志貴様の部屋に入ると、やはりというか、未だに志貴様は寝ていらっしゃいます。現在6時50分。遅くとも8時までには屋敷を出なければ学校に間に合わないにも関わらず、一向に起きる気配はありません。しかし、それも毎度のことです。志貴様は7時をある程度過ぎなければ、まず起きません。それを知っていて、毎朝、志貴様の寝顔を見るために7時前に起こしに来る私も私ですが。改めて志貴様の寝顔を見ます。その顔は、半年前に人間の醜さを目の当たりにした様子など微塵にも感じ取れない程に、綺麗で、純粋で、そして貧血の所為でちょっぴり青いです。貧血の原因となっていた、シキや秋葉様との事件も解決したのですが、長年の体の代謝というものが染み付いているらしく、起きる前は未だに貧血気味です。しかし、一度お目覚めになられれば、今は青いその顔も健常者となんら変わらなくなります。また、志貴様を起こすタイミングも顔の色でわかります。それまで青かった顔に、赤みが帯び始め、唇の色もピンク色に染まってきます。それを確認した後、私が志貴様を起こすのです。とか解説している内に時間は7時を過ぎ、志貴様の顔に先程の兆候が出てきました。そろそろですね。私は志貴様に声を掛けます。「おはようございます、志貴様。そろそろお時間ですよ」「んっ、ん〜〜……」やはり一度声を掛けたくらいでは駄目なようです。それではもう一度。今度は志貴様の体も揺さぶります。「志貴様。志貴様。朝です。起きてください」体を揺さぶる度に志貴様のクセの無い髪がファサファサと揺れます。「んっ?んんん……んあ?…翡翠……」どうやらお目覚めになられたようです。「おはようございます、志貴様」改めて挨拶をします。「ん、おはよう、翡翠。今日も起こしてくれてありがとう」枕元の小さな机に乗せてあった眼鏡を掛けながら志貴様が挨拶を返してくれました。本当にこの方は素直にお礼を言います。面と向かって相手に礼を言うというのは、意外と照れ臭いものなのですが。「さ、志貴様。お着替えをお済ませになって、朝食をお取りになってください」一応、仕事ですから、こういったことはキッチリと言います。と、志貴様がいぶかしげな顔をしています。「…翡翠。いい加減にその”志貴様”ってのはやめないか?どうも実感がなぁ…」「実感と申しますと?」私がそう言うと、志貴様が突然私の手を引いて、ご自分の体に引寄せると、いきなり口付けをしてきました。そして間を置いて唇を離すと、悪びれた様子も無く、ニカッと笑って「……”恋人だ”っていう実感だよ」と、言いました。そんな笑顔で言われたら、怒るに怒れません。「……」どう答えて良いものやら、戸惑ってしまいました。確かに私も「志貴」とか「志貴ちゃん」とか呼びたいのですが、志貴様の妹の秋葉様や私の姉さんの手前、言うに言えません。二人とも私と志貴様の関係を知っているとはいえ、まだ公的には「主人とメイド」という関係なのです。私が困惑していると、志貴様も悩んでいたのですが、不意に口を開きました。「…仕方が無い。秋葉や七夜さんの手前もあるしな。……じゃあ、せめて、二人っきりのときだけでも、”志貴様”っていうのをやめてもらえるかな?」”七夜”というのは姉さんの”今の”名前です。以前起こった事件の際に記憶喪失となった姉さんのために、志貴様がお付けになった名前です。ただ、気になるのは何故、志貴様が、今は無い御生家の名字を姉さんに付けたのか、ですが―――「…すい。ひすい?翡翠、聞こえてたかい?」「あ、すいません。志貴様」今は姉さんのことは置いておきましょう。「で、翡翠。どうなんだい?」私としては、秋葉様や姉さんの目を気にして二人だけの時にそうお呼びするのではなく、あのお二人に認めてもらった上で、なんらそういったことを気にせずにお呼びしたいのです。「…もうしわけありません、志貴様。今は、まだ…」志貴様はお怒りになられるでしょう……「ん〜……わかったよ、翡翠」あらっ?なんで……「翡翠も色々考えた上で俺のことを”志貴様”って呼んでるんだよな」あ……そうでした。この方は…この人は……「ごめんよ、我が侭なんか言ってさ」この人は…こういう人でした……。謝る必要なんか無いのに謝って…決して自分が悪くないのに、自分で自分が悪いって言って……どうしようもないくらいに優しい………「ありがとう…ございます」なんだか、不意に胸が一杯になって…「お、おいっ、なんでそこで泣くんだ?」私は泣いてしまいました。自分でも馬鹿みたいに、志貴様の体に抱きついて。「あらら〜♪お邪魔でしたかねぇ?」「「?!」」突然聞こえた声に反応するように私はパッっと志貴様から離れ、声のした入り口の方向に振り返りました。志貴様も一拍後れて入り口の方向を見ます。「ね、姉さん!」「な、七夜さん!」ほぼ同時に叫ぶ私達二人。そこには姉さんが、私のメイド服と同じ深い茶色の色をした和服に白い割烹着という、いつも通りの格好をして立っていました。「あまりに翡翠ちゃんが遅いんで見に来たんですけどねぇ〜」顔中に笑みを称えながら、姉さんが言います。「あ、あの姉さんっ、別に変なことをしていたわけでは…」「そうそうっ!べ、別に変なことなんてしてませんよ。なっ、翡翠っ」必要以上に慌ててしまう私達。「あらぁ、じゃあ、こういうことをいつもやっているんですねぇ〜?」姉さんが会心の笑みを見せながら言います。確かにそうも取れるけど…って違う。「とっ、とにかく姉さんは先に行ってくださいっ!直ぐに私達も行きますからっ」「あらあら、『私達』なんて…仲がよろしいことですねぇ〜」「なっ、七夜さん!!いい加減に怒りますよっ!?」とうとう場の雰囲気に耐えられなくなったのでしょうか。志貴様がもう既に怒った口調で怒鳴ります。「はいはい、わかってますよ。それじゃぁご飯が冷めない内に早く来てくださいねぇ〜」そう言って意外とすんなりと部屋から出て行った姉さんの背中が、少し寂し気に見えました。
「…少し、悪いことしたな」志貴様もそう感じたようです。心苦しいといった顔で搾り出すようにして言います。なんだか、志貴様にそんな表情をさせた原因の姉さんを理不尽にもうとましく思いました。「い、いいんですよ、志貴様!気にせずにお着替えになってくださいっ!あんなのは自業自得ですっ!!」」自分でも不思議なくらい、感情が露骨に言葉に出てしまいます。「…わかったよ、翡翠。わかったけど、自分の姉さんのことをそんな風に言うのは感心しないよ」先程の苦しそうな顔にも増して、悲しそうな表情で志貴様が私に言います。それがなんだか姉さんを想って言っているように思えて、少し腹が立ちました。「…わかってます!」自分でも驚くくらいに大きな声でした。なんででしょう。姉さんが関わると、自分でも何がなんだかわからなくなるほどに感情が勝手に走り出してしまいます。「……翡翠」「…お、お先に失礼します!」いたたまれなくなった私は早足で志貴様の部屋を後にしました。「翡翠……」部屋を出る時、志貴様のか細い声が聞こえたような気がしました…。