日はお前の家に行くからな」ここまで想ってくれている友人を無下にはできない。翡翠と七夜さんのこともあるが、案外、コイツみたいな不確定要素があの遠野家という溶液中に入った場合、予想外の効果を発揮するかもしれない。よし、俺の腹は決まった。「わかったよ」「よし、決まりだな!さて、そろそろ担任が来るぞ」こうして、今週最後の土曜日の学校が始まったのだった。