何機の飛行機を乗り継いだのか、と問われたら、そんなこと覚えていられるほど余裕は無かったよ、と答えたい心境だ。機体の窓の眼下には、ようやく最終目的地である空港の滑走路が見えていた。第一幕観光客で一杯の空港内から出ても、周りはやっぱり観光客で一杯だった。うんざりした面持ちで隣に回答を求めると、「金の成る木…というより森ですねぇ、自然は大切に、ですよ」などという可愛げのないことを可愛げたっぷりの表情で言ってきた。「…で、シエル、これからどこに行けば良いんだ?流石に荷物抱えて歩き回るのは勘弁してほしいんだが」俺の質問の答えの代わりに、彼女…シエルは歩き出した。どうやら行く場所は決まっているらしい。俺は彼女についていった。重い荷物を抱えて…。二〇分ばかり歩いたところで、彼女が急に立ち止まった。居住区画のようで、先ほどまでの開けた、日当たりの良い場所とは違って、日陰が多いのが俺には助かる。少し歩いただけであるのに、既に汗が身体中から噴出していたからだ。「とりあえず、しばらくはこの建物の三階で暮らすことになります」俺は『この建物』を下から見上げていく。五階建ての古いアパートメントだった。外からでは窓しか見えないが、窓の出っ張った部分の周りが黒ずみ、外壁が雨風で浸食されているのがわかる。それよりも気になることを彼女に聞いた。「家賃は?」「さぁ?私、ここ使うときはお金払ったことないですから、きっと教会御用達なんでしょう」…つまり、経費として落ちないことにでもなったら、路頭に迷うことが確定するということだ。俺もシエルも金というものとは縁遠い状況なのだから。「まぁ、いつまでもここにいるわけにもいきませんから、とりあえず上がりましょうか」促がされるまま、俺はシエルのあとについていった。三階へ行くために階段を上がろうとしたところで、彼女が立ち止まり、大家に挨拶するから先に上がっていてくれ、と言ってから、一階の奥にあるらしい大家の部屋へと彼女が歩いていったのを見送ると、俺は三階目指して階段を登っていった。建物の外観こそ石造りだったが、基礎はどうやら木製らしい。内部は完全に木造作りで、外壁だけが石、といった具合だ。部屋は各階に一部屋という作りらしく、階段を昇るたびに部屋の扉があった。ここに住んでいる者は全員教会関係者らしく、よくわからん各教派の新聞が一階のポストに突っ込んであった。無い頭を使って日本にいる間にこっちの言葉を勉強したが、正直こっちの小学生ぐらいの語学しかない。これから覚えていく努力が必要だと再認識した。三階の扉には鍵はかかっていなかった。どうやら事前に連絡は入れておいたらしい。扉を開けて中に入ると、部屋の全貌が一目で見渡せる作りだった。要するに一室一部屋の造りなわけである。部屋にあるのはベッドと安っぽいクローゼットだけ。荷物をとりあえず部屋の脇に置いて、窓から外を眺めてみる。右を見れば居住区が果てしなく続いている。夜中に出歩きたくない場所ではある。左を見ると、先ほど歩いてきた道の先には大きなとおりが横切っていて、往来があるのが見えた。大通りから外れた安っぽいアパート。俺たちにはお似合いか。そんなことを考えていると、開け放った扉の方から声をかけられた。「…こんにちは」か細い声だったので、最初は空耳かと思ったのだが、確認のために振り返ると、そこには一〇歳くらいの女の子が立っていた。俺は慣れない言葉で、こんにちは、と返した。このアパートに住んでいる子だろうか?そうたずねようとしたところで、上の階から人が来た。三〇を少し過ぎたくらいだろうかの男性だ。少女を見つけると、部屋に入ってきた。「こんにちは、新しい入居の方ですかな?私はこの子の保護者のサンバルツォと言います。はて?ここにはもう住んでいる方がいらっしゃったと思ったんですが?」