第十一幕「Mother Fuckker」午前六時を過ぎたばかりだというのに、地下のアリ達は強靭な精神と勤勉さを武器に巣の中を動き回っていた。ここ埋葬機関に、いつもの静けさは無い。あるとすれば、騒がしさの中で目を覚ました志貴の部屋ぐらいのものだった。「シエルに何て言えばいいんだ……」静けさというより、沈んだ雰囲気と言えるものではあった。ソロモンの使い魔であるパウロが、大型犬に相応しい体躯を床に這わせながら何か言いたげに志貴を見遣っている。「この野朗、昨日はずっと寝たふりしていやがった癖に」そうは言ってみたものの、腰を擦りながらでは説得力に欠けた。とりあえずシャワーを浴びた後に着替え―――真っ裸なのでただ着るだけだが―――最後に寝癖を手櫛だけで器用に治すと、喧騒の原因を確認するために客人用の部屋の扉を押し開けた。志貴が扉から出るより先に、志貴と扉の隙間を縫ってパウロが廊下に出る。すると、最高責任者であるナルバレックの執務室がある方向とは反対の方向へ憮然と歩き始めたので、志貴は怪訝に思いながらも、自分が執務室に行ってもすることが無いことに気づくと、そのままパウロについていくことにした。廊下を進むに従って、喧騒はより増していった。地下だというのに何故か車のクラクションまで聞こえてくる。前方に見知った相手の背中を見出した志貴は、それを呼び止めた。「おはよう、マルグリッド」振り返った黒髪の美しい彼女は、昨日のことなどまるで無かったことのように、何の後ろめたさも陰りも無い、初めて会ったときと同じような表情をしていた。志貴は、それが気にならなかったわけではないが、そういう性格なのか、または実際のところただの気分晴らし程度の意味合いしかないのだろうと勝手に思い込み、また思い込もうとしていた。心のぎこちなさを、パウロの喉元を指で転がして誤魔化す。「今日は随分と騒がしいけど、何かあったのかな」志貴の言葉を強調するかのようにして、パウロが一鳴きする。この犬には、ちゃんとした意思が存在しているのだろうか。それもソロモンの使い魔ということからしてみれば、取り立てて不思議がるほどのことでもないように思える。「調度良い。志貴さんも連れて行きますか」パウロの泣き声を耳元で聞いて動揺していた志貴の手を取り、マルグリッドがクラクションが鳴ったと思われる方向へと歩き出す。「この先に何があるんだい?」「行けばわかります。何があったかは、じきにわかります」寸暇を惜しむように、廊下を進んでいく。角を一つ曲がると、今までとは比べ物にならないくらい頑丈そうな鋼製の開き戸が見えてきた。放送用の部屋に使うような、防音のためのクッションが埋め込まれている。大きさの割りには軽いのだろうそれを、マルグリッドが、志貴の片手を引きながら、空いている方の手で開ける。途端、煙たさと、地下道独特の空気のうねりが、眼と鼻と耳を突き抜けた。志貴は、耳の良い犬には酷だろうと思いパウロを見遣ったが、パウロは以前に来た事があるらしく、落ち着いたものだ。そこは地下鉄のホームのように見えたが、それにしてはレールもないし、段差も低い。「マルグリッド・セペです、三番車を!」志貴が大体どのような設備なのか見当を付けようとしていたと同時に、マルグリッドが壁に取り付けられたマイクらしい機械に声を宛てると、スピーカーから了解の意が伝えられ、奥の方で大きな駆動音ようなものが聞こえ、じきに向かって右からオープンカーが顔を出した。運転席から、一人の老紳士が出てくる。制服のようなものを着ているので、どうやらここのどこかにある、ここ専門の職員のようだ。「ありがとう、アンドレア」マルグリッドに車を渡すと、アンドレア老は「お気をつけて、素敵なドライブを」と言い残し、来た方へと姿を消した。当然左ハンドルなので、志貴は反対側に周る必要があった。ボンネット部分を正面から見たとき、エンブレムマークが目に入った。パウロはというと、後部座席にドアを飛び越えて乗り込み、シートの上で寝そべる。「これ、アルファロメオですか?」志貴がシートベルトを締めながらマルグリッドに聞く。