喋っていることは十分理解できるのだが、どうこっちが返したら良いかがイマイチわからない。返答に渋っていると、男性の後方から声が聞こえた。「サン?ああ、お久しぶりです、シエルです」男性…どうやら愛称はサンらしい…が振り返ると、そこにはシエルがいた。サンは驚きと嬉しさが混ざった表情をしながら、シエルに歩み寄った。「おお、シエル、お久しぶりです。ん?ということは、こちらの男性は貴方のお知り合いですか…ふむ、なるほどなるほど…」何をそんなに納得しているのかは大体予想できる。俺は気恥ずかしさから、頭をぽりぽりと掻くことしかできなかった。「ふむ、しばらくお話したいですが、この部屋にはテーブルとかが無いみたいですね…よし、私の部屋に行きましょうか。ビエラ、先に帰ってお茶の用意をしておいてくれるかい」ビエラというのが少女の名前らしい、ビエラはこくりと頷いてから、とことこと階段を登っていった。俺はとりあえず、自己紹介はしておくべきだろうと思って、勇気を出してこっちの言葉で喋った。「はじめまして、遠野志貴、といいます。日本人です。以後、よろしくおねがいします」通じたのかどうか不安だったが、サンが「ほうほう、なかなか勉強してらっしゃる、いえいえ、こちらこそよろしくおねがいしますね」と言ってくれたので、自信ができた。それを見ながら、シエルが苦い顔をしていたので、実際はそんなに上手く言えてなかったのだろうことは推測できたが。「ビエラ、こちらはシエルさん、こちらが志貴さんだ。ほら、ちゃんとご挨拶して」サンの部屋のテーブルに座った俺たちより、更に低い背の少女は、自分の名前とよろしくという旨を喋ると、テーブルの席に座った。「それにしてもサン、以前私がここいいたときはビエラちゃんはいませんでしたよね?」紅茶の湯気にだろうか、サンが顔をしかめるが、直ぐにシエルの問いに返答した。「この子は、貴方が出て行った後に私が行ったボスニアの子なんです、俗に言えば難民ということになりますね」平成が始まって幾ばくかしたときに、ボスニアで大規模な内戦があったというのは俺も記憶がある。民族主義を唱える人種とそれに抗する人種との間の内戦だ。そのときに個人的な考えで現地に彼が行ったときに、親を亡くしたこの子と出会ったらしい。「本来ならば、そのようなことはすべきではないことは重々承知していましたし、今でもそう思っています。けれど、たった一人にも特別なことができない自分はなんなのだろうか、と考えたとき、私はこの子の保護者になっていたんですよ」彼が紅茶の湯気の先に見ているのは、きっとそのときの気持ちなのだろう。そして、その気持ちは今も持っているのだろう。俺は、話を変えることにした。「ところで、シエルがここにいたのって、いつの話なんですか」シエルは答えない。代わりに、サンが答えた。「…貴方は、彼女の身体のことを知っていますよね?」それがどういう意味か、理解できた。俺は、頷いた。「それならばなんら不思議には思わないでしょう。そうですね、一九九〇年頃です。思えば、世紀を越えても、彼女は変わらないのですね…羨ましい、といっては失礼かもしれませんが、貴方にしかできないことがあるはずですよ」シエルは、静かにそれに答えた。「それは、もう、終わりました…だから、彼がここにいるんです」サンはことの全貌を理解できてはいないが、全てを理解したように納得してくれた。「そうですか…蛇は滅びましたか…」俺は驚いた。全てを知っているではないか。このようなことを知っているということは…。「驚きました?彼も、私と同じ埋葬機関の人間なんですよ。そうですね、私よりも一つ上の方ですね」そこで、サンが頷いた。そういうことなら、相談もし易い。今後とも、よろしく願いたいということを、彼に告げると、よろこんで、と言ってくれた。「彼女とは、最初打ち解けられなかったんですよ。当然です。教会からも異端視されていましたし、私個人にも先入観があった。なにより、彼女自身がそれを認めていましたから、近寄りがたかった。私が若かったというのもあります。けどね、何度か一緒に仕事をしているうちに、話す機会に恵まれましてね、今の様な話も色々としたものです」少し、羨ましかった。俺よりも、早くに彼女に出会えたのだから。そうすれば、俺も彼女の辛い時期を共有できたのに。「さて、この話はこれくらいにしましょう。今となっては過去の話です。ぜひとも、これからのことをお聞かせ願いたいのですが」紅茶を勧めながら、彼はそう言った。俺も詳しくは聞いてなかったのだが、どうやら今夜あたりに埋葬機関の本部へと出頭するらしい。そこで、サンが疑問を口に出した「ふむ、それで彼はどうするんですか?見たところ一般人のようですが」そこで、シエルが突然テーブルの上に置いてあるフルーツバスケットからリンゴを取り出し、俺に言った。「志貴、眼鏡を」外せ、ということだろう。つまり、あれをやれ、ということだ。俺は、サンにも自分のことを知っておいてもらう必要を感じていたから、素直に眼鏡を外した。周囲に線が走る。目が充血などというものを通り越して、逆に蒼くなっていることが自分でもわかる。サンも、それに気づいた風で、驚いている。リンゴに視線を集中させ、死線を見る。古くなりかけているのだろう、リンゴの点が直ぐに見つかる。七夜のナイフを使うまでもない。俺は右手の人差し指に力を込めると、点を一刺しにした。刹那、リンゴは腐り始める。そして、風化していった。この間1秒も無い。指を見ると、果汁が少しついていたので、舐めた。サンはなんとも言いがたいといった風に顎のあたりを手で構っていたが、じきに口を開いた。「驚いた……魔眼の一種らしいですが、これほど強力で強烈なものは見たことが無い…いや、本当に驚きました」俺はとりあえず、シエルから眼鏡を受け取り、すぐにつけた。「ん?その眼鏡…魔術めいたものを感じますが……シエル?」サンの疑問に、シエルは答えた。「ええ、魔術協会の人間から貰ったものだそうです。聞いた限りでは…ブルーがその人だそうです」サンは驚いた表情から、既に笑い出しそうになっている。俺の奇異な存在を十二分に理解したようだ。「ふぅ…これなら、ナルバレック女史も、文句は言うでしょうが、受け入れるはずです、なんでしたら、私も一緒に参りましょうか」それを聞いたビエラが、彼の服の袖を引っ張るのを見て、シエルが言った。「いえ、夜も遅くになりますし、ビエラちゃんもいますから、私達二人だけでいきます。貴方の立場もありますしね」サンはそれを聞いて、ビエラの頭を撫でると、立場なんて気にしてませんよ、と笑った。俺達はサンの部屋を後にして、一階下にある俺達の部屋に戻った。「ところでシエル、俺、この格好じゃまずいだろう…」いかにも観光客です、といった風なラフな格好をしている。せめて、ワイシャツでも着ないことにはいけないと思った。「ええ、まずいですね…そうだ、サンに古いやつを貸してもらいましょうか」そうだ、それがいい、と独り言をブツブツ彼女は繰り返すと、俺にサンのところへ行くように促がした。「ふむ、そういうことならいくらでも協力させていただきますよ。古いやつでしたら、何着かいらないやつがありますので、譲りますよ。気に入るかどうかはわかりませんがね」早速サンの部屋へ行き、彼に事の次第を説明すると、そんな嬉しいことを言ってくれた。俺は、それに甘えることにした。「ビエラ、私の古い服が何着かあったろう?彼に見せてあげなさい」ビエラは頷くと、クローゼットの下の方から、青味のかかったワイシャツ、白いワイシャツ、サスペンダーズボンと、ベルトで止めるズボンを探し出すと、俺に手渡してくれた。