「古いスピデル(英音は「スパイダー」)だけど……よく知ってるわね」クラッチを繋げながら、一気に回転数を上げて走行していく。十分ほどすると地下道を抜けたかと思うと、今度は広い道路に出た。巧妙に建物の影に作られた埋葬機関の車両用出入り口は、ハイウェイに通じており、普通に走っていては先ず気が付かないだろう。そういった説明をマルグリッドから聞きつつ、実際にそこを走り抜けていく。「地下暮らしだと、この日差しは目が痛いけどね。ほら、志貴もこれを使いなさいな」ダッシュボードに置かれた、自分がつけているサングラスと同じものを志貴に渡す。支給品らしい。それにしても、吸血鬼退治が主な仕事の者達が、支給品に太陽の光を遮るものを加えているのだから、おかしな話ではある。「いえ、俺はこの眼鏡を外すわけにはいかないので……ところで、これ、変な機能とかついてませんよね?」「あはは、映画じゃあるまいし。ただのサングラスよ。支給品とはいえ、結構上物だけれどね。ナルバレック様の趣味のおかげで、支給品のレベルは高いわよ、ウチは」志貴はとりあえず手にとったサングラスのフレームを指で押してみた。なるほど、サイズ調整の必要がないようにフレームの金属は柔らかく、それでいて弾力がある。普段つけている眼鏡をつけたまま、サングラスのレンズに太陽を透かしてみる。、レンズも眩しさと紫外線だけを遮っており、これなら多少暗い場所でかけていても問題ないといえた。「ところで、日本ではどういう車が人気あるのかしら?」二十分ほど走行したあたりで、マルグリッドが風景に飽きて話題を振り始めた。志貴も自然鑑賞を好むような趣味は取り揃えておらず、素直に応えていく。「日本では英車とか独車の方が人気ありますよ」「そうなの。日本人って変わってるわね。あんなに良い車を作ってるのに、わざわざ外車を買うなんて」車の中には、自身が生涯に走る距離よりも、売買によって運ばれる距離の方が長いものが数多くある。その一部に、いわゆる名車と呼ばれるものが含まれている。日本人はとかく、この名車というものに食指が動き易いと言われる。実際、多くの名車が日本市場を対象に高レートで取引されている。日本人は何故、日本車に名車を見出さないのであろうか。なるほど、日本車にも名車と呼ばれるものはある。しかし、そのほとんどはマニア的嗜好にマッチしたに過ぎず、一般的に認知されているとは言えない。統計分析学でもこのことは度々話題になることがある。それほどに日本人は、その良し悪しは別として、「変わってる」のである。「日本車に乗ったことはあるんですか?」「ええ、外車専門のディーラーに知り合いがいるのよ。そこで試乗させてもらったの」左手をハンドルから放して、左手側には無いはずのシフトレバーをいじるような仕草をする。右手は本来のシフトレバーに置かれたままであるから、当然ハンドルはお留守になる。「わっ、こんな速度でハンドル放さないでくださいよっ!」速度は日本の規格で言うところの一二〇キロ弱。それが当たり前だとでも言わんばかりに、エンジンが安定した音を立て続ける。「大丈夫よ。自転車と同じで、速度が乗っちゃえばそう簡単に曲がらないから」そういう問題ではない、といいたげな表情をした志貴を見て、マルグリッドは悪ふざけも程ほどにしようと思い直す。一安心した志貴の様子に、無性におかしさがこみ上げたが、からかうのはよしておいた。「そういえば、向こうで免許は取ったんですけど、こっちでも使えるんですか?」律儀に持ち歩いている免許証入れを内ポケットから取り出す。近いうちに、昨日苦労して手続きをした身分証明書もここに収まることだろう。「手続きと講習さえ済ませれば、問題は無いはずよ。なんだったら、役所の方に口を通しておくけど?」「一人でも大丈夫ですよ……多分」自信があるかといわれれば、正直なところ、無いのだ。ただ、人の好意を受けてばかりいては、自分がこれからもっと自信を必要とする自体に太刀打ちできるかどうかが不安だった。「ふふ、その意気は買うけど、こっちだと知り合いが口を通さないとね……色々面倒なのよ」彼女がそう言うからには、本当に面倒なのだろう。