「どれ、着てみなさい。ああ、私は男色の気はないから、安心してここで着替えなさいよ」苦笑しながら、俺は着替え始めた。ビエラが見ているので、とりあえずトランクスは履いたまま着替えた。途中、シャツを脱いで上半身を晒したとき、胸の傷を見たサンが、口を開いた。「…大変な人生を歩んできたんですね……応援しますよ」俺は、ありがとう、と言ってから、着替えを続けた。着替え終わると、予想外のことがあった。ビエラが喜んだのだ。つまり、似合っているということなのだろう。思いのほかサイズもぴったりで、俺自身驚いた。白いワイシャツにサスペンダーズボンを着た俺が、鏡の前に立っている。「ふむ、予想以上に似合っていますね…これならシエルも喜びますよ…そうだ、ビエラ」ビエラはサンが何を言いたいのかわかったようだった。クローゼットをまた探りだすと、何かを引っ張り出した。「それは、私が初めて教会の仕事をしたときに着ていたものです。新しい門出に、君にプレゼントしますよ」ビエラから受け取ってみると、高そうなスーツジャケットだった。しっかりとした作りの割に軽く、熱いこちらに合わせて薄手で、動き易い。一生モノとでもいえる。「本当にもらっちゃっていいんですか?」俺は思わずそんなことを口に出していた。「ええ、気にしなくて良いです。私は既に何着か新しいものを使っていますし、箪笥の肥やしにするには勿体無いものです。貴方にお譲りしますよ。まぁ、とにかく着てみてくださいな」言葉に甘えて、ジャケットに袖を通す。軽い。着ていてなんのストレスも感じない。「あの、ちょっと試してみても良いですか?」その意味がわかったようだ、サンは頷いた。さっきまで着ていた服から七夜のナイフを取り出す。刃を出すと、俺は精神を集中させてから、眼鏡を外して胸ポケットに収める。先ず、踏み込んでそのまま突き。これが基本だ。次に振り向きざまに相手がいることを想定しての頚動脈部分への切り払い。腕の動脈、顔の目にあたる部分の上、太腿の動脈と続けざまに切り払い、最後に心臓への突き。全てが終わったと思い、刃を収めようとしたところで、サンがバナナを投げてきた。時間の流れが遅くなるのを感じながら、線を切り刻む。バナナの皮が少しずつ削れていき、地面に落ちる前に塵になる。最後に実が露わになったところで、その点と突くと、それもまた塵となった。そして、俺は刃を納めて、内ポケットにナイフを閉まった。「お見事!」サンはもちろんんこと、ビエラも一瞬のできごとではあったがそれに対して拍手していた。「いやぁ、凄い動き易いですよ、これ」俺は素直な感想を述べた。「一つ助言するとね、志貴。服の袖の手首のところに、ものを引っ掛ける部分があるでしょう?そこにナイフをしまっておくと、いざというとき取り出しやすいですよ」言われるままに確認すると、そこには収納する部分があって、腕を強く振ると中のものが手に出せるようになっていた。そこに、先ほど内ポケットにしまったナイフを納める。「私も、ナイフに似たものを使いますから、貴方と気が合いそうですよ。これからが楽しみです」嬉しそうなサンを見ていて、俺も嬉しかったが、隣に立っているビエラが寂しそうな顔をしているのがわかった。「ところで、サン、貴方が任務に行くとき、ビエラちゃんはどうしてるんですか」「それが問題なんですよ。今までは教会の方に預かってもらっていたんですが、その度に泣きましてね。もう一四にもなるというのに、いやはや、困っているんですよ」そうか、もう一四歳なんだ、その割りには小さく感じるのは、あどけなさがまだあるからかな、と俺は思ったが、そこで俺はサンに提案した。「そうだ、私がそのときは預かりますよ。いいですか?」思いつき、そう思いつきだ。けど、そういう余裕が俺にはあった。