悩まなかったわけではないが、わりと自然に声が出る。「……お願いします」「素直なのは良い事よ。それじゃ……そうね、免許が使えるようになったら、この車をあげるわ」「えっ?」聞いた瞬間こそ冗談のようにも思えたが、サングラスの横の隙間からこちらを見遣る眼は、真剣そのものといってよかった。「こんな古い車、売りに出してもたかが知れているのよ。国外に出せばそれなりの値段になるんでしょうけど、そのお金のほとんどはブローカーの取り分になっちゃうわ。それなら、自分の知っている人に乗ってもらえるのが何よりだから」財産と言える代物を他人に贈る。彼女自身からして気づいていないかもしれないが、誰かに、自分が形として持っていたものを渡したいという気持ちがあった。「本当に良いんですか?」「そろそろ買い換えどきだと思っていたから、調度いいわ。その前に、お仕事を終わらせないとね」自嘲めいた笑いを口元に浮かばせる彼女を見て、志貴が疑問を思い出す。「そういえば、まだ行き先を聞いてなかったですよね」マルグリッドは答えない。志貴がヤキモキしていると、ようやく彼女が口を開いた。「言ったでしょ『じきにわかる』って」「え……あっ!?」思わず身を乗り出す。山の裾に広がっている野原に、上空からの視線を遮るように白地の天幕が張られており、そこにはスーツ姿の者が数多く立っていた。道路を外れて近づくと、その中にはシエル、ソロモン、ゼフィールの三名も含まれていることもわかった。向こうもこちらに気づいた様子で、こちらに向きなおる。「やぁ、遅かったじゃないか」ソロモンが車から飛び降りてきたパウロをあやしながら、出迎えの言葉をかける。「久しぶりだったのでエンジンの調子が悪いみたいです」「君は調子が良さそうだがね。なぁ、志貴君?」突然、矢面に出された志貴は胸が突き上げられるような感覚を覚えた。こいつは昨日のことを知っている。直感でわかった。「まぁ、おかげでマルグリッド女史も君と打ち解けたようだし、結果良ければなんとやら、だな」「なんでわかっ―――こいつかっ!」容疑者、もとい容疑犬はソロモンの横でちょこんと腰を地面につけている。「そういうこと」「このこと、シエルは知ってるんですか?」「いや、知らせてないさ。この好色家には話の種に話したがね」「流石の俺も、シエルに八つ当たりされるのはかなわないからな」当のシエルはというと、先ほどから志貴達とは少し離れた場所で、マルグリッドに「志貴はどうしていたか」「ナルバレックの気に障るようなことはしなかったか」などといったことを聞いていて、こちらの会話などに耳を傾ける余裕は無かった。マルグリッドは、もちろん、のらりくらりと適当なことを話して辻褄を合わせている。「まぁ、国を知るには女を知れ、ってな。流石は志貴。身体でそういうことがわかってるんだなぁ、うん」「それはともかく……ここで何をしているんですか?」「ああ、中を見た方が早い」天幕の真下には、女性の死体があった。その死体の下腹部の辺りには大きな穴が空いており、何かを引きずり出したような痕がある。傷口の断面が外側に捲れ上がっていることから、生きたままそれをやられたことがわかる。引きずり出された何かはすぐに見つかった。女性特有の器官であり、生殖を司るそれだけが、まるで洗浄されたかのように綺麗な状態で地面に置かれていた。「これって……」「そう、子宮だよ。ちなみに俺のじゃないぞ」わはは、と屈託なくゼフィールが笑う。ソロモンは渋い表情をしながらも、悪趣味な冗談に静かな興奮をも覚えていた。「この女性はウチのスタッフの一人ですね」マルグリッドが細い目をして死体の素性を思い出す。随分と酷い最期ではあるが、その人生はもっと酷いものであったから、それに思いを馳せて十字を切った。「はい、そうです。準メンバーの女性で……名前は忘れましたが、ナルバレックの命令どおり、哨戒に出ていた際にやられたようです」「でも、おかしくないですか?準メンバーの者は三人一組の行動が義務ではありませんか」「ええ、ちゃんと三人で行動していたようです。ほら、あそこに二つ穴ぼこがあるでしょ?