今にもそんな余裕は吹き飛ぶ事体が起こりかねないが、俺はそういった余裕を大事にしたかった。余裕が無いとき、本当に自分は弱くなるからだ。「ほう、それは良い考えだ。こちらからむしろお願いしたいくらいですよ。ビエラ、それでいいかい?」ビエラはこのとき珍しく声を出した。「うん!」本当に嬉しそうな声だった…。「まぁた勝手なことしてぇ!」部屋に戻った俺をきついお言葉が出迎えてくれた。「だって仕方無いだろう、これだけお世話になってるのに、こっちは何もしないわけにはいかないし…」「私はそれを怒ってるんじゃないですよ!」じゃあ、何に怒ってるんだ、なんて言った日には人生が終わりかねないので、黙って反省することにした。「ごめん、でも、気持ちはわかってほしい」「…まぁ、志貴じゃないですけど、仕方無い、ですね…まぁ、そのときは私も協力しますよ」「ありがとう」それからしばらくして、夕日が落ちるのを待ってから、俺達はアパートを後にした。シエルがカソックに着替えるので先に出て待っていると、しばらくして彼女が出てきた。夕食は大通りの食堂で取ってから、また歩き出した。しばらく歩いて、俺はてっきり遠くに見えている大きな教会にでも行くのかと思っていたが、横の路地にそれた。夜の路地裏というのは本当に暗い。日本であれば街灯があって当たり前なのだろうが、それがまったくない。そんな路地裏だった。「なぁ、本当にこっちで良いのか?」「ええ、ここです」「ここ、って言ったって…何も無い…ぞ?!」言うが早いか、何か、が飛んできた。俺はそれを髪を数本犠牲にしつつもなんとか伏せてかわす。「な、なんだぁ?!」「試験会場ってのはどこの国も騒がしいものです、我慢してください!」試験会場…誰の?聞くまでもないか…建物の影に移動して相手が出てくるのを待っていると、五人ばかりの人影が見えた。真中の人影が腕を振ると、他の四人が散会するのが見えた。シエルが黒鍵を取り出して戦闘態勢に入ると、俺に促がす。「俺の武器は相手に会ってから出した方が効果がでかい。援護頼む」革靴の底を鳴らして、散会した一人を追った。路地の二つ先の角を曲がると、そいつと出くわした。シエルのような教会の服は着ていない。もしかしたら、シエルのようにわかりやすい格好をしている奴の方が少ない気がしてきた…。何はともあれ、そいつに走り寄る。下手に身体を左右に振ったりはしない。距離感を相手に掴ませる要因になるからだ。見たところ相手は先ほど『何か』を飛ばしてきた相手のようだ。現に、俺が近寄るのと同時にいくつかの『何か』を投擲していた。だが、こちらの距離感を狂わせる、という作戦が功を奏したのか、身体一つ分横を通り過ぎていくだけだ。あと一歩踏み込めば攻撃できる距離まで近づくと、相手が最後の投擲をした。それを袖から取り出したナイフで切り払うと、遠慮無しに利き腕の線を切断した。だが油断はできない。こういった仕事をしている人間にとって、利き腕がやられようとも一定以上の戦いは簡単にできるからだ。俺は切りつけた後一気に相手の後方一〇メートルへと跳躍しつつ、前転をして相手に向きながら立ち上がる。「この程度で勝てるほど、アンタぁ甘くないんだろ?来いよ!」高揚している所為か、やたら上手く発音できる。俺の七夜の血には、脳の働きを活性化させる効果もあるらしい。相手が人間の動きとは思えない速さで『歩いて』きた。すり足、とでも言えばいいのだろうか。規則的であるが、やたら速い。単に歩いているように見えているだけなのかもしれない。数歩のところでようやく相手がエモノを出した。カードだった。なんの特徴も無い、正にカード。シエルに聞いた話では、却って何も特殊な加工をしていないものの方が本人の能力を込め易いらしい。つまり、エモノの能力に頼らずとも十分なほどの力量を持っているということだ。油断できない。