あれですよ、あれ」なるほど、地面に半径三メートルほどの二つ穴が開いている。「どうやったかまではわかりませんが、大方、あそこの地面ごと『逝かせた』んでしょう」「『穴』か……」誰かがぽつりと呟いた。その直後、一人の作業員が地面に突然現れた穴に落ちた。すぐにその穴は閉じ、先ほど見た穴と同じような跡が残る。「全員、散れ!」ソロモンの号令と同時に、そこにいた者たち全員が一斉に散会する。場慣れしていないために数瞬反応が遅れた若い作業員が再び現れた穴に落ちた。「くそっ、どこだ……」ソロモンが呟くと、一緒に飛び退いたパウロが、今までソロモン以外は誰も聞いたことの無いような大きな雄たけびを上げる。すると、あるものが破けた。破けた子宮の中から、粘度が増した羊水を跳ね飛ばしながら、ゾウリムシのような姿をした化け物が姿を表す。それを見たシエルが、投げた動作をした直後には既に相手に黒鍵が突き刺さり、青白い炎を燃え立たせる。煮え立たせた灰汁のような匂いが辺りに立ち込める中、化け物がいた場所には黒鍵だけが残っていた。メンバーで無事な者の確認が終わると、ソロモンが破けた子宮を見遣る。どうやら、この中に何者かが手品の種を仕込んでおいたらしい。「このためにわざわざこんな殺し方をしたのか」志貴には、苛立ちなどよりも、腹立たしさが先に立った。これではまるで自分達が馬鹿にされたようなものではないか。「趣味が合っても、友達にはなりたくねぇな」「なんなら、私が今、貴様のこれを引きずり出してやろうか?」「聖職者がはしたないこと言うもんじゃねぇよ」ゼフィールとソロモンの会話は今の志貴には辛すぎた。冗談ではない、とは正にといった心境だったからだ。それを察したシエルが、志貴を落ち着かせるために、マルグリッドに彼を連れて本部へ戻るように頼み、マルグリッドはそのようにした。「……悪ふざけにもほどがありますよ」シエルの意見に、生き残った作業員達が同意を示す。同僚が何人も殺されたのだ。これは、経験がどうのこうのという問題ではない。ソロモンは何も言わずに立ち去る。ゼフィールがその後を追いかけていくのを、やれやれといった面持ちでシエルは見送り、作業の撤収を周りに促した。「はい、以上です……はい、では、少し寄る所がありますので、少し遅れます……はい、ありがとうございます……では、また後ほど」マルグリッドが電話を切り横を見ると、助手席の志貴はスーツのジャケットを顔に被せていた。「まだ、気分が悪いですか?」志貴はジャケットを顔から退ける。「すいません、気を遣わせちゃって……みっともないですよね」「いえ、私は好い加減に慣れましたから良いですけど、最初はやはり辛いでしょうから。でも、わかってあげてください。ソロモンの場合、色んなことを経験し過ぎて、私たちとは少しだけ感覚が違ってしまっているんですよ」「ええ……」「それじゃ、食事でも食べに行きましょう。私も朝から忙しくて、何も食べてないんです」「あれを見た後で、ですか?」思わず喉に手を遣る。「ええ。それとも、私には付き合ってくれないのかな?」「ずるいなぁ」「元気を出してもらえるなら、ずるい女にでもなれますよ」彼女が照れくささを隠すようにして、サングラスで視線を隠す。志貴はそこまで自分を気遣ってくれた恩に対する礼儀のつもりで、承諾した。「ところで、さっきのあれって何だったんですか?」「ただの罠でしょうね」あれを、ただの罠だと言い切るのだから、彼女が積んできた経験を想像するのに目を瞑りたくなる。黙り込んだ志貴に構わず、マルグリッドは話を続ける。「死体発見の報告があったときに予想はある程度ついていたんですよ。でも、それでも行かないわけにはいかない。だから人員の選別には気を遣ったんですけど、十分じゃなかったみたいで、経験の浅い人をみすみす殺してしまった。ふふ、私の方がよっぽどみっともないですね、これじゃ」彼女の自嘲に志貴は何も言えなかったものの、それに慰められたのも事実だった。2003年5月26日初稿あとがきタイトルからして卑猥ですが、内容も卑猥。SS更新本格的に再開です。今後とも良しなに。