利き腕の線は切断したから、例え能力者であっても修復には時間がかかる。早めに決着をつけるようにしたほうが得策だろう。踏み込もうとした刹那、相手がカードをばら撒いた。それに気をとられた瞬間、相手は飛び上がっていた。馬鹿が。飛ぶなんてのは、相手に狙ってください、と言ってるようなものだ。力を最大限に込めて、地面を蹴った。相手が驚いてる様子なのを見ると、俺はこれでケリをつけるとばかりに点へとナイフを伸ばそうとした、が、突然背中に衝撃と激痛が走る。「馬鹿な奴だ、まぁ、仕方無いか。これに引っかからなかったやつはいないのだからな」始めて口を開いたそいつは、そのまま着地した。俺はというと、なんとか両足両手を使って着地の衝撃を和らげるのに必死だった。くそ、油断した、あの時ばら撒いたカードそのものが攻撃手段だったとは、推測できなかった。それにしても、思ったよりこちらはダメージを受けていない。当たったときこそ痛かったのだが…。カードも、気づくと背中に刺さっていたものが地面に落ちていた。「貴様、その服に何か術をかけているな?鉄甲作用を含んだこのカードをまともに受けて、生きていられる道理が無い!」なるほど、そういうことか。サンは、きっと俺がこういうヘマをすることを見越して、このジャケットをくれたに違いない。心から感謝する。「運も実力の内ってことだな!」俺は叫ぶと、相手の動揺をついて一気に詰め寄った。勝負は既についていた。さきほどの技は、奴にとって必殺の技だ。逆にいえば、それを外したら正に奴にカードはない。それでも最後にカードで俺のナイフを防ごうとしたが、それごと、俺は奴の肩口の点をついた。死にはしないが、能力者といえど一週間は動けない。「く…そ…ったれ」奴が倒れるのを認めてから、俺はシエルが向かった方向へと走った。残りは三人だった。そう、三人だった。俺がシエルを見つけたとき、最後の一人を彼女は火葬式典で丸裸にしていた。…誉められた趣味の倒し方ではない。相手は味方を置き去りにして、走り去っていった。「いやぁ、お見事、お見事!」先ほど、四人を散会させたと思われる人物が現れた。俺には、そいつとの面識があった。メレム・ソロモンだった。「けどね、今回のこれはあくまで志貴君のテストだったんですが…彼がやったのは結局一人だけ。シエル君、張り切りすぎですよ」二人は埋葬機関の中でも珍しく仲が悪くない。話もしないのが普通だからだ。話しさえすれば、サンもそうだが、同じ仕事をしているのだから気が合わないことの方が少ないはずなのだが…。「ごめんなさい、私も久しぶりだったので余裕が無くって」シエルは、以前の事件以来(「反発と屈折の行き着く先は」参照)これといった仕事をしていない。なにより、俺がいると彼女は張り切らざるをえないのだろう。「まぁ、とにかく、これでナルバレックの奴に彼を認めさせる口実はできまいた。埋葬機関の候補生を一人とはいえ片付けたのですからね。ああ、そうそう、彼らのことは安心してください。死なせはしませんよ…くっくっく」こんなことを繰り返さないと埋葬機関に入れないのだから、候補生とやらも大変だなぁ、と思いつつ、俺は自分の今後の見通しがついたことに安心した。「さて、ナルバレックの奴には私が明日にでも話を通しておきましょう。シエル君が行くと嫌でも卑屈になりますからねぇ、彼女。では、帰って一緒にシエル君のお土産のセンベエと日本茶でも飲みながら、これからのことでも話しましょうか」俺は、はぁ?、といった表情をした。なんで彼が一緒なのだろうか。「あれ、私言いませんでしたっけ?」シエルが素っ頓狂な声を黒鍵をしまいながら上げた。「何を?」「彼があのアパートの大家だってことです」俺は、全身が脱力するのを感じずにはいられなかった……。第一幕・完初稿・2002年5月14日